雨傘ホウセンカ
前に投稿したものを統合して、少し直しました。
001
雨傘美寿を物に例えるならば、有刺鉄線だ。
牧場などで見ることのできる、敷地を区切ったり保護したりする時に使われる。
人を立ち入らせない。そこに向かえない。そこは自分のテリトリーではないと明白に示される。
徹底的で簡潔。
人物を例えるにしてはあまりに尖ってる表現だが、例え彼女の髪の毛が針金で構築されていると言われても僕は、驚かない。
むしろ納得してしまう。それ程に、彼女は来るもの全てを拒み、傷付けている。
彼女は、この高校2年の夏休み前まで欠席も早退無いし(皆勤賞を拒否していたと噂で聞いた)、成績だって上位に位置している。黒板の横にひっそりと貼っている前回のテスト表では堂々の1位である。
正に優等生。
僕のような人間は、成績で言うと中から少し下程度の人間は、彼女のような上位者を畏怖するものだ。あの人は自分とは何かが違うと思い、無意識に距離を置くようになったりする。自分よりも優れた人間が近くに居ると自分の存在が小さく見えてしまう事もあるので、防衛本能の一つだろう。
そのような人物の周りには人が集まり辛くなるか、その逆に大勢に囲まれるかのどちらかで、それはその人物の人柄によって決まるだろう。
雨傘美寿は前者である。
彼女はその棘のある性格のせいで、周りには人が寄り付かないーーどころではない。僕は雨傘と一年生の時も同じクラスだったが、僕は彼女が誰かと会話をしている所を見た事がない。
もちろん、授業中などに教師に指名された時にはそれなりの対応をするし、グループディスカッションがある授業ではグループトークに参加するが、自分の意見を出す順番が来るまでは何も言わず順番が来たら来たでそれはとても機械的に、何か決定打になるような事は決して言わない。
言葉のボールを横流しする。それはとても会話とは呼べないだろう。
もっと具体的に言うと彼女が放課中に誰かと談笑していたり、誰かと登下校を共にしている場面を見た事がない。彼女はいつもスマートフォンを見るか、机に向かって予習か復習をしている。
しかし実際のところ、一日中彼女を観察している訳では無いので、もしかしたら僕の知らない目の届かないところで他人との交流はあるかも知れない。
だが、彼女は今の今まで誰とも人並みの会話をした事がないと言われても、僕は信じてしまうだろう。
こんな事があった。
入学式直後、女子のクラスメイトが雨傘に連絡先を尋ねたところ「私、携帯電話持っていないんです」と、右手に持ってきたスマートフォンを見ながら応えたのだ。ナンパ話を断るように。
それが発端となり彼女は皆に"扱いにくい人"のレッテルを貼られ、その後も数多くの棘棘しいエピソードを生み出していく。そんな彼女に寄り付く物好きな人間も居るには居たが、その面々も遂には根絶し彼女は、雨傘美寿は、一人になってしまった。
孤独、孤立、孤影。一人ぼっち。
誰も彼女のテリトリーに入れはしない。
僕は彼女を可哀想だと、微塵も思っていなかった。
002
「それで?神崎君はどうしたいの?」
「どうしたいって、どうもしないよ。ただ、折角の高校生としての生活をあんな形で過ごしているなんて勿体ないなぁ。と思って」
「なるほどね。私のクラスでも雨傘さんは有名だからね。悪い意味で、だけど」
「何か事情とかあったりするのかな」
「うーん。最初は皆そんな事を考えていたけど、話し合っていたりしたけれど、今は誰も深くは追求しようとしてないね。触れたくないって感じだよね」
「やっぱりそうだよなー」
「何かあった?」
「いや何も。本当にただ気になったから、雑談感覚で話しただけだよ」
「だめだよ神崎君。勝手に他人を話の出汁にしたら。・・・でも、それで言うと神崎君も、折角の運動神経を全く高校生しての生活で活かしてないよ?それはそれで勿体無いんじゃない?図書委員なんて、体が鈍っちゃうよ?筋肉は使わないと一日1%ずつ減っていくんだから。」
「へぇ、確かに少し太った気がしないでもないような。食べる量が変わらないどころか増えたのに、全くと言っていい程に運動してないな。最近」
「そうそう。運動部上がりの胃袋以上に恐ろしいものはないよ。生活習慣病になって本当、早死にするよ?」
「僕はまだそんな歳じゃない。若いからまだ大丈夫だ。その筈だ。恐らく、多分、maybe」
「急にアルファベットを並べないで。混乱しちゃう」
僕の雑談に付き合ってくれているこの返却カウンター手前の椅子に座りながら画集を眺めている彼女は鳥生天音である。
小学校からの付き合いで、中学校も一緒。
現在、友達と呼べるのは彼女ただ1人である。とても貴重で貴重な存在。『僕の友達』という絶滅危惧種。
僕とは対照的に社交的な彼女の周りには常に何人かの生徒が集まり、今のように隣にいるのが僕1人だけという状況は珍しい。
図書室なのでそれは当然かも知れない。この部屋でわいわいと賑やかにやられてしまったら他の生徒に迷惑だ。
しかも本人によると、彼女は高校生にも関わらず、思春期にも関わらず、何と男女同じ数だけの友達がいるのだと言う。更に、それは決して均等を狙ったものではなく偶然だと。
凄いだろ、僕の友達。
彼女のお陰で、僕は今まともに生活できていると言っても過言ではない。彼女が居なかったら僕は高校を受験する事さえしなかったのだから。
あの家から出ることもなかったのだから。
お淑やかな性格で会話の調子も合う。好きな食べ物も映画も漫画もテレビ番組も大体同じなのだ。
いや、彼女の幅広いインドア趣味の中に僕が好きなものがいくつか含まれている、と言った方が適切だ。
映画、アニメ、漫画、小説、洋楽、邦楽。
僕が知っている物は彼女も大抵知っている。
それに加えて料理だったり、刺繍だったり、エトセトラである。
趣味コレクターである。
『多趣味』という言葉は彼女がいたお陰で生み出されたのだろう。
感謝しろよ。多趣味。
「何か今、過言なこと考えてなかった?」
「いや?全然」
「そっかそっか。さっきの話に似てるけどさ、神崎君って体育の時間に・・・何て言うかあんまり実力を出してないよね。あれも勿体無いと、私は思うよ?」
「いやいやそんな事はない。僕はいつも全力だよ」
「前にちらっと見た方があったんだ。教室で授業受けてたら、神崎君がやる気を出している風な顔をしながらやる気を出していない顔をしていたところ」
「ややこしい言い方だな。でも、まぁ、うん」
「ふふ、そんなに目立つのが嫌なの?それとも格好つけてるの?全力で取り組んだ方が良いのに。本当、運動部に入れば良かったのに」
「僕はアスリートになれる程の才能も実力も無いし、それに体育の授業は皆でやるもんだろ。例えばサッカーにしてもバスケにしても、得意な奴が一人で何得点も決めても協調生が無いと評価されるし、実力を抑えないままにチームプレイに徹してもそれについて行けない生徒も出てくるだろ?だから、ほら・・・。無難が一番ってことだよ」
「そっか。優しいね神崎君。」
「これは優しいとは別物だよ。それで言うと、お前はお前で高校生活を満喫しているとは言えないんじゃないか?折角、僕と違って友達が大勢いるんだからもっと部員数の多い、もっと誰かと関われるような部活の楽しいんじゃないか?」
「他の部活って、例えば?」
「それこそ運動部とか、軽音部とか、何かそういう、光が当たり易い部活だよ。趣味が増えるかも知れないじゃないか」
「うーん。私も神崎君と一緒でさ、目立ちたい訳でもないし。運動は得意じゃないし、ピアノは弾けるけど、軽音部ってギターとかベースとかドラムが主流じゃない?でも、だからって図書委員が消去法って事でもなくてね、私は読者も趣味の内の一つだし、そもそもインドア派だからね。それにね、神崎君。」
彼女は身体をこちらに向き直し少し前屈みになって言う。
「私は楽しいよ。今、とても」
弾けるような笑顔。頬が艶々である。
「そっか。なら良かったよ」
ただ1人の友達が高校生活を楽しんでくれているようで僕は大変満足だ。
それにしても、と思う。小学生の頃は同じような雰囲気だったのに、いつの間にか差が開いた。知っている事も人間力も。嫉妬もしないし悔しくもない。むしろ友達として嬉しい限りだ。
人間関係の中で、優先順位というものは確かに存在する。口には出さないが、それは明確にそこにある。そこから見た時、観察した時に鳥居の中での僕の優先順位はどれ程なのだろうか。
もう、だいぶ下がってしまったんだろうなぁ。
「神崎君」
「はいはい」
「雨傘さんのこと好きなの?」
「・・・なんでぇ?」
変な間に変な話し方をする僕。これは図星だからではなく、唐突に思ってもみなかった事を言われたからである。
いや本当に。本当だよ?
これがあれか、恋バナか。すげぇ。恐らくはまだ序盤も序盤だろうが少しドキドキする。
「いや、日頃から何となく思っていた事を言ってみただけだよ」
「雨傘さん、可愛いもんねー」
鳥生の口角が少し上がって、細目が僕を向いている。
「スタイルは良いし。あのロングの黒髪のキューティクルはどうなっちゃってんのって位引き締まって、光の輪が常に見えてさ。肌なんか、光がそのまま通り抜けてるくらいに白くてさ。何より顔が綺麗。うん。正に天からの贈り物って感じ」
「ああ、まぁ・・・確かに。この学校でも、いやこの地域でも中々の逸材だとは思う。」
「神崎君さぁー、今まで何人の人が彼女の前に立ち、そして散っていったと思ってるのー?んー?」
「散ったって・・・」
「お姉さんが忠告してあげる。やめときなっ・・・さい!」
頬を人差し指でグリグリされた。本当に姉みたいだ。
「お前は同級生だろうが。それにそんな気は無いよ。本当に何となく」
「そっかそっか。でも珍しいなとは思ったよ?」
「そんな時もあるのさ。それが人生だ。小娘」
「同級生でしょ。あ、もうそろそろ閉めの準備しないとだよ。」
「お、もうそんな時間か」
「早いね」
「だなー」
おふざけモードは終了。部活動が終わる時間になったので僕達も帰宅の準備に入る。
自分で言うのも憚られるが、僕は割と人助けに前向きな性分だ。しかし、鳥生にも知られている通り僕は目立つのを嫌う性格でもある。
人の目があると行動を制限されるのだ。
悪事を働きたい訳ではないが、取るつもりもない選択肢があったとしてもそれは残しておきたい。
欲張りと言えばその通りである。
(例1)電車で妊婦や老人に席を譲りたいと思っても、声を掛けて周りに僕が席を譲ったと察知されたく無いので降りる予定でもない駅で降りて席を開けたりしてしまう。
(例2)押しボタン式の信号で戸惑っている外国人旅行者を見かけた場合、その渡るでもない信号の押しボタンをわざとらしく押し、渡る。
(例3)倒れている自転車を周りに人が居ないか入念に確認し、起こす。
他にも細かいことを挙げたらきりがないが、これは決して優しさや親切心ではない。罪悪感を抱くのを恐れての、自分が後悔するのを防ぐ為の行動だ。
自分がその行動を取らなかったら誰かが負担を背負うのではないかと。それが想像し易ければしやすい程、僕の心は騒つく。
もし助けを求めてくれたらどんなに楽かと思う。
しかし雨傘美寿の場合はーー違うだろう。
自分から周りを拒絶しているのだ。その当然の結果として周りも彼女を避けるようになった。彼女は自らその環境を作り出したのだ。
もし彼女のような生活を真似してみろと言われれば、大勢がそれを拒むだろう。親密な関係を誰とも築かないどころか、敢えて軋轢を生み、関わった全員から疎まれる。そして毎日休まず登校する。
自らアウェイな環境を作り、そこで週5日の大半を過ごす。
普通に考えて常軌を逸している。一般的な高校生はそんな所に週5日も通うなんて事はできない。
しかし、それはあくまで僕の視点から見た場合の評価だ。彼女がそれで良いなら、それを望んでいるならそうさせれば良いだけ。
人はどんな環境に置かれても、大抵はすぐに慣れてしまうものだ。
僕も、鳥生も、他の生徒も、もう雨傘という存在に慣れてしまっている。
彼女と関わらないこと、それが自分が嫌な思いをしない唯一の方法だと認知している。それは少なくとも同じ学年の間ではもう浸透しきって、彼女を扱わないという扱いに、もう皆は慣れてしまっている。
そして、慣れというのは簡単に外部的要因によって覆るものである。
いつも購入していた牛乳が突然生産中止になり、他の物を買わなくてはいけなくなったり、いつも通っていた道が、区画整理や工事によって通行不可になったので他のルートを選んだり、勤めている会社が倒産したので転職したり。
僕にもあった。日常の路線が変更されることが、つい最近。
施錠当番の為、最後に図書室を出るのは僕一人である。
「神崎透さん」
階段の踊り場で脳の奥に響く声質を少し懐かしくも感じた。少し低音の、澄んだ、よく研がれた様な声。
「待ちました」
そんな台詞を、まさか彼女から聞けるなんて。言うなんて。少し高揚している自分に気が付いた。
彼女の目線が誰かと合ったのは、いつ振りなのだろうか。
僕とは2日振りだ。
003
毎週土曜日、姉のお見舞いを終えた僕は病院の近くの公園で少し休むことにしている。
身体ではなく、頭と心を休ませる為に。現実から少しだけ目と意識を逸らす為に。
何か問題に対しての思案する時間必要なら、それについて何も考えない時間も必要だろう。しかし何も考えないようにと考えている時点で、それはもう考えてしまっている。何も考えていない状態とはそのことすら頭から離れているーーしんどい。頭を空っぽにしたい。
昨今の"子供への配慮"のお陰で遊具が殆ど撤去された、ベンチくらいしかないこのだだっ広い公園では、ボール遊びも、縄跳びも、ペットの散歩も禁止されている。
休みの日だと言うのに元気なわんぱくキッズは影も見せない。テレビなどで見る昔の遊具は危なかしいものばかりで、しかしそれで遊ぶ子供は本当に楽しそうだった。だからといって怪我に配慮しなくて良いということにはならないけども。気軽に運動する場所が少なくなってるんだから、そりゃ『よく転ぶ子供』が増える訳だよなぁ。
そんな社会情勢に切り込みを入れる考えを構築しようとしていたその時である。
上から見て、束の広い帽子、サングラス、マスク、薄ピンクのパーカー、黒のトートバッグ、手袋、薄ピンクの下ジャージ、黒の靴下、スタイリッシュなスニーカー。
一見すると、紫外線カットに徹底的な婦人に見えるが、見覚えのあるーーどころか平日なら必ず一度は見る事になる、あの髪。
彼女は一体どんなヘアケアをしているのだろうか。
僕も髪は短い方では無いが、あの量と長さであれだけのキューティクルを保つと言うのは、並大抵の事ではないだろう。
髪が揺れる度に、白色でもなく、銀色でもなく・・・光色?夏の強い日差しのせいもあってか、とんでもない反射率になっている。
って雨傘美寿じゃん!え、外出するの!?いや、当たり前か。学校で見せる姿がその人の全てだと思うのはナンセンスだ。ていうか外で見てもスタイル良っ!顔の輪郭だけでも美人って分かるぞ。てか服ださ!何だあのお洒落を度外視したUVフルパワーカット装備は。女子高校生だろう!
