9: 知らない町の駄菓子屋に行った
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東公園で待ち合わせた。かつて本浄が雨宿りをしていた公園だ。出かける前に祖父の家に行ってほしい、と母親に頼まれたため、そこから近いこの場所を選んだ。
祖父の家に行って数日分の食材を渡し、そのまま公園へ向かった。待ち合わせの時間よりも数分だけ早く来たが、本浄はそこにはいなかった。時間になっても姿を現さない。遅刻だろうか、なんて思っていると、木陰から物音がしたので振り返る。猫を前にレンズを向けている本浄瑠璃がそこに居た。あまりよく聞き取れないが、小さな声で鼻歌を口ずさんでいるみたいだった。楽しそうなのでしばらくそのままにしておいたら、数分経った後にこちらに気付いた。恥ずかしさと申し訳なさが入り混じったような表情を浮かべていた。
「猫って、良いですよね。きままで勝手ですが、優しくすると確かに喜びを表現してくれるんです。言葉が無くても、伝わることがあるんだなあって、そんな満たされた気分になります」
夏の全てを吸い込んでしまえるような真っ白のワンピース、それは彼女によく似合っていたが、同時にその薄幸そうな微笑みをいっそう際立たせた。見惚れてしまうと同時に、彼女が幽霊みたいに消えてしまいそうで少し怖くなった。彼女はどこか儚く、誰も知らないうちにどこかに行ってしまいそうな感じがする。もちろんこれは誉め言葉だ。
行きましょう、と言って彼女が歩き出す。そのくせ行き先は決まっていないらしい。あてもなく歩き、それに飽きたら最寄りの電車に乗った。孤独であることだけが同じ僕らに共通の話題などあるはずもなかった。これは発見なのだが、電車の中は教室よりも会話の途切れを感じる。学校での僕らは基本的に勉強をしているため、雑談の時間は長くない。それに、会話に飽きたら視線を参考書に移せばよかったのだ。それが電車の中になると、常に話し続けなければならないような、得体のしれない義務感に襲われる。話題というものは、浮かべよう浮かべようと思うほどに浮かばなくなるらしい。なるほど、僕達が他人と関われないわけだ、とどこか納得してしまう。
それでもどうにか他愛もない話を続け、やがて会話が途切れた駅で降りた。無人駅だった。切符を改札ではなくポストに入れるのは初めての経験だった。
「こんな田舎にわざわざ行くのって、なにかよほどの目的があるときか、もしくはよほど目的がないときかの二択ですよね」
今日はもちろん後者です、そんなことを言いながら田舎道の真ん中を歩いていく。
太陽の下、白いワンピースの少女、その両脇に咲く向日葵の花。それは夏のメタファーのような光景だった。きっと本浄は意図していないのだろう。彼女は風景の中に自分が入り込むことをひどく嫌うようだから。けれども今のその風景は、確かな美しさと懐かしさを孕んでいた。それぐらい完成された状況だった。今彼女を撮ったら、何か要らないものがひとつ失われてしまうのかもしれないな、なんてことを僕は考えた。残念なことに僕は<法則>に従った人間であることがわかっているから、そんな面倒なことはしたくない。
カメラの代わりに、両手の親指と人差し指で四角形をつくり、その中にこの風景を収めておいた。
心なしか楽しそうに一本道を歩いていく彼女、その少し後ろをはぐれないようについていく。
やがて向日葵が消え、本当の田舎道がやってくる。駅から遠ざかっていくにつれて、誰の手も行き届いていない乱雑な緑だけが目に映るようになっていく。同じ景色が続きすぎて、自分がどれくらい歩いたのかも忘れてしまいそうな場所だ。このまま進んでいくと引き返すのが辛そうだ。今は一本道だからいいけれど。
