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THE 自宅警備員

作者: じょん

 『自宅警備員』

 博識である読者諸君は既に御存じの事と思うが、所謂「ニート」や「ひきこもり」を皮肉った言葉である。働きもせず、家事を手伝うでもなく、無論病気でもなく。ただ日がな一日家に引き籠って生活する。『自宅警備員』とはよく言ったものである。

 だがもし。もしも、の話であるが。日本中に、いや世界中にいる『自宅警備員』のなかで、本当に自宅を守っている人がいるとしたら。



「圭吾。ご飯、ここに置いておくからね。」扉越しに、母さんの声がした。俺はベッドに寝転がったまま、返事をせずに黙っていた。

床に何かを置く音が聞こえる。光のさしこむ扉の隙間から、味噌汁のいいにおいが漂ってきた。

階段を下りる振動を感じてから、起きあがり、電灯の紐に手を伸ばした。

「ちょっとお母さん!なんで起こしてくれないの!遅刻しちゃうじゃない!」扉を勢い良く開けた音が響く。

隣の部屋の妹だ。階下から母さんの返事がくぐもって聞こえる。

 妹が何か毒づきながら、廊下と部屋を行ったり来たりしている。往復するたびに大きくなる振動を感じながら、相変わらず急ぐと忘れ物をする癖は直ってないのだな、と口元を緩ませていると。

 バンと。今度こそ、俺の部屋の扉から激しい音がした。扉が壊れたかと思うくらいの。いや、扉がたわんだように見えたぞ、いまの!?

 紐から手を離し、驚いた体勢のまま、今度は何が来るのかと固まってしまう。音からして扉を蹴飛ばしたらしい妹は、暫く扉の前に立っていたようだが(光の差し込み具合でわかる)、結局何もしないまま、階段を下りて行った。 

 扉に耳を当てると、階下から普段の慌ただしい日常が聞こえてくる。

 ほっと息をつきながら、扉を開ける。足元には、見慣れた朝食が置かれている。ご飯に焼きサケ、そして味噌汁……。

 が、こぼれている。しかも半分以上。

 加えて箸がない。これでは食べられない。俺にインド式を採用しろとでもいうのか。

 とりあえず盆を取って扉を閉める。勿論、鍵を閉めるのは忘れずに。

 盆を片手に持ったまま、電灯の紐を手探りする。さっきまでは目が慣れていたのであっさりとつかめたが、廊下に出たせいで目がちかちかする。分厚いカーテンに覆われた部屋に慣れた俺の目に、朝の太陽はいささか眩しすぎる。

 記憶を頼りに二、三回腕を振り、慣れた感触が手に触れる。

 紐を引く。一瞬の間の後、白色光が六畳の部屋を照らしだす。

 部屋の一角を陣取っているベッド。隙間を埋めるように置かれたパソコンラック。画面が暗くなったデスクパソコンからは、ファンのうなり声が聞こえている。どうやらつけっぱなしにしていたらしい。

 ベッドの頭側にある小さな棚には申し訳程度の本と、最後にいつ使ったかも思い出せない参考書。その上にはベルトとチョッキが置いてある。

 パソコンのキーボードを脇にどけ、そこに朝食を置く。

「さて。何か箸の代わりになるものは……。」部屋を見渡して、カーテンが少し開いている事に気付く。

 手を伸ばし、カーテンの裾をつかむ。

 そのまま閉めようとして、なんとなしに外を覗き込んだ。

 時刻は八時少し前。住宅街であるうちからは、学校へ向かう学生たちが眩しい太陽の下を歩いているのが見える。

 その中に、自転車で道路を駆ける女子高生が一人。制服を風になびかして住宅街を疾走している。ここからでも、スカートが限界近いはためき方をしているのが見て取れる。

「まったく。少しは周りの目を気に……。」

 いや。ソレは俺が言っていい言葉ではない、か。

 カーテンを閉め切る。まるで世間と自分とを遮断するかのように。


 どこかにコンビニの割り箸でも転がってやしないかと探してみたものの、結局見つからず、朝食はボールペンで食べる事になった。サケが食べづらかったとか、味噌汁にインクの味が混じっていたとか色々あったが、食べる事は出来た。