深呼吸。
落ち着け。あまりにもイレギュラー過ぎて少し興奮気味になっている。彼女の家はこの近くにあって、何か買い物の帰りかも知れない。
買い物ごときに服を選ぶ手間を掛ける必要も無い。
強要もできない。
別に良いじゃないか。
いや待て、この地域には僕が通っている高校とは別の高校がある。
学力も同じ位だし、校舎は向こうの方が新しい。雨傘が中学生の時の学力は知らないが、向こうの方が家から近いなら僕と同じ高校を選ぶ事はない。
考え過ぎか。でも何か事情があるかも知れない。そもそも電車通学の場合、登校時間はそこまで変わらないだろう。
結果、僕は彼女を尾ける事にした。僕はもう高校生なのでギリギリ逮捕されるかも知れない。
これは、彼女の学校での振る舞いからくる印象を払拭するような何かがあるのかも知れない。裏では別の人間らしい一面を見せているのかも知れないという、人の色んな面を見たいという僕の欲求と、そうであって欲しいという願望が込められた不純な行動である。
結論から言うと、新たな一面を見る事には成功した。そして感想を言うと、決して良い気分になるものではなかった。
公園から見かけた時から一時間ほど歩き続け、彼女はもう何年も手入れがされていない風な神社に入って行った。
生い茂った竹が日差しを殆ど塞いでいる。苔が生え放題だ。
鳥居を潜る時に礼をしていないのを見ると、どうやら熱心に何かを神頼みしている様子でも無い。彼女は参道の真ん中を歩き、賽銭箱の裏に周り、そのまま拝殿の扉を開けて中に入ったのだ。
いや駄目だろ。
ええ。そこって確か入っちゃ駄目だよね。
何かそう教えられた覚えはないけど、日本国に生まれて育ってきたならそう思うよね。普通。
慌てて拝殿扉の前まで小走り。外壁に吸い付くようにぴたりと背中を合わせる。暗がりの中ーー当然、中には雨傘が居た。
そこからはまるで練習していたかのように素早く事が運んだ。
雨傘は既に下着姿になっており、恐らく衣類が入っているであろうトートバッグは彼女から一番離れた所に位置しており、視線を戻すと彼女は立ったまま、膝を伸ばしたまま大きく腰を曲げて壁に手を付いた。
彼女の意外とスポーティーな肉付きが織りなすボディラインとか、暗がりでも分かるほど透き通る肌質とか、今の服装とか、興奮するしかないような姿勢とか、普通はこれを見た思春期高校生は涎を垂らすのだらうが、僕が見ていたのはそこではない。
彼女の左手に持たれてある小型のナイフ。果物ナイフ?家庭用のーー
まるで流れ作業。ひとつの躊躇もなかった。
彼女は首の側面に刃を押し付けると勢い良く振り抜き、傷口が完全に開く前にナイフを右手に持ち替え、反対側の側面にも同じ事をしたのだ。
雨樋を落ちる豪雨の様にに流れる血液。
それが床に垂れる音がした少し後に鼻をついた鉄の匂い。
時間にして30秒弱だろうか。僕はただ口を開けていた。目の前の光景を処理する為の脳の機関がストップしている。
どしゃっ。鈍い音が僕を現実に戻し認識する。確認する。
扉を開け、倒れている彼女の元に駆け寄り、羽織っていたシャツを彼女の首に当てたがーーここまでだ。
思考が追いついて来ない。
ここからどうすればいい。何をしたらいい。
切ったのか、ナイフで。
彼女は自分の首を切ったんだ。
自殺?
何で?
ここで?
彼女は目を瞑っている。
意識がない。
死ーー
「きゅ、きゅきゅきゅ、救急車ぁ!よ、呼ぶから!いま!呼ぶっから!スマホで、あれ、どこだ!」
血塗れの手でスマートフォンを取り出しロックを解除。できない。震えて上手く操作できない。
激しく鼓動を繰り返す心臓と喉を一杯に広げて行われる呼吸の音。
確か、そうだ。救急の電話はロック画面からもできる。
「今呼ぶから!頑張れ!」
救急車って119だよな。そうだよな。
ああ。くそ。血が画面にもべっとりと付いてうまく液晶が反応しない。
指が滑る。
手が震える。
喉が乾いて息をする度に粘膜が破れそうだ。
寒い。
身体中から冷たい汗が出ている。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。
死ぬぞ。絶対に。彼女はこのままだとーー助けないと。
「あの」
手が、いや時が止まったーー気がした。
「あの、離してください」
さっきまで閉じていた眼を、今僕は両目で見れている。
吸い込まれそうなーー
「苦しいです。この手」
「あ、あ、あああ。え、何で」
「出て行ってください」
この細い首にあった筈の、さっきまで僕が服で抑えていた筈の、あの傷口がーー無い。
直接触ってみても、切れ目は確認できない。
不謹慎だが、血の赤色が彼女の肌の白さを引き立てている。
「いやもう本当に、やめてください。離れて」
僕の手を振り払って、彼女は立ち上がった。
「あ、すみません。ごめんなさい」
「後ろ向いててください」
「え?」
「早く」
圧倒されてしまった。さっきまで失血し過ぎて気絶していた女の子に。
あれは、これは、僕の手や服に付いている血は本物なのだろうか。
偽の血液だとして・・・マジックの練習?
いやいや、この匂い、あの温度。
経験があるだろう。
目を逸らすな。
気持ちを逸らすな。
血がどうとか、そういう話じゃない。
分かっているだろう。
仲間を見つけた気分を必死に見逃そうとしているだろう。
これはーー
「はい、もう良いですよ」
振り返ると、彼女はもう着替えを済ませていたようで、手に持っているゴミ袋には赤黒い紙がくしゃくしゃになって何枚も入っている。
そしてもう片方には特大サイズのウェットティッシュの箱。床には2リットルの水が入ったペットボトルと茶色の上袋が置いてある。
いつの間に置いたんだ。
「えっと・・・」
「このウェットティッシュは差し上げますのでこの袋に入れて適切に処分してください。紙袋もどうぞ。私、もう行かなきゃいけないので。服に染みた血はこの水で洗うと良いです。私は使わなかったので。」
話が早すぎてついていけない。もう少し考える時間をくれ。
「いや、少し話をーー」
「あと、この事は誰にも言わないでくださいね。どうせ誰も信じませんから。信じたとしても貴方が私をストーキングしたという部分だけでしょう」
何故ばれた!
「何故ばれた!」
「・・・こんな人気の無い神社で偶然出会うなんて、あり得ないからですよ」
なるほど。確かに。何て合理的な判断だ。
冷静すぎる。慣れている?想定していた?こうなった場合の準備していた?
「じゃあ・・・失礼します」
「いや、ちょっと待て!」
思わず強めの口調で呼び止めてしまった。ここからどうする。何を言う。
彼女多分、怒っているのかもしれない。
表情が読めない。少しは口輪筋以外も使ってコミュニケーションを取れよ!何だその仏頂面は。
「・・・何ですか?写真や動画でも撮りましたか?脅す気ですか?どうぞ拡散してください。そうしたらもう私に失うものは無くなりますから。徹底的に反撃に出ますよ。あらゆる手段を使います」
おっかねぇ。何て女だ。ナイフを持った状態だからか迫力がある。
訊かなくてはーー訊きたい。知りたい。
「いや、えっと・・・いつから?」
「何がですか?ってとぼけるのは無理ですかね」
「まぁ・・・無理かな」
「じゃあ訊きます。何を知りたいんですか?そして何で知りたいんですか?少なくとも貴方、私を尾けていたんですよ?信用されると思っているんですか?因みにさっきの果物ナイフはまだ持っています」
あれやっぱり果物ナイフだったんだ。そんでもって刺すのも厭わないんだ。多分本気なんだろうな。すげぇや。
「僕の名前は神崎透です。薄暗くて分からないかもしれませんが、貴方のクラスメイトです。あと専門家を知っています」
思わず敬語になってしまった。彼女の口調が移りつつある。
もう心が彼女の方が上だと決めてかかっている。心底びびり倒している。情けない。
彼女の表情は変わらない。
自分の首を切った時も、近くに居た僕を確認した時も、今も、彼女は眉も動かさなかった。
恐らく自身にだけ訪れ、自身にしか理解できないと思っていた事柄に理解を示す僕を知っても、専門家の存在を耳にしても、その表情は学校で過ごしている時のそれと同じだ。
でも、考えているのだろう。どこまで話して良いか。どれ程信用して良いのか。
僕もそうだったよ。
「このナイフです」
溢さないように。
「中学生3年生からです」
心を許し過ぎてしまわないように。
「私は、毎日、死に続けなければいけないんです。この果物ナイフを使って」
慎重に。最新の注意を払って。
「じゃないと、他の誰かが死んでしまいます。・・・だからーー」
もう限界だろう。
「分かった。そこまでで良い。それ以上聞いても僕にはどうしようもない。二度手間になってしまう」
「・・・二度手間とはどういう事でしょうか」
「僕は専門家を知っているというだけで、それに対処出来るかもしれない人を知っているというだけで、僕はあくまで一般的な高校生だよ。だからそこまで詳しい事を言う必要はないんだ」
まだ僕のことは詳しく言わない方が良いだろう。選択肢が多いに越したことはない。
「そうですか。では、どうしましょう」
「また直ぐに連絡するよ。とりあえず今日は帰ろう。えーっと」
「私、携帯電話は持っていません」
「・・・じゃあ、月曜日。学校で」
「分かりました。失礼します」
拝殿から出て行く彼女を見送り、後片付けをする。
この神社は、もう誰にも管理されていないだろうが、万が一の事を考えて血を拭く程度の事はした。
別に彼女の心を開くのは僕の仕事ではないし、他の誰かの仕事でもない。
それは彼女が決める事だ。
でもーー帰り際にスマホで時間とか確認するなよ。持っていないって設定なんだから。
シンプルに心が痛い。
004
そんな事があって、僕は彼女と知り合いになった。
「どこに向かってるんですか?」
「病院だよ。そういう物に理解があって、尚且つ対処できる様な人が居る所」
「そうですか」
気まずいなぁ。ろくに話した事もないのに、僕は彼女が血塗れで横たわる姿も見た。しかも下着姿。彼女は彼女で僕の焦って右往左往している姿を見たかも知れない。
「お医者様なんですか?」
「え?何が?」
彼女は今何て言ったんだ?全く聞いていなかった。
というか、何で僕は少し緊張しているんだ?
