想い出(ローランド視点)
ローランド視点回です。
「ソニア君のとこに行ってきたのかい」
ソニアと別れ、女子寮からアトリエへと戻ると、いつものようにペドロがコーヒーを飲んでいた。カップに残るコーヒーの減り具合を見るに、どうやら俺の帰りを待ち構えていたらしい。
「ああ。ソニアまで謹慎なんて馬鹿げている」
「彼女はなんて?」
「自分も悪いと、謹慎を甘んじて受け入れていた」
不本意ながら自身にも過失があると認める姿勢は、実にソニアらしかった。彼女以上に腹を立てている俺は、おかしいのかと思うほど。
「あと――ソニアは俺の事情を知ったらしい。その上で、自分の絵を描いてくれと」
「なんていい子なんだろうね。描けばいいじゃない。これ以上、何を悩むことがあるのさ」
「……もし、またソニアの身に何かあったら」
「まだ言っているのか。そもそもソニア君に『描かせてくれ』と頼み込んだのはローランドじゃないか。君の絵はただの絵だし、ソニア君はエルミナじゃ無い。いい加減目を覚ませ」
俺に呆れたペドロは、空になったカップを手にアトリエを出ていった。ガランとしたアトリエに残されたのは、俺と、窓辺に咲く青い花。
『ソニア君はエルミナじゃ無い』
分かっている。理屈では分かっているのに――
母エルミナの最後が、今も脳裏に焼き付いて離れてくれないのだ。
◇◇◇
十五の時、母エルミナ・スペルディアは死んだ。
線が細く、ベッドの上を離れられないほどに身体の弱い母だった。けれど、優しい笑顔で周りを癒すような、花のような人だった。
思い出すのは、母の弟であるペドロに習って、絵を描き始めた時のこと。初めて描いた拙い絵を、母に見せたあの日のことだ。
『まあローランド、あなた絵の天才だわ!?』
お世辞にも上手いとは言えない俺の絵を、母は大袈裟なくらいに褒めちぎった。
『私を描いて』『お父様を描いてみて』『あれを描いて』『これを描いて』……
絵を描くたびに母から褒められ、幼い俺はそのことが嬉しくて。
言われるがままに絵を描いた。母や父を。鳥や猫を。庭に咲く花、ざわめく木々、そよぐ風、こぼれる光。目に見えるものから見えないものまで、絵を描くことに夢中な日々を送り続けた。
絵を描くことは楽しかった。
力無くしおれた花も、俺の筆で輝きを取り戻す。どんよりと曇った空だって、キャンバスの上では光刺す雲間に変わる。
それはどんどん弱っていく母の姿も――
『あなたの絵は魔法のようね。見ているだけで元気になれる』
母はいつも笑顔で、頭を撫でた。
そうして絵を描き続け、十五歳になったある日。
『花に囲まれた私を描いて』
咳き込む母から、いつものように頼まれた。
病床で力無く笑う母を元気づけたくて、俺はその通りの絵を描いた。絵の中の母は笑顔で、大好きな花に囲まれ、光に溢れる姿は幸せそうで。これなら母も元気を取り戻す。馬鹿な俺はそう信じた。
出来上がった絵を見た母は安堵したように笑うと、
『素敵……まるで天国みたい』そう一言、呟いて。
そして――風吹きすさぶ夜。母は天国へと旅立った。
まるで絵のように、清らかな笑顔を浮かべていた。
こんなはずではなかった。ただ、母を喜ばせたかっただけなのに。
母を溺愛していた父は、俺を責めた。
『何故あんな絵を描いた!』
『あの絵が、エルミナを天国に連れて行ってしまった』
『お前のせいでエルミナは死んだ!』
母の居なくなった屋敷で、父は暴れた。窓は割れ、画材は全て燃やされて、俺の絵はズタズタに切り裂かれる。荒れた屋敷は、あちこちで噂になるまでに。
しかし、このように父から責められても仕方がない。
俺のせいで、愛する母は死んだのだ。
俺の絵が、母を殺した。
俺があんな絵を描かなければ。
俺が絵を描かなければ――
『そんなわけないでしょ』
暗い部屋で、切り裂かれた絵に囲まれて。
塞ぎ込む俺の手を引いたのは、ペドロだった。
いい加減な男だが、絵の腕は一流だ。宮廷画家である彼に肖像画を描いてもらいたいという者は後を絶たない。
そんなペドロにとって、母エルミナは実の姉。彼だって、母の死は悲しく辛いものであるはずなのに。
『姉さんは君の絵を愛していた』
『君は絵をやめちゃ駄目だよ』
『僕と一緒に、アトリエへおいで』
ペドロは、ただの一度も俺を責めたりはしなかった。
ぼろぼろになった絵を拾い上げ、大切に布で包んでくれる姿からは、静かな悲しみが伝わって。いい加減だと思っていた彼の手は、温かく大きかった。
俺はスペルディア伯爵家から逃げるように、ペドロの屋敷へと転がり込んだ。
王都の外れにあるこじんまりとした屋敷には、俺の部屋を用意され、絵を描く環境も整えられていた。まるで、絵から――エルミナの死から逃げるなと言わんばかりに。
そうして誘われるがままに宮廷画家の見習いとなった俺の絵は、世間の目へ晒されることとなった。
ペドロがあちこちで宣伝をするものだから、瞬く間に名前は知れ渡り、絵は広まり、個展が開かれ……様々な人間から絵の評価をされ始め。
『素晴らしい絵だ』と絶賛する者もいれば、『面白みのない絵だ』と酷評の声も届く。その度に、未熟な感情は、心無い評価に振り回された。
俺の絵は評価されるためにあるのだろうか。
俺は何のために絵を描いているのだろうか。
見習いとなって数年。王からの依頼が届いたのは、絵を描き続ける理由が分からなくなっていた、その時だ。
人物を描けなくなっていた俺に『人物画を』と、その依頼には断ることの出来ない強制力があった。
人物画――肖像画を描けない宮廷画家など致命的だ。存在する意味が無い。王からの依頼は、そのことを案じた上で寄越されたのだろう。
将来的に宮廷画家としてやっていくためには、この依頼を受け、人物画も描けることを証明するしかない。
界隈でも面白可笑しく噂されているのは分かっている。母の死と、人を描けないという話が独り歩きして、例の噂は出来上がった。『奴が描いた人間は死ぬ』のだと。
ペドロにも言われた通り、そんなことあるはずがない。なのに、人を描こうとしても、筆が動かない。モデルを前にすると、描くうちに身がすくむ。身体がそれを拒んでしまう。
『誰かいないの? この人なら、目をつぶってでも描ける、って人は?』
『そんな奴、居るわけないだろう』
『もしかしたら本人を目の前にしなければ、ローランドも人を描けるようになるんじゃないかって思ったんだよ。なんなら僕がモデルになっても……』
『バカ言うな』
そんな人間、いるはずが――
『いや、いる』
一人だけ、頭に思い浮かぶ人物がいた。
ギャラリーで毎日のように見かける、あのシルエット。どこにでもいるような、あの横顔。
それが、マルガレーテ様付きの侍女、ソニアだった。




