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氷の願望  作者: Mayo
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後篇


 愛情と欲望が混じり合った暗闇にぎらつくネオンはただ自然を蹂躙する。人間の自己陶酔のために生み出された一夜限りの世界は空しくも激しい熱気に満ちている。噎せ返る匂いと甘だるい声の応酬、喚き散らす轟音に非日常が日常と化学反応を起こし、曖昧になった境界を何も知らぬ無垢な人間が行き来する。感情と本能に支配された都会の夜空の下で、女はただ愛されたいと思った。自分自身を愛で、人形のように可愛がられたいと、ただそう思っただけだった。そのためにはどんな苦労も惜しまないと、魅力を余すことなく溢れされる女はどこの娼婦よりも色めいていた。目じりの先で笑い、唇だけで男を手にする女は、誰よりも人を愛していた。だからこそ愛されたかった。ただ、大切にされたかった。それだけだった。



 自分の部屋に帰り、瞬間的にリビングの電気をつける。外の世界と違ってなんの色も見せぬ蛍光灯に女はただつまらないとつぶやいた。鞄を投げ出し、冷蔵庫のオレンジジュースを一気飲みする。テレビをつけてはすぐに消し、携帯のメールを確認するとさっさとバスルームに消える。すべての穢れを払い落しながら、女は夢想するのだ。真夜中の錆ついたショッキングピンクの電球のような、汚らしくて気味が悪いほどの恋愛がしたいと。むしゃぶりつかれるほどの愛を受け、肉汁を滴らせて果てたいと。一心に愛情を受けた瞬間に女は幸福になれるのだと女は知っていた。唇が語る軽々しい愛の言葉ではなく、心をそのまま投影したかのような愛撫を受けたとき、女のすべては内部から崩壊されるのだと。がらりがらりと崩れていく心の音を聞くと、すべてがどうでもよくなり、愛すべき対象にすべてを委ねてしまいたくなる。それがいかに危険なことか、女は知っていた。了解したうえで、それでも彼女は求め続けたのだ。自分以外にも、愛情を欲している女がいるのだということを見ぬふりをしながら。


 暗闇の中でぼんやりと光る電子的な明るさはやけに現実感を削いでいると藤谷未奈は思う。羅列された文字には何の感情もなく、そこにあるのはただ事実だけだというのにも関わらず、それでも携帯電話は非現実を運んでくる。誰もが自分を特別だと信じている世の中で、たったひとつの真実しか告げぬ携帯電話は時に巨大な誤解を招く。そこにあるのは事実だけだという錯覚に陥っているからこそその大きさに気づかずにすべてを鵜呑みにする人間とはどうしてこうも愚かしいのかと、未奈は自分を呪った。証拠や確証などなくとも、わずかな可能性に賭けてみたとしても、結局その期間に堪えられなければそれは賭けた方の負けなのだ。未奈はそろそろ限界だと思った。真実がどこにあるのかわからずに模索するのは地図もなく未開の地を裸で歩くのと一緒だ。悲観に悲観を重ね、未奈はもっとも疑うべきでない人物を疑うことになる。所詮愛情など終わるためにあるのだろうと屈折した考えで徐々に人間不振になっていく彼女は、それでも愛した。恐怖の狭間でも、それでもどうしようもなく愛していたのだった。捩曲がった関係は誰かを想うたびにさらに絡まり、結局はのびきった糸はいずれぷつんと切れてしまう。そのことに気づかず、そして今日も未奈は糸を引っ張り続ける。



「嫌…」



 思わず声が漏れる。藤谷未奈はマンションの郵便受けの前で立ち尽くしていた。開けた途端、あふれんばかりの真っ白な封筒が姿を表したのだ。二、三枚はその多さに耐え切れず床に落ちてしまった。未奈は慌ててすべてを引っつかんで鞄に捩込むと、足早にエレベーターへと向かった。


 自室について、封筒をすべてシュレッダーに噛ませる。中身を見ようとはしなかった。もう、何が書かれているのか知っていたからだった。確認しても気が滅入るだけだと、未奈は歯を食いしばってシュレッダーに入れ続ける。このためだけに、少々高いとは思いつつも先日電気店で購入したのだ。さすがと言うべきか、分厚い封筒ごと細かくしてくれるこの機械のおかげで、当初よりは楽になっていた。



 数週間前まで、未奈は幸せの絶頂にいた。一条蓮という恋人は深く深く自分を愛してくれていたし、自分も彼を本当に大切にしていた。なにもかも上手く行っていた。歯車が狂いはじめたのは、社内である噂を耳にしてからだった。



 ――ねえ知ってる?


