第4王子に婚約破棄されたので、幸せになりました
貴族社会は腹黒い。
わたしは王族主催の社交パーティのため、王宮の広間に来ていた。
「エレノア・ヴァークリーさま。ご機嫌うるわしゅう。今日もお綺麗ですわ」
「ごきげんよう。カレン伯爵令嬢。お褒めいただき光栄ですわ。あなたの――」
わたしは、満面の作り笑いを浮かべ、心にもない賛辞を述べた。
これが貴族の社交マナーだからだ。
彼女もわたしを綺麗などと本心から思っていないだろう。
何せわたしは、そんなに美人ではないのだから。
わがヴァークリー家は公爵家であるため、なおさら、お世辞もよく言われるのだけど。
耳を澄まして、周囲の会話を聞けば、男性貴族同士の会話もお世辞合戦。
わたしは、面倒な気持ちが表情に出ていないか気にしながら、テーブルに置かれたデザートを優雅に口に運んだ。
突然、会場に大きな声が響いてくる。
「本日は重大な話がある!みな聞いてほしい」
声の方向を見ると、この国の第4王子、ドミニク・フランヴァニアさまだった。
わたしの婚約者。
駆け寄って行こうかと思ったが、深刻な雰囲気だったので、動かずに彼を見た。
「エレノア・ヴァークリー、わたしの近くへ」
ドミニクさまに呼ばれてわたしは前に出る。
ダンスの誘いだろうか。
しかし、その割に妙に重々しい。
みなを注目させる意味はないはずだ。
ドミニクさまのほうを見ると、隣に男爵令嬢がいた。
確かヴィヴィアンだったかしら。
「エレノア、君にはこれらの罪状の容疑がかかっている――」
突然、王子はわたしを糾弾し始めた。
ドミニクさまはつらつらとわたしの罪状を並べ立てる。
公爵令嬢の立場を盾に、格下の貴族をいびっているだの。
平民に対して残虐な行為を行っていただのと。
当然、わたしには身に覚えがない。
「ドミニクさま……わたし、そんなことはしておりません」
「黙れ、密告があったのだ」
突然すぎて、頭が追い付かなかったが、急に背筋が冷たくなった。
これからどうなるのだろう。
「君のような素行の悪い者と第4王子である僕が、結婚するわけにはいかない。本日、君との婚約を破棄する」
――えっ?
頭が真っ白になり、わたしは地面を見下ろすと、そのまま動けなくなってしまった。
何も考えられなくなった思考とは裏腹に、ドクドク、ドクドクと心臓の音だけが聞こえた。
◇◇◇
今日も憂鬱な社交パーティだ。
お世辞を言って近づいてくる令嬢に適当に愛想笑いをしたあと、彼女に視線を向けた。
彼女は満面の笑みを浮かべていたが、退屈そうだ。
彼女を見過ぎないように意識しながらも、無意識に目を奪われる。
ふいに彼女を見つめていた自分に気が付き、顔を逸らすと、また声をかけられた。
「オリバーさま、今日も素敵ですわ」
「ありがとう」
作り笑いを繰り返すと、少し顔のこわばりを感じた。
彼女に視線を向けると、ケーキを食べているようだ。
――あっちに行こうかな。
――さりげなく彼女に話しかけられないだろうか。
なんて考えていると、突然大きな声が響いてきた――
◇◇◇
わたしは愕然としたまま、顔をあげられなかった。
とても長い時間に感じたが、婚約破棄を告げられてから1分と経っていなかっただろう。
突然。
「兄上!」
足音が近づいてくる。
そちらにふり返ると、ざわつく貴族らをかきわけ、1人の男性がわたしとドミニクさまの前に立った。
第5王子、オリバー殿下だ。
「オリバーか、突然、どうしたのだ?」
「兄上のおっしゃること、聞き捨てなりません。エレノア嬢がそんなことをすると本気でお考えですか?」
「さっきも言ったが密告があったのだ」
「婚約者であるエレノアさまより、その密告者とやらを信用すると?」
ドミニクさまが苦々しい表情を浮かべる。
「……ああ、当然だ。オリバー、下がれ」
普段は美しく優しそうなオリバー殿下が、眉間に皺をよせ、拳を強く握るのが見える。
「証拠はあるのですよね?」
「ああ、証言ならある」
「証言ではなく証拠です」
