お揃いのカップ
私とペドロ様は、物音ひとつないアトリエへそっと足を踏み入れた。
誰もいないのではないかと思われるくらいシンと静かな部屋の片隅、そこにはやっぱりローランド様がいて。彼は大きな窓のそばに椅子を置き、頬杖をついている。
窓のすぐそばには美しい薔薇が咲いているというのに、彼の目は遠くをさ迷っているようだった。遥か遠く、雲の流れを見つめるそんな様も絵になってしまうほど美しくて、私は思わず見とれてしまった。
(本っ当に綺麗だわ……)
そういえば、初めてここへ来た時も、こうして戸口からローランド様の姿に見とれたのだった。アトリエの中央で光を浴びる彼の神々しさを、まるで一枚の絵画のように思ったのだ。
あの時は、すぐに気づかれたけれど――
「誰だ」
今日も、声をかけるより先に気づかれてしまった。もう少し眺めていたいくらいだったのに。
「あ……こんにちは。ソニアです」
「ソニア! もう具合はいいのか」
「はい。ローランド様、先日はありがとうございました」
ローランド様は私の姿を見た途端、ガタリと椅子から立ち上がり、あわててこちらへとやってきた。大袈裟なくらいの対応に、私としては困惑してしまう。
「まだ安静にしていたほうがいいんじゃないか。マルガレーテ様には、君の病状を伝えておいた。仕事のことなら何とかなるだろう」
「そんな……ただの疲労でしたから、もう大丈夫ですよ!」
「疲労を甘く見てはいけない。現に、先日の君は動けないほどだった」
本当に大丈夫なのか、と言わんばかりに、ローランド様は私のことをまじまじと観察している。表情や顔色はともかく、つむじからつま先まで観察されている気がして、なんとなく落ち着かない。どこかに身を隠したい。
「お、大袈裟ですよ。私、基本的に丈夫なタイプなんです。だから……」
「だから自分を過信する。やっと気がついた時には自力で立ち上がることすら出来なくなる。それでは遅い」
「うっ……」
ぐうの音も出ないほど論破され、私は反論もできずにうつむいた。
確かに私は、自分の体力を過信する傾向にある。今回も、多少無理をすればなんとかこなせる仕事量であったから、『できる』と思い込んでしまったのだ。
それがとんでもなかった。無理に無理を重ねた私の体力はいつの間にか消耗され、底が尽きかけていた。自分でも気付かないうちに。
そこをローランド様に助けていただいたのだ。あれだけ迷惑をかけておいて、反論している場合では無い。
私は改めて反省をすると、彼に向かって深々と頭を下げた。
「ローランド様のおっしゃる通りで、何も言えません」
「そんな顔をするな。俺が言いたいのは、無理をするなということだけだ」
やさしい言葉に顔を上げてみると、ローランド様は本当に心配そうな目で私を見下ろしていた。
……と思ったら。
突然、その手を私のおでこへと当てた。
「!?」
ヒヤリとした彼の手が、ぺたぺたと、私のおでこと頬を行ったり来たりする。もしかすると、これは……
「熱は無い」
「は、はい。私、熱はありません!」
「ふらつきは」
「フラつきもありません!」
(なに? なにごと?!)
おでこに触れた彼の手は、どうやら私の熱を確かめていたらしい。まだ私のことを疑っているのか、異常なほど念入りに体調をチェックされている。
いきなり顔に触れられた私は、その意図がどうであれ硬直してしまっていた。男性に、顔を触られるなんて初めてだ。……父以外では。
「こら。ローランド、やめなさい」
そんな時、アトリエの入口から、助け舟が入った。
ローランド様の両手に顔を挟まれたまま固まっている私を見かねて、ペドロ様が止めに入ってくれたのだ。姿が見えないと思ったら、どうやら隣の休憩室でコーヒーを淹れていたらしい。彼の手には、カップが三つ。
「女の子の顔は、簡単に触っちゃいけないよ。ソニア君が困ってるでしょ」
「……そうだな、すまない」
「ソニア君もごめんね。ローランドはちょっと人より心配症なだけなんだ」
「い、いえ……」
ペドロ様の登場で、私の顔からローランド様の手が離れていった。かわりに、彼の手にはペドロ様のコーヒーが乗せられる。
(ペドロ様ありがとう! 助かった!)
「はい、ソニア君にも」
「ありがとうございます」
私にも、コーヒーのカップが渡された。白地に銀縁の、かわいらしいカップだ。以前ここにお邪魔したときには、このようなもの無かった。これは――
「かわいいでしょ。それ、ソニア君用に買ったんだ」
「もしかして、私のために用意して下さったのですか?」
「そうだよ。ローランドが金縁で、ソニア君のが銀縁。おそろい!」
ペドロ様はわざわざ、私とローランド様のカップを、色違いのおそろいにしたらしい。それだけで気恥ずかしくなった私は、ごまかすためにコーヒーをグイっと飲んだ。見た目通り、死ぬほど甘い。
「せっかくカップ用意したんだからね。ソニア君、これからもたまには来てね」
「……用が無くても、ここへ来ていいんですか?」
「別に、来たい時に来ればいい」
(来たい時に……)
ローランド様もペドロ様も、当たり前のように私の席を用意してくれる。
画家でもなんでも無い、ただのモデルである私のために。
(来たい時に、来ていいんだ)
静かなアトリエに、甘い香りが立ちこめる。
銀縁のカップが愛おしくて、私の緩んだ頬は戻ることが無かったのだった。
いつも読んでくださりありがとうございます。
誤字報告、反映させていただきました。
毎日のように申し訳ないです!