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4: 彼女も僕もクラスでは浮いていた

[7/12]


六月が終わり、七月の初めにあった期末試験が終わった。

努力もむなしく彼女はいくつかの科目で再試験となり、僕の放課後の予定はまた彼女の個別指導でいっぱいになった。だけど物理が再試験じゃないと聞いたときは、少しだけ嬉しかった。

梅雨はなかなか開けない。休みになった部活が多いからか、それとも試験が終わってすぐだから皆が浮足立っているからか、放課後の教室はいつもより少し騒がしかった。

この頃には本浄に勉強を教えている姿が多くの人間に観測され、クラスの他の人間も僕にわからない問題を聞いてくるようになった。ほとんどの場合、僕が他人の問題を解いている短い間、本浄はその会話に加わることなく、一人で自分の机へと向かう。それから他人の問題が解決した後、何事もなかったかのように再び個別指導を開始するのだ。一度だけ彼女に「人気者ですね」と言われたことがあったが、あれは皮肉だったのだろうか。クラスメイトとは結局勉強の話以外まったくしないし、仲が良いというよりはむしろ都合よく利用されているようにしか見えないだろうに。

それから、数年ぶりに読書をした。彼女は心の奥底でホールデンと同じような思いを抱えているのだろうか。気弱で大人しそうな見た目からは想像もつかない。



「梅雨って、あまり好きじゃないかもしれません。そもそも雨が好きじゃないみたいです」

結露ができた窓を人差し指でなぞりつつ、本浄が少しばかり不満そうな顔でつぶやく。先ほどまでは勉強を教えていたが、なかなか捗らないため、僕が少し休憩することを提案した。その時も本浄は少し悲しそうな顔を浮かべ、「わからなくてごめんなさい」と呟いた。わからないから教えているのに。

「雨は落ち込んだ自分に寄り添ってくれるから心を安らげてくれる、っていう話をよく聞くけれど」

「確かにそれは事実です。だけどそれって、ネガティブな自分と重なり合うからだと思うんです。だから、雨で落ち着くことはあっても、それが好きであるとは限りません。ネガティブな自分が好きな人は、ほとんどいないでしょう。なんとなく、傷の舐め合いをしているみたいでいやなんです、わたし」

不思議なことに、本浄は時々こうやって予想だにしないことを言う。少し詩的とも言えるような表現をする。本を読むのが好きだから、なのだろうか。

「本浄はときどきすごく賢いよね、ときどき」

「それ、褒めているのか、貶しているのかわかりませんよ」

僕の発言に対してめざとく反応する本浄。僕は傷の舐め合いでもいいと思うけどなあ、なんてことを考えていた。


「日向野くん、あのさ、ここ教えてもらえる?」

そんな無駄話をしている僕の手が空いていると思ったのか、クラスの他の女の子が教科書を持って僕の元にやってきた。

そのままその子に勉強を教え始めたのだけれど、本浄はこういう時本当に口を開かなくなる。決して明るいわけではないけれど、それでも予想よりはずっと楽しげに話をする本浄、みんなその姿をもっと知ったらいいのに、と思う。


「日向野くんってさ」

「え?」

女の子が上の空でいた僕を呼び戻した。気付けば本浄は席を外していた。おおかた僕の気付かないうちに、花を摘みにでも行ったのだろう。

「どうして本浄さんにいつも勉強教えてるの? 席が隣だから、っていう理由だけには思えないんだけど」

女の子がそんなことを聞いてくる。なんとなくクラスでそんな話をしている人がいるのは知っていたが、こう面と向かって訊かれたのは初めてかもしれない。もしかしてこの女の子は、僕が本浄に気がある、もしくは互いにそれ以上の関係なのではないか、ということを疑っているのではないだろうか。

「あの子さ、何もできないじゃん。日向野くんが勉強を教えることにメリットがあるの」

しかし、女の子の疑問はもっと別の方向にあった。想像していたよりもさらにつまらない質問をされ、僕は少し嫌気がさした。

「そもそも、メリットとかデメリットとかで人と関わるものなの」

そう言うと彼女はばつの悪そうな顔をした。そんなつもりはなかったが、こちらも少し言い方を間違えたのではないかという気になる。僕は長い間他人と関わってこなかったため、本当にそれがわからなかっただけなのに。

「そりゃ、そうだけどさ……。それでも嫌気がさしたりはしないわけ。あんなに毎日教えているのに、また追試ばかりだし……」

それについて僕が何も答えないでいると、彼女は「まあ、いっか。ありがとね」と言って自分の席に戻った。それから僕は誰にも見えないようにため息をつく。これ以上言うことがないので助かった。

廊下にトイレから戻ってきた人間の影があることには、どちらも気付いてはいなかった。



[7/13]


次の日、昨日よりも激しい雨が降った。本浄が学校を休んだ。風邪でも引いたのだろうか。

下校する時も散々雨の悪口を言っていたから、天罰でも下ったんじゃないか、なんてことを考えた。できればそんな理由じゃないほうがいい。なんというか、彼女は既に悲しいくらい<世界>に嫌われているような気がして、これ以上は流石にやめてほしいからだ。

もしかすると今日もまた、誰かがまた勉強を訊きに来るかもしれない。一瞬そう思ったが、それまで一人で席に座っておく気にもならなかったので、僕はそのまま家に帰ることにした。今日は昨日よりも雨が弱い。傘をさすかどうか迷う程度だった。帰る途中、そういえば本浄と話しはじめる前は普通に教室で勉強していたなあと思い出す。予定がなくなったからって、こんな風に直帰することは殆ど無かったはずだ。僕の生活習慣は、いつの間にか小さく変化していたらしい。