そんなことは意にも介さず、彼女は優れた被写体を求めて歩いていく。しばらく歩いていくと、何もない一本道の右側にぽつんと建った家のようなものが見えた。建物の前にはベンチが置かれており、その横にはアイスクリームの入った大きなケースが設置されていた。
「こんなところに駄菓子屋があったんですね」
驚きつつ、そのまま本浄が店内に入る。中はそれほど広くはなく、客は誰一人いなかった。それどころか、ここに来るまでの道にすら人がいたかどうか。一体どうやって利益を上げているのだろう。細いイカのお菓子や、なんだかよくわからない材料のカツ、キャベツでも太郎でもないスナック菓子。なんとなく小さな頃よく見たお菓子が所狭しと並んでいた。
襖の奥からはテレビの音が聞こえる。という事は中に店員がいるのだと思う。
「ごめんください」と本浄が声を出す。それに反応して、襖が開き、駄菓子屋の奥から女の子が顔をのぞかせた。
「あれ、ごめんなさい。お客さん来てたんだ。いらっしゃい」
今日の本浄が白い幽霊みたいだとするならば、駄菓子屋にいるこの子は座敷童のような子だ。決して身長が低いわけでもないしおかっぱでもないけれど、最初からそこにいたような、懐かしい匂いがするような、そんな感覚。初めて会ったに決まっているのに、まるで遊びに来た友達を相手にするような雰囲気。
「ここって今日、営業してるんですか」
僕が質問すると、駄菓子屋の少女は頬を膨らませた。
「それは誰も客が来ていないことに対する皮肉かな」
「いや、悪意があったわけじゃないんだけど。でもこの辺り、子供はおろか人もほとんどいないし。やっていけるのかなって」
僕がそう言うと、何故か彼女は笑い始めた。
「ああ、いいんだ、利益出てないから。死んだおばーちゃんの貯金を切り崩してやってるから」
「貯金、減っちゃっていくんじゃないですか」本浄が質問する。
「大丈夫、多分みんなが漠然と考えている遺産ってやつよりもはるかに多い金額だと思うよ。それこそ、一生こんな無駄遣いするぐらいじゃないと使いきれないような」
あっけらかんとした表情でそう答える。確かに、こんな田舎で駄菓子屋をやっていける理由はわかった、けど。
「いくらお金があるって言ったって、どうしてそんなマイナスにしかならないようなことを」
「マイナスなんかじゃないよ」途中で言葉を遮られた。
「好きなんだ、ここが。好きな店を続けていけるだけでプラスさ。こんな薄利多売な商売、普通に考えてもう生き残れないでしょ。だから私がやらなくちゃって。もう商売じゃなくてもいいんだよ、誰かが少しだけでも憩う場であれば、それで十分」
私、夢があるんだよね、と駄菓子屋の少女は続ける。
「こういう言い方をすると笑われちゃうかもしれないけどさ、いつか世界が滅ぶ時……たとえば核兵器が落ちたり、人工知能が人間に叛逆したりして、建物なんかが全部壊れちゃったとして。それでも、ここにきたらぽつんと立ってるような、そんな店にしたい」
「人間はきっと、最後には懐かしさを感じる場所に行きたくなりますもんね」
本浄がそう答えると、駄菓子屋の少女は驚いた顔をした。
「そう、そうだよ。君はすごくよくわかってる」
田舎の駄菓子屋とか、そういうものは懐かしい匂いがする。僕は子供の頃でさえ駄菓子屋なんてほとんど行ったことがないはずだ。それなのに、今日もどこか懐かしさを感じている。この店と、この店の彼女に。
「ふふ、いいですね。十円のスナック菓子を食べながら、わたしも世界の終わりを眺めていたいです。そして本当にわたし自身もお終いになりそうなとき、見たこともないような色をしたジュースを買って飲みつつ、『もう夏も終わるなあ』とか思いながら哀愁に浸るの。どうですか」
「ああ、いいね、それ。とびっきり体に悪そうな清涼飲料水を用意して待っているよ」
