一
観客席はほぼ満席だった。
円形闘技場。フィラスウィッチの町の中心に建てられた、この町の名物とも言える建物だ。
試合はまだ始まってもいないが、場内は既に熱気に包まれている。
観客たちの声援の先、中央にある直径二十メートル程の砂地の試合場には、三人の人間が居た。
一人は長衣をまとった立会人。試合が規則通りに行われるよう管理することを役目としている。
残る二人が試合を行う拳闘士だ。
一人の名はセドリック。年齢は三十歳代の半ば。明るい色の長い髪をうなじの辺りで結わえ、裸の上半身は細身だが引き締まった筋肉に覆われているのが見て取れる。下半身はゆったりとしたズボンだけを履き、足は裸足。そして両の手には、革の帯が巻かれていた。手首から先をがっちりと固め、握った拳の特に前面を厚い革地が覆う造りをしている。
拳闘士とは、武器を用いずにその二つの拳のみで闘う〝拳闘〟を生業とする職業競技者だ。そのそもそもの源流は古代において太陽神に敬意と感謝を示すために行われた神事であり、立会人の服装が司祭のそれに似ているのは、かつては実際に司祭が立会人を務めていたことに由来する。時代が下ると共に見世物としての色が濃くなり、一時は奴隷同士をどちらかが死ぬまで戦わせていたこともあったというが、現代においては整備された規則に則って行われる競技である。
フィラスウィッチの町は古くから拳闘が盛んで、ラファール王国各地から腕に覚えのある拳闘士たちが集まって来る。その中にあってセドリックは、三年前から不敗の王者として君臨していた。不敗故にここしばらくは対戦相手にも不足し、今日は実に半年振りの試合だった。
腰に手を当て、首をこきこきと回している。醒めた眼差しが見据える先にもう一人の拳闘士が居た。
少年と青年の中間程の年頃の、若い男。セドリックと同じ服装で、同じ革帯を巻いた手を慣れない様子で握ったり開いたりしている。
彼は、正確には拳闘士ではない。冒険者だった。
対戦相手を見つけるのにも苦労するセドリックのために興行主が考えたのが、拳闘士以外の相手との特別試合というものだった。それは例えば傭兵でも何でも良かったのだが、たまたま町を訪れていたその冒険者が興行主の目に留まり、冒険者の仕事として依頼を受け、セドリックの対戦相手を務めることとなったのだった。
ランディというのが冒険者の名だった。
拳闘の試合場という慣れない場に、ランディは戸惑っていた。
裸でこれだけの人数の只中に立つというのも、そこでこれから戦うというのも、あまり経験は無い。しかもそれは、規則が定められ、それに則って勝敗が決められる戦いだ。冒険者としての、ゴブリンやオーガやトロルといった俗に怪物などと呼ばれる生き物や、或いは賞金を懸けられた犯罪者などを相手とした、まさに生きるか死ぬかの戦いとはあまりにも異質だった。
正確には、規則も観客も、全く初めてという訳でもない。
例えば貴族の決闘の代理という仕事をしたことが何度かある。冒険者の仕事としては稀によくある類のものだ。ラファール王国での決闘は、通例七名の見届人(双方からそれぞれ三名ずつ、及び中立者一名)が立ち会い、決闘者のどちらかが血を流した時点で終了という規則が定められている。
だが、今この場に居る観客たちは神聖な決闘の見届人とは全く異なっていた。贔屓の拳闘士(ここでは殆どがセドリックだ)に遠慮無く声援を送り、どうやら金も賭けあっているらしい。
試合規則も非常に多項目に渡り、特に禁則事項が多く定められていた。簡単にまとめるならば、使って良いのは拳の前面を用いた打撃のみで、当てて良いのは相手の上半身の前面のみ。蹴りはもちろん、拳槌や掌底、貫手、裏拳、手刀、背刀、肘打ち、頭突き、体当たり、掴み、投技、関節技、後頭部や背中その他の急所を狙った打撃、道具の使用(この場で手に入るのは地面の砂か穿いているズボンぐらいのものだが)も全て禁止で、過失であれば警告、そしてそれが繰り返されたり或いは故意と判断されればその時点で敗けとなる。
勝利条件は打撃による失神、或いは相手の降参。また立会人が危険だと判断すればそこで終了となる場合もある。
