7: 孤独な僕と彼女は手を取り合った
それから山を下りるともう23時を過ぎていて、僕らは近くにあったラーメン屋で食事をした。
店内はそれなりに薄汚れていて、如何にもというような老人が湯切りをしている。
『ラーメン 500円』『チャーシューメン 650円』とだけ書かれたメニュー。その右横に大食いチャレンジのポスター、しかしそれは遠い昔に貼ったもののようで、もう文字も掠れてしまっている。一緒に貼られた完食者のリストは7年前に更新を停止していた。制服姿の僕らは異質中の異質だった。飲んだ後のシメであろう社会人が二組だけ、顔を真っ赤にしながら大声で世界への不満をのたまっている。そんな店内の様子を気にも留めず、彼女は「美味しいですね」と呟いて薄く微笑んだ。
きっと高校生の男女が来るには最もふさわしくない場所なのだろうけど、クラスのはぐれ者が肩を寄せ合うにはこの上なく適した場所だろう。
それから僕らは重要なことに気が付いた。本当はもう少し早く帰る予定だったから、終電の確認なんてしていなかった。仕方がないので僕の母親に迎えに来てもらうことにした。二つ返事で迎えに来てくれた。母は僕に関心がないけれど、こういう時は何一つ不満を言わずにこちらの要求を受け入れてくれる。むしろ、怒ったり心配したりしないのは、関心がないから、ということだろうか。まるで操り人形みたいな人間だ。
「あの、すみません、こんな時間なのに、急に呼び出すことになってしまって」
「気にしないで。それより女の子が夜道を歩くほうが、よっぽど心配だからね。それよりそちらの親御さんが心配していないかだけ、少し気になるけど」
彼女は母の質問に対し、一言「大丈夫です」と答える。
「日向野くんのおうちこそ、父親とか、大丈夫ですか」
母親がそれに対してわずかに反応し、こちらをチラリと見やる。それは彼女に伝えていいのか、僕にその選択を委ねるという意思表示だった。母の逡巡にも気付いた僕は、少しだけ考えて、やっぱり彼女に正直に話すことにした。
「僕の家さ、父親いないんだ。僕がとても小さい頃にどこかにいっちゃってさ」
僕がそう言った途端、本浄の顔から表情が消える。自分の発したことが失言だと思ったのだろう。人を傷つけたことを後悔し、罪悪感を抱いている顔だ。本浄は喜びはなかなかあらわにしないくせに、悲しみや落ち込み、不安をこんな風にわかりやすく表現する。
「あっ……ごめんなさい、わたし、大変失礼を」
「大丈夫、そんなこと気にしたりしないよ。それに死んだわけじゃないし、父方の親戚とは今も仲が良いし」
僕が言うよりも早く母がフォローを入れる。その助け舟に感謝しつつ、僕も彼女に言葉をかける。
「今もこっちの生活の補助はしてくれてるし、こっちからも父さんの生存は確認できるんだよ。会うことはないけどさ、特に不自由や不幸はないから」
「そっか、良かったです」
そこでやっと彼女の顔から緊張が消える。僕は小さく安堵した。彼女の消極的な表情は嫌いではないけれど、だからと言って彼女をそんな表情にさせたいわけではない。そう感じていた。
「じゃあ、また明日」
「はい、ありがとうございます、日向野くん」
本浄の住むアパートに着き、入り口横の街灯が二人の影を写す。
「五分ぐらいは待っている」と母に言われたはいいものの、学校からここまでずっと一緒にいた彼女と今更改めて話すことなんてあるのだろうか。そんなことを考えていると、彼女の方が先に口を開いた。
「あの、今日はありがとうございました。誰かとどこかに出かけるなんて、いつ以来だろうって」
楽しかったことのお礼を言っているはずなのに、なんだか不安そうな表情をしている本浄、それはいつも通りではあるのだけれど、やっぱり少し可笑しかった。
「確かにそうかもしれないね、僕もクラスメイトと出かけるのは凄く久しぶりだった。楽しかったよ」
僕がそう言うと同時に、彼女の顔がこわばった。これはどうしてなのだろうかと予想を立てている間に、彼女が小さな声で話し始めた。
「わたし、自分に自信がないんです。だから楽しかったと言われると、どうしても懐疑的になってしまいます。自分が本当にそれほどの価値のある人間とは思えませんから」
きっとそんなことを言うのだろうと思っていた、まさにその通りの発言だった。自分に対する自信の無さが彼女のアイデンティティであり、それは各所に現れている。表情にも、発言にも。