「病院に向かってるんですよね?だから、お医者様が私を診るのかと」
「あー。表向きは病院だし普通の患者さんもいるよ。でも雨傘さんを診るって訳じゃないと思う。」
「私を診る訳じゃない?」
「いや、もちろん雨傘さんも・・・えーっと、診察の対象なんだけどあの人達が優先するのは、そのナイフだと思う」
「・・・何となく分かりました」
ここでもまた冷静だな。と思った。
僕も過去に非日常的な経験しているので、彼女の気持ちが少しくらい理解できていると思っていた。
錯覚していた。
人は何かを忘れて生きている。
大人が子供の気持ちを理解できなくなるのと同じく、僕もまた、彼女の気持ちを汲み切れずにいたのだ。
忘れたい過去。
決して記憶から離れない映像。
しかし感覚の記憶は、気持ちの記憶は、少しずつ離れていく。
「信用できる方、方達なんですか?」
「まぁ、うん。信用はできると思う」
「そうですか。でも私は貴方を信用していないのでその方達も信用できません」
じゃあ何で聞いたんだ。
でも、それは真実だろう。
少し安心してしまった。もし彼女がこの現状から脱却できるかと尋ねていたら、僕は明瞭に返事を返せていなかったのだから。
僕は今もそれに捕らわれて、囚われている。都合良く救われる事など期待してはいけないしさせてもいけない。
「ここだよ」
「ここって・・・」
国立病院機構網定医療センター。
県で随一の国立病院である。正面から見上げるとやはり威厳凄まじい建物であるが、この入り口は入り口ではない。
「裏に専用のドアがあるから、そこから入るぞ。そこからじゃないと行けないから」
「何だか秘密基地に向かっているみたいですね。小学校の頃を思い出します」
え、雨傘さんって秘密基地とかで遊ぶ様な女の子だったの。まじで?わんぱくだなぁ。
ていうか今言うことなのか、それは。
これは凄い情報を手に入れたぜ、鳥生にも教えてやろう。いや、個人情報を、しかも子供の頃の事を広められたら(僕の友達は鳥生だけだが、鳥生が話すかもしれない)良い気分ではないだろうし、やめておこう。
ドアを3回ノックし、すぐ上に設置された監視カメラに顔を向ける。
手慣れた様に雨傘さんをここまで案内して来たが、このドアの前に立つのは約2年振りである。
僕の人生を、価値観を、大きく変えたあの期間。
僕がかけがえのないものを失い、イレギュラーを得たあの惨劇。
自業自得の代償。
「やぁ。久しぶり透くん」
「お久しぶりです竹谷司さん」
「うん。そちらが件の女子高校生ちゃんだね。いやぁ私にもセーラー服が似合っていた時期があると思うと・・いやはや時の流れは残酷だと再認識させられるね。さぁ、入って入って」
005
シミュレーション仮説。
哲学者のニック・ボストロムが提唱した人類が生活を営んでいるこの世界は仮想の世界、シミュレーションの中なのではないかという説である。
もちろん証明はできないが、僕には完全な否定もできない。僕としてはどちらでも良い。
もしもこの世界が仮想空間だとして、現実世界の自分はもっと落ちぶれた存在感なのかも知れない。その逆もあるが、こういった時に希望的観測はするべきではない。
それか、自分が仮想空間にしか居ないゲームのNPC的存在だったらどうしよう。
どうしようもなく、しようもない。
ここが仮想空間であろうが現実世界であろうが、今を生きるしかないのだから、世界が偽物かどうかを気にするよりも学校の成績を気にかけた方が建設的である。
気にかけるだけで勉強にそこまでの時間は注ぎ込まないけど。特に世界史とか。7文字以上の片仮名は暗記するものではないと思う。漢字でも覚えられないけど。
プログラミングの事は全くもってさっぱりだが、何からのアプリや電子ツールを利用した事があるし小さい頃に姉のゲームを借りた事もある。
僕でも知っているし、そういったものに無関心な層でも聞いた事くらいはあるだろう。
バグーープログラミングに潜む誤り。
思考するのは娯楽の一つだし、別に哲学的な考えを持つ人を頭ごなしに否定はしない。しかしバグは、誤りは、そして異常は、確実に存在する。
「突端な話ですね」
「だよね。私も最初にそういった異常な存在、私達が『バグアイテム』と呼んでいるものを知った時は震えたよ。いや、放心したかな」
竹谷司さんは雨傘に今の僕よりも更に詳しく、そして分かりやすく説明したのだが彼女はあまり納得していないようである。
納得したくないのかもしれない。
ロッカールーム。対象者はここでカウンセリングを受ける。
詳しい事は知らないし知る必要もない。
二人の話に丁度ワンテンポ空いたのでここで失礼するとしよう。僕の仕事はここまでである。案内係。
「竹谷司さん。僕はこれで失礼します。雨傘さんも・・・頑張って・・・ね?」
目線は向けられているが、何も言ってくれない。
返答に困ること言っちゃったな。どう頑張れば良いのか分からないのに、頑張れなんて。
そもそも場面で雨傘さんに何を言えば良いのか分からない。何も言わない方が良かったのだろう。
カウンセリングの邪魔をしてもいけないので、僕は早々に立ち去ろうと出口ドアの方を向いた。本当は何か嫌な予感もしてきたのだが、杞憂だったみたいだ。
あー良かった。
「あ、待って待って。」
竹谷司さんは無意味な行動を取らない。呼び止めたということはまだ僕に用があるのだ。
忘れ物?いや、鞄もある。財布もスマートフォンもポケットに入っている。
姉の事か?いや、雨傘の前でそれはないだろう。僕が見聞きした事は、あの日のうちにぜんぶメールと電話で事細かに伝えたし(もちろんストーキングのことも)追加で情報を聞きたいなら本人が目の前にいるじゃないか。
嫌だなー。怖いなー。怖いなー。
ばっ・・・と振り返ったらですね、見えるんですよ。
ニヤニヤしている竹谷司さんが。
「雨ちゃん」
雨ちゃん。『飴ちゃん』みたいで可愛い。
「私達に説明してもらっても良いかな。それとの関わりをさ。なるべく詳しくね」
竹谷司さんは銀トレイの上に乗せられたナイフを指差して言う。
柔らかい口調だが、それはかえって逆効果だろう。
少なくとも彼女にとっては。
しかもーー
「それは、彼の前で話さなくてはいけないのですか?」
「んー。分かるよ。分かる。嫌だよね。でも透君にも今まであれとどう関わってきたのかは絶対に聞かせるし、もしかしたら君の・・・人には知られたくない事も話してもらうかもしれない」
「その必要があると言われれば納得するしかありませんからね。ですがーー」
「理由はあるよ。ちゃんと」
まるで勝手に喋るなと注意するように、穏やかながらも刺すように竹谷司さんは雨傘の口を制した。
「何事にも理由はあるからね。もちろん透君が君の話を聞くべきなのにも理由がある。まずそれから説明するするとーー彼を使うからだよ」
そんな、僕を物みたいに言うなよ。
「物みたいに扱うよ。君が居れば百人力だからね。透君、協力してくれるかい?」
「良いですよ。どうせ断れませんし」
「ありがとう。透君は知っているだろうけど雨傘さん先に言っておくとね、私は君を助けるは二の次なんだ。何なら助からなくても良い。それは最悪の場合だけどね。私の第一の目的はあのイカれたナイフを壊す事だからね。透君から聞いたよ。君が言った事を聞いたんだけどね。あのナイフ。私達がバグアイテムと呼称する存在。被害者が出るっぽいね?」
「・・・はい」
「既に被害者は出たのかな?」
「はい」
「今後も出ると思うかい?」
「はい」
「それは何人くらいだと予想してるの?」
「明確な数字は分かりませんが、少なくとも私1人よりは多いです」
「なら君よりも君以外の全員を優先するよ。もし私に協力しないならどんな手段を使ってでも君を従わせるよ。それくらい本気なんだ」
これははったりではない。彼女は、彼女達はより多くの善良な民を優先するのだ。
それが仕事で使命。
「分かりました。何でも聞いてください」
彼女は決して圧に屈した・・・訳ではないだろう。竹谷司さんのゆるりとした口調から漏れ出る熱意を汲み取り、それを信頼したのだろうか。
心を許してはいないがあのナイフとの関わりを断てるならと、心情と利益を交換したと考えるのが妥当だ。
「ありがとう。本当にね。じゃあーー」
006
何事にも原因があり、発端があり、理由があり、過程がある。
結果をあのバグアイテムーー果物ナイフだとするならば、原因と理由は雨傘と彼女を取り巻く環境だったと言える。
彼女が話した発端と過程は長く、そして重いものだった。
「まず、私の二回目の家族の話をします。
私はそれまで施設にいたのですから、きっと、それなりの事情があったのでしょう。
でも最初の両親は顔も分からないので、その人達のことを考えても何も思いません。
施設の皆とお別れをするのは大変辛いものでしたがありますが、それ以上の喜びがあったのも記憶にあります。
6歳の時に、私に両親ができました。
中小企業に勤める父と、専業主婦の母。
施設育ちだからと、養子だからと私を虐める人間は居ませんでした。
私は幸運だった。
私が小学4年生になる頃には、私達は本物の家族として過ごし、自分が施設に居たことなど、養子だということなど、忘れていました。
普通の家族です。
テストの事で褒められたり、少し怒られたり、旅行をしたり、たまには意見が合わず喧嘩もしました。
父親と母親の好きなところも嫌いなところも、全部好きでした。
大好きでした。
それが家族というものだと、私は思うのです。
中学1年生の時です。
父が職を失いました。会社が倒産したのです。
父は失意の中でも職を探していました。両親は歳の差婚で、当時の父は四〇代後半であったためか、中々仕事が見つからず、就職活動の合間にアルバイトに精を出していましたが、若くて使いやすい学生やフリーターがいるのにわざわざ父を雇う所も少なく・・・
母はそんな父を献身的に支えました。
そして一戸建てから団地に引っ越し、ですが家族の結束は強まったと思っていました。私は私で、引っ越しというイベントに少し興奮していましたし、両親は子供に精神的な負担をかけまいとしていたのです。
両親は私の前で愚痴を溢すことはありませんでした。
私は2人が喧嘩をしているのを見たことがありません。
小さい言い争いも記憶にありません。
しかし、当時の私も中学生ですから、サインは感じ取っていました。
父が目に見えて活気を失い、アルコールに溺れるようになりました。
母は目の下に真っ黒な隈を作りながらパートと家事を両立していました。
いつしか食卓には母の手料理ではなく、レンジで温めた、ただの熱いコンビニ弁当が並ぶようになっていました。
少しずつ終わっていく幸せのサインを、少しずつ終わりゆく家族を、私はただ見ていることしかできませんでした。
ある日、私の目の前で母が父を咎めました。
さっさと前と同じくらい稼いでくれと。いつまでこんな生活を続けなければいけないとかと。
いい加減にしろ。ふざけるな。飲んだくれ。無能。
沢山沢山罵っていました。
あの2人は、私の家は、家庭は、私の知らないところでもう限界を迎えようとしていたのです。
その日からは私が家にいる時はいつも両親の怒鳴り声が狭い家に響いていました。
でも急に聞こえなくなったのです。怒声が。母の頬に痣ができるようになってからは全く。
家は静かになりました。冷え切った家庭。冷めた家。
家で宿題をしていたんです。食後に、いつも通り。するとそれを見た母親が言いました。
やらなくていい。そんなものやらなくていい。高校に行けると思っているのか。少しは家計を気にしてくれ。中学校を卒業したら働け。養子の分際でいつまで私達に寄生しているんだ、と。
やっぱり『寄生』という言葉が堪えましたね。自分でも薄々、いえ、濃く意識していたことですから。事実ですから。でもそれは本心ではなく金銭面と父からの暴力からくる精神的な不安が母をあそこまで追い詰めてしまったのだと思います。」
雨傘は前を向いたまま、無表情のまま、誰かに言い聞かせるように言った。納得させるように、理由を後付けするように。
「父はそれに反対してまた母を殴りました。何度も、何度も。
ですがそれらの、久々に聞いた母の言葉は私を納得させました。
進学という選択肢が無いなんてとっくに知っていました。その我儘を通すことができないことくらい、十分に理解していました。現代の日本において高校進学は一般的で常識的な選択ですが、皆が皆それを選べる訳ではないのですから。
母は私の背中を押してくれたのです。
仕方ありません。よくあることです。むしろここまで普通に生活できてきたのは奇跡と言っても過言ではありません。」
施設育ちにしてはーーと言う。まるで他人事。第三者を見るように彼女は話す。自分を切り離す。
「中学3年生の春、両親は離婚しました。母が家庭内暴力の証拠を収めたカメラとボイスレコーダーを提示して強引に話を進めました。それに父は激しく対抗し、借金をしてまで弁護士を雇いましたが結局、親権は母が持つことになりました。
母には新しい再婚相手も居てしかも裕福だと。高校に行ける。進学できる。普通に成れる。
その再婚相手の人とは離婚協議の前に数回、母から紹介されて会った程度ですがあまり良い印象はありませんでした。
夏にはもう、私には新しい家と新しい父親がいました。
初めての自分の部屋も。
全く嬉しくないと言えば嘘になります。
でも、手放しで喜べるような環境ではありませんでした初めての経験だったのですぐには気が付きませんでしたが、新しい父親の、あの再婚相手の、私と2人きりの時に向けるあの視線は娘を見る目ではなく女を見る目でした。
