それは多様性か。
多様性を認める社会。
素晴らしい話です。皮肉るわけではなく、純粋に理想的な思想といえるでしょう。
ここでは、少しいき過ぎてはいませんか? という話をしたいのです。
多様性というものを認めない人は一定数います。
直近でいうと、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の女性蔑視発言などがそれに当たるでしょう。男女平等という職業上の性の多様性に逆らった発言は責められて然るべき、とまではいいませんが、あの立場の上でいうべきではなかったでしょう。当然の帰結です。
他にも、LGBTQIA+などセクシャルマイノリティに嫌悪感を抱いたり、ネタ化して茶化したりする人やベジタリアンやヌーディストを嫌う人など、多様性を認めない人というのは多いです。
それは、フェミニストという言葉が一部では『意識高い系』と捉えられていることからもわかるでしょう。
しかし、今は多様性の時代。
人々の意識の上で、世論で、政策で、多様性は認められる世の中なのです。
だからといって、そうでない人々、つまり多様性を認めない人々を過剰に攻撃していいのでしょうか。
多様性とは、理解であり、協調であり、融和であり、同時に住み分けでもあると思うのです。
その多様性の輪に彼らは入ることを許されないのでしょうか。
多様性を叫ぶ者達が、多様性を認めない者達を認めない、実におかしな話ではないでしょうか。
『多様性を認めない』という一つの主張は多様性に含まれないのでしょうか。
多様性とは、「彼らはそういう考えなんだ」と相手を理解し、「お互いに尊重しよう」と協調、時には相手の考えを取り入れる。そして、どうしてもぶつかってしまうときは互いに触れない。
そういうものだと思うのです。
とは言え結局、現実社会では社会を分けるなんて不可能ですから、なおの事『理解』が大事になってくるのです。
他者を否定することで造られた多様性ほど、空虚なものはないと思うのです。
いつか真に多様性が認められる日を願います。