「はい、約束ですよ」
ひとしきり笑い合ったあと、駄菓子屋の少女は目を細める。
「そうやって最後の日に<いつも通り>を残すんだ。時代や人間に関係なく、普遍的な存在や価値を持つような。世界がどれだけいびつでも、ここだけはそうじゃないような。ここに来る誰か一人でも、自分の<いつも通り>の中にこの場所を入れてしまえるような。ここが、永遠にそんな場所であってほしい」
彼女が言っているのは走馬燈なんかと一緒なのかもしれない。人間は、最期を迎える前、本能的に自分の懐かしさに触れたくなる生き物なのだとすれば、それを残しておきたいと願うのは良い事なのかもしれない。彼女にとっても、いつか最期を迎える人たちにとっても。
人生で何度も何度も思い出す懐かしさを最後にもう一度思い出して、そのノスタルジーを抱えたまま空の向こうに行く。ひょっとすると、懐かしさは永遠のようなものだろうか。
「じゃあ、わたしにとっては最後の日っていうのが、さっき言った夏の終わりに近いのかもしれません」駄菓子屋の少女の<いつも通り>に対して、本浄がそんな回答をする。
「夏の終わりを世界の終わりに結び付ける物語とか、流行ってるけどさ、君もそういうの好きなの?」駄菓子屋の少女が問いかける。
「そうですね。どちらかと言えば、わたしにとっては駄菓子屋も、何かの終わりに結び付いているような気がします」
「わたしもだよ。世界の終わり、夏の終わり。もっと小さなところで言えば、一日の終わりなんかも結びつく」
それはどういうことなのだろうか、僕は二人に訊いた。
「私は昔からここで店主の代理をやっていたからね。子供が帰った後の静かな感じまで味わって、やっとここでの一日が終わる気がするんだよ」
「わたし、昔から友達がいなかったんです。みんなが帰った後とか、そういう他人と会わない時間帯に一人でひっそりとお菓子を買いに行ってました。
だからたぶん、独りで見た夕暮れの寂しさとか、そういうものと結びつくんだと思います」
そんなことを二人で言い合う。彼女たちは各々の背景から今の人格を形成している。二人が世界の終わりの話で感覚を共有できた理由、それが少しだけわかった。
「そうだ、あれ食べたいです。小さなヨーグルトみたいなやつ」
本浄が懐かしい駄菓子を挙げた。
「ごめんね、あれは4月に販売が終了してしまったんだ」
普遍性って何なのでしょうか……と落ち込みながら他の駄菓子に目を向ける本浄。それを横目に見つつ、駄菓子屋の少女が僕に耳打ちする。
「少し嬉しかったよ。ほら、流石に高校生にもなると、こんな店入る人はあまりいないからね」
「それはよかった。とはいっても、僕は彼女の付き添いだけど」
「どうして彼女はこんなところに?」彼女が質問する。
「写真を撮るためらしいよ。知らない土地の、知らない風景を撮るのが好きなんだと」
「ふうん、いい趣味だ。誰にとっても価値が無さそうで素晴らしい」
「けれど趣味ってそんなものでしょ? 誰にとっても価値が無い事でも、自分だけには価値があるような」僕はそう返す。
「言えてるね。そういう意味では立派だ」
それから駄菓子屋の少女は少しだけ真面目な表情を作り、再び口を開く。
「けどさ、あの子、すごく脆くて崩れやすいと思うの。君たちがどんな関係かは知らないけど、君がちゃんと見ててあげてね」
たった数十分関わっただけなのに、そんなことを忠告してきたのはどうしてなのだろうか。
「君が友達になってあげる、というのはダメなの」
「ダメだよ」
「どうして」
「だって、私は普遍性を残したいから。どこでも誰に対しても、同じように接していきたい。時と共に移ろいゆくような間柄は、できないんだ」
「そっか」とうなずいて、僕等は駄菓子屋にさよならした。