最初は後ろから話しかけられる時に腰や背中を撫でられる程度でした。でも家族間のスキンシップの線を越えるまでに、そこまでの期間は無かったように思えます。
いきなりでした。
その日は連休中。母が実家に帰っていて家には私とその人との2人きり。
夕飯を終えて食器を洗う私の後ろに立ったその人が、太腿の内側に手を伸ばしたのです。ジャージを着ていても、その感触は私に電流を流しました。
怖くて、怖くて、怖くて。声も出せませんでした。
聞こえるのは蛇口から流れ落ちる水と、私の奥歯が高速で噛み合う音。
その人のもう片方の手が私の胸を掴んだ時、やっと枯れたような声が出ました。もしかしたら、涙も出ていたのかも知れません。
何せ初めての体験でしたから。
「やめてください。お父さん」
私は前を向いたまま言いました。
するとその人が顔を私の耳元まで近づけて言ったんです。
「母親がやっとの想いで掴んだ幸せを台無しにするつもりか」
ぷっつりと、私の中で何かが切れてしまいました。
私は蛇口を捻り、纏わりつく手をそのままにシンク下の収納から果物ナイフを取り出しました。
本当は包丁が良かったのですけど手探りで取ったもので、仕方ありません。
振り返るとその人は少し動揺しているようでした。
でも私がしばらく何もしないのを見ると、無言でただ立っているのを見ると顔が綻び「無理をするな」と言いました。
きっと、この娘は自分に何もしてこないのだろうと考えていたのでしょう。
当然です。
だって、私は本当に、その人に危害を加えるつもりはありませんでしたから。そんな度胸はありませんでしたから。
私は残念でした。
確信したんです。私はきっと、この先の人生も誰かに蹂躙されて、振り回されて、たまに小さな幸せを手に入れて、そしてより大きな不幸が訪れる。
下がる一方の人生。右肩下がりの幸福。
そんな未来を私は耐えたくありません。
だから私は、そのナイフで自分の首を切りつけました。左右一回ずつ。確実に死ねるように。
とても熱くて、熱くて、熱くて。
膝から力が消えてその場に倒れると、目の前の男は一目散にそこから逃げて行きました。
段々と視界がぼやけて、暗くなってーー目が覚めました辺りは乾いた血の池。何が何だか分からないというのは、正にあの状況に適した言葉でしょう。
少しの時間、色んなことを考えましたが、それは無駄だと察して私は血のついたキッチンと床を掃除し始めました。服を洗濯して、シャワーを浴びて、ナイフの血を拭って自室の机に隠してまた食器を洗い始めた頃にあの男が帰って来ました。
手にはどこかのお店のレシートを握りしめ、顔は青白く、水でも被ったみたいに汗まみれ。
後から分かったことですが、あの人は私が倒れた後に近くの居酒屋で時間を潰していたのです。きっと、自分が私を殺したと疑われるのを防ぐ為に、アリバイ作りの為に、救急車を呼ぶこともせずに、だから生きている私を見てあんなに驚いていたのです。
その夜は久しぶりに熟睡できました。
次の朝、キッチンに向かうとあの男が首にナイフが刺さった状態で横たわっていました。
それはきっと、昨日の私みたいに。
やってしまったーーと思いました。きっと私がこれをしたのだと。この人を殺したのだと。急いで自分の部屋に戻り机の引き出しを開けると、あの果物ナイフがありました。まだ乾いていない血をつけたあの果物ナイフが。
確信が信頼に似たものに変わりました。
私の頭は都合の良い事に、その時の記憶を消したのです。取り返しのつかないことをしてしまったとか、母の好きな人を殺めてしまったとか、そういう罪悪感も確かにありましたが、私が2回目の自殺を測った最大の理由は1回目と同じです。
逃げる為。
より悪くなった状況から脱する為に、その場でもう一度自分の首に刃を立てました。
視界が暗くなりーーまた目が覚めました。キッチンに向かうとあの男は換気扇の下で煙草を吸っていました。
そして唇を震わせながら言うんです。「昨日のあれは何だったんだ」こっちが聞きたいですよ。
なぜ昨日のことだけなのか、さっき見た死体は夢か幻覚なのか。訳の分からない事を考えても訳が分からないまま。
数時間して母が帰宅しました。あの男は私に昨日のことは無かったことにしようと耳打ちすると、ぎこちないながらも母の前では日常を演じました。
その日、あの人がコンビニに行ったタイミングで母に打ち明けたんです。危うくレイプされるところだったと。もちろん、その後のことは伏せて。
殴られました。私の幸せを奪うつもりかと。この売女、娼婦、寝取り屋、アバズレ。ドラマや映画でしか聞いた事のない台詞と次々と。
母は私のことをいつの間にか愛していなくなっていたんです。あの日の、私を寄生虫だと認識したあの日から。それか元からそこには壁があったのかもしれません。
私の親権も得たのは再婚相手がそれを強く希望したからだと、あの人は素晴らしい人間なのにどうしてお前はそうなんだと。
母はおかしくなっていたのかも知れません。
いつも通り食卓を3人で囲み、シャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドに横になり、朝起きてキッチンに向かうと、2人の死体がありました。
自分の机を確認すると、鮮血の付いたナイフ。
今度は夢から覚める為に、そして確認する為に水の入ったグラスを持った状態で昨日と同じ事をしました。
目が覚め、自室を確認すると、一滴の血も無く、あったのは倒れているグラスと濡れた床だけ。ドアの向こうからはあの2人の話し声が聞こえ、出てみるとその2人が居ました。
夢でもなければ幻覚でもない。歴然とした事実。
その日の夜、自暴自棄になっていたのかも知れませんが、浴室にそのナイフを持ち込み、4度目の自殺を試みました。
結果は失敗。血痕はそのままで生き返ってしまいました。今度こそと思いもう一度、その場で首を刺しましたが、結果は同じでした。
血を洗い流し、着替え、寝て、朝起きるとーーいつもの日常でした。
引き出しを確認すると、昨日シャワーで洗った綺麗なナイフがしまってありました。
その日からです。
その日から、欠かさず私はーー私は自殺を失敗し続けています。
そうしなければいけないので」
「壊そうとした事は?」
「勿論あります。でも何で叩いても、どんな高い所から落としても傷一つ付きませんでした。電車を乗り継いで山に捨てに行った事もありましたが、帰ると机の上に・・・それは私に付き纏うのです」
「じゃあ厳重に保管するって訳にもいかないか」
「恐らくは」
「でも大丈夫、私たちなら壊せるよ」
僕は先の彼女の告白の最後の部分を気にしていた。
『そうしなければいけない』
例も少ない偶発的な実験だが、それで予想するしかない。
実行するしかない。
幸か不幸か、彼女の予想通り、想定通り、あのナイフが誰かを傷付けることは無くなったのだ。
彼女を除いてーー誰も。
1日2回自殺を図れば被害者は出ない。それが彼女が少ない実験結果から導き出した答え。
彼女は中学3年生から高校2年生の今に至るまで、文字通り毎日、一年365日、死んでは生き返っている。
「最近、お風呂が壊れてしまったので銭湯に行く前に人目につかない所であの儀式をしています。明日には直りますけど」
「そっか、運が良かったね。透君がいなかったらと思うと怖くて仕方ないよ」
日常化してしまっている。
僕は彼女は感情が希薄なのだと勘違いしていた。その実はただ日常に慣れていただけだったのだ。
『死』という生命が本能で避けている一番の大きな恐怖を、もう彼女は理性でコントロールできてしまっているのだ。
『死』が形骸化している。
「さっきの儀式って言い方は気に入らないけど、まぁ分かったよ。ありがとう」
竹谷司さんは眉を少しだけ挟めて言った。
「・・・気に入らないとは、どういった意味でしょうか」
「そのままの意味だよ。事はそんなにスピリチュアルではないんだ。私の経験則からして、君の問題の根底はあのナイフなんだ。人を殺めるタイプのバグアイテムなんて、私は何十個も、何百個も見てみた。そして壊してきたんだよ」
自信に満ちたその声は、助けを求めている人にとっては輝いて聞こえるだろうが、雨傘の場合は違ったらしい。
方向性が、少しだけ。
「実は、壊して欲しくはないんです」
竹谷司さんは彼女の目を見たまま、何も言わない。
「私は神崎さんとここに来るまで、正確には貴女が興味を持つのはナイフの方だと教えられた時点まで、問題があるのは私の方だと思っていましたから。てっきり、私をどうこうするのかと」
「なるほど。そうだね。君の考えている事は、予想していることは何となく分かるよ。あのアイテムを壊したらーー君は死ぬかもしれない」
あくまで可能性の話だが、それは十分にあり得る。
僕が以前、お世話になった時に教えてもらった。
バグアイテムを壊した場合の結末は、それが及ぼした影響の結果が残るか、最初から何も無かった事になるかのどちらかしかないと。
しかも、今回の場合はーー
「付喪神って知ってる?」
「さっきスピリチュアルの話ではないとーー」
「うんうん。あくまでものの例えだよ。本当に例え話の触りの部分。あのね、物には用途があるんだ。今の話から察するに、君が自殺願望を持ちながらあの果物ナイフを手に取った時点で、あれはバグアイテムになった」
「ああ、なるほど。意志が宿ったという事ですか?」
「少し違う。持ち主の意思を汲み取ったのさ」
竹谷司さんは、少し残念そうに、しかし期待しているような顔で続ける。
「全部汲み取ってしまったんだよ」
「汲み取った?全部?」
「そう。君の死んでしまいたいという思いを一番に、そして、誰かを殺してしまいたいという思いを二番目以降にね。順番に汲み取っていったんだ。でも所詮な突発的な不具合。バグだよ」
雨傘は口をつぐんでしまった。
竹谷司さんは足を組み直し、ため息混じりに言った。
「つまりね、死にたいという思いとムカつく奴を殺したいという願いが、君の中で競合状態になってるってことさ。まぁでも、全部私の推測だけどね。外したことないけど」
最初に雨傘が死から生還したのは、自分が死んでしまったら母の再婚相手を殺せないから。
二回目は、母を殺せないから。
「君は寝ている間に家の人を、どこにいるか知っている対象者を殺して、そして起きるタイミングで記憶が消えた。つまりリセットされている。そこまではプログラム通り。だけど君は自殺を図った。頭の悪い不細工な出来のプログラミングが施されたこのナイフはそれを理解できなかった。だから全てをもう一度やり直すことにしたんだ。」
そして彼女は4回目で別のバグを発見した。
1日2回死ぬと誰も殺さずに済む。
「凄いよね、直感だけでそれを見つけちゃうんだから」
「いえ、偶然発見しただけです」
恐らくはあの日、彼女を神社まで追いかけたあの日。
僕と会った後に彼女は別の場所移動してーー。
「負荷のかかり過ぎ。エラーみたいたものだろう。同じ人間が1日に2回も死ぬなんて、そして生き返るなんて、どうやっても理解できなかったんだろうね。このアイテムは」
少し同情するような口調のまま、竹谷司さんは雨傘に訪ねた。
「さっきも言ったけど、これを壊すと君は死ぬかも知れない。怖いかい?」
「いえ」
「だのね。そんなに大切かい?原因を辿ればそこに行き着く。いわば元凶かのような存在なのに」
彼女はまだ結果を見ていない。だが知っている。だからこそ、エラーを起こして、最初からやり直し続けている。
「皆で死んじゃえば仲良く天国で暮らせるかもよ?なんてね」
彼女は父親を守っている。酒に溺れ、母に暴力を振るうあの父親を。
007
雨傘は母親の実家の場所を知らなかった。というより忘れていた。
「小学生の時に何回か行ったことはありますが、しかも私はずっと後部座席で寝ていましたから。母の実家がどこにあるか分からないんです」
これは彼女にとって不幸の、地獄の中の幸運だったと言える。
これもあくまで予想、推測でしかないが、母親の再婚相手の死体を発見したあの日、以前住んでいた団地の一室では彼女が父親と呼ぶ人物の死体があったのだろう。
「娘がいきなり帰ってきたら、とりあえず玄関開けちゃうよね。殺されるなんて、想像もつかなかったろうね」
そしてその翌日の夜は夜勤のアルバイトか、何か事情があって家にはいなかった。それを察した彼女は、そこから彼女はこんな生活を繰り返しているのだ。
他にも殺意の対象者がいる可能性も捨て切れないが、1人の母親と2人の父親。この3人が同時に死んだ場合、彼女も死んでしまうだろう。
連続殺人鬼のような大犯罪者に対しても、その生い立ちを知ったら思わず同情してしまうように。他者に向ける感情の数を抑えるのは非常に困難なのだ。
雨傘の話からすると、父親は酒に溺れ妻に暴力を振る男だったが、アルバイトに精を出しながら就職活動を行い、親権を得る為に借金までする人物でもあった。
人は多面的で、見てきた全ての面を総合し、その人物の印象を脳が決める。
それが初めての家族なら、初めての父親ならーー
「私は家族を護りたいんです。母とその再婚相手は私の中では他人に、ただの私を引き取った人になりました。でもあの人は違う」
彼女は恐らくーー2年ぶりに表情を見せた。
「私の、お父さんですから」
雨傘の抑えるような声が収まった後、竹谷司さんはまたもため息を漏らしながら口を開いた。