 ――えー何々?


 ――一条先輩って、高倉さんと婚約してるんだって!


 ――うっそーわたしひそかに一条先輩狙ってたのになー


 ――あっははむりむり!高倉さん美人だしスタイルいいし優しいしさ、


 ――確かにねー高倉さんならしょうがないっていうか、お幸せにって感じだよねー



 偶然聞いたそんな会話は、未奈の心をすとんと落とすのに十分すぎるほどで。不思議だったのは、一条は常日頃未奈の側を離れず、高倉ほのかと浮気するほど暇ではないということだった。けれど、火のない所に煙は立たない。そう考えた未奈は、ただじっと、獲物を狩る獣のように息を殺して様子を伺っていた。高倉ほのかは、火を付けずに煙をたてようとしたのだということにも気づかず、未奈は疑心暗鬼にかられる。一度疑問を感じてしまうと、すべてがそこに繋がっているのではないかと疑いを深くするのが人間という生き物だ。こうして二人の間に出来た溝は、高倉の思惑通りに広がっていく。




「…何、これ、」


 未奈が一条と距離を置きはじめて数日後。彼女の身に異変がおきた。


 自宅のマンションにつき、いつも通り郵便受けを開けると、そこに大量の白い封筒が入っていたのだ。宛名はすべて未奈。慌ててすべてを引っつかみ自宅へ逃げるように戻ると、着替えもせずに大急ぎで封を切った。



 そこには、ありとあらゆる愛の言葉が連ねてあった。



『未奈、信じてほしい、俺にはお前しかいないし、お前だけが俺の生きる糧なんだ。』

『未奈、どうか避けないでくれ、俺はお前がいなくて心が張り裂けそうだ。』

『未奈、愛してる。この前のデートでも話したけれど、噂なんて信じないでいいんだ。』

『未奈、電話で話したこと、覚えてるだろ?』

『未奈、未奈、』

『未奈、未奈、未奈、未奈、未奈、未奈未奈未奈未奈未奈未奈未奈未奈』



 未奈は、一条の手書きの文字を読んだことがなかった。


 だからこそ、この筆跡が彼のものだという確証はなかった。それでも。



「嫌、嫌、何よ、何で、」



 二人しか知り得ぬことを、どうやって他人が知れるというのか。


 深い疑念は恐怖へと様変わりしてしまった。未奈はますます一条を避けた。怖かった。彼の深すぎる愛情が、重たく彼女の心にのしかかっていた。


 手紙だけではなかった。無言の着信、多すぎるメール。ストーカーのように未奈の生活に纏わり付く一条の影に、すでに彼女の心はずたずただった。距離を置けば置くほど、彼女への執着が増すように感じた。




 そして、数週間経って。


 彼女は、すべてから決別しようと決心する。


「もしもし?蓮?」


 感情のない声で、未奈は囁くように電話越しの彼に話しかける。


「ええ、明日。そう、久しぶりに、貴方と話がしたくって。」


 すべてを、終わらせるために。





 そして、いつもの珈琲店で、未奈は一条蓮との関係を絶った。普通ならば、これでもう、彼とは関わらないのだと割り切り、自分の人生を再び歩き出すのだろう。けれど、彼女にはそれは許されなかった。



 愛を欲して、望むような愛を受けて。それでもその重すぎる感情に耐えきれなくなった罪は重い。じくじくと後から痛む火傷のように、未奈の心は徐々に崩壊していく。厄介払いなど彼女には許されなかった。男を己の欲望のままに動かし、己の快楽を求めた浅ましい女に平穏など許されるべきではないのだ。人間という高等生物に許された誤解という甘い嘘は罪を背負った哀れな女に見えるはずがない。すべてを計算した上で、さらに誤解を意図的に生み出そうとした幸福強奪者の存在など彼というあまりに大きな存在の影に隠れてしまうものだ。女は気付かない。自分の行動がいかに愚かしいことだったのか、いかに誰かを傷つけていたのか。自分本位の結果、彼女は激しい罰を受けることになる。それは、自分が傷つくよりも哀しすぎる結末。