 食べ終わり、いつものように器を廊下に戻す。不意に台所まで持って行こうか、なんて思ったりしたが、素直に部屋に戻る事にした。

 パソコンの前に座り、キーボードを戻して、マウスを動かす。パッと明かりのついた画面には昨日開いたままのブラウザ。映っているのは2ちゃんねる。

 小一時間ほど掲示板を巡回し、いくつかの書き込みをして、パソコンを閉じる。今度はちゃんとシャットダウンした。

「特に収穫なし、か。」座ったまま伸びをして、席を立つ。できるだけスペースをとれるように部屋の中央に移動し、柔軟を始める。

 心臓に近いところから入念に。呼吸を止めずに、全身の筋肉を気持ちよく引き伸ばす。二十分ほど柔軟に時間を費やす。額から少し汗が吹いてきた。

「じゃ、やりますか。」誰に告げるでもなく独りごちる。あえて言えば自分にだろうか。小さな鼓舞の声を上げて、トレーニングに取り掛かった。

 

 時計は昼を少し過ぎていた。シャツはびしょびしょで、ペッたりと体に張り付いていた。いくら慣れてきたとはいえ、三、四時間もトレーニングに没頭していたのだ。流石に疲れて、腕が震える。まぁ、最初は腕立て百回で根を上げていたのだから、随分と成長したというものだ。

 朝同様に廊下に置かれた昼食を(チャーハンだった。残念ながら冷めていた)食べていて、ふと妙に静かなのに気付く。床に耳をつけるが、階下から音は聞こえない。この時間は母さんがテレビを見ているはずだが。

 そこでやっと、母さんが出かけてくると言っていたのを思い出した。トレーニングの最中に言われたのですっかり忘れていた。

 改めて時計を見る。出かけてからまだそんなに時間は経っていない。しばらくは帰ってこないだろう。襟を引っ張り、体の臭いをかぐ。思わずうっとうめいて顔をしかめた。一応着替えはしたものの、体は臭いままだし、べたべたして気持ちが悪い。

 風呂に入るとするか。ついでに食器も持っていくとしよう。偶に片づけたからといって、別段おかしなことではないはずだ。

……多分。

食器を持って、扉に手をかける。

「そうだ、着替え着替え。」誰もいないからといって家の中を全裸で動き回るわけにも……。

 箪笥から適当に服を引きだし、改めて扉に手をかける。

「あっと、忘れるところだった。」踵を返して、ベッドの方へ。棚に置いてあるベルトとチョッキを取る。ずっしりとした重みが疲れた腕に少しつらい。もっと軽ければと思うが、これ以上軽くするのなら装備を減らさなければならない。それができない事にため息をつく。これが必要にならない日が来るのだろうか。


 流石にお湯を張っている時間はなかったので、シャワーでさっと汗を流して風呂場を出る。濡れそぼった髪をガシガシとタオルで拭いていると、鏡に目が止まる。そういえば、まじまじと自分の顔を見るのは久しぶりだな。

 最後に切ったのはいつの事だろうか、手入れもしていない髪は肩口まで伸びてきていた。不精髭も随分伸びている。パッと見その辺のホームレスとほとんど変わらない。いや、それはホームレスに失礼か。

 とりあえず髭だけでもそろうか、と洗面台を見渡してみて、髭剃りより先に体重計が見つかる。体脂肪も計量できる地味にいいやつだ。そういえば、半年近く体重も図っていなかったっけ。別に測らなきゃいけないわけでもないが、この際だし。正直言うと、どれだけ結果が出ているのか気になるのだ。

 腰のタオルを外し、体重計の上に乗る。デジタルの画面が一瞬消え、次いで数値を表示する。

 71.45kg。前はまだ60キロ台だったはずだが。体脂肪を見ると、10%を切り始めている。

改めて鏡の前の自分を見る。

がっちりと広がった肩。腕には筋肉の筋が見て取れる。胸板も昔より随分厚くなったし、腹筋は六つに割れている。

 だから余計に、白い肌が病的で気持ち悪い。家から一歩も出ずに、カーテンの閉め切った部屋で過ごしているものだから、肌がモデル並みに白い。加えて醜い傷跡が体中にあるものだから、格好悪くて仕方ない。家族に顔を見せられない理由の一つになりつつある。顎に走る短い傷は髭剃り負けしたみたいだし、腹筋に斜めに走る切り傷は自分で縫ったためにその部分だけ皮膚が突っ張っている上に、瘡蓋のまま治ってしまったみたいにまわりの皮膚と質感が違う。

「傷は男の勲章」なんて言葉があるが、そんなかっこいいものじゃない。少なくとも俺は、傷跡を見ていい気持など思い浮かばない。寧ろ、傷跡(それ)がどうやってできたのかを鮮明に思い出してしまう。痛みと恐怖、治るまでの苦痛さえも。

