その三十七
大きく、溜息一つ。
西條さんは吐き出してから言葉を紡ぐ。
「…つくづく正直な人ですね、貴女は…」
おまけに最後に思いっきり持ち上げますか?―――――いえ、持ち上げてなんかいませんから。
「だって、本当に西條さんは素敵な人ですよ?」
あたしですら、思わず惹かれてしまうほど。
「最後の最後まで褒め殺しですか」
全く貴女って人は…
何とも表現のしようのない西條さんのその表情。
わかってくれた? 理解してくれた? あたし自身ですらまだまだごちゃごちゃなまんまのこの気持ち。
「……私も、結構いい加減な気持ちで居ましたからね… このお見合いに関しては、もう、かまいませんよ」
「…え、あの、怒ってません?」
「怒るなんてとんでもない。 実はこちらにも諸事情がありまして…」
諸事情…?――――って、なんだ?
「この件に関してはおあいこです。お互い水に流すって事でどうですか?」
「あ、ありがとうございます!」
もう一度、深々と頭を下げる。
ああ、よかった。これでともかく第一関門は突破したぞ。
後は、あっちで待ってるおばさんをなんとかなだめて…などと、暢気に考え出したあたしの手を、いきなり西條さんが握ってきた。
「へ…?」
なんなんでしょう、この手は…
「あの…」
「はい?」
「えっと、手…」
「ああ。やはり、しっかり近くでお願いしないとと思いまして」
近くって…手なんか握らなくても十分近かったですよね?
「こ、これは、少し近すぎるような…」
「意中の女性を口説くのですから、このぐらいの距離は妥当でしょう」
にっこり。
近い!近すぎる!
意中だか何だか知らないが―――――え? 意中?
「ええ~~~!!!」
驚天動地意味不明。
だって、だってだってだって――――!!
「さ、西條さん! あ、あのですね!」
「はい?」
「さっきから、あたしの話聞いてくれてましたよね!?」
「ええ。しっかりと聞かせていただいてますよ」
にっこりにこにこ。握った手を離さないまま西條さんは笑ってるけど!
「だから! お見合いは無かった事にするって…」
「ええ。それは構いませんよ。無かった事でお互い様――――でしたよね」
――――― そう! そうなった筈ですが!?
「実は、先ほどの会食でのたち振る舞いを拝見して、正直拾いものかなと思って、お付き合いを申し込もうと思ってたんです」
「は?」
「でも、お話をいろいろ伺って、かえって貴女に興味を持ったと言ったら?」
「へ?」
「謝ってなどいただかなくて良いですから、その代わりに、私と結婚して欲しいって言ったら、どうしますか?」
「はあ…?」
結、婚…?
今、結婚、とかって言いました…?
え?だって、あたし、そのつもりが無いからこうして謝ってる訳で――――― え?なに、興味? え?え?、あたし!?
それは、完全に本末転倒って話じゃないですか!
「ちょっと、あんた、何言ってんだよ!」
うろたえまくって身動きとれないでいるあたしの手を、まだ、傍にいた剛史が思いっきり西條さんからひきはがす。
痛…いけど、ちょっと今回はありがたい。
「―――――って、なんであんたが握ってんのよ…」
「へ?それはその、だってよ…」
「いいから、とっとと離しなさい。あんたも近いよ」
しっしっ!とまでは言わないけれど、きちんと剛史からも距離を取ってしっかり自分の足で立つ。
よし。
落ち着いたぞ。
「どう言う事ですか…?」
とりあえず話を聞こう。
西條さんと言う人は、こんなことで冗談を言うような人ではきっとない筈だから。
視線を合わせ向き合うと、そんなあたしの様子に彼は綺麗に微笑んだ。
にっこりでは無い。
何かを認めたような笑み。
「実を言いますと、私は二ヶ月後にインドへ出向することになってます」
「はあ!?」
インド!?
「私も年が年なんで、その前に結婚を…って周りが焦りましてね~」
ははは…って…
はははって、爽やかに笑わないで。
インド? インドって、日本じゃないよね… え?海外?あれ?なんかおかしいぞ?
お見合いしたんだよね。上手く言ったら結婚するんでしょ?