いずれも拳闘士の死亡や過度な負傷を防ぐためのものだ。ならば初めから戦いなどしなければ良いのではないか、などとランディは考えるのだが、そういうものでもないらしい。
まあ木剣などを用いた訓練としての模擬戦闘と同じようなものだろう、と考え、また拳闘士という普段ならば特に関わることの無い者たちの戦いとはどのようなものだろうかという興味本位から受けた仕事であるのだが、
(……舐めてかかるとまずそうだ)
セドリックの放つ雰囲気にそんなことを考えていると、やがて立会人が声も高らかに両拳闘士の紹介を始めた。言うまでもなく不敗の王者であるセドリックに、旅の冒険者であるランディが挑戦を表明した(と、そういう筋書きでという依頼だった)。王者セドリックはこれを快諾、これは特別試合であり、挑戦者ランディには勝利の場合は敗北の場合の倍の賞金が支払われる(これは本当。正しくは賞金と言うより依頼料だが)、云々。
そして、
「――始め!」
試合が始まったのだった。
●
構える。
右半身を前に出し、歩幅は肩幅程度。重心は真ん中辺りで、緩く握った両拳は適当に胸の高さに置く。構えと言う程のものでもない、ランディがいつも戦闘時に取る、いつでもどのようにでも動けるよう備えた体勢だ。歩幅も手の位置も特にこだわりがある訳ではない。
対するセドリックは、左半身を前にして両手はだらりと下げたままの自然体。重心はやや前に出した左足に掛け気味であるらしい。どこか詰まらなさそうな顔つきでこちらを見ている。
距離は、互いに剣でも持っていれば間合いだろうか、という辺り。拳打の応酬を交わすにはもう少し近づく必要があるだろう。
相手を見る。セドリックの全身を。その周囲を。視界の端まで。端を越えて後方まで回り込んで見られると信じる心持ちで。見る。視る。観る。
周囲の状況。使える環境。敵の数。
(……っと、敵は一人、なんだよな)
立会人が視界に居るが、彼は気にしなくて良い。筈だ。
どうにも慣れない。
そうこうしていると、おもむろにセドリックが上体を上下左右に細かく振り始めた。始めはゆっくりと。それから徐々に速度が上がる。
そこから何か動きを見せるかとその一挙手一投足を見逃さないよう注意を強める。
だがセドリックはそれ以上の動きは見せない。
ならばこちらから動こうか。そう考えたまさにその瞬間、セドリックの両手がすうっと顔の高さまで上がった。
かと思うと、
「――ふッ!」
鋭い踏み込みと共に左拳が突き込まれて来た。
こちらが静から動へ移ろうとした一瞬の隙を突き、十分にあった筈の間合いを一瞬で潰し、左右に一切ぶれることのない、真っ直ぐの一撃。
顎の辺りを狙っていたらしいそれに、適当に前に出していた右手が当たって軌道がずれたのは、おそらく半ば偶然だったのだろう。ぱしん、と乾いた音を響かせて、革帯が巻かれた拳がランディの額を打つ。
左拳が引き戻され、今度は右拳が来る。顳顬に向かって弧を描くように飛んで来るそれは、左腕でどうにか防いだ。
間を置かず左が来る。そして右。左。また左。右。
恐ろしい程正確に、こちらの顎か左右の顳顬を狙って雨あられと拳が打ち込まれて来る。
それら一つひとつを個別に防御してはいられない。ランディは両腕で頭を挟むようにし、顎は肩の内側にくっつけ、防御の上からただ打たれるに任せる。
こんな連打がいつまでも続くものでもない。必ずどこかで、呼吸を挟む必要が出て来る筈だ。そこが唯一の、反撃の好機。
そしてそれはもう間も無くであると、ランディの勘が告げていた。
あと四秒。三秒。二秒――
(今だ!)
左拳が引き戻され、しかし右拳が来ない。針の穴を通すような、ほんの刹那の間。
そこへ捻じ込むように、反撃に移る――移ろうとする。
だが、
「――――ッ?!」
セドリックの右拳がランディの水月に突き込まれていた。頭部への攻撃が集中していたために完全に意識から外れていた腹部への、それも先程までの連打のような速度を重視したものではない、しっかりと腰の入った一撃だ。
衝撃に身体が硬直し、防御が開く。その隙間を縫うようにして、続く左拳が、ランディの顎をまともに捉えた。
身体が宙に浮くような感覚の中、ランディは悟っていた。読まれていたのだ。試合開始からここに至るまでの、全ての動き、全ての流れが。
感嘆と共に、彼の意識は闇に沈む。