「そういう考え方が根付いているからでしょうか。わたしは、いざ誰かと関わると少し怖くなってしまうんです。日向野くんを不幸にしてはいないか、なんてことを思ってしまうんです」
正直に言って、本浄と関わって良いことがあるのかと聞かれれば、ほとんどの人間は無いと答えるのだろう。それはかつてのクラスメイトの女の子の質問からも容易に想像できる。彼女はきっとそういう存在、この<世界>からすれば要らないような存在だ。
けれども僕だけは違うようだ。皆が必要でないと感じているはずの彼女を、なんだかとても大切なものであるかのように感じている。それはどうしてなのだろうか。今日でその答えが少しだけわかった気がする。
「でも、多分本浄は、少なくとも僕にだけはこうして関わっても良いんだと思うよ。きっと僕たちは似ているから」
似ているから、という言葉に本浄は目を丸くして、「ぜんぜん似てないと思いますよ」と言った。
「わたしはあなたほど勉強ができないし、あなたはわたしほど本を読みません。
あなたはわたしほど不幸ではないですし、わたしはあなたほど優しくはありません」
「それでも、僕と本浄はどこか似ている」
「それは、どういうことでしょうか」
僕は頭に浮かんだ一つの結論を告げる。それがきっと本浄瑠璃に届くと信じて、僕なりの言葉で彼女に伝える。
「多分、君も僕も、本質的に孤独なんだと思う」
ときどき、孤独とはなんだろうと考える。
自分にとって、自分以外はおおよそすべて周りの世界だ。自分からするとクラスの人間も教師も、僕にとっては母親でさえ自分の外の<世界>に位置している。<個人>と<世界>の間に、つまり自分自身と周りの環境の間にギャップがあるのは当然で、なのに、ほとんどの人間はちゃんと周囲に溶け込んでいる。
それは少しの隔たりなんて飛び越えていけるから、もしくは我慢できるからだ。そうやって<世界>に順応しているのだ。
でも、それとは対照的に、そんな周りの環境にどうしても馴染めない人間がいる。
自分と他者との間のギャップを踏み越えることができない人間。踏み越えようとすると摩擦で擦り切れてしまうような人間。孤独というのは、そんな、どうしても<世界>に順応できないような弱い人間に訪れるのだと思う。それはきっと僕のことで、そして何より本浄瑠璃のことだ。
クラスからも世界からも見放され、教室の端っこに追いやられた二人だから。<世界>に順応するには、僕たちは脆く創られすぎているから。
「君と同じで、誰かに近づくことを極端に恐れ、避けている。だから、僕だけは君の傍に居ていいんじゃないかな」
むろん、これは愛の告白ではない。僕は誰かに告白したことはないし、そもそも恋をしたことだってない。
でもたぶん、これは将来僕が行うどんな愛の告白よりも恥ずかしいものなのだろう。
本浄はしばらく静止した後、「同じじゃないです」と否定した。
「あなたはしばしばクラスの子に話しかけられてるじゃないですか。勉強を教えてくれ、とか言われて。それにちゃんと答えているじゃないですか」
「確かにそうかもしれない。けれどそれは機械的な回答なんだ。他者との間に摩擦をつくらないために、波風を立てないように、最低限の受け答えはしておいた方がいい。僕は多分、そんな風に考えている。でもそれって、<世界>との関わりと言えるのかな」
僕がそう言うと、今度は少しも制止せずにすぐ反論した。
「だとしたら、あなたの孤独は自分の勝手な都合じゃないですか。だって、あなたにとって世界は、手を伸ばせばすぐに届くものなんでしょう。わたしにとって世界は、いくら手を伸ばしても届かないものです。虚像みたいなものです」
本浄は認めない。何かが伝わっているはずなのに、頑なにそれを認めようとしない。彼女はこういうところは頑固なんだな、と思った。いつもの彼女とは少し違うけれど、これも彼女の生き辛さの一つなのだと思う。<世界>から見放される要因の一つなのだと思う。
「じゃあこう考えよう。僕はそれに手を伸ばすことができないんだ。そういう欠陥を抱えているんだ。
君は何かが欠けているから、遠くにある世界に近づくことができない。
僕は何かが欠けているから、近くにある世界に手を伸ばすことができない。
あるのは距離感の違いだけで、そう違うものじゃないのかもしれない」
これは詭弁かもしれないと思った。僕は彼女にシンパシーを感じている。しかしながら、彼女が本当に同じであるかはやっぱりわからない。彼女の方がより強く孤独を感じているのかもしれない。だとすればこんな言い方は、彼女の尊厳を傷つける行為なのかもしれない。