 そんなフラッシュバックの引き金を誇りに思うなんておかしな話だ。昔の人は余程心が強いらしい。或いは、いつか傷跡を誇る日が来るのだろうか。

 鏡で傷跡を見た時に。誰かに傷の所以を聴かれた時に。そんなこともあったなと、どこか誇ったような笑みを浮かべて。

 そうなるのを願いたいものだ。いつか今の状況から脱する事に。

 

 ミシリと。家全体が軋む音を聴いた。

 その音に被さるように、凄まじい衝撃音が家全体に響いた。ダンプカーでも家に突っ込めばこんな音がするのだろう。とにかく、それくらいの激しい音がした。

 来た。奴らが来たのだ。

 素早く着替えを済ませ、チョッキとベルトを装着する。機械の駆動音のような、低く唸るような響きが部屋を支配している。

 音源は二階から。おそらく俺の部屋だ。ベルトに数個取り付けたポケットの中身を確認しつつ、出現場所に当たりをつける。

 洗面所を出て、家の鍵をチェーンまで掛けてから、階段を上る。上がるごとに駆動音は大きく、体に響いてくる。

 二階にたどり着く。音は既に震動となって体を震わせる。やはり俺の部屋からだ。

 妹の部屋でない。その事に、どこかほっとしている自分がいる。本人が不在とはいえ、勝手に妹の部屋に入るのは何となしに憚れる。

 そんなくだらない事を考える余裕ができているのも、どこかこの状況に自分が慣れてしまっているからなのか。

 自身への問いには答えず、扉を開けた。それと同時に、耳朶を震わせる音が止んだ。


 部屋は先程電気を消していったので薄暗い。だが、それでもカーテンから漏れ出る明かりが、そいつに当たって鈍く光る。

 エナメル質の光沢を放つぴったりとした服を、全身に纏う銀髪の少女。背丈は俺よりも頭一つほど小さい。首から下、指の先までを覆うそれが、少女の体のラインをくっきりと浮き出させている。プラグスーツといえば一番わかりやすいのだろう。特にくびれた腰や胸の辺りなどは目のやり場に困る……。

と、言いたいところだが、生憎と情欲に惑わされるほどの余裕は俺にない。相手をまっすぐ見据え、チョッキに装着しておいたナイフをふた振り、逆手に構える。

「さて、今度はどこから来たんだ、異邦人?」

 俺の言葉に少女はおもむろに口を開く。しかし、紡がれた言葉は俺への返答ではなく。

「障害ヲ確認。排除シマス。」無機質に命令を復唱する、機械のそれだった。

 少女の手が無造作に俺へと向けられる。それが何を意味するのか理解するより早く、真横に飛んだ。

 刹那。俺の体があった場所に、音もなく光の線が放たれる。狙いの逸れた光はそのまま扉を貫通した。空気に焦げた臭いが立ち込める。受身も取れずに肩から床に落ちたが、痛みより驚きの方が凌駕していた。

『何だ今の!?ビーム!?』疑問が脳内を埋め尽くそうとするが、それを脇に押しやる。今するべきは違う。

 相手を見ろ。敵は既に、照準を合わせている。

 俺は起きあがろうともせず、寝転がったままの姿勢で相手に向かって転がった。頭があった床に指先ほどの穴が空く。

 転がった先に相手の足が視界に入る。

 回転の勢いを生かし、右腕を振るう。狙うは異邦人の足。

 ナイフはかわされ、床へと突き立つ。

 構わない。突き立てたナイフを支点に体を引きよせ、左手を横薙ぎに払う。

 かわされる。想定内だ。

 異邦人は軽やかに後ろのベッドに着地しようとしている。

 そこに突貫する。間合いを空けてはいけない。距離を空ければあれが来る。先程は何とかかわしたが、まぐれもいいところだ。次もよけれるとは思わない。

 ならば選ぶ戦法は一つ。近距離戦闘(インファイト)だ。

 異邦人が突撃に気付き、腕を振り上げる。

「遅い!」右腕を振るう。狙うは突き出された人差し指。細くしなやかな指は、少女のそれだ。

だが、躊躇わない。そんな油断を許してくれるほど、異邦人は甘くない。

 俺はそれを痛いほど味わったのだから。二年間も。


『異邦人』


 俺は奴らの事をそう呼んでいる。単純に奴らと呼んでもよかったのかもしれないが、既に彼らは自宅警備員(ニート)達からそう呼ばれていた。何処から来たのか分からないが、少なくとも、この世界の生き物でないことからそう名付けられたらしい。