「証言で十分ではないか」
ドミニクさまは証拠も準備していなかったようだ。
きっと自分の権威で押し通せるとでも考えていたのだろう。
まさか、自分と同じ立場の王族から反論されるなど想定外だったようで。
「では、その証人の名をを教えてください」
「密告者の身の安全を考え、教えるわけにはいかんな」
「そうですか。ではエレノア嬢の罪の証明はできないのですね」
「……」
ドミニクさまは反論できなくなったらしい。
しかし、オリバー殿下はずいぶんとたくましくなったと思う。
幼いころ一緒に遊んでいたときは、1つ下だからか、頼りなく見えたのだけど。
今は立派な紳士だ。
「答えられないようですね。兄上、ところで兄上の隣にいるヴィヴィアン、でしたか」
「ああ、ヴィヴィアンがどうした」
「まさかとは思いますが兄上、エレノア嬢と婚約破棄をしたあと、ヴィヴィアン嬢と婚約発表でもするつもりでしたか?」
ドミニクさまの目がきょろきょろと泳いでる。
どうやら、図星らしい。
わたしのドミニクさまへの愛情がすっと冷めていく。
オリバー殿下はヴィヴィアンに顔を向けたあと、ドミニクさまに話しかけた。
「もう1度聞きましょう。あなたはエレノア嬢よりも、そちらを信用なさるのですね?」
ドミニクさまと比べ、オリバー殿下は堂々としていて、知的だ。
ほかの貴族令嬢から、人気なのは知っていた。
改めてこうしてみると、ほかの貴族令嬢からモテる理由がよくわかる。
とはいえ、婚約者のドミニクさまだけを想うのがわたしの令嬢としての役割。
ほかの殿方など意識しておらず気づかなかった、というのも大きいと思うけれど。
「……ああ、そうだっ」
ドミニクさまは苦々しそうな顔をオリバー殿下に向けたあと、視線を逸らした。
隣のヴィヴィアン、震えてるわよ。
かわいそうに。
密告とやらはでっちあげだと、ここにいる誰もが理解しただろう。
「では、エレノア嬢と、正式に婚約破棄をなさるということでよろしいでしょうか?」
オリバー殿下は口の端をあげて突然、微笑む。
でも、目が笑っていない。
怒りの色に満ちながら、狡猾で冷めているような目だった。
「ああっ、そうだと言っているだろう!」
オリバー様は目を見開いた。
まるで、「そうだ」という回答が意外だったと言わんばかりだ。
「それはそれは……」
にやにやとオリバーさまが笑っている。
まるで相手を追い詰めた獣が笑っているかのようだ。
「罪の証拠もなく、突然のエレノア嬢との婚約破棄、確かに承りました。父上にも報告しておきましょう。衆目の集まるこの場では、大失態だと思うのですが、父上はどう判断なさいますかね」
ドミニクさまの顔から一気に血の気が引いたように見えた。
「お、オリバー!」
「悪いようにはいたしませんよ。父上がどう判断なさるかは知りませんが」
オリバー殿下は周囲を見渡し、ほかの貴族たちを見ると、わたしを見つめて優しく微笑んだ。
コクリと頷くと、広間にはオリバー殿下の声が響き渡った。
「まぁ、私が報告するまでもなく、皆さんが見てるんですがね」
ドミニク殿下は慌てた様子で辺りを見渡した。
貴族らは一斉に顔を下に向ける。
くすくすと笑う声が、かすかに聞こえてくる。
わたしが婚約破棄された、みじめな令嬢であることに変わりはない。
だが、わたしの冤罪を晴らしてくれた。
わたしは彼によって救われたのだ。
オリバー殿下は本当に素敵な男性になった。
ドミニクさまがオリバー殿下のようであれば、どれほど好きになっただろう。
オリバー殿下には感謝しないといけない。
彼にお礼を言わなければ。
しかし、今は言うべきタイミングではない。
この場所を退出してからがいいかしら。
などと、わたしが考えているとき。
つかつかとオリバー様が歩き、わたしの前に来て、片膝を地面につけた。
そして、壊れやすい飴細工でも触るように、優しくわたしの手を取り、潤んだ瞳でわたしを見つめた。
「エレノア・ヴァークリー公爵令嬢。私は、あなたを愛しています」
――え?