 しばらくは、何事もなく過ぎ去っていった。会社でも、お互い普通に接し続けていた。これで良かったのだと、用済みになったシュレッダーを撫でながら未奈は微笑んだのだ。何も気付かず、新たな幸せを見つけようとしたのだ。しかし。



 未奈が別れを告げて2週間後。一条と高倉は、同時に退職した。やはり二人は付き合ってたのだと未奈が実感するより早く、二人は駆け落ちをしたのだろうという噂が社内を駆け巡った。不思議と、未奈はその事実を受け止めていた。縁がなかったのだと、深い愛情に蓋をして、厳重に鍵をかけて脳にしまい込んだ。心のどこかで気づいていたのかもしれない。けれど彼女はいやだいやだと背を向ける。しかし。



『一条蓮は、高倉ほのかに脅されている。』



 郵便受けを除いてすぐに未奈の心拍数を一気に上昇させたもの。二週間前にも現れた、真っ白な封筒だった。同じような白い封筒にどきりとしたものの、浅い呼吸を繰り返しながら女は急いで部屋に戻る。一番はじめに封筒を回収したとき以上の緊張が彼女を襲った。怖かった。しかしこれが未奈を恐怖の淵と後悔の念から救うのだと気付いたのは、封を切ってでてきた簡潔なメッセージに未奈の中の鍵が疼いたときだった。手紙の主は、一条の古い友人だという水ノ江という者からだった。手紙には、未奈の手を貸してくれれば高倉を説得できるかもしれないから助けてほしいと書いてあり、二日後に迎えにいくと書かれていた。現在は一条を匿っており、高倉から逃げているのだという。未奈は、ぐしゃりと顔が歪むのを感じた。



 ――蓮、



 自分は彼を疑った。彼の愛情に恐怖を抱いて、そして逃げてしまった。彼が苦しんでいたことに気づけず、自分勝手に行動してしまった。罪悪感と後悔が、未奈に疑うことを忘れさせていた。その手紙を信じた未奈は、ただ彼の無事を祈りながら、いつの間にか開いてしまった鍵を、深く深くしまい込んだ。彼への愛情を取り戻していた。しばらく見ていなかった彼の笑顔を思い出して、未奈は久しぶりに涙を流した。2日という時間は、未奈に愛情を思い出させるのに十分すぎるほどだった。彼女はもはや、恋に恋する少女と変わらなかった。真っ直ぐすぎる想いはどこか人間を麻痺させる麻薬を分泌する。全体を見渡すことをせず、ただ暗闇の中で赤く光る携帯電話に向かうように、障害物のことなど考えもせず、ただ女は真っ直ぐに己の道を信じて進んでしまう。




「藤谷未奈様、主がお待ちです。」




 家の前に現れた笑顔の青年。未奈は躊躇わずに、その手をとった。









 脳内を反響するぐらりぐらりという感情の渦に眩暈がした。この数週間を想って、女は密かにため息を零す。そして気付くのだ。ネオンばかりみて、何物にも気付くことができなかったのは自分自身なのだと。原石を探すことなく、すでに空気に毒されている宝石など比ではないほどの、どこまでも大きな生命体。


 漆黒の舞台上でただ輝く星達は、信じられないほどの時間を彼らの運命とするのだ。偉大で途方もない存在を無視し続け、ぎらつく悪目立ちしている電飾などに美しさを感じるなど、生物として具の骨頂だと未奈は窓から流れる輝きにほくそ笑んだ。後悔などしていなかった。疑念を抱くことに恐怖していた。窓の外の世界を脳内で一掃しながら、女の瞳は輝きを取り戻していた。美しく気高い女は、男という栄養素がなくとも生きていけるのかもしれないと、青年は頭の中で反芻する。この世の幸福に気付かず本当の意味の自由を勝ち取るためにすべてを捨てた女と、すべてを守るために己の自由を与えた女は、どちらが幸せなのだろうか。