 異邦人は様々な形を持って現れる。あるときは獣。

 あるときは人。

 あるときは形容もしがたい姿で。

 彼らはいくつかの法則に縛られている。

 一つ。必ず家に出現する。

 二つ。誰かが家にいる限り外には出られない。

 三つ。これが一番肝心なのだが。

 誰もいないと、外に出て目につく人を襲う。


 俺が異邦人と遭遇したのは二年前。学校から家に帰った俺を出迎えたのは、奇妙な仮面を被った、色黒の巨人だった。そいつは俺に襲いかかってきた。

 俺は逃げた。とにかく逃げて、逃げて、逃げて。

 疲れて立ち止まって、初めて追ってきてないことに気づく。同時に、自分の見たのが嘘じゃないかと思った。だってそうだろう?いきなり俺の家に巨人? そんなバカな。きっと疲れていたんだ。でなくても、ただの不審者(それも十分怖いが)だろうなんて、自分に言い聞かせながら家路についた。

 自宅への道は、縞模様のロープで遮られていた。

 重軽症者二名。死亡者五名。目撃者によれば、二メートルを優に超す仮面を被った犯人は、その後の捜査でも見つかることはなかった。まるで霞となって消えたかのように。

 その日を境に、異邦人は俺の元に現れるようになった。

 あるときは一週間置きに。あるときは一月以上も間を空けて。連日現れる事もあった。

 姿は様々だった。人間の形をしている事が比較的多いが、人外の者も現れた。

 俺は時に逃げ回り、時に戦い、時に隠れた。ただ、家から抜け出すことはしなかった。あの時の惨状は思い出したくもない。

 家から出ていくことさえできなかった。ある日、家に帰ると、家中が荒らされていた事があったからだ。自分の代わりに家族が犠牲になる。そんなことは耐えられなかった。

 俺は偶然、俺と同じ境遇にある人間を掲示板で見つけた。時々書き込まれる彼らの情報を頼りに、異邦人と戦い続けた。




 必殺の気合を込めた一撃。が、それは指を切り落とすことはなく。

 甲高い、金属のぶつかり合う音が部屋に響いた。

 目を丸くする。先程少女の細指だったそれは、金属光沢を放つ幅広の刃へと変わっていた。

 思わず呆気にとられて動きの止まった俺に、胴を薙ぐ一撃が振るわれる。咄嗟に飛びのいたが、完全にかわし切る事は出来ずに、チョッキを掠める。

 鋭い痛みが脇腹に走る。ハッとして見れば、チョッキはまるで紙のように切られて、その下の服まで裂かれ、晒された腹部に細長い線が走っている。血は出ているが、傷は浅い。

 防刃のチョッキを切るなんて。

 驚いている暇はなかった。異邦人が今度は自分から距離を詰めてきたからだ。左手も同じように銀色の刃に変えて。どうやら今回の異邦人はター○ネー○ーらしい。

 刃となった腕が左右同時に振るわれる。腕を組むようにして両翼からの攻撃を防ぐ。

 火花が薄暗いままの部屋に咲く。攻撃の苛烈さに離しそうになる柄を握り締める。

 間髪いれず前蹴りを放つ。下がって避けた異邦人に、今度は此方から攻撃を仕掛ける。

 フックを放つようにナイフを振るう。防がれるが、構わずにもう一方の手でもフックを放つ。

 一息に数撃。それらすべてを防がれる。

 当然だ。全て高低差はあれど、横薙ぎの一撃。どれだけ速かろうが、防ぐのは容易い。

 だが。

「これなら……、」右フックを振りぬいた勢いで捻じりながら回転する。逆手に構えた左のナイフを相手の脳天へと振り下ろす。

 防がれる。横から縦の変則、しかも回転付きの奇をてらったつもりの攻撃だったのだが、あっさりと防がれる。もしかしたら、驚くという事がないのかもしれない。カウンターとばかり、空いた腕で突きを繰り出す異邦人。

 相手に半分背を向けたまま、強引に跳ぶ。下手くそな背面跳びみたいな姿勢だが、それで十分。突きをかわし、防がれた左のナイフを支えに体を更に上方に押し上げる。俺の体は宙を舞い、異邦人の頭上にあった。