いろいろありすぎて思考が追い付かない。
「兄上との婚約破棄が決まった以上、問題行動にはなりますまい。わたくし、オリバー・フランヴァニア。あなたとの婚約を希望します」
周囲の貴族たちがざわついた。
それはそうだろう。
何より、わたしがびっくりだ。
「え? えと、光栄に、ぞ、存じますわ」
うまく声が出ない。
というか、噛んでしまった。
心臓の音がどきどきと、やたらにうるさい。
「この場でお返事をいただく必要はありませんよ」
彼は困ったような顔で、わたしに微笑んだ。
そして、彼は掴んだ手をやさしく引いて、彼の胸にわたしを誘い込む。
わたしの肩には彼の手が優しく包み込むように回っていた。
「この場にご来席の皆様、至急の要件ができたため、私とヴァークリー公爵令嬢は退席いたします。どうぞ、皆様はこのまま、おくつろぎください」
そう言うと彼はわたしの手を引いた。
しかし、わたしにアクシデントが。
足が前に出てくれないのだ。
それどころか、その場に倒れ込んでしまいそうだ。
どうやら、いろいろありすぎて、腰が抜けてしまったらしい。
恥ずかしい。
きっと今、わたしの顔は真っ赤になっているのではないだろうか。
公爵令嬢として実に恥ずかしいことだ。
「エレノア。まだ正式な返事はもらう前だが、失礼するよ」
ささやくように、優しい声だった。
彼は体をかがめた。
そう思ったら、わたしの足元に優しく右手を回し、大事なものでも包むように、わたしの後頭部に左手を回した。
――お姫様抱っこという奴である。
わたしの心臓の鼓動は、どんどんどんどん早くなり、死んでしまうかと思った。
会場はざわざわしている。
令嬢たちのきらきらした視線がこちらに注がれているのがよくわかる。
ざわざわしている中に令嬢たちの悲鳴のような声が混じっている。
オリバー様を狙っていたと思われる令嬢たちは、茫然と地面を眺めていた。
わたしたちがドアを通り抜けると、広間からは大きな黄色い悲鳴が響き渡った。
彼は馬車に乗り込むと座席にわたしを座らせ、「少し待っていてほしい」と外へ出て行く。
彼の手がわたしから離れることを少し寂しく感じた。
わたしは、彼が戻って来るのを、そわそわして待っていた。
でも戻ってこない。どうしたのだろうか。
心配になったわたしは、馬車から外を覗き込む。
オリバー殿下が大きな木の下で立ち尽くしている。
どうしたのだろう。
わたしは足が戻ったのを確認すると、オリバー殿下の元へ歩いて行った。
近づいて見てみると、オリバー殿下の足が小刻みに震えている。
オリバー殿下はわたしの気配に気が付いたのだろうか、急に後ろにふり返った。
「あ~、見られたくなかったのに……」
堂々としているように見えたけど、彼は実は怖かったのだ。
小さい頃は優秀な王子と言われたドミニクさま。
今は見る影もないけれど。
オリバー殿下がこうなるのも、無理はない。
そう思いつつ、わたしは思わず、くすくすと笑ってしまった。
彼はわたしを見つめると、目を見開き、顔を赤くして目を逸らした。
幼いころの優しいけど、ちょっぴり頼りない、オリバー殿下のまま。
笑いながら、今の彼を見て、ほっとしてしまったことにも気が付く。
どきどきした雰囲気は消えてしまったけど、胸が温かい。
あの彼では、求婚されたのはいいけど、わたしでは釣り合う自信がない。
「幻滅したかい?」
彼は落ち込んだ表情をしてわたしに尋ねた。
そういえば、子供のときもこういう表情をわたしに見せていたっけ。
「いえ、素敵ですよ。オリバー殿下」
