第34話 遭遇戦は、突然に
事態が急展開する、というはまさしく今の事を言うんだろう。
そして恐ろしいことに、”最悪の事態”、というのも当てはまってしまう。
アランのマスターから僕の携帯に着信があった。親水公園でトレーニング中だったので気付くのが遅れた。
マスターが僕に電話してくることなど普段ないし、何かまずいことが起こったと直感した。
しまった! と思ったけれども、心を落ち着かせてマスターに電話する。
「あ、大志くん?志成ちゃんは?」
「買い出しに行ってる」
「そっか・・・まずいな」
「どうしたの?」
「さっき、東金さんが来て、志成ちゃんの雇用ファイルを持っていっちゃったんだ」
「え?どういうこと?渡しちゃったの?」
「ごめん。でも殴られたんだよ!」
「ええっ!?」
考えが甘かった。
ボクサーの拳は法律上凶器として扱われる。一般人なら単に傷害事件として扱われるところを殴っただけで場合によっては殺人未遂に問われるのだ。加えて来月タイトルマッチを控える身だ。少なくとも平時に自分の方から攻撃を仕掛けてくるとは思わなかった。
「マスター、大丈夫なの?」
「なんとか。脇腹を軽く打たれただけで動けなくなったけど今はなんとか」
リバーブローってやつだ。たぶん手加減して打ったのだろうけれども、無防備な素人がボクサーから正確に肝臓を狙われたのなら触った程度でも悶絶するはずだ。
「志成ちゃんの携帯も大志くんの家も電話してもつながらないんだよ」
志成は多分マナーモードにしたまま自転車のかごにかばんを入れてる。ばあちゃんは畑だ。
「お客さんもいなかったし、迷ったけど警察に電話してないんだ」
僕は取るべき行動を即座に決めた。
「マスター、ありがとう。僕でなんとかできる」
電話を切って携帯だけウエストポーチにねじ込み、他の荷物は財布から何から放り出したまま、僕は家に向かってダッシュした。
『自転車で来ればよかった』
親水公園の行き来もトレーニングのため走りだったのだ。後悔したけれども選択肢は他にない。
東金が人を殴ってまで雇用ファイルを奪ったということは今すぐ志成に会いに行くということに他ならない。当然、そこに書かれている自宅の住所、つまり我が家だ。ひたすら100m走のようなダッシュを続けるしかなかった。
ようやく先代家の軒先が見えて来る。
平日の昼下がり。通りには誰もいない。玄関前に2人、立っている。
東金と志成だ。
僕の目でまず認識したのは今は志成が使っているかすみのママチャリが倒れているのとその脇に落ちたエコバッグからかぼちゃと小かぶが転がっているのとだ。僕はその食材を見て晩ご飯のメニューを推測する余裕すらその瞬間はまだあった。
けれどもふっ、と目を上げて2人を見た途端、凍り付いた。
東金の姿にではない。
志成を見て、だ。
志成はナイフのような小さな刃物を両手に握り込んでいた。しかもそれは東金に向けられているのではない。志成はきゅっと小さな拳で拝むように刃物の柄を包み込み、刃の部分を上にして切っ先を自分の喉に突き付けていた。
あのナイフは何なんだ?どっから出したんだ?状況は理解できないけれども、今目の前で起こっているこれが事実だ。
志成は微動だにしない。手も全く震えていない。
多分、心もまったく微動だにしていない。圧倒され動揺しているのは東金の方だった。目元はぴくぴくと痙攣し、中途半端にファイティングポーズを取っている。この状況で志成に向かってファイティングポーズを取ることの意味をつかみかねたが、多分ジャブのスピードで刃物を捨てさせられると考えたんだろう。
けれども、それは本当に自分を刺す気がない相手に対してなら有効だろうが、迷いなく突き刺す覚悟を決めた相手には通用しない。
志成は躊躇なく刺すだろう。
理屈でなく、他者にそれを分からせる力が志成にはある。志成はただの、”女の子”、ではない。僕は志成をある意味恐ろしい女だと思った。
ばあちゃんが僕にそう望むように、志成も、”武士”、たらんとしているようだ。
ふっ、と東金が僕に気付き、振り向く。
僕の登場により志成のプレッシャーから解放された、とでも思ったのだろうか。
彼は一瞬薄い笑みを浮かべる。僕は東金が逃げ出すんじゃないかと期待したけれども、違った。彼は物凄い俊敏さで僕に向かってファイティングポーズを取り、電撃のようなスピードでステップ・インしてきた。
本能と反射で判断し、僕は背を向けて逃げた。そのままダッシュする。東金もダッシュし、僕を追ってくる。志成が自転車を立て直し、素早くこぎ始めるのが音で分かった。
実はこれまでの間、3人とも一声も発していない。だから、映画のスローモーションの中にいるような錯覚すらし始めていた。
その静寂を志成が破る。
「誰か、助けてください!」
住宅街全体に響き渡るような、けれども澄んだ高い声。でも家々は無反応だ。
当然だろう。トラブルに巻き込まれるのは嫌だろうし、仮に誰か出て来てくれたとしても。元陸上部の男と現役ボクサー、それにママチャリとはいえ、トレーニングで鍛えた女子高生が立ちこぎで疾走させる自転車。一体誰がこのスピードについて来られるというのか。
電話してくれたとしても警察が僕たちの位置をつかむ頃には、全て終わっているだろう。