「まぁ、壊すけどね。仕事だから。1週間あげるからさ、色々準備してきなよ」
「準備って、死ぬ準備ですか?しませんよ、返してください。私の話を聞いていたんですか?犠牲者はこれ以上出ません。私が殺意を持っているのは3人です。しかも私はその3人を延命させているのですから、そのナイフを壊す必要なんてありませんよ」
雨傘の視線が銀トレイの上に置かれたナイフに手を伸ばした瞬間、竹谷司さんは白衣のポケットに手を伸ばし、取り出した腕輪を素早く雨傘の手首に装着した。
無機質な装飾の無い金属製の腕輪。
「今はね。今後は対象者が、被害者が増えるかも知れない。君は他人を避けているようだけど、普通に生活する上で、誰にも悪感情を抱かないなんて無理な話だよ」
雨傘は呆気に取られている。
「良かった。ピッタリだね。それGPS。無理に外そうとすると内側から毒針が出てくるから。もちろん毒の種類は教えないよ。トリカブトやマチンやヤドクガエルの毒かも知れないし、全く違うものかもね。1週間だから、忘れないでね」
あっさりと、まるで流れるように決定した。彼女と、彼女の家族の寿命が決まった瞬間。
あまりに事務的な余命宣告。
「はい、返すよ」
竹谷司さんは銀トレイを雨傘の目の前に持ち上げると、催促するように前後に動かす。
雨傘は機械のようにそれを取ると、霧のようにドアの前に立ち、開けた。
竹谷司さんに悪感情を抱かない筈もないが、かと言って言い返す言葉が何も見つからない。
彼女に追いついたが、かける言葉が見つからず断定のできない感情のままに前に立ち塞がってしまった。
真っ赤な夕日の半円が遠くの山に被さっている。
僕の顔が上を向かないのは、逆光によってではない。
「もっと警戒するべきでした。というか、あの人の実態が分かった時点でナイフを持って走って・・・いえ、同じ事になっていたでしょうし、後の祭りですね」
「ごめん。こんなーー」
「こんな事になるとは思わなかったですか?」
「・・・僕が予想するべきだったと思う」
バグアイテムには残渣が残るかも知れないし、残らないかも知れないという情報を先に、警戒心の強い彼女に伝えておけばこうはならなかっただろう。
浅はかな考えで行動した結果がこれだ。彼女を騙したと捉えられても何も言い返せない。言い訳の余地なく。彼女の2年にもわたる苦労を全て崩し、強制的な結末に至った原因は僕だ。
「1週間、何をしましょうか」
「ごめん、本当に。雨傘さんと雨傘さんの家族の命を奪うのは僕だ。本当にすみません」
無意識に深々と下げた頭。
口から出る精一杯のそれは、謝罪でもなく、言い訳でもなく、自分では支え切れない程の責任と罪悪感だった。
もう頭が言い訳をしてくれない。何とかできるなら何とかしたい。
しかしもうどうしようもない。
彼女はもうあの3人をトランス状態のうちに手にかけてしまって、彼女には何回も自殺した経験がある。
あのバグアイテムが目指す結果は全員の死。
残渣は残る。確実に残る。あまりにも期間が長く、思いが強すぎる。
残渣の経験者である僕がこれだけの確信を持っているのだ、竹谷司さんに至っては『確信』というより『分かっていた』だろう。信じるまでもなく、分かっていた。
情けのつもりで話を聞いたのだろうが。
誰かが話を聞いてくれればネガティブな思いは薄まると言うが、雨傘には適応されない。これは濃すぎる
彼女の涙は未だに枯れる事なく、僕が見ている地面に跡を残す。
「バグアイテムの残渣。でしたっけ、それが残ると例えその物が壊れたとしても、結果は、起きる筈だった結果は残ると」
「俺もあまり詳しくは説明できないんだけど、既に亡くなった親御さんをエラーを起こして生き返らせたから・・・」
「貴方のせいですね」
まるで期待していたような言葉で、予想以上の痛みだった。
「でも、貴方だったからこうなったら訳ではありません。いつかは誰かが私を見つけてしまうって、覚悟はしていたつとりですから」
「そう・・・か」
「神崎さんには突然のことかも知れませんが、私にとっては2年間もの物語でしたから」
2年間。彼女が犠牲にしたのは時間だけではなく、人間関係もである。きっと、普通の女子高校生としての娯楽を一切合切捨ててきたのだろう。
「全国、というか全世界にあの・・・竹谷司さんみたいな人達が居るのでしょう?組織的な雰囲気を感じました」
「確か・・・少し前から急激に衰退し始めたらしいけど、組織力は残ってるって。理由は分からないけど」
「なるほど、試しに逃げて見ましょうか」
「逃げるって、どこに?」
「どこでも良いです」
30分後、僕達はバッティングセンターに来ていた。
008
野球ボールがネットに吸い込まれる。空を斬る金属バット。
「全然当たらないですね」
あと1週間しか寿命が無いというのに、やりたい事がこれ?何を考えているか全く読めない。もしかして野球が大好きとか。
手持ち無沙汰。何もしてあげられない。いや、何かをしてあげるとか、そういう話でもない。率直に言って今すぐ逃げ出したい。重すぎる責任の取り方が分からない。背負いたくない。
「神崎さん」
「うん?」
「気にしなくていい。そう言われても難しいかも知れませんが、これ以上の被害を生む事なく終われるんです」
「・・・これは気にするべき、ずっと心に縛り付けておくべきことだと僕は考えている」
偉そうに、上から目線で僕は答えた。その薄っぺらく軽い言葉に心底から軽蔑する。
「そうですか。じゃあ1週間後に死ぬ私の為に、どうかそんな辛気臭い顔をせずにジョークの一つでも披露してください。気が滅入ります」
「・・・分かった。ごめーーありがとう」
余命1週間の女の子に励まされ注意されるというのは、まるで悪い冗談だな。と思った。
こんな残酷な事はないだろう。彼女は純度100%の被害者であるにも関わらず、その努力虚しく死ぬ事が決定したのだ。宣告されたのだ。
自分では対処できないと分かった途端に他人任せにした結果がこれ。彼女の話を粘り強く聞き出してから事に及ぶべきだった。
何でこうも上手くいかないのかは明白。僕の力不足。
「さぁ、早く」
「え、何が?」
まさに、何が?である。何かを聞き逃した?何か大切な彼女の言葉を聞き漏らしたか?
早く。とは何をだ。
「ジョークですよ。先ほど確かに「分かった」と言ったのをこの両耳で聞きました。とっておきのを。さぁ早く」
全ての思考が吹き飛ぶ無茶振り。
え、そんな感じだっけ。もっとこうシリアスな雰囲気じゃなかったっけ。あれ?ここどこよ。僕は誰だ。で、何。俺今からバッティングセンターで出会って数日の女の子の前でとびきりのジョークを放つの?ハードルが高すぎる。無理だろ。馬鹿かよできるかよ。俺だぞ。ほら見ろ背中が汗でベタベタになってきたじゃないか。ジョークって何だ。笑わせることが前提になったらもう無理だよ。ハードル上がりすぎだよ。
深呼吸。
よしーー魅せてやる。
「ある男の元に友人から手紙が届いた。結婚式の招待状だった。しかし、残念ながら日程の都合が悪かったので一言を添えて断ることにした。『今回は無理ですが次はぜひ。』とね。」
かきん。という軽く清々しい音。
本日初めてのヒット。
「見ましたか?やっとボールが当たりましたよ」
「うん凄いね。すぐにでもホームランが打てるだろうね。因みに今のは聞いてた?」
「何をですか?」
「・・・良い当たりだったね」
「はい。上達していくのを感じます」
そろそろ暗くなってきたなぁ。
「壊され屋」
僕はその声に聞き覚えがある。初めて聞いたのは2年前、僕がバグアイテムと初めて出会い、それ以降僕に纏わりつくこの責任の始まり。
振り返るとやはり知った顔だ。少し眼窩が深くなったのだろうか、それとも暗がりに立っているからだろうか、目線が更に重くなった印象だ。
「お久しぶりぶりです。・・・以前はお世話になりました」
その人は僕はを頭の天辺から靴までを確認するように目線を動かすと、雨傘が立っている方を見た。
「そのーーそいつが原因か」
少しの沈黙の後に、雨傘は口を開いた。
「どちら様ですか?」
「俺は上代夕矢と言う。上司の上に代行の代、夕焼けの夕に矢筒の矢で、上代夕也。竹谷司の部下だ」
とても分かりやすい自己紹介だが、雨傘さんは信用していないだろう。
オールバックの髪に黒のスーツ。しかし首から見えるその傷跡と体躯はお世辞にも一般的とは言えず、面識のある僕ですら緊張している。
上代さんはベンチに置いてある雨傘の学生鞄に目をやると眉を寄せて、こちらを見ないままに話を始めた。
「俺があのバグアイテムとお前の監視の担当になった。果物ナイフ、入っているんだろ、それに。つまり、お前とお前の家族の寿命を終わらせるのが俺の仕事になったんだ。その方法は既に決定したが、教えない。1週間後にいきなり現れても驚くだろうから挨拶に来た訳だ。面通しだよ」
なるほど、1週間猶予が与えられたが抑えるべきところは抑える。そういう事だ。
おそらくは僕達を尾けていたのだろう。GPSもあるし、監視員もいる。決して逃げられないという状況を分からせに来たのだ。
「必要ありませんが、分かりました。上代さん。覚えておきます」
「それはどうも。じゃあ、失礼する」
そう言って僕の方をちらりと見た後、彼は一度も振り返る事なく出て行った。
「逃げるのは無理そうですね。本気になれば、何とかなる可能性はあるでしょうけど、無理そうです。まぁ、逃げる気なんて本当は無いんですけどね」
「まぁ、そうだな」
「あの人・・・いえ、気にしても仕方ないですね」
009
あの後、雨傘がホームランを出すまで待っていようかと思ったが時間のこともあり、家まで付き添いその後帰宅した。
「神崎君、顔色がコンタクトレンズみたいだよ。どうしたの?」
「鳥生よ。そりゃ一体どんな色なんだ」
「少し青っぽい。顔色悪いよ、風邪?」
「いや、身体は健康そのものだよ。昨日はバッティングセンターに行ってきたし」
打ってはいない。本当に行ってきただけ。しかし失言だ。誰にも口止めはされていないが、誰かにぺらぺらと事の詳細を話すのは見当違いの筋違いだろう。
「ほう、バッティングセンター。楽しかった?」
「まぁ、そこそこ」
本当は全く楽しくなかった。渾身のジョークは空振りしたし上代さんにも会うし、別に嫌ではないが楽しくはなかった。
「ねね、駅の近くにパン屋さんできたの知ってる?カフェがあった所の」
「ああ、あそこパン屋になったのか、徒歩通学だから知らなかったよ」
「週末に寄って行かない?学校帰りでも良いけど!」
「あー、今週は無理だな、日曜もダメだ。すまん」
「あらー、残念」
理由を聞かないのが数多くのお前の長所のうちの一つだよ。今は少し知り合った女の子が1週間後に死ぬ予定だから、彼女がしたい事、やり残した事を手伝ってあげたいなんて言えないからな。
「他の友達なら予定空いてるんじゃないのか?」
「うーん。もう全員に声かけたんだよねー」
「あらま」
俺は優先順位の最下位か。それにしても、普段から誰かに遊びに誘われるのを何回も、今日も廊下で見たけど鳥生が友達全員から誘いを断られるなんてあるのだろうか。
不思議な事もあるもんだ。
「今日はどんな本を読んでるんだ?」
「色んな人の、人には言えないような、でも意外と共感を得るような感覚に陥った経験が沢山載ってる本だよ」
何だその複雑な図書は、というかそれ家から持ってきたな。
因みに僕はSF短編集、ショートショートが好きだ。一話を読むのに時間があまりかからないので、続きが気になって早く読まなければいけないという焦燥感に駆られることがない。
今のも意外と共感を得る感覚の一つだろうか。いや、割と一般的だと思われる。
「例えば?」
「例えばねー、赤ちゃんを抱っこしたことない人が、友人の赤ちゃんを抱っこできないって話」
「ふーん?」
「これ割と分かりやすくてね、初めての経験って緊張するじゃない?それが赤ちゃんを、しかも他人の赤ちゃん抱くっていう責任重大な事柄に対して脳がパニックを起こして突飛な行動をとっちゃうかも知れないから自分が怖いって話」
「突飛な行動?」
「不謹慎だけど、その赤ちゃんを窓から投げちゃったり」
怖い!怖すぎる。想像しただけで怖いし、赤ん坊を抱き上げた経験がない僕がそのパニックを起こす可能性もある。二重に怖いな。
「身の毛もよだつ話だな」
「でしょう。でもね、突飛な行動を取ってしまうってよくあるじゃない?私の友達でね、好きな人に告白する時に、「私と付き合ってください」を「結婚したください」って言い間違えた子がいるんだ」
「何か物凄く分かる失敗だ」
「そゆこと」
あの日、公園で雨傘を見たあの日、僕は彼女の後を尾けるという突飛な行動をした。
しかしあれはパニックを起こしていた結果の行動ではない。と俺が思っているだけで、日常に入り込んできた非日常に自分でも気が付かないような軽いエラーを起こしていたのかも知れない。
エラーは起こるものだ。
010
あの余命宣告から3日経ち、今日は木曜日。雨である。
昨日は学校から少し離れたカフェで4時間、ただ談笑(会話らしい会話はできなかったが)しただけ。しかし本人曰く満足とのこと。
「見てください、ほら。全く動きませんよ」
かれこれ10分、彼女はガラスケースに入ったウニを眺めている。本当は今日は動物園に行く予定だったのだが、雨では観察できる動物が減るからと、水族館に変更になった。
「ウニっていうのはそういうもんだろ。もっと動きがあるものが見たいなら、向こうにサメがいたぞ。シロワニだっけ」
「そんな魚類だか爬虫類だかどっちつかずのもの見たくありません」
