始の章-10
翌朝。学校へ向かうルカの足取りは重かった。
何故なら、シランは入院で休みだし、その上シオンのうちに行かなければならないのだ。いつも迎えに行っているから、シオンのうちに行くこと自体に何も不自然なことはない。しかし、昨日の今日である。シオンは無事だろうか。
一人で行かねばならないということもより一層足を重くしていた。
久遠地区の塔藤家前に着く。
震える手でルカはインターホンを押した。
「はーい」
機嫌のいい塔藤夫人の声がわりとすぐに返ってくる。ルカは一つ息を飲み「ルカです。シオンくんはいますか?」と返す。
がちゃ。
「おはよう、ルカ姉ちゃん!!」
予想していたより元気そうなシオンが玄関から飛び出してくる。「いってきます」と中に声をかけ、鍵を閉めて、とてとてとルカに駆け寄った。
「えへへ。よかった。ルカ姉ちゃん来てくれた」
「当たり前だよ。おはよう、シオンくん」
無邪気な笑顔に涙腺が緩むのを必死にこらえながら答えた。さりげなく伸ばされた手を繋ぎ、歩き出す。
昨日のことを二人共口にしようとしなかった。シオンは気を紛らすためか「あ、鳥さん!」「梅の花、蕾がついてるよ!」などと色々指差す。
なんだか痛々しくて、ルカはそうだね、と他愛のない受け答えしかできなかった。
その日の二時間目と三時間目の業間。ルカは次の時間の準備をし、ぼーっと空を見つめていた。いつもの話し相手のシランがいないため、そうするくらいしか時間の消費方法がないのだ。
鳥も飛ばない寒空を見上げていると、ふと上の階から歌が聞こえてくる。耳慣れた童謡「七つの子」だ。音楽の授業があるのだろうか。子どもたちが元気に歌っても哀愁漂うその歌は、真っ昼間の明るい空には不似合いだった。
聞くともなしに聞いていると、突然その歌声がどよめきに変わる。「おい、大丈夫か!」「きゃああっ!」「保健室に」などの言葉から察するに、誰か倒れたのだろう。
そのまま耳を澄ましていると、音楽の先生が児童たちに言う。
「では、先生がシオンくんを運ぶので、皆さんは先生が戻ってくるまで自習していてください」
シオン!?
ルカはがたんと立ち上がり、周囲からの奇異の視線を気にも留めず教室を出た。声をかけてきた教師も無視し、一心不乱に保健室を目指す。
「失礼します、シオンくんは!?」
ルカがノックもせずに入るなり言うと、養護教諭は目を丸くした。
「あなた、授業は?」
「そんなことはどうでもいいんです。塔藤シオンくんはいますか?」
シオンの名を出すとそれに連なりルカの顔を思い出したらしい養護教諭がそこよ、と一つのベッドを示す。
「疲労と栄養失調ね。寝かせておいてあげなさいな」
「……でも」
不安の拭えぬルカが懇願するような目で見るのに、養護教諭は諸手を挙げる。
「傍にいてもいいけど、先生に怒られても知らないわよ」
「ありがとうございます」
ルカが頭を下げると、ちょうどチャイムが鳴った。
二、三十分したところで、シオンがうっすらと目を開ける。すぐに傍らのルカに気づき、疑問符を浮かべた。
「ルカ姉ちゃん?」
「シオンくん! よかった……」
起き上がったシオンをルカはぎゅっと抱きしめる。う、とシオンが呻くのに、ルカが慌てて手を離した。
「ご、ごめん」
「けほっ。大丈夫だよ。それよりルカ姉ちゃん、授業は?」
「それよりってなんですか。わたしはシオンくんの方が大事よ」
ルカの言葉にシオンが泣きそうな顔で微笑む。
「気がついたのね」
養護教諭がカーテンをさらりと引いて入ってきた。
「どうする? 一応親御さんに連絡して、早退する?」
養護教諭の問いにシオンの目が光を失い、凍りつく。固まってしまった彼の代わりにルカが首を横に振った。
柔らかく抱きしめても痛みを感じてしまうのは、体にある傷のせい。その傷をつけた人のところになんて帰したくなかった。
養護教諭もそこの事情を承知しているのか、わかったわ、とだけ呟き、仕事机に戻る。
「……帰りたくないな」
シオンが珍しく本音を口にした。その一言一句を逃すまいとルカは耳を傾ける。
「だって、給食くらい食べたいもん」
続いた言葉にルカは完全に虚を衝かれる。カーテンの向こうで聞いていた養護教諭も同じだったのだろう。かりかりと筆を走らせていた音が止まる。
シオンは続けた。
「給食費は親に払ってもらっているわけだし、何より……給食は美味しい」
給食"は"と限定したところに、ルカはまさかという思いを抱く。少し恐ろしく思いながら、ルカはその疑念を口にした。
「おうちで、ちゃんとご飯食べてないの?」
シオンは至極あっさり頷いて答える。
「ぼくはいい子じゃないからご飯抜きなんだって。いい子にしてたらあげるのにっておかーさんが嘆いてた」
いい子って何だ。
ルカの中に沸々と憤りが湧いてきた。
シオンは物静かで純朴ないい子だ。親の言うこと全てを鵜呑みにしてしまうくらいに純粋な子を、"いい子"じゃないと? "いい子"じゃないからご飯を食べさせず、"しつけ"と称して暴力を振るうのか。
やるせなかった。昨日、シランは立ち向かい、失敗した。自分も、シオンを守りきることができなかった。
自分たちはなんて無力なんだろう。
ルカが打ちひしがれていると、シオンがくい、とルカの服の袖を引いた。
「給食、ルカ姉ちゃんと一緒に食べたい」
これもまた珍しい、シオンのわがままだった。
それくらい、叶えられなくてどうする、とルカは頷いた。