久しぶりに放課後すぐ帰宅し、部屋で着替えていると、ドアを二度ノックして母親が入ってきた。

「おじいちゃんにこれ、届けてくれない。せっかく早めに帰ってきたとこ悪いんだけど」

そう言って母親は袋を手渡す。中には保存容器に詰められた惣菜。おじいちゃん、と母親が言うのは僕の父方の祖父のことだ。祖母を亡くしてから、他の家族は誰も同居していない。正確には週に二度やってくるお手伝いさんがいるのだけれど、流石にそれだけじゃ心配でしょうと母は言う。それでしばしば祖父の面倒を見るために家に行き、余った食べ物なんかを渡しているのである。


父方の、という言い方をしたものの、僕は父親の顔を知らない。顔はおろか名前さえも知らない。僕が生まれてすぐか、それとも生まれる前だっただろうか。そのあたりに家を出てしまったのだという。それでも父親は毎月、僕の養育費を母親に送金しているらしい。

それならばなんとなく連絡ぐらいは取れるのではないか、とも思うのだけれど、母親がそれらしき振る舞いを行うのを見たことがない。詳しいことは未だに何も知らない。いつか聞こうと思ってはいるが、もしそれが母や祖父にとってなにか辛い話題であるかもしれないと思うと、なかなか踏み切ることができない。

加えて、僕と母はそれなりに関係が良くない。喧嘩をするというわけではないが、最低限のコミュニケーション以外は本当に取らない。いつも僕に関心を持っていないようにふるまう。例えば昔、三者面談なんかに来た時も、一言「この子に任せています」と言って会話を終わらせるのだ。それで担任が困惑していても完全にだんまりだ。それで無駄に面談が長引いたものだから、それ以来は来ることもなくなった。

父と離婚したことが切っ掛けなのだろうか、母は僕に対するコミュニケーションの取り方がわからなくなっているようだ。一度母親が酒を飲んでいた時「あんたはどちらかといえば、あの人に顔が似ているのよ」とのたまっていたことがある。かつての夫と重なって、母なりに思うところがあるのだろう。それなのに"元"夫の家族の面倒を見ているというのだから、不思議なものだ。

僕自身、特に不自由をしているというわけではないし、別にいいのだけれど。


自宅から徒歩で三十分ほどのところに、祖父の家がある。それは民家というには少々大きすぎる豪邸で、祖父の功績の偉大さを端的に表していた。

祖父は若いころ芸術家だったことが知られている。こんな言い方をしたのは、僕が生まれた時すでに祖父が芸術家ではなかったからである。

『このまま芸術家としての活動を続けていたら、教科書に載るような作品を両手の指で足りないぐらい創っていたのだろう』そう言われる程度には祖父は有名な人間で、それなのにある日ぱたりと仕事をやめてしまったという。祖父の最高傑作が生みだされたと同時に<法則>が発動したその日を境に、祖父は一つも作品を創っていない。傑作ができたからなのか、それとも<法則>が発動したからなのか。僕は知らない。

とても広い家だけれど、祖父の居る場所は殆ど一か所しかない。玄関を入ってすぐの階段を下りて、祖父のアトリエへと向かう。いつものように祖父はアトリエの椅子に鎮座していた。とうの昔に芸術家などやめてしまったのに、どうしていつもこんなところにいるのだろうか。祖父に軽い挨拶をして、惣菜を届けに来た旨を伝える。祖父はそれに対して何も答えない。それなのに彼の隣には空になった前回分の容器が置かれている。やっぱりちゃんと食べているんだろうな、と思いながらそれを回収する。

そうしてアトリエを出ようとしたのだけれど、ふと浮かんだ疑問をひとつ訊いてみることにした。

「ねえ、どうして芸術をやめてしまったの。あれだけ才能もあって、世界からも認められていたのに」

祖父は黙ったまま葉巻を咥えている。煙草よりも強い灰の臭いが充満し、何度嗅いでも慣れない僕は反射的に顔を横に向けた。

答える気はないのだろうか、それならそろそろ帰ろうか、ちょうどそう思ったところで祖父は灰を落とし、それからほんの少しだけ口を開いた。

「絵を描かなくなったことが、悲しいことだと思うか」

質問の意図はよくわからなかった僕は、そのまま祖父の家を後にした。


ぽつぽつと降っていたはずの雨は、いつのまにかいくつもの水たまりをつくるようになっていた。僕が信号を待っていると、目の前を自転車が横切った。他の自転車が傘をさしてゆっくりとペダルを漕ぐ中、彼だけが両手でハンドルを握り、雨具も着ずに車輪で水たまりをはじいている。ルールを守って得られる不幸には、一体どのような価値があるのだろう。そんなことを考えるのも億劫になった僕は、彼がたまたま傘を忘れただけであればいいのにと思った。


ふと、青になった信号の先を見る。

交差点の向こう側の公園の屋根付きベンチで雨宿りをしている少女がいた。彼女のもとには一匹の猫、おそらく野良猫が近寄ってくる。鞄からカメラを取りだし、それを撮影し始めた。遠目ではっきりとはわからないけれど、そのシルエットや佇まいがどこか知り合いに似ているな、と感じた。しかしすぐ、きっと見間違いだろうと思いなおす。学校を休んだのに、こんなところで雨宿りをしながら写真を撮っているなんて、そんなはずはないだろう。

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