ローランドの過去
広大な王宮の脇には、世にも美しいバラ園があった。
お抱えの庭師達が手塩にかけて育てているバラは、春になると一斉に咲き誇り、人々の目を楽しませる。
「マルガレーテ様にならもっと持っていきな!」
「ありがとう。でも、これ以上はマルガレーテ様のお部屋がバラで埋まってしまうかも」
「いいからいいから。このまま枯れてしまうより、マルガレーテ様に愛でていただくほうがこの子達も幸せというものだ」
今朝はバラを少しだけ分けてもらいに来てみたら、庭師からは気前よく両手いっぱいのバラをいただいてしまった。
マルガレーテ様の部屋に飾るための、深いピンク色のバラだ。艶のある花弁と甘い香りがマルガレーテ様にぴったりで、彼女もこの華やかさを愛している。
(良い香り……)
バラの香りを愛でながらも、私の意識はバラの向こうに飛んでゆく。
バラ園のフェンスの向こうには、煉瓦造りの建物が見えた。あれはローランド様達のアトリエだ。あいにく中の様子は見えないが、今も彼等は絵の制作にあたっているのだろうか。
先日、シェリル様とのことがあってからというもの、私の頭からはローランド様のことが離れなくなってしまった。
『ローランド様が描いた人物は、呪われて死んでしまうんですって』
『ローランド様が貴女なんかをモデルに選んだのは、死んだってどうでもいい人間だからよ』
歪んだ唇から聞かされた、ひどい噂。
シェリル様はわざわざあの場所で待ち伏せまでして、それを伝えた。私を傷つけるだけのために。
絵にそのような『呪い』があるだなんて、そんなはずあるわけがない。けれどそんな話がシェリル様のような方まで浸透してしまっているということは、実際ローランド様には絵に関係するお辛い過去があるのだろう。
それは、人を描こうとしても『筆が進まなく』なってしまうような。
根深い悩みを抱えたまま、ローランド様は王からの依頼を受けてしまった。断りきれない頼みを受け、頭を抱えていたところ、たまたま描きやすそうな私が目に留まったのだ。
彼はその悩みを克服しようと私を真面目に観察し続けた。そして『ソニアらしい』と私の痴態を切り取りながらも、手や後ろ姿、遠目からの立ち姿など、それはそれは慎重に私を描いた。
絵が、私を傷つけるかもしれないと恐れながら――
「ソニア君?」
向こうに見えるアトリエを眺めながらそんなことを考えていたら、後ろから声をかけられ驚いた。アトリエにいるはずのペドロ様に。
「ペドロ様。どうされたのですか、こんな所で」
「休憩も兼ねて、バラを見に来ていたんだよ。アトリエの裏手がこんなにも満開なんて、見なきゃ損だよね」
様々なバラが咲き誇るなかで、ペドロ様は白いバラを指さしながら「これはローランドっぽい」、黄色いバラは「これはソニア君っぽい」と、独特の感性を働かせる。私はこの方のこういう所が嫌いじゃない。
「たしかにローランド様には白バラがとても良くお似合いです」
「ソニア君にも、明るくて可愛い黄色のバラが似合うよ。そうだ、今度ローランドに描いてもらおう。バラを持ったソニア君を」
「……描いていただけるでしょうか」
「描くよ。ソニア君がモデルなら」
「でも……」
ローランド様の過去に、何かがあったことは確かだ。それを知った今、彼に「描いてほしい」など、軽い気持ちでは口にできない。
「もしローランド様がお辛いようなら、無理強いは……」
「――ソニア君もあの噂を聞いたんだね」
いつも明るいペドロ様の声が、急に低いものとなる。これまで聞いたこともないほどに。
どうやら、私がローランド様の噂について気を揉んでいることに気づいたらしい。変わらず笑顔を作ってはいるけれど、その瞳は冷ややかで。
「まさか信じたの?」
「いえ。ただ、ローランド様のお気持ちが気になって」
「……そうだね。あいつが一番、信じてしまってるね。絵のせいで人の命がどうかなるなんて、あるわけが無いのに」
口ぶりからして、ペドロ様はローランド様の過去についてなにかご存知のようだった。一緒に住むほどの仲なのだ、事情を知っていてもおかしくはないだろう。
「ローランドに描かれた人間が、たまたま死んだ。その事実だけだよ」
「そんなことが……」
「あいつの絵に、特別な力など無い」
ペドロ様はなんて事ないように吐き捨てるけれど、ローランド様の気持ちを思うと、胸が絞られるように苦しくてたまらない。
どれだけ自分を責めたのだろう。そして今もきっと、責め続けている。だからローランド様は――
「……すごい顔」
「えっ」
「心配してくれているんだね、ローランドのこと」
知らぬ間に心の内が顔に現れていたようで、私の顔はぐちゃぐちゃで。それを見たペドロ様の声が、やっと柔らかいものへと戻ったのが分かった。
「ありがとうソニア君。これからもずっと、そうやってあいつのことを気にかけてやってくれるかい」
「ずっと? でも、私は」
私は、期間限定の存在だ。人物画の制作に悩むローランド様が、描けるようになるまでの練習台に過ぎない。
ローランド様は、少しずつではあるけれど私の姿を描こうとしていた。いずれ、気負うこともなく人物画も描けるようになるだろう。
「私は……ただのモデルなので」
彼が無事に人物を描けるようになってしまえば、私も晴れてお役御免だ。
恥ずかしい姿を描かれることもなくなるし、描かれることが無いのであれば、ローランド様から観察される毎日も終わりを迎える。きっとシェリル様からの嫌がらせだって収まるだろう。良いことばかりだ。
ローランド様には、どうか過去を乗り越えてほしい。それは間違いなく私の本心であるはずなのに。
その時を迎えることがなぜか寂しいような虚しいような、この気持ちは何だろう。
「ソニア君が、ただのモデルなわけないでしょう?」
言葉に詰まって俯いた私の頭を、ペドロ様が優しく撫でた。
「君はローランドにとって、ただ一人のモデルだよ」
「ペドロ様……」
少しあたたかい手の重みに、自然と心は凪いでゆく。
そんな時、目の端へ映る人影に私は気付いた。
咲きほこるバラの向こうには、こちらを見るローランド様の姿。
彼の顔は、いつに無く険しかった。