6: 一緒に見た星空はとても綺麗だった
そうして日が完全に暮れるまで待ってから、僕と彼女は学校から少し離れた山へと向かう。バスの中の広告ではなにやら有名な詩人の著作が紹介されていた。僕らは同じタイミングでそれをじっと見ていた。
「本浄は、詩集とか読むの?」
「そうですね、特に意識して詩集を読むことはありませんが、読まないというわけではありません。作家なのか詩人なのかわからないような人も珍しくないですし。例えばオスカー・ワイルドの詩集は家にありますね」
「へえ、どんなのがあるの」と訊いてみたら「流石に思い出せませんよ、こんな急に」と彼女に笑われた。そんな取り留めもない話を時折しながら揺られていると、バスが停車駅を告げた。
そんなに高い所に行くのは無理だろうけど、少しは見晴らしのいいところに行こう。そうすればもしかしたら見えるかもしれない。そう言う彼女にただ着いていった。雨が降らなくて良かったね、と言いながら斜面を登っていく。もしかしたら山ではなく丘と呼んだほうが良いのだろうか、というほど大したことのない高さだったのだが、普段学校の授業以外で運動しない僕にとってはそれなりに大変だった。ライトで照らしてもどこか不安な足元に感覚を集中させつつ、転ばないようにゆっくり前へと進む。そうしていると開けた場所に出た。僕の脚はもうくたくただったのだけれど、前を歩く本浄は何故か軽やかな足取りだった。カメラだけでなく三脚まで持っていたというのに、その動きには何の疲れも感じさせない。体育の時の彼女は一体どこに行ってしまったのだろう。
やがて丁度良さそうな場所を見つけ、彼女が三脚をセットする。その横に僕は座り、伸びをしてから彼女に問いかける。
「そう言えば何も訊かなかったけどさ、今からどのぐらいの時間をかけるの。写真を撮るか動画を取るかも知らないや」
「一時間ぐらいですかね。流石に動画を撮ろうとは思っていませんよ。幾つか綺麗な星空の写真が取れたらな、ってぐらいの軽い気持ちです」
「そうなんだ、でも星空って言ったら、動きを動画にしているのとかもよく見る気がする。理科の授業なんかでもあったよね」
「タイムラプスのことでしょうか。あれって動画のように見えてるけど、本当は何十秒とかの等間隔で写真を撮り続けて、それをコマ送りにしているんです」
本当はタイムラプスも凄くやりたいんですよね、と呟いた後、そのままこちらに質問を返す。
「日向野くんは好きなんですか、あれ」
これまで意識して好きだと思ったことはないが、言われてみればなんとなく見ていて楽しい気がする。
無粋な言い方をするならば、あれはただ空を早送りしただけだ。なのにどうして惹かれてしまうのだろう。
「そうかもしれない、小さな頃は、あの映像を見て何故だか胸が躍った」今はどうか知らないけれど。
「ゆっくりと空を見ていたり、タイムラプス動画に収めたりしてみると、星は少しずつ東から西に動いていくんですよ。
それだけ見ちゃうと、なんだか地球の周りを星たちが動いてるみたいですよね。
だから昔の人は、空が動いてるって勘違いしちゃったんだろうな、なんてことを考えちゃいます」
「確かに、教科書がなければ僕達も同じ勘違いをしてしまうんだろうな」
「恥ずかしい話ですが、本当のことを言うと、未だに地球が回っているなんて信じられない時もあるんですよ。
いくら口で説明されても、確かめることができない以上嘘っぱちのように感じます。
だって、わたしたちの見える世界では、こうやって星が少しずつ動いているんですよ?」
そう言い切った後、それはわたしがちゃんと勉強してないからですね、と笑う。
「でも、だからなかなか地動説が受け入れられなかったんだろうね。僕たちは多分、目に映ったものしか正しいと思えないから」
コペルニクス的転回、だったか。天動説から地動説に変わり、世界の常識がひっくり返ってしまった瞬間を表した言葉は。
「だけど、わたしたちの目に見えるものが全てじゃないってことなんでしょうか。かんじんなことは、特に」
「それ、星の王子様?」
「日向野君、読んだことあるんですか?」
意外そうな顔をする本浄。
「無いけど、それぐらいは知ってるよ」
「そっか、そうですよね、日向野君だし、それぐらいは知ってますよね」
感心したような反応をする。
「だけど、うわべだけの言葉を知っているだけだよ。これが果たしてどういう意味なのかはわからない」
「だったら、読んでみてください。わたしもすごく好きなお話ですから」
「そうだね、それくらいは読んでみようかな」
そう言いながら全身を広げ、身体を地面に寝そべらせる。開けた場所でこんな風にしていると、一面が星空で埋め尽くされる。暗い中に散りばめられた輝きは大きいものも小さいものもあって、そしてどれもとても綺麗だ。けれども本当は、肉眼で見えない沢山の綺麗な星々がもっと沢山あるのだろう。
ほんとうに大切なものは、目には見えない。世間で誰もがしばしば使っているその言葉の、背景や意味を知っておきたいという気持ちはあった。読んだだけでほんとうの意味がわかるとは到底思えないけれど。
「感想を聞かせてくれるの、とても楽しみにしています」
本浄はそう言って小さく笑う。
「そう言えばさ、本浄はどうして写真を撮るのが好きなの」
そう尋ねると、「うーん、そうですね」という声とともに本浄が上を向いた。まるで夜空から何か記憶のかけらが落ちてくるのを待っているかのように。そうやってしばらく考える仕草を見せた後、何かを懐かしむように微笑んだ。
「そうですね、わたしが小さいころ、カメラマンの叔父さんがよく撮影に連れて行ってくれました。
