決して、絵のせいじゃない
ペドロ視点のお話です。
「聞いたよー。ローランドとソニア君、ついに恋仲になったって」
アトリエに入るなり、僕はローランドをからかった。
部屋の中央で椅子に腰かけていた彼は、こちらを一瞥すると面倒くさそうにため息をつく。
「そんな話、どこで聞いた?」
「どこで……も何も、皆言ってるよ。中庭で、なんか派手なことをしたんだって?」
「そうか。暇な奴らだな」
彼をからかうのはおもしろい。ソニア君との噂を面倒くさそうにしながらも、実は満更でもないらしいのが、手に取るように分かるから。
寄ってくる令嬢達にはあれだけ冷たいにも関わらず、なぜかソニア君にはそれが無い。
ローランドは彼女のことを『普通で描きやすそうだ』などと言っていたが、美女を視界に入れようともしない彼の『普通』とは、一体何だ。その『普通』こそが、ローランドの『特別』なのではないだろうか。
僕には分かる。長年の付き合いを侮ってもらっては困るのだ。
「ねえねえ、昨日ローランドとソニア君に、一体何があったのさ」
「大したことじゃ無い」
「教えてよー」
「しつこいな」
しつこいと言われても構わない。僕はしぶとく食い下がった。
広大な王宮で、これだけ噂になっているのだ。王宮内でポツンと浮いている、僕の耳に届くまで。そんな事件が、大したことじゃ無いはずがない。
あまりにもしつこい僕に、ローランドはハァ、と大きなため息をついた。これは僕のしつこさに諦めた顔だ。いつものことである。
「……昨日ソニアが、中庭で青い顔をしていたんだ。だから寮まで送っただけだ」
「えっ、ローランド一人で?」
「そうだが」
「女子寮だよね?」
「そうだが?」
ローランドが真顔で返事をするものだから、僕も思わず真顔になる。
よくよく詳しく聞いてみると、彼はソニア君を抱きかかえたまま、女子寮へと送り届けたらしい。
(あらまあ……)
噂になって当然だ。視覚的にも噂になる素質抜群だ。
「ソニア君は大丈夫なの?」
「彼女はずっと寝ていた。夕方まで部屋で休ませたら顔色は幾分か戻ったが」
「……ローランド、まさか夕方までずっとソニア君に付いていたの?」
「そうだが」
「女子寮なのに?」
「そうだが?」
僕は開いた口が塞がらなかった。
さらに問い詰めてみてみれば、彼はソニア君の部屋にまで入ったらしい。そして彼女の目が覚めるまで、女子寮で付き添っていた。何度も言うが、噂になって当然である。
本当に、そこまでしておいて気づかないものなのか。その行動は、まるで……
「なんだ?」
「いや……ローランド、君は熱い男だったのかもしれないね」
「なんのことだ」
本人には、やはり自覚が無いらしい。
相変わらず彼は真面目で、ズレている。思わずソニア君に同情した。目が覚めたら部屋にローランドがいるなんて、さぞ驚いたに違いない。
「……ソニアが、最近忙しそうにしていただろう」
「ああ、そうだね。ずっとバタバタしていたね」
「彼女は口に出さないが、どうやら嫌がらせを受けていたらしい」
「なるほどねー」
ソニア君本来の仕事は、マルガレーテ王女のお世話をすることであるはずだった。
それがここ最近は、別棟の掃除に走ったり、荷物の運搬をしていたり。挙句の果てには庭師の真似事のようなことまでさせられていて。
ローランドのアトリエにもパッタリ来なくなってしまっていた。せっかく、ソニア君が気兼ねなく来れるよう、彼女用のカップを用意したのに。
「酷いもんだね」
「そうだろう」
「嫌がらせっていうのは、やっぱりあの侍女達から?」
「おそらく」
何かおかしいと思っていたら、そういうことだったのか。
嫌がらせをしていたのは、十中八九あの侍女達だったのだろう。ソニア君にとっては先輩であり、ローランドのアトリエへ突撃しては居座り続けた彼女達。このあいだなど『調子に乗らないでよね』と、悪役さながらの捨て台詞を吐いていたあの――
「マルガレーテ王女には、きつく直談判しておいた」
「えっ!」
「あんなものは、管理者の監督不行届だ。十五歳といえど、王女には彼女達を統べる責任がある。様子のおかしいソニアを、なんとも思わなかったのかと」
ローランドは、予想の斜め上を飛び越えた。
当事者である侍女達に圧力をかける……くらいはやってのけると思っていたが、まさかマルガレーテ王女に直接物申しに行くなんて。
婚約者でも、恋人でもない、ただ、絵のモデルのために。
(一体、ローランドはどの立場からそんなことを――)
僕は、彼の盲目ぶりが恐ろしい。
「そ、そうなんだ」
「遠くから観察しているだけの俺でさえ、ソニアの異変には気付いていた。なのにマルガレーテ王女が気づかないはずがないだろう。気付いて尚、小賢しい女狐どもを放置していたというのなら、それは王女の怠慢だ。なんなら王にも直訴しよう。王宮内で、このような嫌がらせが横行していると」
「ちょちょちょ、ちょっと、落ち着いてよ」
「落ち着けるものか。本当は俺のせいなのに」
ローランドの本心が、僕と彼の言葉を止める。
アトリエに、静寂が訪れる。
「……俺が、ソニアをモデルにしたせいだ」
「待ってローランド。ソニア君の件は、どう考えても嫌がらせをした侍女達が悪いだろう」
「しかし原因は俺にある。やはり俺が人を描くと不幸になる」
「ローランド!」
俯いたまま独り言のように自嘲するローランドを、僕は強く揺さぶった。
「いいかい。確かに嫌がらせの原因は君にあるだろう。けれどそれは、君があの侍女達を邪険にしたからだ。そして侍女達がソニア君に嫉妬したからだ。君の絵は関係ない。絵のせいにするのはやめてくれ」
ソニア君と出会い、観察を始め、少しずつデッサンを描き溜めて……もう彼の傷は癒されたものだと、うっかり誤解しそうになっていた。
しかし、そんな簡単なはずもなかった。ローランドの奥深くに眠ったままのトラウマは。
「いや、俺のせいだ。きっと俺の絵のせいだ」
「違うぞローランド。君の絵は、ただの絵だ。誰かを不幸にするなんて、そんな力は無いはずだ」
「しかし実際、ソニアはあんなに青い顔をして――」
昨日のソニア君を思い出したのだろうか。ローランドの肩が、ブルリと震える。
(ローランド……君は)
彼はずっと、苦しんでいたのだろうか。ソニア君と会うたびに、デッサンをするたびに。人を描く恐怖に、それでも描きたい気持ちに。
「――絵を描いただけで、人は死なないよ」
「なぜそう言い切れる」
「あの時だって、ローランドのせいなんかじゃ無かったからだよ」
僕があの時のことを口にすると、彼はやっと顔を上げる。
見えない力に怯えた紫の瞳が、僕の顔を映す。それはあの日と変わらない――
ローランド。
そんな目をするな。自分の絵を責めるな。
決して、君の絵のせいじゃない。