 ──ああ、だから、



 何も知らず、ただ恐怖を貪り続ける少女は、悩むことなくただ幸せなのだ。男と女などというくだらない種族の争いに巻き込まれることなく、人間のもつ感情のみを愛する幼い少女は、どんな女よりも真っ直ぐに歪み、そして不幸なふりをして幸せなのだ。青年は助手席でただ遠くのネオンを睨み続ける女を横目で見ながら、くすりと笑みをこぼす。少女の元で己がいかに幸せだったかを実感すればいい。そうして愚かな人間は死の淵に立って初めて人生を憂うのだと青年は気付く。そしてそれこそが少女の狙いなのだといっそう笑みを深くしながら、極めて優しい声色で彼は告げるのだ。



 ──もうすぐ着きますよ、



 と。幾分かすっきりとして、目を輝かせてわかりました、という女に、青年は女の強い自身と意地を感じる。



「私が蓮を救います。」



 女は、そして漸く女に成った。じわりと滲む薄汚い夜の人工色に心からの笑みを投げつけると、赤い唇が奇妙に歪む。それは、幸福に満ちた、自己嫌悪と自己犠牲と自己陶酔を超えた最大級の笑顔だった。









 目の前を通り過ぎる数多くの足たちに嫉妬した。かつかつと音をたてて過ぎ去るカラフルな物体は一定のリズムをもって人体を目的地に運んで行く。脳は動けと命じ、従順にそれにしたがって音程を生み出すことこそ、足が意思を持っていない証拠に他ならないと茜は思う。何故そうも真っ直ぐなのだ。何故歪まないのだ。お前は人体の一部であり、私の一部であるはずなのに。どうして、私のように歪むことなく突き進むのだ。己の足首をぶらりぶらりと揺らし、ヒールの先がテーブルの金属部分にぶつかってかつんと音を産んだ。一瞬顔を顰めると、再び窓の外をじっと観察する。視線を反らすことなくただまっすぐに前を向いて闊歩する女性のヒールの下でひびく大地の悲鳴を聞いて、少女は静かに目を閉じた。



 人生には幸福と不幸が平等に訪れるのだと言ったのは誰だったか。そもそも幸福とは一体なんなのだ。結局幸せそうに見える人だって実際は不幸かもしれないし、そんなことは本人の主観次第であって、主観とは空模様のようにころころと変わってしまう。他人が勝手に自分の定規で物事を判別したところで無意味なのだ。雲一つない快晴を愛する人もいれば曇り空を愛する人もいる。そんなことは非常に些細な問題であって、今日の天気の善し悪しなんて人生に深く関わることはない。己の身の上を他人に同情されようとも、同情される由縁が天泉茜には理解できなかった。幼い頃に両親をなくし、兄によって祖母に預けられたのだと聞いたものの、祖母と血縁的な繋がりはないであろうことにはとっくに気づいていた。別に他人を羨ましいと思ったことはなかったし、別段不幸だと思うこともなかった。けれど。



「茜、どうしたの。」



 感情の薄い、か細い声に茜は我に返った。心配そうにこちらを見つめる姉の蒼に向かって笑顔で大丈夫と言うと、蒼は悲しそうに俯いた。



 天泉蒼はただ静かにアイスコーヒーを飲み干す。土曜日の昼すぎ。喫茶店内は人でざわざわとした音を作り上げており、その中でもじっと互いの飲み物を消費することだけを続ける彼女たちはそれでも異質ではなかった。ここでは他人は他人に興味を持たない。彼女たちがただ黙りこくっていたとしても、それは社会に大きく影響することなど絶対になく、そしてそのことを知っているからこそ他者の興味をひくことなどあり得ない。所詮人というのはどこまでも自分本位なのだと蒼は実感する。私たちはお互いを捕食し合わなければ生きていくことなどできないのに、他人は一人で生きていくことができるのにも関わらず他者と関わろうとする。実に無駄なことだと、少女は浅いため息をついた。