わたしはくすくすと笑いながら冗談めかして言ったが、これは本心だ。
彼はただ励まされただけだと思ったのか、頭を抱えて「うー」なんて言葉を吐いている。
でも、このほうがいい。
本心だと思われても、今度はわたしが照れてしまいそうだ。
「もう見られちゃったし、しょうがないか。馬車に戻ろう」
わたしは馬車で家まで送ってもらった。
馬車の中では突然、感情があふれ出し、涙がぽろぽろ零れた。
彼の前で、はしたない。
でも止まってくれない。
わたしが下を向き涙を拭っていると、優しく囁くような声が聞こえた。
「エレノア。僕がそばにいる。安心して」
彼の手がすっとわたしに伸びてきて、優しくわたしの手を握ってくれた。
わたしの心臓が、どきどきしたのは、言うまでもない。
わたしは馬車から降りるとき、彼の手が離れていくのを少し寂しく感じながら、屋敷に入った。
あの日から3日後。
わたしはオリバー殿下のことが頭から離れなくなり、茫然としたり、お姫様抱っこを思い出しては、ベッドの中で足をばたつかせたりしていた。
◇◇◇
今日、エレノアから返事を聞きに行くため、ヴァークリー邸に向かっている。
彼女を好きになったのはいつからか。
はっきり思い出せるのは5歳のときだ。
あるいは、もっと小さい頃から会っていたのかもしれないが、覚えていない。
エレノアは彼女の父、ヴァークリー卿と一緒によく王宮へ来ていた。
「オリバー殿下、今日は何をして遊びましょうか」
彼女は1つしか離れていないのに、お姉さんだった。
当時、出来がよいと評判の兄上と自分を比較し、よく泣いていた。
そうすると、彼女はいつも、そっと抱きしめてくれて、慰めてくれた。
「遊び? エレノアが決めてほしいな。僕にはわからない」
好きな遊びがなかったわけではない。
人並み程度に、冒険譚に目を輝かせたりしていたのだから。
でも、彼女が楽しそうに笑っているのを見るのが、一番うれしかった。
だから、彼女が楽しいと思うことをしてほしかったのだ。
「うーん、困りましたねえ。じゃあ……」
結局、僕に合わせてくれる。
エレノアは優しくて大好きだ。
でも、歳が1つ上というだけなのに、子供扱いされるのが嫌だった。
2年ほど経って7歳になった。
彼女は8歳だ。
彼女は突然王宮に来なくなり、2年ぶりの再会だった。
自分が成長した姿を彼女に見せたかった。
背が伸びたのだ。
彼女よりも背は高くなっただろう。
あれからいろいろなことを覚えた。
彼女に褒めてもらいたい。
認められたい。
そんな期待を胸に抱きながら、久々に再会した。
だが、想像とは裏腹に、彼女のほうが背は高いままだった。
笑顔が昔よりも素敵になっていた。
彼女が笑うと、気持ちが明るくなった。
顔が赤くなったことを感じると、思わず顔を背けた。
楽しみにしていたのに、もじもじとして、彼女と話すことができない。
何を話せばいいか、わからない。
長かったような、あっという間だったような不思議な時間。
大して会話もできないまま、時間が過ぎてヴァークリー卿が彼女を迎えに来た。
「エレノア、また来るんだよね?」
なけなしの勇気を振り絞って、彼女に話しかける。
「オリバー様、しばらく来られるかわからないんですよ。ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに、僕に謝罪してくる。
しばらく会えない。
だったらしっかり気持ちを言わなければ。
「エレノア。君を守れるような男になってみせる。そうなったら、僕のお嫁さんになってくれる?」