僕は本浄が何かを言うのを待った。本浄ははぁ、と息を吐き、それから深い悲哀を浮かべた眼差しでこちらを見やった。
「調子に乗りすぎです」
そのまま本浄は一歩近づき、僕の胸に顔をうずめた。
僕はそこで、時間が主観的なものだということを知った。十秒が永遠にだってなれることを知った。
それから、この世界には説明の出来ない感情があることを知った。
従来の心理学において、感情は六種類であると言われていたという。それから最近、感情は27種類のベースがあると提唱された。これら27種類を組み合わせることで、人は2185種類の感情を持ち合わせているのだと、テレビは言っていた。
今、僕の感情も本浄の感情も、その2185種類のどれにも当てはまらないものである、きっとそうに違いないと思えた。僕ら二人はとても醜くて、それなのにこの瞬間はとても尊いものだった。
本浄が胸から顔を離す。それから今度は僕の顔に近づく。互いの表情が互いにはっきりと伝わる。本浄は穏やかな表情をしていた。そこには先ほどまでの不満はなかった。
「案外あなたの言う通りなのかもしれません。誰とも交わることのなかったわたしとあなたが出会ったのは、そういう理由があったのだと考えられるのかもしれません」
「だとしたら嬉しいな、僕はあまりものだから、そういうことが嬉しいんだ。あまりものの心が安らぐ瞬間っていうのは、同類を見つけたときなんだ」
わかります、傷の舐め合いが必要なんですよね。そう彼女は言う。それはとてもみっともないことなのだろうけど、僕たちは他の人たちよりも少し弱いのだからしょうがない。
「まあ、そんなところで傷の舐め合いをしていたら、余計に世界から見放されるんだろうけどね」
「では、あまりもののわたしとあなたで、閉ざされたセカイを作りましょう」
「閉ざされたセカイ?」
「そうです。<世界>に馴染めない孤独が寄り添って、かりそめの共同体をつくるんです。結局は<世界>のつまはじきであることは変わりませんけど」
彼女の言う通り、僕らは<世界>からつまはじきにされたというのに、それでも隅っこで存在し続けている。価値を否定されたのに、皆とは隔離された場所で生きることを強いられている。
「でも、だからこそ、この<世界>からつまはじきにされたその先で、手を取り合って生きていましょう、ということです」
僕は直感していた。それはきっと本質的な解決にはならないことだと。そもそも、僕たちのような<世界>から見放された<個人>にとって、本当の意味での幸福なんて、決して得られないものなのだ。
人々がわかり合うことが幸福であるとするならば、彼らがいる<世界>と繋がれない僕らにとって、それは虚像に過ぎない。そのことを僕は深く理解していた。本浄はもっと深く理解しているだろう。それこそ、痛いくらいに。でも、だからこそ、つまはじきにされた先で、それでも幸せなフリをしていたい。
そのために孤独な僕らは、互いの痛みを共有するしかない。そうやって紛い物のつながりをつくるしかないのだ。彼女が言いたいのは、きっとそういうことだ。
「そうだね、除けもので余りもので、それでも何かを求めている僕たちにはぴったりな考え方だ」
僕がそう言って右手を差し出す。彼女は穏やかな表情で、その手を取った。
「そういえば、一つ思い出しました。オスカー・ワイルドの好きな言葉。
『わたし達は皆、ドブの中にいる。けれど、そこから星を眺めているやつだっているんだ』
なんだか、わたし達みたいですよね」
本浄は薄く微笑む。これまでで一番微かな笑みだったのだけれど、そんな小さな表情の変化には、彼女の喜びも悲しみも幸せも不幸も詰まっているように思えた。
人間にとって、自分以外はほとんど全て自分の外の<世界>だ。
だからもし、誰かが誰かと関わりを持つときが来るのならば、それは<個人>が<世界>に干渉することになるのだろう。
けれど、僕が本浄と交差することは、<個人>が<世界>に干渉することではない。だって、僕も本浄も同じ孤独で、同じだけこの世から見限られている。僕ら二人は<世界>とは関係のない孤独な<個人>と<個人>でしかないのだ。だから彼女の言う「閉ざされたセカイ」でしか僕たちは生きられないのだ。
けれど、<世界>から切り離された者同士が二人手を取り合うことくらい、許されるんじゃないだろうか。
本当の世界から切り離された場所で、かりそめの空間を僕たちのセカイだと言い張ってもいいんじゃないだろうか。
たとえそれが、ままごとだとしても。