その三十二
大変お待たせいたしました。
一般的に鑑みて、
洋食―――― 特にフレンチと呼ばれる店は、とかく敷居が高いように感じられる。
けれど、どんな家にも『余所行き』の顔と『普段』の顔で違いがあるように、何処の国にもきっと、正式なものとそうでないものは有るはずで。
だから、洋食だ、フランス料理だと騒いだところで、そこには正式なものともっと砕けたものがあって当然なのである。実際に、当のフランス本国には、日本で言うところの街の洋食屋さんなるものもちゃんと存在するらしい―――――あくまで伝聞。行った事無いから本当かどうかは定かではないけどね。
しかし、なぜかは知らないが、日本で言うところのフランス料理と言う奴は、ものすごく敷居が高いように思う――――― いや、実際入りにくいもの。普通に洋食っていう分にはそんなでも無いように思うけど、いわゆる一般庶民と言われるあたしには、本来ならとんと縁が無い様なトコが多いと思ったりする訳だ、事実として。
しかしながら、本日、今この時、あたしがこーんなにもめかしこんで、おとなしく座っているこのお店はと言うと、その、まぎれもなく正式な『フランス料理』を売り物にしているばっりばりの高級店なんですね。それこそ、服装からなにから、「しっかり店の方がお客を見ちゃいますよ~」と言われちゃう本格的なレストランでありまして。
「まだ、昼間ですから、軽いランチのコースで…と思っておるんですが、よろしいですか?」
「はい。もちろんですわ」
軽かろうがランチだろーが、コース行っちゃうのね、やっぱり。
にこやかに笑いあう付き添いの年配組の会話は、一応の主役を無視して流れていく。
――――― おばさ~ん、あたしの意見は~?
そんなもん、聞く気も無いだろうし、この辺りはきっと、定番の会話なんだろうな~…
しっかし光子おばさん。こっちに『大丈夫?』との問いかけの目線すらも無いってどうよ。あたしんちの通常営業知ってるくせに――――って、そう。本来なら、あたしみたいな若輩者。こんなところへ連れてこられたら、緊張してすくんじゃって、きっとろくに味も分からないまんまなんだろうけれど。
ところがどっこい。
あたしはこの事態の中でも、このすんばらしくも美味しい料理をしっかり楽しめちゃったりする訳なんです。
それはまあ、あたしが、筋金入りの食いしん坊だからってのもあるんだけど。
それよりなにより、もっともっと肝心なことは…
「―――― しかし、流石は有働さんの姪御さんだ。マナーも完璧ですね」
にっこり笑うロマンスグレーのおじさま―――― ああ、佐々木さん。思いっきりタイプですって言っていいですか? でも、あのですね。正確にいえば、あたしは光子おばさんの姪では無いんですけれど…って、これはこの際、本当に些細な事。
「いえ、もうお恥ずかしいです…」
ほほほ…なんぞと、めったにしない愛想笑いなどやってみせる。
だれだ? ここに居るの。職場の―――― つーか、真由美に見られたら悶絶されるな、お笑いで。
いや~もう、笑うしかありませんですぜ、おじょーさん。ここに座ってるのは、本当に一体誰なんでしょうって感じです。被った猫は三割増し。仕草態度は五割減。ついついその場の雰囲気に、しっかりくっきり乗ってしまうこの性格… ―――― だ~からぁ。あたしはほんとに小心者なんだって。いくら本意では無いとは言え、この場でちゃぶ台ひっくり返しが出来るほどの神経ははっきりきっぱりございませんのです。
いや、それはさておき、問題はさっきの話。
マナーは完璧――――― そう。問題はそこなのよ。めったやたらにこんなお店に来ている訳ではないはずなのに、あたしってば実はこーゆー類のマナーやらなんやらは、しっかり身に着いちゃってるんです、はい――――― 少なくとも、こんな席にいきなり連れてこられて恥かかない程度には。
大体、この如才ない、見合いに命賭けてるような光子おばさんが、こんなところであたしに恥かかせる訳ないじゃないですか。しっかり食事が楽しめるとわかってるからこそのこのお店。このチョイスなんですよ。
今までのあたしの来し方や、思考回路を知ってる人にはきっと「?」な事だろう。なにしろ、あたしってば、がらが良いとは間違っても言えない口調だし、飲みに行くのも、近所の居酒屋一本やりですもんね。
何故か―――― 実はこれ、ひとえにうちのおふくろさまの、一本筋の通った教育方針のたまものなんでございます。
うちのおふくろ様と言う人は、
勉強やら、運動やらの一般的に学業と呼ばれるものに対しては、やるべき事さえきちんとやっていれば、それ以上成績が悪かろうが良かろうが、なんにも言わないようなある意味放任主義な人なんですが、
唯一、しつけと言うか、その類には、殊のほか厳しかった…んです、昔から。
まあ、しつけ…というか、それ以外、マナー全般も、それこそ箸の持ち方から茶碗の上げ下げ、挨拶の仕方に靴の揃え方…と、とことん煩かったよな~。
そんでもって、その理由を聞かれて、
『これが一番合理的だろ』
と、決して上品と言えない口調で言ってのけてくれたのも、間違いなくこの人で。
『箸にしろ、茶碗にしろ、綺麗に見える正しい持ち方ってのは、一番楽に食べられる方法でも有るんだ。そもそも、こーゆー類の事は、いっぺん覚えれば一生忘れないんだから、今のうちにきりきりきりきりしっかり覚えんだよ』
そう言って、繰り返し繰り返し決して器用では無かったあたしと兄貴に、スパルタでそれらを叩きこんでくれたおふくろ様は、いまだにあたしら兄妹の結構なトラウマにさえなっていて。
―――― だってさ! この時のおふくろ様が一番容赦なかったんだから!