実を言うと、わたしが写真を撮りたくなったのも、その人の影響なんです」
そう言って彼女が自分のカメラに視線を向ける。
「というか、そもそも、持っているレンズの殆どが、叔父さんがくれたものなんですけどね」
「なるほど、親しい人の影響なんだね」
「はい、そうです。日向野くんは……ピアノをやっていたんでしたっけ。それは、誰かの影響ですか」
話せば長くなる、そう思って少し躊躇ったが、ふいに僕は思い直して話す気になった。夜空の下に寝そべっていると、身の上話のひとつやふたつ、さらけ出してしまいたくなるものだ。そのことを今日はじめて知った。
「日向野って苗字さ、他にどこで聞いたことがあるかな」
「そうですね……」と言いながら思案し、本浄が挙げたのは美術の教科書だった。そしてしばらくしてから、小さく息を吞む。まさかそれが本当に関係しているとは、少しも考えていなかったのだろう。
「そう、日本で一、二を争う芸術家が僕の祖父なんだ。すぐ近くにあんな偉人がいるからさ。周りはしばしば美術の道に進むことを薦めてきたよ」
本浄が驚いた表情をする。この話をしてこんな表情を見るのはいつ以来だろうか。家族の話をするのが億劫になってしまった小学三年生のころが最後だっただろうか。
「でも……その話の流れなら、美術の道に進むのが自然ではないですか」
そう考えるのはきっと妥当なことなのだろう。しかし悲しいことに、昔の僕はそんな風に憧れを持つことはできなかった。
「あの頃の僕も、今と大差ないような人間でさ。あまり夢がなかったんだ。おそらくどれだけ努力しても自分の祖父を超えることは不可能だろう、そう思ってた。だから美術は初めから諦めていた。それでたまたま習っていたピアノに力を入れていた。それだけなんだ」
つまり、絵を諦めた後、逃避の先にピアノがあっただけなんだ。僕がそう言うと、彼女はそれを否定した。
「それは逃避ではなく、別の夢を追いかける道を選んだ、という事ではないのですか。何かしら自分の価値を残さんとするために、幸せになるために」
「確かに、そういう受け止め方をするならば、僕は今より少しは野心的だったのかもしれないね」
でも、そうであるならば今も続けているはずなんだけれど。
「いろんな形があれど、やっぱり周りの大人ってわたしたちの成長に大きく影響してきますね、良くも悪くも」
周りの大人。本浄にとっての叔父であり、僕にとっての祖父であり、その他大勢の大人たち全員を指す言葉だ。
そうかもしれないね、と曖昧な返答をした。
結論から言うと、この日、水瓶座δ流星群を見る事は出来た。
ピークに近い時期であることが幸いしたのだろう。定期的に夜空に流れていく流れ星があった。流星群をゆっくり見るなんて経験は初めてで、だから実際にそれを見つけた時には声が漏れた。
本浄はほとんど無言で撮影に夢中になっていた。邪魔をする理由もないだろう、そう思った僕はぼんやりと夜空を眺め続ける。こんなにぼんやりと何もない時間を過ごすのは久しぶりだった。何も考えずに見る夜空は、いつもの帰り道や自宅での勉強の合間で見る夜空よりもずっときれいに見える。それはきっと、今の僕が他のことを考えずに済んでいるからだ。けれども、今の僕は沢山のしがらみに縛られている。例えば母親のこと、例えばクラスのこと、例えば将来のこと。もし、そういったもの全てから解き放たれたならば、その時見る夜空は何よりも綺麗なのだろう。僕は一生見る事のないであろう美しい夜空に思いを馳せながら微睡んでいた。
「…………あっ」
シャッターを押した本浄が、突然小さく声をあげる。うっかり眠りそうになっていた僕は、その声に驚き、反射的に彼女の方を向いた。
本浄は何かに驚いたような表情を浮かべたままで、シャッター越しに空を見上げながら立ち尽くしていた。
「どうしたの、ちゃんと撮れなかった?」
「いえ……そうじゃなくて」
そう言って彼女は表示をカメラロールに切り替え、僕の方へ画面を向ける。そこにはしっかりとピントが合った夜空の写真が映し出されていた。それだけで十分綺麗だったのだけれど、最も目を引いたのは、そこに描かれていた光の直線。彼女は流れ星の撮影に成功していた。
「すごいじゃん」僕は素直に賞賛する。
「そう、ですよね、うん」
本当に良く撮れている。それなのに彼女は釈然としない顔を浮かべている。彼女の性格から考えても、ここまでの出来でなお納得しないということは無いと思うのだが、だとすれば純粋に上手く撮れたことに対して驚いているのだろうか。よくわからない。どうして普通に喜んでいないのだろう。
その後、もうしばらくの間、本浄は写真を撮り続けた。けれどもなんだか上の空のように見えて、シャッターを押したのはほんの数回だけ。
「さて、と。わたしはそろそろ十分堪能しました。日向野君は?」
そう言ってこちらを向く本浄。満足はしているが、何かが釈然としない。そんな表情だった。
「そんなこと聞かれても。僕はそもそも写真を撮るつもりないよ。君から沢山の話を聞いて、綺麗な星を見ることができて、十分満足だ」
「そう、ですよね。遅くまで付き合わせちゃってごめんなさい」
彼女が申し訳なさそうな表情をする。僕の言い方が悪かった部分もあるのだろうが、わざわざ謝ることじゃないだろうに。
「じゃあ、帰ろうか」と言うと、彼女が小さく頷いた。
結局最後のあの反応はどういうことなのだろう。落ち込んでいるような、驚いているような、とにかく何かしらの感情の変化があった。けれどもそれが具体的に何なのか、僕はわからずじまいだった。