鮮の章-1
倒れかかってきたシラン。触れた左肩のぬらっとした感触にルカは現実味を感じることができなかった。
呆然としたまま、なんとなく視線を落とす。蹲る虹の瀬の傍らに、腕。
左腕のようだ。何かを握りしめている。
だが、それが何かを確認する前に、子どもたちが駆け寄ってくる。
「わぁっ、シラン兄ちゃん大胆! ルカ姉ちゃんに抱きつくなんて」
「羨ましい〜。ルカ姉、ぼくも抱っこ〜」
「ずるーい。あたしも」
「あ、え、待って、みんな」
「ルカ姉離したくないって? もうイチャイチャしちゃって」
「これだから最近の若者は! な〜んて」
「…………」
「…………」
「…………」
「あ、れ?」
子どもたちが一連のからかい文句を言い終え、静まり返る。一人一人、だんだんと異変に気づいていく。
「ねぇ、お兄ちゃん。なんで怒んないの? マセガキとか、お前ら俺より若いだろ、とか、いっつも色々言うじゃん」
「シラン兄、シラン兄ちゃん? どうして何も言ってくれないの? もしかしておれたち、からかいすぎちゃったかな。呆れちゃった? 嫌いになった? それならごめん。ごめんなさい。足りなきゃいっぱい謝るよ。こっち見てよぉ」
「シランお兄ちゃん、ねぇ、どうしたの? 返事してよぉ。わたしはシランお兄ちゃんのこと、ずっとずっと、大好きだよ?」
「ねぇってば」
「シラン兄」
「シラン兄ちゃん」
子どもたちの声が不安を帯びたものに変わってくる。ルカはその悲痛さに耳を塞ぎたくなった。
そこで思わず──シランの体から、手を放してしまった。
どさり。
重力に従って崩れ落ちる体。左肩からだらだらと流れ続ける赤々としたものがあっという間に水溜まりを作る。
眼鏡がくしゃりと歪んだ。レンズが割れ、破片が肌に突き刺さる。傷からつうっと血が出たが、本人はぴくりとも反応しない。
目はどこを見ているかわからない……何もないがらんどう──
そこまでルカが認識したところで、シランの目を覆う手があった。虹の瀬が脂汗を滲ませながら、シランの目をそっと隠している。
数秒ほどそうして、虹の瀬が手を退けると、シランは眠るように目を閉じていた。
「職員の誰でもいいです。一人は救急車を、一人は救急箱をお願いします。包帯を多めに。みんな、ごめんなさい。せっかくのパーティーだけど、続きはまた今度ね。先生たちと遊んでいてちょうだい」
冷静な指示を出す虹の瀬に、職員たちは弾かれたようにぱっと動き出した。一人は職員室へ、一人は救急箱を探しに、他の者たちは子どもたちの方へ歩み寄る。
しかし、職員が声をかけるより先に、子どもたちは一歩、また一歩と虹の瀬の方へ──床に崩れたシランの方へ向かっていく。
「いんちょ、シラン兄ちゃんは?」
虹の瀬はぎゅっと唇を噛んだ。けれど眼差しを子どもからそらさない。そらしてしまったら、子どもはきっと悟ってしまう。いや、もう半ば気づいているのかもしれないが。
「落ち着いたら、みんなに話してあげる。それまで待っててくれるかな?」
「いんちょ、絶対話してくれる?」
「うん、約束。破ったらめってしてね」
「……わかった」
子どもたちはそれで納得して、去っていった。本当はほとんどが答えに辿り着いていただろう。それでも彼らが何も訊かなかったのは、彼らのほとんどが捨て子で"我慢"を知っていたから。
「ルカちゃんは残ってくれる?」
虹の瀬が切なげな瞳をルカに投げかけた。ルカはゆるりと首を縦に振った。
それを確認し、虹の瀬が言葉を続けようとしたとき、救急箱を取りに行った職員が戻ってきた。
職員から箱の中の包帯を受け取ると、虹の瀬は先程からずっと押さえつけていた右手を左手から離す。
それを見て、ルカは息を飲んだ。
虹の瀬の左手は、薬指が欠けていた。