可哀想なシロワニ。
死ぬ前に何がしたいかという有りがちな質問の答えとして『いつも通りに過ごす』という達観した意見や『普段行けないような所に行く』などがあるが、彼女はどれに当てはまるのだろうか。
彼女の今までの生活から察するに、今はいつも通りではないが、登校はしているのでそこはいつも通りである。ここは普段行かないような場所ではあるが敷居が高くもないため思えばいつだって来れる。
分かってるのか雨傘、お前はあと4日後に死ぬ予定なんだぞ。
「本当はイルカのショーが見たかったのですけど、夏休みの中頃でないと見れないらしいですね。ウニで我慢してあげます」
あげますって、誰に言ってるんだ。ていうかそれ我慢できるのか。
「そうか、ならーー」
また今度来ればいいーー口をつぐんだ。彼女には『また今度』がないから。僕のせいで、その可能性すら霧散に終わるのだから。
それを言ったとて、僕が気まずくなるだけで彼女はこれっぽっちも気にしないとしても、そこまで彼女が達観していたとしても、それは言うべきではない。
「一通りは見たので、もう帰りましょう」
「見たって、じっくり見たのはこの全く動かないウニだけで、他は素通りしてたじゃないか」
「一眼見れば大体分かります」
本当に何で来たんだろう。ごめんね海洋性物のみんな。
「とりあえずあと一周はしよう。勿体ないだろ」
「まぁ、良いでしょう」
そうして、この水族館の全ての水槽を素通りした後に出口に着いた。本当にぐるりと一周しただけである。
何だか申し訳なく思えたので、今は出口付近のグッズコーナーで品を選んでいる最中だ。
「神崎さん、私もう帰りたいです」
「え、本当に何も買わないのか?」
「はい、買って行く人も居ませんし、私の寿命もあの少しですし」
その言葉は空元気か、それとも運命からの解放感から放ったのか。しかし清々しさを感じてしまう辺り、理由はあれど彼女は死ぬ事を希望として捉えているのだろうか。
そんな人間がいるのだろうか。
退館して彼女を家の近くまで送った数十分後に帰宅。制服から部屋着に着替えた直後にインターホンが鳴り、覗き穴も見ずに扉を開けると、そこには上代さんが立っていた。
「壊され屋。あれの様子はどうだった」
挨拶も無しにこの質問である。
「特に逃げる素振りは無かったですよ。あと、彼女の名前は雨傘美寿です」
「そうか。どうでもいいがな」
それを言い終えた後、上代さんは立ち去る事なくそこに立ちっぱなしていた。
「・・・まだ何か?」
やっと聞いたからと言わんばかりのため息。彼は少し不思議そうな顔を前に出し、僕に質問した。
「この一週間の猶予。お前には意味がわかっているんだよな?」
意味?これは竹谷司さんの温情や準備期間であって、そこに意味なんて無いと思っていた。強いて言うなら、無理矢理捻り出すなら、彼女の『やり残し』を減らすことで、死の間際にあのナイフにこれ以上のバグを発生させない為、くらいしか思いつかない。
しかし、自分が確実に死ぬ日が分かっているというのもそれはそれで恐怖、つまり強い感情だろう。
矛盾しているとまでは言わないまでも、あの場で壊して仕舞えば良かったのだ。
何か理由をつけてナイフを彼女が視認できない部屋に持っていって、さっさと壊してしまうのが時間的にも良い。今こうして彼女が考える時間の中にある方が危険と言えば危険だ。不安要素が増える一方。
彼女が時間を過ごすということは、誰かと深い仲になる可能性を増やすということ。誰かを嫌い、殺意が芽生える状況が生まれやすくなる。
「お前は競走馬だな」
上代さんの唐突な発言によって、僕の思考は一時中断した。
「馬?あ、前が見えていないって事ですか?馬は目の位置的に真正面が見えないから」
「俺は競走馬と言ったんだ。競走馬にはブリンカーといって、馬がレースに、走る事に集中しやすいように横の視野を塞ぐ『目隠し』みたいなものを着けるんだ」
「はぁ、物知りですね」
「だから、お前は真正面も、横も見えていない。見えていないものが多すぎるって言ってるんだ」
「・・・どういうことですか?」
「そのままだよ馬鹿」
馬の話をした後に馬鹿とは、駄洒落のつもりだろうか。意図せず起きた言葉の事故だろうか。
薄暗がりに目が慣れ、上代さんが手に袋を下げているのが見えた。その袋に描かれているイルカのイラストも、イルカの背に沿うようにプリントされた『あみさだ水族館』の文字列も。
「え、ついて来てたんですか?」
「当たり前だ。俺の役目はお前たちの監視だからな。と言っても対象は雨傘美寿だから、こうしてお前が1人の時に会いに来る事は今後はあまりないだろうがな。」
「それで、その『あまりない事』が起きたんですか?だから僕の家にわざわざ出向いてくれたんですよね?」
「ほら、これ」
袋を握る拳が少しだけ僕の胸を押し、反射的に受け取ってしまった。
中を見るとパッケージされた缶バッジが2個。上部に紐が付いていて、イルカの影が描かれている。青色の影の物と、赤色の影の物。
緊張感から解放されたような、悪く言えばそれらは僕の中でチープな物だと印象付けられた。
「今、安っぽい物だと思っただろう」
「いえいえ!そんな事は!」
思考を透視してくるぞ!この人!
「普通、買うだろ。ペアになったお土産。何かしら」
「あー、でもそれじゃあまるでデートじゃないですか。・・・そもそも今回の彼女の悲劇的な展開の大元は、僕ですから。デート気分だなんて、狂気でも思えません」
そう。僕は月曜日のバッティングセンターから今日の水族館まで、彼女といる時はそこら辺の感情を徹底的に抑えている。彼女といる時に、決して自分の楽しみを見つけ出そうとしてはいけないと自分に言い聞かせてきたのだ。
でもそれはーー
「相変わらずお前は自己中心的な考えだな。いや、自己を犠牲にして行う自己保身と言うのが分かりやすい」
僕という人間をとても分かりやすく纏めた文書だった。
僕は傷付きたくない。自分が原因で誰かが不幸になると、たとえそれが不可抗力であったとしても、気を抜いたら叫んでしまう程に僕は他人の感情に影響を受けてしまう。
「竹谷司さんからの命令だ。その内の一つを雨傘美寿に渡せ。こっそり買ったけどプレゼントするタイミングを逃した、と言え。」
「いや、え?どういう事ですか?」
突風に吹かれた木の葉が耳を掠ったかと思いきや、それは目の前にいる人物の舌打ちであった。
「お前と話すと脳がうねる。これは命令なのだから理由は聞くな、意味が分からなくても実行しろ」
映画の爆発シーンの時に音量を一桁にしたような、物言い。明らかに怒声を押し殺している。
「わ、分かりました!渡します!確実に!」
「よしそれで良い」
僕はその袋を抱きしめ声高らかに宣言した。その後に目の前に出された右手を発見。どうやら上代さんの右手だ。
沈黙。先に口を開いたのは僕ではなかった。
「1800円だ。それを受け取ったからには払って貰おう」
011
いや高えよ。何でこんなちゃちな物品が一個900円もするんだよ。大体、大抵のカップルは来たら当然ペアにしたいはずだから2個買うに決まっている。水族館側はそれを見越して売っているに違いない。何て小狡い商法だ。いや商売の世界では正しいのかも知れない。
カップルねぇ。
今日までの僕達を見た人達には、僕達が恋人同士のように見えていたのだろうか。だとしたら雨傘さんに申し訳ない。
学生鞄に袋から缶バッジを一つ取り出し、じっくりと見てみる。もう一つのと一組になっていたのを覚えているせいか、少し物足りない。もう一つを取り出し並べてみる。
しっくり。凄いなこの商法。
「それ可愛いね」
顔を上げると見知った顔。現在の僕が唯一安心できる表情。
鳥生天音。お前と話す時、僕は『いつも』に戻れるんだ。
「こんな悪徳商法に騙されるなよ!?」
「わっ。どうしたの急に。徹夜?」
「7時間は寝たよ」
「寝過ぎ?」
「丁度いい睡眠時間だよ。というか、どうしてーーあ、委員会」
「忘れてたでしょ」
「ごめん」
「だめだよ神崎君。君が居ないと誰も本を借りれないんだぜい?」
何だその喋り方は。キャラが崩壊するからやめてください。それにうちの図書室はそんなに人が来ないしーーまぁ良いか。
「ぼーっとしてた。行こう」
「ねぇ」
ゾッとした。何か嫌な予感。虫の知らせ。予感。
「雨傘さんと仲良いの?」
手早く教科書と筆記用具を片付けていた手が止まった。
見られた?どこを?一緒に下校しているのを?いや、そ、は月曜日だけで、火曜日からは学校から少し離れた他の生徒が辺りに居ない場所で待ち合わせをしていたし、でも制服は遠目からでも分かる。
それ以前に別にそれが発覚したところで、これといった問題は無いだろう。別に仲良しって訳でもないし。僕はあくまで彼女に付き添っているだけ。
でも何も知らない鳥生を巻き込むのは避けたい。ここは適当に誤魔化すのが最善だろう。
少し話して何を見たのかを聞き出し、一瞬にして嘘を考える事は可能。友達との(僕の友達は彼女だけだが)不必要で不本意な衝突を避ける為に何かを誤魔化すなんて、僕のみならず多くの人が経験しているだろう。
彼女目を見る。眼球ではなく、瞼を含めた目を見る。
今、震度1でも全て溢れそうな目。脆そうな--
「仲良しって訳じゃないけど、どうして?」
「友達が見たって言ってたから。下校時間なんてとっくに過ぎてるのに2人が隣町をうろうろしてたって」
「ああ、たまたまだよ。姉ちゃんの見舞いに行った帰りに、会ったから話しかけたんだ」
「そっか、仲良くなれた?」
「いや、何であいつが孤立してるのかを再度理解できたよ」
雨傘を心の中で突き放そうと思ったていた訳ではないが、あまりにも複雑すぎるあの関係をもつ僕達2人の馴れ初めを全て正直に話す訳にはいかないし、鳥生の理解が追いつかないだろう。
バグアイテムだとか何だとか、新要素が多すぎる。
「だから、やめときなって言ったのに」
「だな、俺の友達はお前だけで十分だ」
腐った沼の臭いがしても不思議はない台詞である。
012
「見てください。ほら、あの鳥全然動きませんよ」
無表情だが、彼女はハシビロコウに興味が津々なのだろうか。義務的に僕に報告してる雰囲気も感じられるが、未だに彼女の人間性が掴めていないので考えても答えは出ない。
「案外、係の人が近づいたら動いたりもするんだぞ。顔はおっかないけど中々可愛らしいな」
「その瞬間を見ていないのに印象付けるのはどうかと」
ううむ。何が正解だ。
「次はどこに行く?」
「そうですね、大きな動物は粗方見ましたから爬虫類コーナーに行きましょう」
見たと言うか、前を通っただけだけど。キリンもカバもゾウもゴリラもトラもライオンも、素通りなんて初体験だったろうな。折角パンフレットに大きく写真を載せて貰ったのに、とか思っているに違いない。
彼女にはまだ言っていない、言えないのだが僕は動物園が苦手である。それが何故かは分からないが、本当に何となく、生理的に人が集まる所や賑やかな場所が苦手なのかも知れない。それか動物の獣臭が苦手なのかも。
何が原因か分からない嫌悪感ほど気味の悪いものはないと思う。それは少し開いた夜のカーテンのような、部屋のどこかから聞こえた異音のような曖昧さを含んだ少しだけの恐怖。
「ところで神崎さん。なぜ私に同行しているのですか?確かにここに来たいと言ったのは私ですけど、同行しろとは言っていません」
「ほぼ同じ意味だと思うぞ。いや、正直僕は同行するのに抵抗はないし、ぶっちゃけて言うと見届けなくてはいけないという思いもあるんだ」
「そうですか・・・じゃあ、仕方ありませんね。これからも私に同行する事を許可します」
見届けるーーこれは失礼に当るのではないかと今更思い介してみる。本人の前で言うべきではなかった。彼女があまりにも自分の命に対して第三者目線なので、調子が狂っているのかもしれない。
僕は雨傘美寿が苦手だが嫌いではない。それは彼女の事情を知る前も同じく、同情もしていなかったが嫌いではなかった。
僕にとって、関わりのない人間を嫌いになることは珍しいというかーーない。僕の中ではあり得ない。人を好きになるという事象がとても貴重だとした場合、人を嫌いになるということもまた貴重なのだと思う。
「見てください。ほら、あっ・・・」
お決まりの文言が座礁した原因は、彼女の目線の先にいる蛇が動いた為である。
というか今の「あっ」ってだいぶ感情的じゃなかったか?普通の女子高校生、いや女子高生って感じだ。
「今の「あっ」を、もう一回頼む」
「頼むとはどういう意味でしょうか」
「今の感動詞を、驚いたり感動したりする時に発する語をもう一度僕のこの耳に聴かせてはくれないかという頼みだ。お願いします」
「理由が分からないに加えて内容が具体的なので、何か気持ちが悪いです」
そんなに詳しく言っても傷はつくが、その通りである。少し雰囲気を和ませるために言ったのだが、スラングを用いて表現するならスベった。
「いやぁ、何か人間って感じがした。人間味だよ。言っちゃあ何だけど、雨傘から人間味を感じ取るのって難しいんだぜ?だからこそ今みたいな感情のままに出た音に凄く感動したからもう一度聴きたいと思ったんだ」
「きもっ」
出た!感情のままに出た音!でも感動しない!
不思議だなぁ。
「悪かった」
「神崎さん。今のはからかったんですよ」
「まじで!?すげぇ、後からくる感動!」
「因みに「見てください〜動きません」の流れものりというものです」
「感動!」
何だと!つまりギャグのつもりだったのか!