 彼女達は、ただの姉妹ではなかった。双子であり、それもただの双子ではなかった。


「お姉ちゃん、私は幸せだよ?」


「そう…よかった。」


 茜は自分が嫌いだった。なぜか幼いころから、自分と関わった者はすべて不幸になり、反対に自分は必ず幸せになれた。隣の子が新品の鉛筆を自慢した次の日、彼女はそれを失くしたと泣き、なぐさめる自分の筆箱の鉛筆が新しくなっていた。親友が男の子とデートした次の日、彼女はその子に振られ、彼は自分に告白してきた。成績が上がったとよろこんだ同じ塾の男の子は、次の日交通事故で右手を骨折し、代わりに自分の成績が驚くほど伸びた。けれどそれらの幸せも続く事なく、そんな自分の体質に嫌気がさしては不幸になった。しかし、その不幸も長くは続かない。それは、自分と反対の姉がいたからだった。姉の蒼は、自分が嫌いではなかった。なぜか幼いころから、自分と関わった者はすべて幸福になり、反対に自分は不幸になった。新品の鉛筆を失くした隣のクラスの子は、次の日筆箱を新しくして、代わりに自分の筆箱は切り刻まれていた。妹の親友が男の子に振られた次の日、彼女は部活の先輩からデートに誘われ、その人が好きで遊びに行く約束をしていた自分は代わりにすっぽかされた。同じ塾の男の子が骨折をした次の日、彼は病院で音信不通になっていた昔の彼女に会えたが、代わりに自分は彼女という親友を失った。けれどその不幸は長く続くことなく、他者の不幸を救えた満足感で幸せになった。しかし今度は妹によって、すぐに不幸になる。


 茜は他者の幸福を、蒼は他者の不幸を己のものに還元してしまう体質だったのだ。原因などわからない。ただ、普通の人以上に感情に敏感で、わずかな心を変化をすぐに察知し、どうしようもない運命にながされてしまう。けれど、常に幸福と不幸が目まぐるしく変わる彼女達は、お互いにどうしたらいいのかわからなかった。


 外に出ることがつらかった。外の世界は感情で溢れ、彼女たちを一瞬のうちに幸福と不幸の渦に巻き込んでしまう。けれどそうしながらも、すでにその洪水に慣れてしまった彼女たちは、並大抵の幸福、不幸では一喜一憂しなくなっていた。哀れな少女たちは、大人になっていくのだ。



「お姉ちゃん、わたしね、好きな人ができたの。」



 窓から視線を戻し、アイスコーヒーを一口飲んでから、少女は表情を変えずにそう囁く。


 茜の言葉に、蒼はぞくりと背筋が寒くなった。茜の不幸を感じる。彼女は今悩み、苦しんでいる。彼女の苦しみが手にとるようにわかる。体内にながれこんでくる。溢れそうになる想いが空回りして、そして己の体質に悲観する彼女の脳が駄目だと危険信号をならしているのがわかる。血液は急激に冷えて行き、、茜が感情を消そうとしていることに蒼は気付く。


「でもね、わたしはきっとまた、その人を不幸にしてしまう気がするの。」


 妹は不安で満ちている。また自分が彼の幸福を吸い取ってしまうのだと危惧している。ああ、可哀相な茜。わたしがその苦しみを受け入れてあげられたら。そしたら貴女は楽になるのでしょう。


「そしたらまた、わたしが貴女の代わりになってあげる。」


 蒼は優しく笑った。からん、と。彼女のグラスの中で、氷が落ちる。


 茜はどくんと心臓が高鳴るのを感じる。蒼の幸福を感じた。彼女は今、自己犠牲の上に出来上がる天泉茜の幸福に喜んでいる。自分の犠牲によって妹である自分が幸福になることにとてつもない喜びを感じている。彼女の幸福が手にとるようにわかる。血液が沸騰しそうに熱い。胸の奥が痛みと喜びにぎりぎりと音を立てているのを感じる。血行がよくなった彼女の頬は薔薇色だ。そうして姉はどこまでも不幸に見える。