「はぁっ!」空中で回転しながら、右腕を振るう。狙うは後頭部。裂帛の一撃は、異邦人の頭をわ……。

 れなかった。異邦人は頭を伏せたかと思うと、あろうことかその場で前宙をして見せた。

 俺は反応できなかった。仮に反応できたとしても、避けることなどできなかった。

 異邦人の回転した踵が脇腹に突き刺さる。

 みしりと。骨の軋む音が聞こえた。

 蹴り飛ばされた俺はボールのように床を跳ね、壁にぶつかって止まった。

 部屋の隅にぼろ雑巾のように転がる俺に、異邦人がゆっくりと歩み寄ってくる。油断しているのか、必要ないと判断したのか、ビームでなく刃化した腕を振り上げて。

 その足が何かを蹴飛ばす。空き缶のような形をした、筒状のもの。

 それが突然、大量の煙を噴きだした。

「……!」異邦人が身を引き煙から逃れる。心なしか不意を突かれたような顔をしたのは気のせいか。それを確かめている暇はない。

 俺は床を這うようにして駆けた。異邦人が煙の意図を知って腕をこちらに突き出す。標準を定める腕先は、既に元のしなやかな指に戻っている。

 だが遅い。放たれた光線は煙のせいで当たらず、俺は転がるようにして部屋を飛び出した。

「がはっ、ごほごほ!」むせながら一階へと逃げる。喉はいがらっぽく、肺が苦しい。おまけに涙が毀れて視界がかすみ、階段を転げ落ちそうになる。気をつけてはいたが、しかし幾分か煙を吸い込んでしまった。

 涙でぼやける視界で階段を見上げる。奴の姿はなく、部屋からこぼれた催涙ガスが階段を這い下りている。

 素早く台所の隅に隠れ、耳を澄ます。階段を下りる音は聞こえず、ガスの噴き出す音だけが聞こえてくる。どうやら催涙ガスは思いの他効いたようだ。苦労して手に入れただけの事はある。が、その貴重な武器を脱出用に使ってしまった事が悔やまれる。ガスが効いていたならば、そこを攻めるべきだったのではと。

 ……もしもの話はやめよう。過ぎたことを悔やむより、今はどう倒すかを考えるべきだ。


 階段の軋む音が聞こえる。部屋から飛び出して随分たったが、どうも二階をずっと探し回っていたらしい。

 音が近づいてくる。

一歩一歩。足音を忍ばせるでもなく、ゆっくりと。余裕さえ感じる足取りは、しかし、着実に隠れている俺の体力を奪う。

 筋肉が震える。汗が顎を伝い、滴となって垂れそうになる。柄を握る手がじっとりとしてめり、つるつると滑る。

 ギッと。階段の音が、床の足音へと変わった。

 異邦人が視界に入る。

 まだだ。まだ、まだ早い。

 耐えろ。チャンスは一回だけ。それをこんなつまらない所で台無しにするつもりか。

 異邦人が台所の前にさしかかる。奴との距離はほとんどない。

 奔る心音が聴覚を埋め尽くす。拍動が体を揺らす。

 目の前にいる。気づいている様子はない。

 本当に気付いていないのか?気づいていないふりをしているだけじゃないのか?

 飛び出したところを迎え撃たれるのでないか。疑念が頭をもたげる。

 耐える。疑念ごと飲み込むように、息を止める。

 心臓が一度高鳴り、静かになる。

 糸が切れた。

 仕掛け(トラップ) が作動する。

 台所の奥、段ボールに埋まるように隠されたボウガンから矢が射出される。片手でも持てるほどに小さいそれから放たれたとは思えない、空気を引き裂く甲高い音を連れて異邦人へと飛んでいく。