顔を赤らめながら、必死で彼女から目を逸らさないようにした。
エレノアはきょとんとした後、くすくすと笑った。
「わたし、殿下に求婚されるほど美しくもないと思いますけど?」
照れ臭そうに、はにかんだ。
こんなに優しいエレノアが美しくないなんて、信じられない。
「そのときも、わたしなどに、ご好意を持ってくださるのであれば、また言ってください」
彼女はにこりと笑って、その場を去って行った。
相変わらず子供扱いだ。
悔しかった。
この日をきっかけに勉学や剣に、ひたすら打ち込むようになった。
しかし、しばらく会えなくなって、時間が経つにつれ、恋心はいつの間にか消えていた。
勉学と剣にひたすら打ち込む習慣だけが残った。
15歳になった。
兄上にも劣らない存在だと、褒められるようになった。
エレノアへの想いは薄れても、強く、賢い男になりたいというあの日の想いだけはくすぶったままで。
だから、勉学と剣への情熱は薄れることがなかった。
このころ、貴族の令嬢たちが、やたらと話しかけてくる。
しかし、彼女たちに興味を持つことはできなかった。
どうせ、彼女たちは僕個人を好きなわけではない、そう思っていた。
王族の妃の立場が目的だろうとしか、思えなかったからだ。
だが、自分の立場を考え、誰かといずれ結婚しなければならない。
言い寄って来ている令嬢の中で、誰ならいいだろうか。
そんなことを考えながら、王宮内を歩いていると、庭園に人影が見えた。
兄上と笑いながら話す1人の令嬢を見かける。
――エレノアだった。
エレノアのことを見た瞬間、子供のときの情景が頭をよぎる。
顔が赤くなっているだろうか。
あのときのように心臓の鼓動が早くなっている。
子供のときの気持ちが、ふと蘇ってきた気がして、彼女のことが頭から離れなくなっていた。
彼女は想像していたよりも、ずっと綺麗になっていた。
エレノアは昔、自分のことを美人ではない、と言っていた。
でも、私にとってはあの笑顔は、まぶしく輝いて見えた。
あの日から、ずっと彼女の笑顔が離れない。
エレノアを見かけて数日経っただろうか、彼女は兄上と何やら微笑みながら会話していた。
あの笑顔を自分に向けてもらいたい。
エレノアと話したい衝動に駆られる。
でも話しかけられない。
兄上の邪魔をするわけにはいかない。
エレノアが兄上と楽しそうに微笑む姿を見て、ちくりと胸が痛んだ。
そんな日々を悶々と過ごしていた、ある日。
――エレノアが、兄上と結婚することに決まった。
初めて聞いたあの日は、食事も喉を通らなかった。
何も考えられなくなり、ベッドでひたすら眠った。
彼女の結婚を聞いた日から、剣を握る気力がわかない。
勉学も手につかなくなってしまった。
父上からは、よく貴族令嬢との縁談話を持ち込まれる。
令嬢の名誉を汚さないように気をつけながら、理由をつけて毎回断った。
エレノアが兄上と結婚する以上、断る意味はないはずだが、なぜか受ける気になれなくて。
そして、16歳になったとき。あのパーティの日。
エレノアが兄上に糾弾されていた。
◇◇◇
「エレノアお嬢様。オリバー第5王子殿下がお見えになられています」
「え、ええ。すぐに向かいます」
わたしはこの日、朝からそわそわしながら、オリバー殿下の到着を待っていた。
今は、お昼過ぎ。
鏡の前に立ち、何度も髪型や目元、ドレスを角度を変えて見つめていると、後ろから使用人が声をかけてくる。
「お嬢様。大丈夫です。お美しいですよ」