「わたしたち、見た目はそっくりなのだもの。わたしがあなたの代わりに、彼の不幸を吸い取ってあげる。そうしたらまた元通りよ。」


 姉の弱々しい笑顔!なんて素敵な自己陶酔。わたしにもその甘い満足感を分けてくれたらいいのに。そうしたら、わたしは幸せになれるのでしょう。


「大丈夫よお姉ちゃん、きっとそうなったら、すぐに新しい人を見つけるもの。」



 妹の嫉妬心がわかる。


 姉の美しい感傷がわかる。


 妹の不満足がわかる。


 姉のはかない硝子のように繊細な心がわかる。


 そうして、たった数分間の間に、目まぐるしく出し入れされる感情の波に、二人はすっかり疲れ果てるのだ。





 わたしは怖いのです。

 自分が満たされた瞬間に、すべての者の恨めしい視線が、弱々しい姉の笑みが。自分がひどく傲慢になった気がして、絶望しそうになるのです。そうなるたびに姉の元へ走って、幸福のかけらを奪い取るのがもはや本能となってしまいました。わたしは幸福欲で満ちています。食欲よりも睡眠欲よりも性欲よりも。もっと多くの幸福を貪ることが、わたしの生きる道なのだと知ってしまってから、わたしはますます貪欲になりました。そのたびに自分が嫌いになるのです。無限に続くループから抜け出すには、どうしたらいいのでしょうか。


 わたしは怖いのです。

 自分が不幸のどん底にいるときの嘲笑うかのような他者の幸福に満ちた視線が。優越感や満足感に満ちた表情が、わたしをも侵食するのではないかと怖くなるのです。わたしは幸福になってはいけない。わたしが幸福になれば妹がそれを感じて幸福になります。結果として不幸になったわたしを見て、自己犠牲の上に成り立つ幸福だと知った妹は不幸になり、今度はわたしがその不幸を拭いさろうとする。その繰り返しなのです。妹が永遠に幸福に、わたしが永遠に不幸でありつづけることこそ、このバランスを保つ唯一の道なのだと思うのです。



「「ねえ、」」



 二人で同時に顔を上げた。曖昧に微笑んで、交互に考えを述べる。声色に感情を混ぜないように、相手に感情が流れ出さぬように、ただ淡々と語る。


「やっぱり方法は一つしかないわ。」


 蒼が視線を飲み残したアイスコーヒーに移す。


「おばあちゃんには悪いけど」


 茜は頬杖をついてくるくるとストローを回す。


「これが自然の道だと思うのよね。」


 蒼はぼんやりと妹を見た。


「そろそろ完全になるべきだわ。」



 力強く笑った一人の少女がそこにいた。


 永遠に続く螺旋階段から抜け出すには、新たな因子が必要なのだと二人は思う。


 その存在が二人の中和剤となって、そしてバランスが生まれるのだと二人は信じる。



「「お兄ちゃんに会いたい。」」



 幼い頃自分達を祖母に預けたという兄。彼こそが二人のバランスを作ってくれるだろうと、二人は夢想する。ひどく子供じみた、幼い発想だった。くだらないと一掃することができないのは、成長して、二人が限界を感じてしまったからだ。


 茜は他者を不幸にしすぎた。

 蒼は自分を不幸にしすぎた。


 極端な二人は、感情のコントロールが出来ずに苦しみ続ける。助けを求めたくともできない、そんなか細い線の上を綱渡りすることに、二人そろって疲れてしまっていた。街に出れば必ず姉は周囲の不幸で体調を崩し、妹の通り過ぎた後は暗い表情の一般人であふれかえる。二人には、もうコントロールしきれなかった。


 そして、こんな双子の様子に気づき、彼女達を救う救世主が現れる。





「引っ越し?」


「そうよ。」


「…急だね。」


 夕食時。祖母から、引っ越しの話が提案された。祖母はどこか迷いながらも、ゆっくりと神妙な顔でその事実を告げた。


「いい、落ち着いて、よく聞くんですよ。」


 しっかりとした瞳で、麗子は双子を見つめる。麗子はここ数日悩み、迷っていた。けれど同時に、双子に限界が来ていることにも気づいていたのだった。



「貴女達のお兄さんが、一緒に住むことを提案しに来ました。」







 最後まで、麗子が危惧していたこと。彼女達に、少女と接触させてはならないと思った。少女に出会ってしまったら、元通りの生活が望めないことを知っていた。けれど。双子の体質に気付いていたからこそ、これ以上他人を不幸にするわけにも、蒼を不幸にするわけにもいかないと思った。だからせめて自分がこの世をさる瞬間までは、少女の毒に当てられないように気をつければよいと自分を納得させ、そして麗子は共に生活することを決意する。



