第43話 チャンピオンの器
ゴングが鳴った。
今日一日後楽園ホールにいただけで、僕らはボクシングの試合の流れがなんとなく分かるようになった。
静かな立ち上がりだ。チャンピオンはインファイトもアウトボクシングもこなすオールラウンダー。対する東金はインファイターだが、左右のフットワークも屈指の、”スプリンター”、だ。そして僕は実際に対峙した、あの人間とは思えないスピードのステップ・インがリング上で見られることを期待した。
先に動いたのは東金だ。
打った瞬間にはもう拳が胸元に戻っている、目の覚めるようなジャブ。チャンピオンのガードするグローブに当たり、パーン!、と乾いた音がこだまする。
「おおーっ!」
会場がどよめく。
「よーし、走ってるぞ!」
セコンドにいる会長の声も場内に響く。
東金を応援するつもりなんてなかったけれども、僕は自分自身を彼に投影してしまっていた。気が付くと、東金と一緒にチャンピオンと戦っているような気分になる。
東金の動きは素晴らしかった。
ジャブを放った後、必ず頭を振って次の攻撃態勢に移れるぞ、というプレッシャーをチャンピオンに与える。ガードの上からではあるが、左右ほぼ同時にヒットしているのではないかというワン・ツーも出した。
「らしくねーぞ、大道っ!」
「どーした、どーしたっ!」
東金のファンがチャンピオンに野次を飛ばす。事実、チャンピオンは東金のシャープな動きに対してジャブすら一発も放てずにいるのだ。
東金に歓声が送られる中、2分30秒が過ぎた。
「このラウンド、取ったね」
ポイントのことを言っているのだ。志成がにわか通っぽいコメントをした瞬間だった。
「行った!」
東金が、テレポーテーションのようなステップ・インをついに出した。
パ・パ・シッ、スパン!
・・・けれども、この連続音の後、リングで尻もちをついているのは東金だった。
「何だ、これは・・・」
これも僕の授かった能力なのか。チャンピオンがしたことが全部見えた。
ステップ・インして飛び込んできた東金のリバーに左でカウンターを取る。返す刀で左ジャブを顔面に叩きこんで東金の上体を起こさせ、更に半歩右へ再度ステップして、安全圏から45°の角度で右ストレートを放ち、東金の顎を打ち抜いた。
東金の顔面は無傷できれいなままだ。けれども、前に投げ出した両足は別の生き物のようにビクン、ビクン、と激しく痙攣している。東金の顔を一瞥すらせずにレフェリーは両手を交差し、チャンピオンの右拳を高々と上げる。激しくゴングが打ち鳴らされた。
チャンピオンは東金の様子をちらっ、と気にかけるが、健闘を称え合うような状態ですらなかった。仕方なく勝者インタビューに応じ始める。
「放送席、放送席ー、終わってみればあっという間の出来事でした。チャンピオン、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
大歓声で周囲の音が聞こえない程だ。
「まさに電光石火でした。いかがですか、東金選手の印象は?」
「はい。東金選手が踏み込んできたときは正直恐怖を感じました。それぐらい速く鋭いステップ・インでした」
「しかし、見事それを迎撃しましたね」
「はい。もう、余裕はありませんでした。考えてたら多分、僕の方が倒されてたと思います。反射だけで体が動いてくれたので本当に助かりました」
パ・パ・シッ・スパン! という音は10分の1どころか、100分の1秒単位の出来事だった。1音にしか聞こえなかった人もいるだろう。ましてやパンチの間にサイドステップさえ混ざっていたことを認識できたのはリングサイドにいる専門家たちだけではないだろうか。
いや、それすら怪しい。
華やかなリング上の陰で、東金が退場していく。会長に抱えられ、一応自力で歩いている。
彼へ拍手を送り、労いの言葉をかけている客も、次の瞬間には、眩しそうにチャンピオンの姿を目で追っている。
「大志?」
「ああ・・・チャンピオンがあんまり強いもんだから、ちょっとショックで」
「うん。東金さん、負けちゃったもんね」
「いや、そうじゃなくって・・・」
「え?」
冷たい汗が全身を流れる。
「もし、あの日の敵がチャンピオンだったら・・・玄関前で僕は死んでた」




