君は特別
「ローランド様だわ……」
私とペドロ様の間を、生ぬるい風が抜けてゆく。
バラ園の向こう、アトリエの窓際にはローランド様が立っていて。こちらをずっと見てはいるものの、反応はない。彼も、私達が気づいたことを分かっているはずなのに。
「ほんとだ、ローランドだ。怖い顔してる」
「な、なぜでしょう」
「もしかして、アトリエから見えたのかな。僕とソニア君がいちゃいちゃしてるとこ」
「いちゃいちゃ……?」
ペドロ様とは偶然会って、ローランド様のことを話していただけで。決していちゃいちゃ、なんて、そんなことは――
しかし私は、ようやく気がついた。今、まさにペドロ様から頭を撫でられていることを。ペドロ様も苦笑いを浮かべながら、やんわりとその手を下ろす。
「これのせいでしょうか」
「多分ね……」
以前、ペドロ様が手を握ったときも、ローランド様は『大事なモデルだ』『手を離せ』と怒っていた。もしかすると、その時のように軽く叱りつけるものかと思っていたが、ペドロ様の手が離れてもローランド様の顔は依然として強ばったまま。
小言をいう時や、シェリル様達を追い返した後など、彼のしかめ面は何度も見てきた。けれど、このような冷たい瞳を向けられたのは初めてで。こちらから声をかけて良いものかも躊躇われて、私は戸惑いを隠せない。
「あいつ、怒っちゃったかなあ。僕とソニア君が、二人きりで密会してたから」
「密会? まさか……」
ペドロ様の妙な言い回しは気になるが、たしかに私達は今、満開のバラ園に二人きり。偶然会っただけなのだが、傍から見れば密会と思われてもおかしくない。
しかしあのローランド様が、そんな思い違いをするだろうか。それに私がペドロ様と密会していたとして、怒られる理由も無いと――
「あっ、ローランド行っちゃう! ソニア君、追いかけて」
「えっ!? は、はい!」
ローランド様は突然、私達からフイと目を逸らし、アトリエの方へと姿を消してしまった。
確かに目は合っていたはずなのに、何も言わず立ち去るなんて初めてのことだった。そんなローランド様に、ペドロ様も戸惑いを隠せないようで。
いつもと違う彼の態度に、私は慌てた。慌てて、走って、大急ぎでローランド様を追いかけたのだった。
「ローランド様。ソニアです」
開け放たれたアトリエの窓からローランド様を呼んだ。彼はこちらを見ることも無く……相変わらず険しい顔を崩さぬまま、画材の片付けを始めてしまった。どうやらもう今日の制作は終わりにしてしまうらしい。
「ローランド様、無視は止めてくださいませんか」
「……なにを、こそこそと」
「え?」
「別に、俺に気にする事はない。君はペドロと居ればいい」
バサバサと乱雑に片付けを進めていくローランド様は、明らかにいつもと様子が違っていた。
取り付く島もなくて、助けを求めるようにバラ園を振り返ると、ペドロ様は「ごめーん」とでもいうように手を合わせたままこちらを見守っている。ここは私がどうにかするしかないようだ。
「あの……ローランド様はなにを怒ってらっしゃるのです?」
「怒ってなどいない」
「どう見ても怒っているじゃないですか。私が何かしましたか? それともペドロ様が?」
「だから怒っていないと言ってるだろう。君とあいつが何をしていようと、俺に止める権利など――」
苛立ちに任せて口走ってしまった言葉を後悔するように、ローランド様は口を噤んだ。
「……ローランド様、もしかして」
「いや、俺は別に、嫉妬しているわけでは」
「嫉妬?」
うろたえる彼の口から、『嫉妬』という言葉がこぼれ出て。
やっと分かった。ローランド様は否定するけれど、彼は私達二人に嫉妬していたのだ。遠く、バラ園の向こうから。
「すみませんローランド様。配慮が足りませんでした」
「だから俺は、嫉妬しているわけでは無いと……」
「のけ者にされたら、誰だって嫌ですよね」
「は?」
私はうんうんと深く頷いた。
そもそも、ローランド様とペドロ様、お二人の仲に私がお邪魔しているだけなのに、図々しくもペドロ様を独り占めしてしまうことも多かった。先程のように。
今日だけでは無い。この間だって、私みたいな部外者がペドロ様の話を根掘り葉掘り聞いたりして、ローランド様にとっては不快であったのではないだろうか。
私は反省した。もっと、ローランド様の気持ちを考えるべきだと。
「ローランド様とペドロ様の仲に立ち入るようなことをして――もうこのようなことは控えます。あまりこちらへ入り浸るのも」
「待て。違う」
「え?」
「君は変だ」
「変」
変、と言われて。
窓の外で私がぽかんとしていると、アトリエのローランド様がやっとこちらへ振り向いた。
「普通……嫉妬と言われたら、自分に気があるのかと思わないか」
こちらを見下ろすローランド様の顔からは、もう苛立ちのようなものは消えている。
かわりに、彼の頬が微かに赤く染まっているような気がするのは、私の頬も熱いからだろうか。
「そ、それは……思い至りませんでした」
「変だ。変わり者だ」
「ひどっ……ローランド様に言われたくありません!」
「ああ、俺は変人だろう。けど君も負けないくらいおかしい」
「そんなはずないでしょう。そもそも、私は普通ではなかったのですか」
「知れば知るほど普通じゃ無い。君は――」
私達は罵り合った。変だ、変わり者だと言いながらも、お互いの顔は赤いまま。
口ごもるローランド様を見上げていたら、やがて彼は諦めたように小さく息を吐いた。
ここは静かだ。
静か過ぎて、吐く息にも、心臓の音にも、私の心はかき乱される。
「君は特別だ。誰よりも」
油彩の香りに、バラの香りが混ざり合う。
呟かれた小さな声は、私へじわりと染み込んだ。