「お兄ちゃん、が、」



 双子は顔を見合わせた。自分達の負の連鎖が断ち切られる時が来たのかもしれないという希望と、記憶におぼろげなほど会っていない兄に会うことへの不安。それらが交差して双子の脳をぐちゃぐちゃとかき回す。そして何より、双子は祖母が大好きだった。まったくの他人であったはずなのに、こうして愛情深く自分達を育ててくれた。感謝してもしつくせないほどだと思っていたからこそ、双子は麗子の幸福を望む。


「でも、でもおばあちゃんはどうするの…?」


 優しい孫娘達に、麗子は優しく微笑んだ。


「私も一緒に、と。おっしゃってくれました。」


 途端、ふたりはぱあっと明るくなった。しかし、その蒼の笑顔は当然のように一瞬で引っ込んだわけだが。


「一週間後、迎えがきます。荷物は後日で大丈夫だから、ゆっくりと心の準備をしてくださいね。」


 麗子は笑う。漸く訪れる平穏に、穏やかに、穏やかに微笑んだ。





「茜…?どこにいくの?」


 日曜日。茜ははじめて、休日に一人で家を出ようとしていた。珍しく花柄のワンピースをひらりと揺らめかせ、唇に乗ったグロスが太陽光にきらりと輝く。どこまでも可憐で、美しかった。


「お姉ちゃん、ごめん。わたしね、やっぱり最後だから、」


 そして、蒼はゆるゆると茜の感情を読み取った。



「高倉君に会うのね。」



 一瞬、優しく笑った姉に、茜は満面の笑みを見せた。


「高倉君を不幸にしてしまうかもしれないけど、でもきっと、お兄ちゃんに会えたら元通りになれる気がするの。」


「…そうかもしれないわ。楽しんできて。」


 そっと手をふる姉に、茜は胸の中で謝りながら、笑顔で手をふりかえした。蒼が恋愛などできないことを知っていた。彼女は一方的に想いを抱いていたとしても、決して結ばれることを望まなかった。それが彼女の優しさなのだと知っていた。そして、自分が高倉涼を好いているように、蒼いも、彼を大切に思っているのだとしっていた。だからこそ、茜は決着をつけようと思った。自分が姉に遠慮することほど蒼を不幸にすることはないと知っていた。彼女をこれ以上追い込んではいけないと思った。




 待ち合わせの駅に向かって、茜は駆け出す。ただただ、涼の幸福と、姉の平穏を願いながら。








 無邪気な好奇心は罪になるのだと知った。ただ純粋なまでに真っ直ぐな思いは相手に伝わることなくじくじくと心の中で成長し続ける。いつの日か思いだけがすべてを内包するほどに大きくなると、そうして人は人でなくなる。ゆっくりと流れていく時間の中で、ただ真っ直ぐに生きることを誓った青年は静かに窓の外を眺めた。徐々に青く青く染まりゆく空に遠くできらきらと輝く太陽の残骸がひどく滑稽にみえた。世界は空に抗えない。青く黒くなる空に抵抗しようと夜空をネオンで満たしたところで、昼間の太陽ほどの温かさもなければ優しさもない。そこにあるのはいやらしく纏わり付く淫猥で卑劣な欲望だけだ。恐れている癖に恐れを知らぬふりをする愚かな人間の象徴だと青年は嗤う。本当に恐れを知らぬのは彼女だけだ。本当に歪んでいるのは彼女だけなのだ。世界が侵食する空に勝てぬように、誰も彼女に勝てるはずがない。彼女は青年のすべてであり、青年こそが境界線だった。空と世界の曖昧な境界線のようにゆらゆらとあの世とこの世を行き来する青年は、しかし幸福だった。



 ――漸く、彼女は解放される。



 彼女を縛り付けている知識欲から、漸く解き放たれるのだ。青年はにっこりと微笑んだ。


 薄暗い厨房では絶えず甘い匂いがしていた。フルーツタルト・チーズケーキ・フロマージュブラン・桃のコンポート・クレープシュゼット・アイスボックスクッキー・アップルパイ・パウンドケーキ・マドレーヌ・マフィン・レモンのロールケーキ・苺のシフォンケーキ・ティラミス・ガトーショコラ・ポルボローネ・シュークリーム・パンプキンパイ。それらをすべて、真っ白な皿に盛り付け、庭の薔薇で飾りつける。噎せ返るほどの甘さに、青年は唇を歪めて笑う。



