鮮の章-4
ルカは一人、とぼとぼと道を歩いていた。左手をじっと見つめている。中指には、シランからもらった指輪が嵌められていた。
左手──ルカは自分のそれを虹の瀬のものと重ねる。
虹の瀬の薬指が欠けた左手を。
「ルカちゃんはゴッホって知ってる?」
指の欠けた左手を気にかけるルカに、虹の瀬はそんな話題を振った。
唐突な話題にルカは疑問符を浮かべながらも応じる。
「確か"ひまわり"とかで有名な画家さんですよね」
「そう、そのゴッホ。フルネームはヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。伝記とかで読んだかな?」
「ああ、はい」
うっすらと記憶にある名前だ。
彼は世界的に有名な画家の一人。しかし、今でこそ有名だが、生前は全くその絵の価値が認められず、苦しい生活を送った……というものだっただろうか。
「そう。そんな彼の話の中で有名なのが、一時生活を共にした画家から自画像の耳が変だと指摘され、左耳を切ったという話」
その話にルカは思わずうっと手を口元にやる。その様子にごめんなさいね、と謝罪の意思を向けつつも、虹の瀬は続けた。
「ハルカもね、発見されたとき、左耳がなかったそうよ」
「えっ……」
ルカは絶句する。
「"七つの子"の母の役割を自ら引き受けたの。カナタが蘇ると信じてね。けれど何故彼女は片耳だけしか切らなかったのか……いいえ、きっと切れなかったのね。右耳を切る前に事切れてしまったのかもしれない」
虹の瀬はそう言い、瞑目する。黙祷なのかもしれない。祈っているようにルカには見えた。
「"七つの子"の最後で、母親は双子の息子にそれぞれ一つずつ、耳をもがれるわ。兄が左耳を、弟が右耳を、ね。
ハルカは左耳しか捧げることができなかった。ならば右耳はどうするのかしら? ──わかる?」
ルカは反射的に首をふるふると横に振った。何か、考えてはいけないような気がした。
その直感は正しく、虹の瀬は恐ろしい仮定を告げる。
「おそらく死ぬ前に"双子兄弟の弟"が誰かの左耳をもいだでしょうね」
息を飲む。
"双子兄弟の弟"──シランが、誰かの耳を。
最期、ルカに触れようとしたシランの手。
それは──
「それが失われるくらいなら、私の指一本なんて、安いものよ。いらないし」
「いらないって、先生!」
反論しかけるルカに虹の瀬は自分の左手を右手で包み、苦い笑みを浮かべた。
「日誌を読んだなら、知っているでしょう? 先生は癌で子どもが生めない体になったの。それにもう四十過ぎのおばさん。結婚適齢期なんてとっくに過ぎているわ。だから、左手の薬指なんていらない」
ルカは何も言えなかった。
救ってもらったのに、ルカは虹の瀬を救うことができない。
「あなたはまだまだこれからなんだから、大切にしてね」
その言葉に痛みを感じずにはいられなかった。
痛みを思い出し、手を握りしめるルカ。
けれど直後にはきっと前を向き、しっかりとした足取りで進んでいく。
目の前に目的地が見えてきた。
階段を上がっていく。そしてある扉の前で呼び鈴を鳴らす。
「はぁい。……あら、ルカちゃん。よぐおんなすたごだ」
「こんにちは。加賀美さん」