「そうかしら……この鼻と目はほかの令嬢と違って美人に見えないのよねえ。あとドレスの色は……」
「そうやって、オリバー様をいつまでお待たせするつもりでしょうか?」
「そ、そうだったわね……」
わたしは覚悟を決めて客間へと向かった。
ドアの隙間からオリバー様とお父様の姿が見える。
オリバー様はお父様に頭を下げていた。
「わが兄がしたエレノア嬢への所業。兄に代わり、お詫び申し上げます」
「いえ、オリバー殿下には感謝こそすれ、頭を下げられることなどございません。娘を救ってくださり、感謝の念に堪えません」
わたしは会話の最中、入っていくのが気まずくなって、ドアの影に隠れて立ち聞きした。
「しかし、もしかして兄君の罪の肩代わりのつもりで娘に求婚なされたのですか?」
「まさか。わたしがエレノア嬢を好きだからです。それ以外に理由などありませんよ」
「そうですか。父親の私としましても、そのお言葉に安堵しました」
殿下がわたしを好き……
わたしは心臓がびっくりして、ドアに頭をがつんとぶつけてしまった。
「痛い……」
「エレノア、何をしているんだ。早く入って来なさい」
お父様に立ち聞きがバレたようで、怒られてしまった。
わたしは顔を下に向けながら、客間に入り、ドアを閉めた。
オリバー様はわたしに向けた顔を逸らすと「ぷっ」といきなり噴き出した。
……オリバー様にもやっぱりバレていたらしい。
わたしは客室の椅子に座って下を向いた。
ああ、恥ずかしい。
オリバー様は半笑いの顔をわたしに向け、急に表情がこわばって、優しい、強い視線でわたしを見つめる。
「いきなり本題からすまない。私は以前も言った通り、君を愛している。私と結婚してほしい」
わたしは父上を見た。父上はわたしに頷く。
父上はもう了承済みでわたし次第らしい。
政略結婚が当たり前の貴族社会の中、わたしに選択権を与えてくれるということ。
オリバー様は緊張した面持ちで続けて口を開いた。
「僕はさ、君に無理強いはしたくない。だから君の意思を尊重したいんだ」
わたしの答えなど決まっている。
もちろんイエスだ。
わたしはここ3日間、彼のことが本当に好きなことを毎日実感していた。
早く今日が来てほしかった。
いざ今日になるとオリバー様に会うのが怖かった。
でも、わたしには答えられない。
何せわたしは婚約破棄したばかりだ。
婚約がダメになったから、新しい相手に求婚されて、2つ返事で受けると?
わたしに選択権があるなら、そんなに軽い気持ちで受けたくはない。
……そうじゃない。もう彼との結婚は承諾するつもりなのだから。
でも、あっさり結婚を受け入れ、軽い女だと思われるのは、怖かったのだ。
沈黙が続いた。
わたしはオリバー様に「今は強引に迫ってください」と心の中で願った。
でも、非情に時間は経過していく。
オリバー様の顔は俯いていた。
顔をあげ、わたしを見て席を立とうとする。
「エレノア。気持ちはわかった。では私は――」
オリバー様はそう言いかけると、すてんと急に転んだ。
「ぷっ」
さっき笑われたお返しだ。
わたしも笑い返してやった。
彼は困った顔でわたしをちらりと見る。
そうすると、少年のような、優しい笑顔をわたしに見せてくれた。
わたしに子供のころ、昔見せた、彼の笑みだ。
そうすると、彼はまた視線を落とし、転んだ体制のまま、膝を抱えた。
「今回の求婚は、君が弱っているときに付け込んだようなものだ。君が違和感を感じるのは仕方がないと思う」
ん?もしかして勘違いしている?
