四
「――はっ!」
気付くと、視界に映る光景は一瞬前とはいくらか食い違っていた。
セドリックとの距離は大きく開いている。
呼吸が上がっている。打撃を受けた記憶の無い位置にいくつか痛みがある。
(何があった……?!)
疑問に思いつつも、ランディはとにかく呼吸を整えることに注力した。
こちらはまともに動けないが、セドリックが攻めて来る気配は無い。
ひょっとして自分が気を失っている間に試合は終わってしまったのかとも思ったが、そういう様子でも無かった。
良く見れば、セドリックもまた脇腹の辺りを抑えながら呼吸を整えているようだった。
さらには、
(……歓声が?)
試合が始まる前から闘技場全体を包んでいた歓声。その殆どは拳闘王者たるセドリックの名を呼ぶものだった。
だが今、そこにいくつか、ランディの名が混じり始めていた。
(どうなってんだ……?!)
ランディが混乱していると、
「……君」
セドリックが、離れた位置から声を掛けてきたのだった。
「君。済まないが、名前を教えてくれないか」
「……何?」
眉をひそめる。
セドリックはこちらを真っ直ぐ見たまま言葉を重ねて来た。
「君の名前だ。対戦相手の名を失念した非礼は詫びる。だから改めて教えて欲しい」
「……ランディ。冒険者だ」
名乗ると、セドリックは頷きを返して来た。
「そうか。私はセドリック。拳闘士だ」
「知ってるけど」
「そうだな」
セドリックの顔に苦笑が浮かぶ。
否。試合が始まった直後辺りまではずっと醒めた表情だったセドリックの顔には、先程、ランディが一度失った意識を取り戻したときから、笑みが浮かんでいた。
実力に開きがあるこちらを侮っているとか、そういった笑みではない。
それは、
「何か……楽しそうすね」
「楽しい、か。そうだな。私は今、楽しい」
頷くセドリック。
「試合で打たれたのは久しぶりだ。若い頃の、勝ったり敗けたりしていた頃を思い出す」
脇腹から手を離し、感覚を確かめるかのように両手を握ったり開いたりし始めた。
「訊きたいのだが……ランディ、君は、何故戦う?」
七日前、コンラッドからも問われた質問だった。
だから、即答した。
「強くなるために」
「そうか」
真っ直ぐにこちらを見るセドリック。
「私もだ。強くなるために、拳闘士を志した。冒険者でなく拳闘士だった理由は……まあ、巡り合わせとしか言えないかな」
どうでも良いように思える会話。立会人が、何か言いたそうにこちらとセドリックとを交互に見ている。
だがランディはそれを無視し、セドリックに向かって一つ頷いた。
「良いんじゃないすか。強さってものの種類も、それを目指す手段も、きっと一つじゃない」
「そうだな」
セドリックが半身になった。左脚を前に出し、右の踵を僅かに上げる。
「打たれた感覚を思い出したついでに、他にもここ数年の試合で忘れていたことを思い出したよ。楽しむことだ。拳闘は、技術を競い合う競技だ。決して利害や憎しみで戦っている訳ではない。だから楽しむことを忘れてはならない。――にも関わらず、忘れていた。
友にも言われたんだ。〝せいぜい楽しんでくれ〟と」
両手が上がる。軽く握られた拳は顔の高さ。肘を下へ向け、顎を引き、やや前傾姿勢になる。
拳闘の構え、最も基本的な構えだ。王者のそれは、まさに堂々としたものだった。
「奇遇すね。俺も言われました。〝せいぜい楽しみなよ〟って、世話になった人に」
ランディは右半身を前に出した。歩幅は肩幅より心持ち広く――今はその方が良いと自然に感じたその幅で。
「戦いを楽しむ、なんてのはあんまり経験が無いすけど、悪いもんでもないかも」
緩く握った両の拳は適当に胸の高さに置く。
「本格的に拳闘士を目指してみるかね?」
「いやあ、それはちょっと。でも、今は全力でやらせてもらいますよ」
「うむ」
互いに頷く。それで、もう言葉は不要だった。
ふと、観客席にコンラッドと訓練士の老人の姿を認めた。
拳闘士が試合場に出入りする通路の脇には、今回のこの仕事の依頼主である興行主が居た。
そして、名も知らない無数の観客たち。
皆が、二人の拳闘士に惜しみない声援を送ってくれている。
悪くない。自分が居るべき場所はここではないが、今だけは。
そして、
「「――――ッ!」」
二人は、同時に動き出した。
●
距離を詰める。
打つ。打たれる。防ぐ。避ける。打つ。避けられる。防がれる。打つ。打つ。打たれる。
防。打。避。打。打。避。防。打。防。防。防。打。避。打。避。打。打。避。
避打避防打打打防打避避打防防打打避打打打防避打避打防防避打打防。
数限りない打ち合い。その果に。
西方武芸の元となったドワーフの武芸に、一つの伝説がある。
武芸を体系的に身につける才に恵まれなかったがため、たった一つの技だけをただただ修練し、やがて極めた拳士の伝説。
半歩踏み込み、中段に構えた拳を突き出す。その一つの技だけで勝ち続け、生涯無敗だったというそのドワーフが実在したのかは判らない。
だがそれに憧れ、その技を何度も何度も練習してみた時期があった。
一年ばかり経った頃に試してみた結果、厚手の杉板を打ち抜くことが出来た。同時に拳の骨にも亀裂が入り、以後熱を入れて練習することは無かったが……
今、セドリックとの距離は三メートル程。その空いた距離を、互いに詰めようとしている瞬間。
拳を、腰溜めに構える。後ろにある左脚で地面を蹴り、前の右脚を半歩前方に向かって踏み出す。
踏み込む。強く。大地を震わす程に。腰を落とす。沈める。軸足から拳に掛けて、捻る動きを加える。
そうやって生まれた諸々の力を、全て、集約する。前に出した右拳に。その一点に。その一瞬に。
――打つ!
ずどん、と、そんな音が実際にした訳ではないが、それ程の勢いでランディの拳打がセドリックの腹部、水月からやや横にずれた辺りに入る。
かつてない程の手応え。この一撃がまともに入ったならば立っていられる者は居ないと言い切れる確信。
だが、
「――――ッッ!!」
セドリックが身を捻った。元々半身だったのが、完全に横を向く形になる。
その動作で、芯を捉え切れていなかったランディの拳が受け流される。
肋骨に亀裂ぐらいは入っただろう。その痛みに歪みつつも、笑みを失わないセドリックの顔が間近にある。その拳が構えられている。
「……ははっ」
ランディが乾いた笑いを漏らす。
そしてセドリックの拳が放たれ、それが決着となったのだった。