それこそ、泣いてもわめいても、きちんと出来るまではご飯はお預け… 絶対、食べさせてなんかくれなかったんだ。
で、そのしつけ(?)の一環って事は無いだろうけど。あたしは、兄貴と二人、それこそこ~んなちっちゃい時から、たまにあったおばさんからのご招待に文字通り放り込まれておりまして。その時にしっかり西洋式のマナー全般叩きこまれちゃってるんです、おばさんから。
『せっかく、みっちゃんって良い見本があって、ただで教えてくれるって機会があるんだ。利用しないバカが何処にいる』
――――― それは、確かに正論ですが。
この余りにも一般庶民の典型のような我が家で、そんな立派なマナー、いったい何処に覚える必要が…!とのあたしらの反論に、きっぱり答えたおふくろ様はすごかった。
『機会なんてもの、この先何処にどうやって転がってるかわかりゃしないだろうが』
社会に出てみろ。何がどうなってどう転ぶかなんて、そんなもんお天道様でもわかるもんか―――― はい、それはその通りなんですけどね…
『この先、万が一にでも、そんなとこへ行ける機会があったとして、そん時にマナーの一つも知らないでどうすんだ? お前ら』
楽しむもんも楽しめないだろうが。
『めったにない高級品、味も分かんないままで食うなんぞ、情けないにもほどがある。食材にも失礼だろうが』
食材に失礼って… 突っ込むとこそこですか?
『どうせお前らみたいな小心者、その場でマナー完全無視なんて剛毅なまねは出来ないんだから、失敗が許される今のうちにしっかりきっぱり覚えておきな』
そうすりゃ、めったに食べれないもん食う機会があったとしても、その時しっかり味わって食べれるだろ? ―――――おかあさん。ありがとう。確かに、まったくその通りではありました。
おっしゃる通り~ あたしは~ おもいっきり小心者だから~
こんな場面に直面して、マナー知ってなかったりなんぞしたら、「え? これ?これどうやって使うんだっけ? やだ!どうしよ!わかんない!」とかって絶対料理の味、楽しんでる場合じゃなくなるに決まってますよね。流石、母親、よくわかっていらっしゃる。
おかげで、今、こうして、ひたすらにこやかに会話を続けながらでも、めったに口に入らない絶品の品々をなんとか堪能出来ておりますです、はい。
こ~れが見合いじゃなかったら、もっともっと楽しめるんだけどね~
――――と、いかんいかん。なんか話がずれてるぞ。
でも、この前菜のソース、絶品! これはメインのお肉が楽しみね――――― って、違うってば!
この期に及んで、目の前の料理に逃げてどうするの、あたしってば。
でも、だって、なんか、すご~く、いたたまれないんだもん!
目の前には、スーツをすっきりと着こなした男の人。その横には、思いっきり好みのおじさま―――― いや、だから、そちらのおじさまじゃなくて!
妙齢の、男の人と向かい合わせって… は、初めて…? かも…
あれ? 妙齢って、男の人には使わないう言葉だっけ? …まあ、そんな事はどうだっていいって言うか、論点は、そこじゃないし。
な、なんか、こういった場面での、向かい合わせって、照れない? しかもスーツ… 別に、あたしはスーツ萌え!とかって言う訳じゃないけど。病院での会議とか、話し合いとかみんな白衣だもんね(くどいけど)ほんと、スーツって、見慣れないから妙にカッコよく見える…かな? いや、カッコいい人ばっかりじゃないとは思うけど…
それはともかく、目の前のこの人――――― 西條敦也さん。
後ろ姿の時も、一目で引きつけられるくらいな何か雰囲気みたいなものを持ってる人だったけど。
こうして、正面から拝見しても、ぐーっ! 正直、思わず、親指立てて、「ナイス!」とかって言いたくなっちゃう…んだな、これが。
高そうなスーツと言い、洗練された物腰と言い、かなり良いとこのお家の方…だよね。
穏やかな口調にも嫌味がないし、なんとも、この、柔らかな雰囲気が…
おばさ~ん! どんだけ上物持ってきたんですか~!!
あああ、もう、なんか、別の意味で、泣きたくなってきた。
――――― どうなるんだ、この見合い。
あたしはいったいどうなるの?
このまま続きます。