返事をしなかったから?
わたしは思わず声をあげ、オリバー様に視線を向けた。
「もう! 殿下は子供のころから変わりませんね。婚約破棄したばかりのわたしが、ほいほいと求婚に応じられると思いますか?」
「少し待ってほしい、時間を空けてほしい、という意味かい?」
オリバー様はきょとんとした顔で、わたしを見つめる。
「そうじゃなくて、わたしが軽い女みたいじゃないですか!」
「ぷっ」
オリバー様はまた噴き出した。
そして大きな声で笑った。
笑いがおさまってくると、わたしに困った顔で微笑んだ。
「ああ、ごめんよ。君を笑ったわけじゃない。自分の勘違いに笑ってしまったんだ」
彼は優しく、潤んだ瞳を見開き、わたしを見つめた。
「君の前でこそ、一番かっこいいところを見せたいのに、僕は君に弱い部分を見せてばかりだな」
オリバー様は自嘲気味にくすくすと笑った。
なんだか子供の頃のオリバー様みたい。
わたしも彼の笑いにつられて、一緒にくすくす笑ってしまう。
すると突然、にこやかなオリバー様の表情が真剣なものに変わる。
オリバー様は立ち上がり、片膝をついた。
「もう1度言わせてほしい。エレノア。私と結婚してほしい。君のことはどんなときでも守ろう。君を軽い女なんて思わない。むしろ君の全部が、私は好きなんだ」
「よ、喜んでお受けします。オリバー様」
甘い言葉に胸が高鳴る。
オリバー様とわたしは顔を見合わせた。
何だか、お互いに視線が離せない。
……ああ、キスでもしてしまうのかしら。
そう思っていたら。
後ろからお父様の「こほん」とわざとらしい咳払いが聞こえた。
すっかり忘れていた。
わたしとオリバー様は顔を赤らめて、わざとらしく距離を置いた。
---
「お母さまー」
「どうしたの?ジュリア」
「お父様がわたしに抱き着いてきて、おひげが痛いのー」
あれから、5年ほど経った。
彼と結婚したあと、すぐに子供でできた。
女の子で、ジュリアと名付けた。
「もう! オリバー様! 娘をかわいがるのはいいですけど、少しは考えてくださいよ」
「ああっ、ジュリア。お母さんにいいつけるなんてずるいぞ」
わたしはくすくすと笑いながら、彼を見つめた。
彼はわたしと娘の前ではこんな感じだ。
でも外では「美形だが腹黒な切れ者王子」として通っている。
あのあと、ドミニクさまは完全に王族の中で腫物のような存在として扱われるようになった。
オリバー様の腹黒イメージの定着は、あれが大きかっただろう。
でもそれだけではない。
彼はわたしや娘に対して害意を感じると、容赦なく責め立てるのだ。
ドミニクさまに対してやったように。
オリバーさまとわたしの馴れ初めは、令嬢たちの間で恋物語として語り継がれるようになっていた。
一部では創作とも思われているようだが、あれが事実だと知られると大変だ。
目をきらきらさせて、わたしにあの日の話を聞いてくる。
わたしは毎回はぐらかそうとする。
でも令嬢たちの期待の目が、それを許してくれない。
今でもあの日を思い出すと、顔が赤くなるというのに。
「エレノア、少し出かけてくるよ」
「ええ、いってらっしゃい。オリバー様。お帰りは?」
「ちょっと遅くなるかもしれない。でも、できるだけ早く帰って来たいな」
彼は透き通るような眼で、わたしを見つめる。
馬車へ顔を向けると、ころりと表情を変え、眉間に皺を寄せた。
貴族社会は腹黒い。
だけど、わたしの愛する人はもっと腹黒い。
わたしはそんな彼を愛している。
彼が腹黒いのは、わたしを守ってくれるためだと知っているから。