「いきなり単身赴任ですか?」
「…新婚でそれやったら、問題でしょう?」
「はあ、そうですね」
つまり、夫婦は一緒に暮らすってこと。あれ…? だって、そのインドって話は本決まりなんでしょ?
じゃあ、一緒にインドに行くってこと?
え?え?え? だって、それ… おかしいじゃない。
そんなことになったなら、
「仕事、続けてらんないじゃん…」
えっと確か、続けても大丈夫って話だったよね。なんか、聞いてた話と違うぞ。あれ? …じゃ、さっき言ってた『諸事情』ってまさか…
「ええ、そうなんです。まあ、なんだか、結婚してしまえばこっちのものと言うか… とりあえず婚約だけでもとか、周囲が焦りましてね。あんまり煩いんで、僕も会うだけは会ってみようかなんて… 失礼な事をしました」
申し訳ない。
そう言って、西條さんは頭を下げる。
「え? あの! そんな! あの! いいえ! その!」
だってだって、
「あ、あたしだって、いい加減だったんです! だから、西條さんに謝っていただくような事なんか、これっぽっちも無いって言うか…」
そうよ。
あたしだって、その気も無いのに此処に来たんだもの。
でも、そうか~ あっち側にも事情があった訳で…―――― 少しだけ、あたしの気持が軽くなる。
良い人だな~西條さん。
黙っていても良かった事なのに、きちんとあたしに話してくれて…
だからこそ、この人に、頭下げられるなんて落ち着かない! おろおろとするあたしの様子に、西條さんは頭をあげて、静かに微笑んでくれる。
――――― あ… いいな…
その微笑みは今までの、何処か癖のあったにっこりじゃない。本当の彼の心からの笑みだと何故か判るから、思わず見惚れてしまったぐらい。
「だから、隠してたのはお互いです。あなたは仕事をむやみに放り出す様な人じゃない―――― そうですね?」
こっくり。頷く事であたしは返事に変える。
辞めない。今は辞めたくない。
彼のように凄い仕事じゃなくても、給料だってそんなに高くなかっても。今の仕事はあたしの仕事だ。あたしが自分でえらんだ仕事だ。
あたしにも、きちんとなすべき責任がある。あるのだと思いたい。そう信じてやってきた。
その事を、仕事への責任を、この人はちゃんと理解してくれている。
「ですから、二年」
「え?」
「二年、待ちます」
「二年後、僕が日本へ帰って来た時。その時あなたが独身で、あなたの、その片思いとやらに決着がつけられていたら、付きあっていただけますか? 結婚を前提として」
――――― 言われた意味が、正直頭で理解できない…
「…冗談、ですね…?」
「失礼な。本気ですよ」
「…あなたみたいにモテそうなタイプが、あたしなんぞに言うセリフじゃないですよ?」
「周りが言うほどモテませんよ、僕は」
「―――― その顔でにっこり笑っておっしゃられても、信用なんて出来かねますが…」
「その顔ってどんな顔です?」
「思いっきり腹黒そうなモテ顔です」
その途端、西條さんはぶ~っと思いっきり噴き出した。
え?ここ、笑うとこですか?
「いや、失礼…」
あの… おなか抱えてまで、笑う事じゃ無いと思うんですが…
笑いながら謝ったって… ―――― だから、信用できないって。
「ますます、気に入りました」
やっとその発作を押さえて、真正面からあたしを見て西條さんは言葉を続ける。
「神部有里さん。二年です。猶予期間を二年差し上げます。僕が帰国して、その時あなたがまだフリーなら、ぜひ、私と付き合って下さい」
―――――― ………だれか、あたしに思考能力をください…
「……えっと…冗談…」
「何回も同じことを言わないように」
「えっと… 一つ、確認して良いですか? 誰が、誰を二年も待つとおっしゃいました?」
「ですから、私があなたを待ちます」
あなたが、その恋を思い切るまで。
僕は本気ですよ――――― 頼むから、冗談にしておいてください…
でも、
なんでだろう。
その時、あたしは信じちゃった。
本当に信じたのだ――――― 西條さんが本気で有る事を。