Period,0-2 『高嶺の花』には毒がある・後編
「おいおい……」
俺は生まれて初めて、自分の耳を疑った。
だってあの綾瀬さんだ。どう考えたって、そんなことはありえないという思考が現実的な思考回路をヒートさせる。しかし、今も聞こえるこの空気をピリつかせるような彼女の罵声は——俺の考えを確信に至らせるための何よりの証拠だった。
「あー、なんか……余計イライラしてきた」
地団駄を踏みつけるだけでは、気が治らなかったようで、その口つきからは、絢瀬さんの苛立ちを感じた。……というか、ストレスを発散するために声まで出して地面を踏みつけていたのに、それに対してもイライラするなんて、どれほどストレス溜め込みやすいタイプなんだよ。
「そうだ」
突然、何かを思い出したように、地面の端っこに置かれていた、学校指定の革製鞄の中を探る。そして、その鞄の中から、一枚の青いハンドタオルを取り出すとそれを地面に落とす。
きっと今日の朝、昇降口で一人の男子からもらったものだろう。
「っ……」
地面に落とした、ハンドタオルを睨み付けていると思ったら、それを今度は踏み始めた。——それも、ぐいっと踏み付けるように。
砂埃がたち、青かったタオルを茶色く染めていく。
「ははっ……」
「……ぁ」
いけないものを見てしまっている気がしてならない。次第に、罪悪感に似た何かに、心が侵食されていく感覚を覚える。
そういえば昨日読んだ『先輩はアンドロイド』にもあった、妹の着替えに遭遇するシチュエーション。その状況に今の現状は酷似していた。なるほど、心理描写が下手すぎてよく伝わってこなかった、主人公の気持ちがようやく分かった気がする。
学園一の美少女の裏を知るということは、つまり、思春期真っ盛りな妹の裸を見てしまうくらいの衝撃だということだ。
「……っと」
ここで、こうやって人のストレス解消に付き合っているほど俺は暇じゃない。
俺には、早く家に帰って山積みになっている未読のライトノベルの消化を始めるという誰に課されたわけでもない義務がある。うむ。それにしても、ライトノベルというものは、どうしてこうも溜まりやすいのだろうか。
俺は、隠れていた公衆トイレ裏から公園の出入り口に向けて一歩目を踏み出す。
———パキッ
足元に落ちていた、小枝を踏んで音が漏れる。ラブコメでよくありがちな展開だと、ここでバレたりするが。
俺は目線をチラッと、絢瀬さんの方へ向ける。
だがこちらには目もくれていない様子だった。まぁ、そうだ。
木の枝を踏みつけたとして、その小さな音に気づくような聴覚を持った人などそうそういるもんじゃない。だから俺は、
——安堵。
いや、油断に似た何かを感じたんだろう。
人は、何かを成し遂げるまでは非常に慎重な生き物だ。だが逆に言えば、その、とあるラインを超えたその先は——非常に脆くなってしまうこともある。
だから俺は完全に次の一歩に対する気が抜けてしまった。
「えっ」
———バタッ
俺はどうやら、足元に落ちていた瓶に躓いて転倒したらしい。完全に綾瀬さんからも見える位置に転ぶあたり、本当に運が悪い。
それについた手と膝小僧が結構痛い。
制服を着ているため、血が出ているとすれば、早く脱いでしまいたいところ。
それより、いつかは知らんがここにビンなんて捨てやがったやつ。ちょっと、俺の前に出てこい。
「だれ……」
……やっぱりか。これはまずいことになった。本当にまずい。
咄嗟に、頭に逃げるという選択肢が浮かんだが、俺よりも運動能力の高い絢瀬さんのことだ。情けない話、すぐに追いつかれて詰みだろう。
ここは俺のネゴシエーションスキルで乗り切るしかないようだ。
俺は立ち上がると、ズボンについた砂埃をはらった。
「い、いやー。別に、僕はただ……そう。トイレを使おうかなと思ってここに来たわけでして」
トイレが近くにあったことを理由に、ごまかせると考えたのだが変な間があいてしまったため逆に怪しくなってしまった。俺のスキルも美少女と危機的状況の前では無力ということか。