何てこった説明させてしまった!ギャグは軽いものほど説明するのが苦痛なんだ。その筈だ。僕は何て残酷なことを。
「後からくる後悔!」
「忙しそうですね」
「お陰様でな」
意味はないがにこやかに言った。
何だ、意外と普通に話せるじゃないか。僕が踏み入ったら、彼女が踏み込んだらすんなりと。
何なら少し楽しい会話だった。
「さぁ、早く次の動かない動物を探しましょう」
「いや、激しめに動く生き物を探そう」
「例えば?」
「鳥類コーナーに戻ろう」
ここ網定動物園の鳥類コーナーは一階だけでなく、二階にもある。そこには写真撮影禁止のプラシートが薄暗いガラスケース、その中にいるのは
「俺も生で見たのは初めてだけど、速いな」
「同感です。冗談ではなく残像が見えます」
ハチドリ。メジロやヒヨドリと同じくホバリングが可能な鳥である。1秒間に何百回と翼を羽ばたかせ、その細い嘴で花の蜜や虫を啄ばむ。
「調べたことがあります。ハチドリは長時間動かないとその小さな身体から熱が逃げて、低体温症で死んでしまう。だから睡眠時は体温と脈拍を抑えて、まるで冬眠するように寝る。起きている時は絶えずエネルギーを補給しなければいけない」
「・・・頑張って生きているんだな」
「でも、もしも自分がそんな生活を余儀なくされたら、生きる意味を見失ってしまうかも知れませんね」
沈黙。数日後にこの世を去る彼女に何てものを見せてしまったのだろうという後悔。油断した。普通の女の子と話している気分になった。
そもそも動きの少ない動物を見ていたのはそういった種は寿命が長いから、何か憧れめいたものや自分には無いものを観ていたのでないか。
そうだとしたら、その気持ちに気がつけたなら理解はできなくとも納得はできた筈だ。
「でも、綺麗な鳥ですね」
「え?」
「とても綺麗です」
僕が今発した語は感動詞である。
初めて見た虹のような、初めて見た富士山のような、初めて見たイルミネーションのような、初めて見た美しい光景。
それと同等の、それ以上の例えはきっと何十年と考えても思いつかない。今後、何を見てもそれ以下と評するであろうそれ。
この表情に勝る美しさはきっとーーまだこの世には存在しない。
013
「よし、少し早いが頃合いだ。準備は良いね?透君」
「はい、大丈夫です。竹谷司さん、もし失敗したらどうなりますか?」
ロッカールームのベンチに腰掛けながら僕を吟味するように、舐め回すように眺める竹谷司さんはにやりと笑って応えた。
「しないよ。上代の観察報告によると、雨傘ちゃんは相当楽しみにしてる筈だから。君には悪い事をするけど、しっかりやってくれよ透君?」
「大丈夫です」
「メールでも伝えたけど、一応おさらいしとこうか」
竹谷司さんと作戦会議をした後、僕は雨傘と合流した。
休日ということもあり。駅前では幾人もが足を動かしている。その中で、いやもし彼女が群勢に紛れていても僕は見つけられる。
久々に私服を着てみたが、どうだろうか。冬になれば色々と服のコーディネートが増えるのだが、夏場は着れる服が限定されてしまう。
「お待たせ」
「はい。少し待ちました」
「ごめん。服選ぶのに時間取っちゃって」
「それが私を14分も待たせてまで着たかった服ですか?」
「あは・・・は」
彼女の服装は意外とボーイッシュ。制服姿の時は少しお嬢様っぽい雰囲気があるのでギャップがある。これがギャップ萌えである。
ボーイッシュな服装というのは中々奥が深く、例えばこのタイトなジーンズ。スカートとは違い腰から足にかけてのラインが露骨に見える為に、そこに自信がないとそれは履けない。そしてたぼっとしたロングティーシャツ。ガーリーな雰囲気と可愛らしさの比率が正に黄金比である。それを邪魔せず、尚且つ主張し過ぎずのベージュのトートバッグもまた良い。
しかし、このコーディネートを成立させているのは、タイトなジーンズでもなく大きめのロングティーシャツでもなくバッグでもなく、スニーカーである。
このスニーカーを履きこなせるか否かで、それを客観的に見で正確に判断できるかどうかでその人物の今後が決まると言っても過言ではない。
着こなし良しギャップ良し。いつもの丁寧な口調がオリジナルのエッセンスとなり、雨傘美寿というファッションを成立させている。
というか、最初に彼女を見た時もそうだったが、彼女はスカートを持っていないのだろうか。ううむ気になる。何故か凄く気になる。
「何か今凄くピンポイントな事を考えていませんか?」
「いや全然?空を見ていたんだよ」
「ロマンティックですね。それより、今日はエスコートしてくださるとのことですが」
「おう、昨日伝えた通り今日は僕について来てくれ」
「正直、もう行きたい所が無くなって来ていたので、神崎さんが提案してくれたのは助かりました。でも夜前には返してくださいね」
「もちろん」
毎日の日課を滞らせることはあまりしたくない。しかし、今回は別である。彼女が余命をどう過ごすのかを考える必要はもうない。何故なら彼女の残りの人生は大幅に伸びるから。
彼女は僕がどこに向かっているか予想しているのだろうか、横顔では判断がつかない。かと言って正面でもそれは難しいだろう。もちろん上から見ても下から見ても。
「神崎さん」
「はいはい」
「前にも訊いたような気がしますが忘れてしまったのでもう一度訊きます。神崎さんは何で私と同行しているんですか?」
「そりゃあ・・・こうなったのは僕のせいなんだから、出来る限りの事はしたいと言うか、寄り添いたい、みたいな」
「責任を感じているんですか?それならーー」
「僕がしたいんだ。お前が自分の運命をどう受け止めていようが、どう捉えていようが、僕がお前の最期を見届けたいから今僕はこうしているんだ」
「そうですか」
「本人の前で言うべきではないけど、お前に嘘は通用しなさそうだし本心で言ったよ」
「それはありがとうございます。薄い気遣いほど嫌なものはありませんからね。さぁ行きましょう。行き先が楽しみです」
「まぁまぁ、ゆっくり行こう。急がば回れだ」
「別に急いでませんけどね」
「出発!」
何だろうなーどこだろうなー。
水族館、動物園ときたから次は遊園地とか?
違う。今日は土曜日、近場の遊園地は親子連れで溢れ待ち時間やら何やらでちゃんと楽しめるかどうかは分からない。
じゃあ、映画館?
違う。確かに映画も良いが、僕はまだ彼女が好きな映画のジャンルを知らない。聞いていないからな。それなのに映画館には行かないだろう?
じゃあ、カフェ巡り?
違う。カフェは以前に行った。今行けば前よりかはもっと楽しくお話できるだろうが、限られた余命の中で同じようなプランは選ばないし、それならこうして行き先を秘密にもしない。
じゃあ、お洒落なレストラン?
違う。金がない。これに関しての理由は以上。
プラネタリウム?
違う。
ボーリング?
違う。
ダーツ?ビリヤード?
違う違う。
カラオケ?ゲームセンター?
違う違う。
バーベキュー?バードウオッチング?サイクリング?
違う違う違う。
少し早めのプール?それを超えて海?もしかしてクルーザー?
違う違う違う。
「ここは?」
ここはーー
「僕の家だよ」
掠れそうな疑問詞が聞こえたような気がするが関係ない。見せたいものがあるんだと真剣な顔付きで僕が言うと、彼女は最も簡単にそれを信じて玄関に到着した。それを信じたかったからかもしれないが。
「久しぶりに私服を出したと言うのに、家から家への移動では着た甲斐がありませんね。それで見せたいものというのは何ですか?」
「こっちこっち」
僕が案内したのは寝室。彼女は部屋の四隅を確認し、そこで立ち止まる。
直立不動。遮光カーテンが半端に閉じていて薄暗いが、少しだけ震えているのが見て取れる。
「あの、見せたい・・・のって、どれですか」
声がか細くなったかと思えば、それを悟られないようにか後半を強く発音した。肩が上がったり下がったりしているのを見ると相当息が上がっている。疲労ではなく、不安で。
この部屋にあるのはベッドと中身がない本棚だけ。彼女に見せたいものなどない。そんなものは存在しない。僕は嘘をついて彼女をここまで連れて来たのだ。
「あの、私帰ってーー」
後ろを向いた彼女の首下を腕で強引に押し、ベッドに倒す。起き上がる予兆を見せる前に馬乗りになり、バッグを投げ捨て上に着ているものを脱がそうとしたが、思っていたよりも抵抗が激しく上手くいかない。
今度は両手を掴み上げ、手首を重ねて持つ。そのままあたまの上に。
じっと雨傘の顔を見つめると、彼女の身体からは力が消えた。唇は震え、目尻からこめかみにかけて少ない光が反射している。
「何でこうなるの・・・」
片手で彼女の両手を押さえながらぴったりと肌に沿うジーンズのボタンに手をかけ、僕はまるで独り言のようにぼそりと呟く。
「やっぱり抵抗しないんだ」
彼女の唇は歪み、顔には何本もの影ができていた。
いくら女子とは言え、決死の力が込められた両腕を一本の腕で静止できるはずもなく、弾かれる。
瞬間、彼女の手が文字通り目の前に。
「いっっってぇ!」
引っ掻き。例えどんなに教育から離れていても、最終的に全人類が使うことのできる原始的な抵抗。
思わず顔を押さえながらのけぞり、確認すると少量の血が手には付いていた。
ばたん。寝室ではなく、玄関が閉まる音。
速すぎるだろ。
「うっ・・・」
胸から込み上げるものより、今は胃から込み上げる問題の対処が最優先。
朝食を全て便器に撒き晒し口を濯いでーー待つ。
雨傘に蛮行を働いて吸う分後、予定通りインターホンが鳴る。
「顔色が悪いな壊され屋」
「はい、すみません」
上代さんは土足のまま玄関を上がり、辺りを見回す。
「その鞄の中身は確認したか?」
低いテーブルの上に置かれた雨傘のトートバッグ。彼女の忘れ物。あんな事をされたので、僕がしたので、バッグのことなどすっかり忘れて彼女は出て行ったのだ。
中に入っていたのは化粧ポーチと財布、スマートフォン(未だに連絡先は交換していない)と家の鍵。その奥にあるもの。仮に彼女が今挙げた物を全て持って出て行ったとしても、戻ってくる理由になる物。
「はい。ありました」
「やはり常時持ち歩いていたか。家のどこを探しても無かったわけだ。無意識の領域にまで侵食されているな」
以前、雨傘はナイフを捨てても戻ってきたと話していたが、それは違う。記憶に残らない形で自身を操っていると竹谷司さんは踏んでいた。そんな都合良くワープ機能まで搭載されていないと予想したのだ。
当たり。恐らくは学校にも持ってきていたのだろう。その日彼女はナイフを捨てて、そしてナイフが彼女を呼んだ。
トランス状態時の記憶は残らない。彼女はあれを手放すのを拒否している。
「雨傘美寿がそれに気が付く未だにどれだけの時間を要するかは分からない。一応GPSは付けているが、タイムラグの事を考慮して100m圏内に入ってきたら警戒するようにしろ」
そう言って、上代さんはスマートフォンを机に置いた。画面にはこの地区の地図が映っていて、中央の青い丸は雨傘の現在位置を示している。
「成功しますかね」
「竹谷司の案で失敗した事は今まで一度もない」
「ですよね、大丈夫ですよね」
「だが死にかけた事なら何度もある。あいつの最優先は多数の命であって、今の俺達二人はその中には含まれていない」
黙る。返しの言葉が見つからなかったのではなく、画面の青丸が今まで通ってきた所をなぞるようになったからーー雨傘はこの家に戻ってきている。
「向かって来るーー速いな、この速度だと大体3分で到着する。構えとけよ」
「はい」
「じゃあ終わったら連絡しろ。迎えに来る」
そう言って、上代さんは玄関から出て行った。
やっぱり1人だと緊張する。これから起きる事は恐らく、僕の人生の中で最上級の苦痛を伴うだろう。しかし一番ではない。あの日々に比べたら大抵の事は耐えられる。
予報通りの3分後、玄関から開閉音がした。立っているのはもちろん雨傘美寿である。
虚な目。半分程開いた口。脱力した上半身。トランス状態と言うより、夢遊病といった印象だ。
「よう雨傘、これだろ?」
僕は彼女の忘れ物であるバッグの奥に手を突っ込み、彼女が探した物を投げ渡した。
果物ナイフ。
投げた瞬間である。立っているのがやっとなほどそれまで緩み切っていた彼女の足の筋肉は収縮し、こちらに向かって大股で踏み込んできた。ナイフを右手で鮮やかに掴み取り、そのままの勢いを保ちながらの跳躍。走り幅跳びを連想させる。
彼女の両脚が僕の腰に巻き付き、左手は僕の頭を鷲掴み、少し前に見たのとは比べ物にならない憤怒を顔に浮かべている。眉尻と目尻は吊り上がり、眉間から鼻の先端に至るまでは深い切れ込みのような皺が形成され、咬筋は盛り上がり、口の端からは泡が出ている。
熱っ。
ひゅうひゅうと風の音がするが、これは僕の口から出ている呼吸音が混ざった声。声帯を貫かれまともに声が出せなき。僕の脚が雨傘の重みと僕自身の重みに耐える事が不可能になり崩れるのに合わせて、彼女は僕から退いた。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。とてつもなく痛い。