 異邦人が腕でかばう。鈍く光る鋼の刃と変えて。

 異邦人の防御は紙一重だった。腕を振り上げたのと矢を防いだのはほぼ同時だった。

 それとほぼ同時に、異邦人の両肩にナイフを突き立てた。

 俺は、天井裏に張り付いていたのだ。

 異邦人が初めて短い悲鳴を上げる。苦痛に悶え、体を振り回す。俺はナイフをつかんだまま、首をかき切ろうと力を込める。

 不意に、体が宙に浮いた。

 異邦人が腕をつかみ、一本背負いのように俺を投げ飛ばしたのだ。

 死に物狂いの力なのか、それとも今まで力を押さえていたのか。俺は二メートル以上も投げ飛ばされて、玄関のドアにぶち当たった。

 頭に星が飛ぶ、という表現がある。何か強い衝撃を体や頭に受けた時に見えるというあれだ。漫画とかでも良く目にする。

 星なんかなかった。ただ視界が真っ白に霞んだ。霞んだ視界に、異邦人が映った。

 気付いた時には遅かった。避け損ねた左肩に光線が掠る。

 電流が走った。目の前が白に染まった。目を開けていられなかった。肉の焦げるにおいが立ち向かう気持ちを根こそぎ奪っていく。

 右肩に激痛。異邦人の刃が、右肩を貫いて扉に突きたつ。

「があああああ!」悲鳴を上げる。子供のように情けなく、涙を目いっぱいに浮かべて。

 異邦人は指を構える。とどめを刺そうと眉間を狙う。

 歯を食いしばる。目をギュッと瞑る。

 悲鳴を雄叫びに変えた。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 チョーパン。所謂頭突きである。

 光線が耳を掠り、焦がす。痛いし熱い。だからどうした。

 戦え。

 踏み出せ。

 前へ。

「前へ!」異邦人の諸手をつかむ。光線銃と化した指を。剣と化した腕を。

 手が焦げる。手が裂ける。痛みが脊髄を貫いて、頭に抜ける。

「前へ!」押し出す。刃は扉から引き抜かれたものの、腕はいまだに肩を貫き、赤黒い血を吐き出させる。

 それでも、前へ。

 異邦人を押し倒す。貫かれた肩がわけのわからない痛みになった。

 そこまでだった。これ以上、異邦人を押さえてはいられなかった。光を放つ腕は俺の手を振りほどいた。

 馬乗りになっている俺に、異邦人が刃を突きつける。

 終わりだ。もうこれ以上は戦えない。

 必要がない。

 電子音がなる。小さく、控えめな音が、腕時計からなる。

 異邦人の体が霞んで行く。手先から砂となって消えていく。

 四つ目の法則。

 三十分しかいられない。

 俺は時間切れを待っていたのだ。実際切れそうだったのは俺の命だったが。

 弛緩しきったため息を吐く。いや、本当、この怪我をどうやって治したらいいんだろうか。

「何故、貴様ハソウマデシテ戦ウノダ?」不意に。異邦人が、声をかけてきた。俺と同じ日本語で、少し低めの、綺麗な声だった。だからだろうか、それをおかしいと思わずに答えた。単に血が足りなかったのかもしれない。

「当たり前だろ。俺は、自宅警備員なんだから。家族を守るのが、俺の仕事だ。」



電子音が鳴りやんだ。異邦人は霞のように消えて……

「ねぇ!? なんでいんのお前!?」なぜまだ俺の下にいる!?

「わたしにも理解不能。転送の際に不具合が生じた可能性がある。」

「不具合!?ってかお前しゃべり方変わってね?」

「おそらく最後に体が触れ合っていたのが原因。私の腕は貴方の肩を貫通していた。」

「んなあほな……。」言いつつ、刺されていた肩を見る。異邦人の腕はいつの間にか通常(?)の腕になって、俺の肩に手を添えている。肩に先ほどの痛みはなく、出血もない。ただ、痛々しい刺し傷の跡だけが残っていた。

「はぁ、ご都合っつーかなんつーか。治っているのを喜ぶべきなのか、異邦人が残ったこの状況を嘆くべきなのか」

「心配する必要はない。命令は現在棄却されている。私にこれ以上の戦闘を続ける意思はない」

「‥‥‥あー、そう。なら、いいのかな?」

 はて、大事な問題を忘れている気がするのだが。

「ただいまー。」

 ……ただいま?

 恐る恐る玄関を振り返る。

 扉があいている。母親が買い物袋を引っ提げて、妹がそれの手伝いをしている。帰り際にでも会ったのだろうか。

 じゃなくて。チェーンはちゃんとかけたは……なんでチェーン溶けて玄関に落ちているん?

 二人は口をあんぐりと空けている。

 そこで初めて、俺は自身に置かれた状況を理解した。

 乱れた服装。

 組倒した少女。

 あちこちに争った跡。

 ああ。普通に就職したい。

 また更新が滞っているので、昔仲間内だけに見せたやつでお茶濁し、です。2011年だから、今から四年前に書いたやつです。お目汚しですが、暇つぶしに。やたら動きの描写が多いのは、当時「アイスウィンド・サーガ」シリーズを書いていたR.A.サルバトーレにはまっていたからです。D&D関連の書籍ですが、知らない人でもファンタジーやアクション映画が好きな人は楽しめる作品なんで、気になった方はぜひ、探してみてください。

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