安全地帯に逃げ込んで
次の日。空はあいにくの曇り空だった。
私は手に小さな鉢植えを抱え、アトリエへ続く通路を歩く。
白い鉢には、青く可愛らしい小花が揺れている。街の花屋で、ローランド様と一緒に選んだ花だ。
昨日、私達はカフェを後にすると、ペドロ様のメモに書いてあるとおり花屋へ向かった。
頼まれていた花は、どうやら『アトリエに飾るため』のものだそうで。いつもアトリエに花など置いていないのに、わざわざとって付けたような理由である。
指定された花屋はカフェから少し歩く距離にあって、私達は先々で店を眺めながら通りを歩いた。ペドロ様のご期待通り、まるでデートのように。
そうして辿り着いた花屋は、白を基調とした店内に淡い色の花が並べられた、これまたロマンチックな店だった。恋人達になら、ぴったりの場所だ。
なぜ、ペドロ様があんなにも女子ウケの良いお店をご存知なのか、本当に謎で。これにはさすがのローランド様も『ペドロはなぜこの店を……?』と不審がっていた。その違和感は正解である。
場違いとも思われる私達は、夢のように繊細な花が並ぶなかで、目移りしながら花を選んだ。なるべく長く楽しめるようにと、店員から勧められたのは小花の鉢植え。澄んだ青い色は、ローランド様が選んでくれた。
そして帰り道、ずっと重いコーヒー豆を抱えたままのローランド様に申し訳なくて、『鉢植えくらいは』と花の鉢は私が持ち帰ったのだ。
(アトリエのどこに飾るのかしら)
やはり窓際の棚だろうか。あそこなら陽当たりもばっちりで、花の青が良く映える。私も時々手入れしに来て良いだろうか……そんなことを考えていたら。
「あら、ソニア」
私の行く手を塞ぐかのように、前方には先輩であるシェリル様が立っていた。花に浮かれ、まったく気付くことのなかった私は、思わずぴたりと立ち止まる。
「お気楽なことね。仕事もせずにローランド様のところへ入り浸って」
「……今は休憩時間をいただいております」
「私達の言いつけた仕事も、全っ然やっていないようだし」
「そのお仕事は、マルガレーテ様にご相談させていただいてよろしいですか。……失礼いたします」
嫌がらせには反応するだけ無駄だと悟ってから、彼女との接触は必要最低限にしていたのに……わざわざこのような場所で私を待ち伏せるなんて。
シェリル様はここぞとばかりに攻撃的な態度で、じわじわとこちらへ近付いてくる。私としては関りたくは無くて、足早にシェリル様の隣を通り過ぎようとした。
「お可哀想に」
一刻も早くその場から去ろうとする私の背に向かって、彼女は憐れむように呟いた。私にはその言葉の意味が分からなくて、つい後ろを振り返る。
「可哀想……?」
「ええ、可哀想よ。ローランド様のモデルになって、いい気になっている貴女がね」
「いい気になんて、なっておりません」
「そうかしら? パッとしない貴女だもの。たまたまローランド様の気まぐれで特別扱いされているだけなのに、調子に乗っているのではないかしら?」
私を見透かすようなシェリル様の言葉が、浮かれた胸にグサリと刺さる。
いい気になんてなっていないし、調子に乗ったりもしていない。けれど、ローランド様からの特別扱いに、居心地の良さを感じ始めていたのは確かだった。
たまたま。気まぐれ。
そんなことは分かっていたはずだった。なのに、抱えた小花はふるふると震える。
「私、最近いいことを聞いたの。あなた、なぜローランド様が人をお描きにならないか知っていて?」
「……筆が、進まないと」
「そんなもの、建前よ。本当の理由、教えてあげる」
(本当の理由……?)
私の身体は硬直したまま、なぜか立ち去ることを止めてしまった。ローランド様の事となると、とても無視はできなくて。
シェリル様は、この上なく楽しそうな表情を浮かべたまま私の肩に手を置くと、その歪んだ唇を耳元に寄せた。
「ローランド様が描いた人物は、呪われて死んでしまうんですって」
耳に吹き込まれた囁きは、聞くに耐えない。
「やめて下さい!」
我慢できなくて――私は、シェリル様を振り払った。
そのはずみでよろけた彼女は、白い石畳の上へ大袈裟に倒れ込む。
「痛いわね、何すんのよ!」
「すみません……ただ、酷いです。そのくだらない噂」
「だって、描かれた人が実際に死んでいるもの」
「……作り話が過ぎるのでは?」
「怖いのね。でも事実よ。ローランド様が貴女なんかをモデルに選んだのは、死んだってどうでもいい人間だからよ!」
信じない。こんな人の言うことなんて信じない。
けれど彼女の言葉が、どうしても胸に突き刺さる。
「そんなのは嘘です!」
勝ち誇ったようなシェリル様を背に、私は走った。
一刻も早く彼女から離れたくて。そしてなぜか、無性にローランド様に会いたくて。
私は安全地帯へ逃げ込むように、アトリエの扉を開いたのだった。
アトリエへバタバタと転がり込んだ私を見て、ローランド様は目を丸くして立ち上がった。
「どうした!? 何があった」
「な……なんでもありません、早く、ここに来たくて」
鉢植えを抱えたまま息を切らす私は、きっと『なんでもない』なんて風には見えないだろう。彼の心配げな顔が、それを物語っている。
ローランド様は鉢植えを受け取ると、私の乱れた髪をそっと直した。
「なぜ、こんなに急いだ?」
「は、花をお持ちしようと」
「――ああ、すまない。あそこに飾ろう」
ローランド様は二人で選んだ花を、窓際の棚へコトリと置いた。
棚に影を作るその鉢植えは、不思議なほどにアトリエに馴染んで。陽射しを浴びて輝く花を見ていれば、自然と気持ちは落ち着いた。
油彩の匂い。しんとした部屋には、小鳥のさえずりだけが響く。
ここはローランド様の聖域。
じわじわと、心が解けてゆく。
「……私も、飾るならこの場所が良いのではと思っておりました」
「そうか。気が合うな」
そう言って柔らかく微笑むローランド様が、花よりも眩しく見えて。
(たまたま、気まぐれ……)
私は思わず目を逸らした。