雨傘、お前はこんなのを毎日耐えていたんだな。
生暖かい液体が服に染みていくのが分かる。寒い。凍えるように寒い。段々と、視界の端の方から少しずつ暗闇が迫り、点のようになった景色を見ながら自分の死を予感する。
僕は死ぬ。原因は出血多量。彼女のナイフは予想通り動脈を深く切っていたようだ。そうでなくても、刃を全て首の中に入れたのだから主要な血管を避けていたとしても同じ事だろう。
暗い。寒い。怖い。死ぬのが恐ろしい。大丈夫だと分かっているのに、今まで何かに熱中した訳でも夢がある訳でもないのに、どうしてこんなに恐ろしいのだろうか。
人がその命を終えるまでちゃんと機能しているのは聴力だ。目は見えないし寒さも感じなくなった。無重力空間にいるような、ただそこに浮かんでいるような。
からん。何か軽い物が落ちた音。
「えっ、えっ、私、何で。家に置いて来た筈なのに」
聴こえるだけだが、それでも分かる程の戸惑いを表す声。彼女はやっと正気に戻ったらしい。
「どうしよう・・・私、何で、まだ時間じゃないのに!・・・何で神崎さん。どうしよう・・・」
彼女の声が消えていく。全ての感覚が閉ざされていく。
これが死ぬということ。彼女が2年間経験し続けて、今日まで毎日覚えた感覚。
そりゃ友達なんて作りたくないよな。
良い関係性なんて怖いよな。
いつかは壊れちゃうんだから。無くなってしまうんだから。
人と違うっていうのは相手の思想関係なく強制的に壁を作ってしまう。
「雨傘、まだ続けるぞ」
まだ一回目。
014
血塗れで立ち上がる人間を間近で見たなら誰だって驚く。びっくりする。理解が追いつかずこんな顔をする。
「神崎・・・さん」
しかし彼女の場合は違う。記憶は無いが、自分が殺した人間が、生気溌溂と立ち上がったからだ。
「自分を強姦しようとした相手の心配をするなんて、優しいんだな」
「何で・・・まだ生きてるの」
彼女は話しながらナイフを拾い上げ、しっかりと両手で持ち、こちらに向ける。
「あれ、何で」
何が起きているのか全く分からないといった顔だ。
この先が竹谷司さんの予想通りなら彼女は、彼女の家族は救われる。その筈。
「神崎さん」
一歩、また一歩と近付く彼女。
「手が離せない!」
顔が青ざめ、奥歯が鳴る音がこちらにも聴こえる。これから自分の体が何をするのか、彼女は察したようだ。
「逃げて!」
逃げない。ここから先、彼女の殺意は全部僕が受け止める。
ここから僕がどのように殺傷されたのかを事細かに明記するにはあまりにもグロテスクなので、簡潔に言う。
まず首。金属が当たる音が骨伝導で脳に響く。
「神崎さん!」
次に胸。骨の無い鳩尾を下から掬い上げるように刺されたので恐らく心臓に大きな切り込みが入った。
そして腹。左手脇腹に刃を半分も刺し込まれ、一気に右へーー
「いやああああ・・・」
いつも冷静な、というか表情をあまり崩さない彼女の悲鳴。人の内臓を見たのは初めてだろうか。
また暗転。意識が飛んでしまった。
そしてまた起き上がる。
飛び出た腸は自発的に切れ目から腹に収まり、辺りに飛び散った血液は僕に向かって流れて来ている。
「まだだ。雨傘。まだ耐えてくれ」
「何・・・これ。これ何!どうしたらいいの!助けて!」
助けて。何だかその言葉を待っていたような、ようやく物事の進捗が確認できたようなーー
またも意識が途切れる。
彼女が真っ直ぐ突き出した刃先が延髄を分断したのかもしれない。即死は予想外だったが、何も問題はない。むしろ時間短縮だ。
そして起き上がる。僕はこれが終わるまで何度でも起き上がらなくてはいけない。
雨傘の目は見開き、汗と涙と鼻水と涎と尿を垂れ流している。折角の美人が台無しだが、彼女にも耐えて貰わなくてはいけない。
それらを撒き散らしながら彼女は素早く僕の背後に回り込みーーまたもブラックアウト。
目が覚めると床に伏せていた。痛みを感じた場所からすると、大後頭孔から刃を入れられたのだろう。
「雨傘、まだ続きそうか」
僕は立ち上がりながら問い掛けた。
彼女は口を魚のように開閉させている。オーバーヒート寸前。
「雨傘!見ろ!僕を見ろ!」
「分から・・・ないです。何それ」
飛び出た血や刻まれ落ちた肉片が僕の体を上り、そして元の位置に戻る。まるでそれぞれに意識があるように。
その後の事はあまり覚えていない。というかどれがどの場面か頭の中で整理ができない。何回も刺され、何回も死に、そしてその度に起き上がる僕。
分からなさなければ、言葉でなく説明でなく、彼女には身をもって理解して貰わなければいけない。
彼女の汗は感情によるものではなく運動によるものに代わり、息が上がり肩が上下を繰り返している。
窓からは夕陽が差し込み、僕がどれだけの時間生死を往復してきたのかが伺える。
「何で、死なないんですか」
「やっと話せるくらいになったな。雨傘、それは後で説明するから、まず聞いてくれ」
彼女は僕に秘密を教え、少しばかりではあるが心を開いてくれた。今度は僕の番だ。
決定打。彼女が、その身体が、脳が否定したい事柄を突き刺す。
「僕は死なない」
少し間が空き、僕が言った事を確かめるように首に大きい一振りを見舞ってきた。しかも一度では無い。何度も何度も。もちろん意識は途中で途切れたが、確実に切断された。
意識が戻るのにどれくらいの時間が掛かったかは分からない。記憶の中では一瞬。
僕が起き上がるのを見ると、彼女はその場にへたり込んでしまった。ずっと力が込められていた手からナイフが落ち、床に到達すると同時に刃にひび割れが起き、その頭身が一気に歪んだ。
一目瞭然。簡単明瞭。旗幟鮮明。
はっきりと、分かりやすく。
この果物ナイフは壊れている。使い物にならない。
雨傘。思考がフリーズしている。ただ目を開けて、眺めているだけーー生きている。
「雨傘、どういう事かも説明する。経緯も、理由も、全部。ただーー」
「神崎さん」
「もう大丈夫だ」
「私」
「帰ろう」
「ありがとうございます」
015
結果。雨傘とその家族は助かった。そしてバグアイテムーーあの果物ナイフも壊れた。
何故か。僕が死ななかったから。以上。
「神崎さん。馬鹿にしているんですか?もう少し詳しく、もっと広いところからお願いします」
そりゃそうだ。ただ伝えるべき事が多いと、何から説明して良いのかが分からなくなる。細いパイプと反乱した河を繋げるように、間に入る段階が少なすぎる。
「質問して良いですか?まず、何故あのナイフが壊れたのにも関わらず、私は生きているんですか?先程母に帰宅が遅くなる旨の連絡をいれたところ、ちゃんと返信がありましたし、関わった全員が生きているのはなぜですか?」
バグアイテムの残渣は残る可能性もあるし、そうでない可能性もある。今回、そのバグの原因を考えると前者の可能性が高かった。でもそれはあくまで可能性の話である。
しかし、その低い方の可能性に賭けるのは賢い選択とはいえないので保険を打つことにした。
死なない人間。僕の存在をあれはちゃんと理解した。
持ち主の自殺というエラーではなく、不死の存在が新しくデータベースに追加されたのだ。
何回殺しても死なない存在を、どうすれば殺せるのか。
不可能。決して達成できない目的だと判断した。雨傘の自殺は混乱だった。
全てを分かりやすい形で実証し、あのナイフは自分の役目を全うできないと判断した。役立たず。使い物にならない。価値がない。プログラミングの上書き。
「何となく理解はできました。あのナイフに自分は用無しだと判断させたんですね」
竹谷司さんの受け売りだけど、ちゃんと説明はできたと思われる。
「じゃあ神崎さん。もっと前段階のことを訊きます。何故神崎さんは死なないんですか?」
それはーー
「僕もバグアイテムの影響を受けているからだよ。それも相当強い。あと、簡易的に『不死』とか『死なない』って言っているけど、正確には『死んでも生き返る』かな」
「それはーーいえ、それは質問しません。長くなるでしょうし」
そう。彼女には関係の無いこと。それに、これ以上この範囲に入って欲しくない。関わって欲しくない。
「まぁ、そうですね・・・私の殺意を呼び寄せる為に、私にあんな悪業を働いた事は納得しました。きっとあそこまでされないと、ただ私を面倒がったり突き放すだけでは私が落ち込むだけで殺意なんて湧かなかっでしょうから。はい、納得しました。だから顔を上げてください」
伝え忘れていたが、僕は雨傘が少し落ち着いて、説明に入った段階からずっと土下座の姿勢をキープしている。話に入る時もまず謝罪からだった。
「許してくれとは言わない。僕は説明を聞いて貰って、あわよくば理解して欲しかっただけだ」
「はい、ですから納得しましたし理解もしました。あと、許してますよ。恩すら感じていますし、私の方こそ謝りたい気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました」
穏やかな、その声と共に流れる吐息が開放感そのものを表しているようだ。
「雨傘、許してくれてありがとう」
「いいえ」
「じゃあーー」
「はい?」
「足を退けて貰えないか」
「足?もしかして私が今、神崎さんの後頭部に乗せているこの私の右足のことですか?」
「そうだをもし僕が間違っていないならお前の右足裏が僕の後頭部に圧力をかけている。もし良ければ退けては貰えないだろうか」
「そうですね。神崎さんのお願いですから、叶えてあげます」
僕は決して離れる彼女の足裏を名残惜しそうに思ってなどいない。本当に。本当だよ?
「じゃあ、今日は解散ですか?」
「そうだな。あ、ちょっと待っててくれ」
台所の床に置いておいた自分の学生鞄から、2つの袋を取り出す。上代さんに念を押されていたのに、すっかり忘れていた。
「これ、水族館と動物園のお土産・・・かな?2人で行ったからお土産っていうのは少しおかしい気がするけど、貰ってくれ」
「あ・・・ありがとう、ございます」
「金欠高校生だから、そんなものしか買えなかったけど」
雨傘が取り出したのは2つの缶バッチ。一つはイルカの、もう一つは鳥のイラストがプリントされている。本当はハチドリのを買いたかったのだが、鳥はそれしか無かったのだ。
「じゃあ、もう日が暮れそうだし帰れよ。もうすぐ上代さんが来て後片付けしてくれるし、帰りは車で送ってくれるってさ。その時に色々聞かれるだろうけど、我慢してくれ」
「分かりました。何だかとんとん拍子ですね」
「確かにな・・・色々あってまだ混乱してるだろうけど、いずれ慣れるよ。僕みたいに」
「はい・・・」
これで彼女の問題が全て解決した事にはならない。
家には娘に少しの敵意を持つ母と、連れ子に手を出すような父がいる。学校には友達が1人も居らず、居場所も無い。
今日までは理由があった。自分が他人の死を食い止めているという事実。
僕は彼女を運命から救い、そして糧を奪った。
「神崎さん」
「ん?」
「携帯電話はお持ちですか?」
「ああ・・・あるけど、上代さんにならさっきメールしたしもうすぐ来るよ」
「いえ、そうではなく・・・実は神崎さんには嘘をついていたのですが本当は私はスマートフォンを所持しています」
「・・・知ってたけど。何回か見たし」
それはネタじゃなかったのかよ。
「そうですか。連絡先を交換しましょう」
ん?どういう事?そういう事?一応保険を打とう。
「え?・・・あ、今後の生活の事が気になるなら上代さんか竹谷司さんの連絡先を知っておいた方が良いよ。僕を挟むのはその分手間が掛かるし」
「違います。貴方を中間地点にしたいのではなく、貴方を目的地にしたいのです」
ほぼ告白じゃん。
「分か・・・った。じゃあ・・・」
俺今どんな顔してるんだろう。
「神崎さん。顔が赤いですよ?」
うわぁ言うなよ。女子と連絡先交換するなんていつ振りだと思ってるんだ。
いやぁ思春期って凄い。あんな事の後でもちゃんと照れる時は照れるんだから。
「神崎さん」
「は、はい」
「私、友達ができたのは久しぶりなので、お手柔らかにお願いします」
何をお願いされたんだ。今。僕は。
「こちらこそ、ご指導ご鞭撻ください」
何を言ってんだ僕は。少し改まっただけで不慣れすぎるだろ。
インターホンの音がなかったら気まずさと恥ずかしさでどうにかなっていただろう。グッドタイミングだ上代さん。
「終わったな。よし雨傘美寿、荷物を持て。そのナイフは俺が持っていく」
上代さんは車から持ってきたであろうアタッシュケースに壊れたそれを入れると、僕の方を見て少し苦い顔をした。
何か不備があっただろうか。ここまで協力したのだから少しは感謝して欲しいくらいだ。
「服がぼろぼろだな。新しい物を買え。レシートを竹谷司まで持っていけば立て替えてくれるだろう」
「はぁ、あ、ありがとうございます」
雨傘はその会話の最中に準備を終え、靴を履いてこちらを向いている。
「じゃあ、また学校でお会いしましょう」
雨傘、お前にはその顔が一番似合ってるよ。
「おう、また学校で」
カーテンから差す晩夏光に照らされて、それはもっと見たいと思う程に。