そんな俺の言い訳を無視して、近づいてくる絢瀬さん。
——それも無言で。
そして、
「へ……?」
直後、俺の左頬辺りに風が吹きつける。
それが蹴りだと理解するのに、数秒かかった。最低限のモーションで繰り出されたそれは、俺の認識よりも数段速かった。
……一体、どんな体幹してんだよ。
「その制服、君ヶ咲高校のだよね?」
足を下ろした、絢瀬さんが制服のネクタイをつかんで俺に訊く。そう告げる綾瀬さんの目は完全に人殺しのそれだった。普段の優しい目とは異なり明らかに俺に対する敵意を感じさせる。
……というか顔が近い。息くさいって思われてたら最悪だ、なんて考えてるあたりが俺らしい。
「……た、確かにそうだ。うん。だが、俺は去年この高校を卒業したんだ。い、いや、それにしてもまさか、こんな可愛い後輩に会えるなんてなんて運命的なんだろうな〜」
とっさについた嘘にしては、まともだったんじゃなかろうか。声が震えて、正直伝わったかどうかすら怪しいが。
それにしても、ラブコメの神様を恨みたくなるほどに運命的だ。
「そう……」
絢瀬さんは、俺のネクタイから手を離して距離をとる。
「ふぅ……」
どうやら、分かってもらえたようだ。やっぱりこういうことは暴力では解決しない。言葉こそが最大の武器なのだ。
俺が安心感で息をついた、瞬間だった。
今度は、俺の右頬スレスレにさっきよりも速い蹴りが撃ち込まれる。
「っ……」
———黒。
「なに嘘ついてんの? なめてる?」
鬼の形相で俺のことを睨みつける絢瀬さん。
というかその、寸止めする技はどうやっているんだろうか。絶対にあたらない確証ないよね? それ。当たったらどうするつもりなのだろうか。
「…………」
「黙ってないでなにか言って」
「黒いパンツ履いてるんですね。てっきり白かと思ってました……なんて」
俺がそう言うと、絢瀬さんは、再び足を下ろして満面の笑みを作る。
さっきのを見た後にそれをやられると、もう恐怖でしかない。
「……がっ」
絢瀬さんの放った重い一発が、俺の溝落ちにクリーンヒットする。
正拳突きだろうか。それも無言で。
マジで痛い。——中のものが全部飛び散ったんじゃないだろうか。
「ぁ……っ、あの。絢瀬さん」
「へぇ、名前まで知ってるんだね」
「……すごく痛い」
「すごく、痛くした」
はは、笑えねぇ。
「ねぇ、名前。なに?」
「黙秘権はありますか」
「ちゃんと答えたら、もう殴らない」
それは素晴らしい。
絢瀬さんが俺の胸ぐらを摑み、囁く。
今度はさっきより顔が近いのに加え、ほのかにいい香りがした。
「一ノ瀬……です」
「そう。なら学年とクラスは?」
「君ヶ咲高等学校1年C組2番」
それだけ訊くと、絢瀬さんは胸ぐらから手を離す。
そして、一呼吸おいて俺に告げる。
「ねぇ、一ノ瀬くん。このことを誰かに言ったら、あなたの希望に溢れた学園生活がどうなるか想像できるよね?」
「『このこと』って絢瀬さんのパンツが黒かったことで……」
うっ。
「えっ、殴らないって言ってましたよね??」
「私、ちゃんと答えたらって言った」
「なんという理不尽」
本当に。余談だが、『難民』の英語訳は『Refugee』でどことなく理不尽に似ていたりする。
「じゃあ帰る。分かってると思うけど、今日見たことは他言無用だから」
「そもそも俺がなにを言おうが、一平民の戯言で終わると思うけど」
「それでも変に勘ぐる奴が出てくるかもしれない」
「そうかい」
絢瀬さんが、公園の出口と足を進める。
十字路の街灯が彼女の行く道を照らす。
「あっ、そうだ。ついでにそこにあるタオル、適当に捨てといて」
「……なんのついでだよ。まぁいいけど」
そんな彼女の姿を見つめながら、俺はふと心の中で嘆く。
———あれ、普通『絢瀬さん』と『俺』の立場、完全に逆じゃないか?——と。
この度は『Period,0-2 『高嶺の花』には毒がある・後編』を読んでいただきありがとうございました。
次のエピソードもすでに完成しているため、近いうちに公開できると思います。