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5: 星を見に行く約束をした

[7/14]


次の日、何事もなかったかのように本浄は登校してきた。

体調不良と称して学校を欠席した後日ではあるが、調子はいつも通りに見えた。実際には少しぐらい体調が悪かったのかもしれないが、彼女が授業中に当てられても上手く喋れないことと、マラソンで息を切らして周回遅れになっていることはいつもどおりの仕様なので、そのあたりから判別することはできなかった。よく考えると、彼女はいつも体調が悪そうに見えなくもない。

放課後、僕と本浄はいつものように机を少しだけ近づけて勉強を始めた。


ここで一つことわっておくと、本浄は集中力がないというわけではない。僕が指示した課題は一生懸命解こうとするし、解説を聞くときも必死にメモを取っている。それは授業を受けている時も同じだ。そもそも、普通の集中力のある人間でも、30分間同じ問題を考え続けたら流石に疲れてしまうだろう。彼女の場合、集中力がないことではなく、集中力が切れるまで答えに全く結びつかないことが問題なのだ。

「日向野くん、折角教えてるのにすみませんが、ちょっと休ませてください」

そう言って目を瞑り眉間を押さえ、本浄が肩の力を落とす。悲しいことに、彼女が示した数通りの方針はすべて全くの見当違いで、そのうえ僕が正しい方針を示した後も、それを理解するのにかなりの時間を消費してしまった。ここまで一時間ほどかかっているが、それまで本浄は一度も考えることを中断することはなかった。きっと努力の才能選手権があるならば、彼女はそれなりに良い順位を取れるのだろう。

「本浄はさ、わからない問題があっても、なかなか諦めないよね。どうして?」

「あ……ごめんなさい。日向野くんの時間を奪っているのに、わからないままで」

「いや、怒っているわけじゃないよ。単純に気になっただけ。こっちこそ嫌な言い方になってたらごめんね」

「いえ……普段のわたしは、いろいろなことを諦めてばかりですよ」

本浄が何ともいたたまれない気分になってしまう。話題を変えるべきだろうか。そう思ってふと浮かび上がったことを口にした。

「そういえばさ、昨日公園で猫の写真を撮っている人がいてさ、それが本浄に似ていたんだけど」

そこで彼女の手が止まった。

「それって、東公園……ですか」

「うん、そうだけど」

「日向野くんの家、あっちの方向なんですか」彼女が少し驚いた顔をしてこちらを見る。

「いや、僕の家はもう少し別の場所なんだけどさ。祖父の家があるんだよね、あの辺に」

「そうだったんですね」

「体調崩して休んでるって聞いてたから、驚いた」

「ごめんなさい、実は、仮病でした」と彼女が謝る。

本浄が仮病を使うのは意外なようにも思えたが、言われてみれば当然であるようにも感じる。学校で孤立している人間が、それでも毎日通い続けることは本当に正しい事なのだろうか。

僕も普段から似たようなことを考えたりする。学校の勉強の質が低いというわけではないが、家で勉強することと何か深い違いを感じるわけでもない。よく教師は「学校では勉強以外の様々な経験を得られる」と言ってサボりを戒めるが、よく考えると僕はその『勉強以外の様々な経験』を全くと言っていいほど得ていない。だとすれば尚更、なぜ学校に行っているのかは疑問である。きっと、人生に波風を立てたくないからなのだろうけど。


「たまに、あてもなく何かの写真を撮りたくなるんです。学校から、今いる場所から抜け出して」

写真を撮るのが好きなんです、中心にいるのは自分ではなく被写体ですから。そう彼女は言った。

「わたしじゃない誰かの<美しさ>を残しておくことができますから。もちろん撮影者としての技術は必要なのでしょうけど、写真はそれだけではないように思えます」

相変わらず控えめで後ろ向きな思考だけれど、わからないことはない。勉強も絵も音楽も、それらは全て自分の能力というものが現れる。おそらく全ての趣味や仕事がそうであるのだが、写真は自分の能力とは別に、撮影対象の価値というものがはっきりと存在する。僕の想像ではあるのだろうが、彼女はそのような価値を好んでいるのだろう。

仮病を使ったことについて親にはなんて言ったの、と訊こうとしたけれど、わざわざそんなことを詮索する必要はないなと思い直した。

「それにしても、僕に隠さなくてもいいのに。言いつけるわけじゃあるまいし」

こんなことを言って僕は少し後悔した。そもそも僕たちは隠し事をしないような間柄だろうか? 僕は無意識のうちに、本浄に対してよくわからない共感を抱いているような気がした。それは彼女にとって失礼ではないだろうか。

