始の章-4
ルカの耳は異常なほどにいい。今姿も小さく見えるほどの家でどんな会話がされているのか、明瞭に聞き取れるくらいに。
シランには全く聞こえないのだが、シオンと帰るといつもこうなのだ。おそらくあの外面夫婦はまた"しつけ"とやらをシオンに施しているのだろう。シランは僅かに眉間にしわを寄せる。すっと立ち上がった。
「ルカ、ちょっと待ってて」
「シラン?」
何かを決意したようなシランの表情にルカは不安を覚え、ダッフルコートの裾を掴むが、するりと簡単に抜けられてしまった。シランはそのまま、元来た方へ走り去っていく。シオンの家の方へ。
「シラン、待っ」
「こんにちは!!」
ルカの制止は届くことなく、シランの怒声に近い挨拶が響く。塔藤夫妻のような不快感はなかったが、やはりルカの敏感な鼓膜には堪えた。
ばたん。扉を開く音。シランの声からずっと止んでいた塔藤側の音が動き出した。
「あら、シオンのお友達の……」
人のよさそうな女性の声。塔藤の奥さんだ。
「何やってるんですか」
ちょっと息の乱れたシランの低い声。それに反応し、「シランにい、ちゃん?」と呼び掛ける弱々しい声があった。直後の「てめぇは黙ってろ!!」という野太い怒鳴り声にルカの心臓がびくりと跳ねる。耳を塞いでも聞こえてくる殴打音。ルカは涙をこらえながら蹲る。
だが、不意に殴打音が止む。塔藤夫妻が息を飲む。ルカがそっと耳から手を放すと、聞き慣れた少年の声がした。
「痛いです」
彼は静かに言った。
「痛いです」
もう一度彼が言うと、野太い声が反論した。
「そんなの、オマエが勝手に割ってきたんじゃ」
「シオンは」
その反論を遮って彼は──シランは言い放つ。
「シオンはいつもこんな痛い思いをしているんですね。辛い思いをしているんですね。それを見過ごせなくて、僕は今ここに来ました」
「でもこれは"しつけ"なのよ! シオンが全然いい子じゃないから親であるアタシたちがたくさんしつけてあげなきゃいけないの。それの何が悪いっていうの?」
女のヒステリックな声がルカの耳を貫く。きんきんとした声にルカの頭が痛んだ。
「親だからと言えば、何をしてもいいとお思いですか?」
しかしシランは全くひるまず問いかける。塔藤夫妻は答えない。シランは畳み掛けるように続ける。
「あなた方はこれを"しつけ"と言いますが、果たしてこれが本当に"しつけ"になっているんでしょうか? 逆効果になっているなんてこと、考えたことはありませんか? 例えば、あなた方のやっているように言うことを聞かないからと思いどおりにならないからと全て暴力で片付けているとしたら? それでもあなた方はいつもどおり制裁をもって"しつけ"としますか? 子は親に似ると言います」
「それがどうした? シオンはオレたちの子だが里子だ。血の繋がりはない」
野太い声の反論にシランは小学生とは思えないほど淀みなく返す。
「ご存知ですか? 子は親に似るというのは血の繋がり、つまりDNAの遺伝によるものという風に解釈されがちです。もちろん、その説も百パーセント間違っているわけではありません。容姿や体の発達具合、内臓などの弱い器官、病気など身体的な特徴は親からの遺伝からきているものが多くあります。その一方で本人の性格、生活習慣、癖など性質的──人格的な部分は育てた人からうつるもの、というのが有力とされています。わかりやすいところが利き手とかですね。両親が右利きでも左利きの親戚などに育てられると左利きになる場合もよくあります。"生みの親より育ての親"という言葉もありますしね。シオンくんのように物心つく前から育てられたのなら"育ての親"の影響が大きいのでは?」
理詰めの長い説明に。
「それがなんだぁっ!?」
塔藤夫妻は壊れた。
ばしんっがすっ
破裂音と鈍い殴打音がした。ルカは小さく悲鳴を上げ、耳を塞ぐ。が。
「殴りましたね」
二打目、三打目と果てしなく続くと思われたその音は冷たい声の前に止まった。声が淡々と告げる。
「いいですよ、殴っても。ただし俺はシオンくんを連れて逃げます。警察に駆け込むかもしれません。顔を殴られましたし、充分な証拠になるでしょう」
冷静すぎる一言にルカですらぞくりとする。塔藤夫妻は言葉を失ったのか黙り込み、シランが「行こう、シオン」とだけ言う。ぱたんと扉を閉める音。そこから二つの足音がこちらに近づいてくる。
「待たせたね、ルカ」
見上げると、頬を腫らしたシランがシオンと手を繋いで立っていた。
「……聞こえてた?」
「うん」
「ごめん、怖がらせたね」
シランがルカに肩を貸しながら立ち上がらせる。その声には先程と違いちゃんと温もりがあって、ルカはほっとする。
「ちょっと遠回りをして生染地区の警察に行こうと思う。帰りが遅くなるけどいい?」
「うん」
頷き、シランの顔を見て眉をひそめる。
「シラン、血……」
シランの口から赤が一筋流れていた。シランは袖で拭おうと手を当てて痛っと顔を歪める。代わりにルカがハンカチを出して拭った。
「ありがと。でも大丈夫だよ、これくらい。むしろこれくらいの方が警察に届け出やすくていい」
「シラン兄ちゃん」
縮こまっていたシオンが声を上げる。
「なんで、そこまでして」
しりすぼみに問うシオンにシランは微かに笑む。
「それはちょっと難しい話だから、今度な」
そうして三人は歩き出した。