「そう、ですよね。でも、たぶん自分の中に罪悪感があるんですよ。日向野くんにさえ言い出せないのが何よりの証拠です」

彼女がそう言ったのを聞いて安心した。たとえ表面上だけであるとしても、僕に対する何かしらの意識を言葉の端に表してくれたからだ。

これはつまり、友達ということなのだろうか。それも何となく違う気がするけれど。


「あの、日向野くんにお願いがあるんです」と本浄は言った。

「もし、わたしの追試が上手く行ったら、その日、一緒に行ってほしい場所があるんです」

そう言って彼女は雑誌を取り出す。それは有名な科学雑誌で、彼女がそんなものを持っていることに内心驚かされた。

ぱらぱらとページをめくり、その中の記事の一つを指差す。『みずがめ座δ南流星群の発生』、そんな風に見出しが書かれていた。

「これ、7月の真ん中から8月にかけて見られる流星群なんですけど、追試の日のあたりが極大らしくて」

「それを一緒に見に行こうって話?」

「はい、そうです。……やっぱり迷惑でしたか」本浄の表情が、申し訳なさそうなものに変わってしまう。

どうしてまた星を、それもわざわざ僕なんかと、と思う。習い事も部活もあるわけではない僕にとってそんなのお安い御用だけど。怯えながら相手の様子をうかがう小動物のような視線を向けている彼女を見ると、断る理由なんて特には思いつかなかった。

「じゃあ、追試、ちゃんと合格してね。そのために」

そう言うと彼女はわずかに顔をほころばせ、小さく頷いた。

本浄は笑顔を見せない。嬉しいようなことがあっても、薄幸そうなその表情をほとんど変えず、少しだけ薄く微笑むだけだ。あるいは、怯えていた何かが消えて安堵しているかのような表情をする。そんな生き辛そうな彼女の表情は、何故だか僕を安心させる。


[7/16]


彼女は追試までの数日間、いつにもまして真面目に勉強に取り組んでいた。きっと僕との約束のためなのだろう。それほどまでに流星群を見たいのか、それとも単に約束を守ろうとする律義さなのか。対する僕はというと、いつも通りに勉強を教えていた。けれども心の中ではなんとなくいつもより彼女を応援していたと思う。

勉強の休憩のたび、本浄は一冊の本を読みふけっていた。ちらりと見ると、それは写真、特に星空の撮り方について書かれたものだった。彼女は流星群の撮影方法について調べていたようだ。

「やっぱり、流星群の写真を撮るの」気になって僕は訊いた。

「そうしたいです」本浄が首を縦に振る。

流星群を見に行こうと僕を誘ったのも、写真の話をしている時だった。やっぱりそれが主な目的なのだろう。

「でも、そんなうまく見つかるかな。見つかったとしても、上手く撮れるのかな」

「別にいいんです、見つからなくても大丈夫です。上手く撮れなくても大丈夫です。それでも行きたいんです、わたし」

ネガティブな僕の言葉をはっきりと否定するように言う。珍しく彼女の言葉に強い意志が感じ取れた。探すことそれ自体に価値があるということだろうか、それにしても不思議な言い回しだ。




[7/21]


そうして追試の日がやってきた。放課後、僕は本浄の結果報告を待ちながら教室で問題集を解いていた。正直手元のテキストの内容は上の空だった。それよりも彼女の試験結果のことばかり考えていた。それにしても、自分の試験よりもよほど緊張するなんて不思議だ。普段の僕は誰かと点数を競い合っているわけじゃないし、もちろん赤点など取るはずがない。しかし彼女のそれはなんというか、人生が懸かっているようにさえ思えた。たかだか期末試験の追試なのに。将来、受験生の家庭教師なんかはやりたくないなと思った。

実際に留年の可能性があるから、人生が懸かっているのか。


窓の外がほのかに黄昏色を帯び始めてきたころ、ほとんど誰も居なくなった教室の扉が開かれ、本浄が入ってくる。その顔には不安は見られない。それを確認した僕も小さく安堵の息を吐いた。

「その顔を見るに、手応えはあったの?」

「大丈夫、その場で採点されて、ちゃんとOKを貰いましたから」

彼女はいつになく上機嫌な様子でそう言い、答案をこちらに見せびらかす。確かにテストの赤点ラインは越えている。それは彼女の努力の成果なのだと思う。

それにしても、41点でよくもまあ偉そうにできたものだ。


本浄と勉強する必要のない日は久しぶりだった。彼女は嬉しそうにレンズの手入れをしていた。例のごとく僕は隣の席で自分の勉強しつつ、ときたまやってくる彼女の言葉に相づちをうつ。

「もちろんボディも大事ですが、レンズも凄く大事なんです。

電化製品の質はどんどん上がっていくから、ボディそのものはどんどん良いものが生まれていくんです。

けれどレンズは一生もの。10年後だって20年後だって、価値のあるものはずっと価値を持ち続けます」

聞いてもいないのに嬉しそうに語る彼女はなんだか珍しい。いつになっても色褪せない価値、それは写真そのものと少し似ているような気がした。追試が終わったことや夏休みが近づいていることも彼女の晴れやかな気分を後押ししていたのだろう。カメラについて語る彼女は饒舌で、何となくそれが心地よかった。

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