 ――そして、傷ついた彼女を救うのは俺だ。



 彼女を救えないこと、彼女がいない世界ことが青年にとっての恐怖だった。その世界があの世でもこの世でも、境界線である彼が彼女と反対の岸にたどり着くなどあってはならなかった。だからこそ、彼は命懸けで準備をしてきた。少女の幸福のため、少女の平穏のため、少女の絶望のため、少女の恐怖のために。


 青年は、ゆっくりと幕を開ける。




 すっかり暗くなった夜空を、恍惚とした表情で見上げる。


 青年が少年だった頃。妹たちを言われたとおりの女性に預け、そして彼はこの屋敷にやってきた。水ノ江右近と名乗る恰幅のいい男の下で、彼は様々なことを学ぶ。まだたった5歳だった少年は、驚くほどの知識を身に付けた。男が命じたことは、屋敷内の本をすべて読むこと。何年かかってもいい、ただ、そこの本をすべて読み、すべて理解するようにと。そして少年は読書に明け暮れながら、妹たちと同じくらいの歳の少女と共にここで成長していった。



「響夜、」



 或る時、少年は右近に呼ばれる。少年が十五歳のときだった。右近は病に犯されていた。妻は数年前に他界していた彼は、果てしない孤独の中にいた。数多い使用人はほとんど辞めさせ、彼の側近である老人だけが残っていた。


「およびでしょうか、旦那さま。」


 人形のように真っ白な肌をして、黒々とした瞳を煌めかせている少年は美しく成長していた。右近は眼を細めて笑う。


「お前、どこまで読み終わったんだ、」


「第一書庫のものはすべて読み終わりました。現在第二書庫のものを読んでいるところです。」


 無機質でひやりとした声色に、右近は満足そうにベッドの上で頷いた。ぎしぎしと音を立てて上半身を起こすと、大きく皺のある手で少年の髪を撫でる。さらさらと指を流れる黒髪は、右近の娘とよく似ていた。


「お前はそうやって、ここにあるすべての知識を吸収しなさい。そうして、瑠音にそれを教えてやるんだ。私の代わりにね。」


 それが、娘をこの世に残す父親の最後の願い。孤独な少年にそれを託したのは、彼の瞳が娘のそれと似ていたからという理由だけではない。


「お前は一人ぼっちの怖さを知っているね。それはいくら本を読んだところで学べることではないんだよ。それを知っているからこそ、あの子の孤独に気付いてあげられるだろう。」


 ただ黙って彼の話を聞いている少年は、脳裏に二人のそっくりな赤ん坊が浮かび上がるのを感じる。二人残してきた、可哀想な妹たち。彼女たちも孤独だが、それでも双子は互いに捕食し合えるであろうことを彼は知っていた。


 ──瑠音おじょうさまは、ちがう。


 たった一人の肉親にも、もう少しで永遠の別れを告げなければならない。彼女は孤独で、でもそれがいかに哀しいかに気付くほど成長していない。それがとてつもなく寂しいことだと彼は知っていた。もし、そのことに気づいてしまえば、彼女が壊れてしまうであろうことも。


 ──おじょうさま、


 少年は、幼すぎた。自分にとっての肉親よりも、孤独な少女を選んだ少年は、彼女のために生きようと決めた。彼女が望むように、寂しくないように、一人の夜が怖くないように。





「天泉!ねえ、これ見て!」


 少女はそして、歪んでいく。


「本で書いてあったのだけど、でもおかしいのよ、ぜんぜん怖くないの。」


 成長した少女の足元に転がる、丸い物体。


「とりあえず近くにいた人間がこの人だったのだけど、でも全然怖くないの。どうしてかしら?」



 それは、真っ赤に濡れた、老人の首。



「ほらみて、この小説には、『人間の首が切断されて転がっているひどく恐ろしくおぞましい情景に少女は身震いし恐怖した。』って書いてあるのよ。私も少女みたいに恐怖を感じたかったのに、でも、」



 ──全然怖くなかったのよ。



 そう言って、一筋の涙を流して笑う彼女の指は赤く赤く濡れ、ごろりと転がったかつて彼女の父の側近だった男は無情にも物体と化した。




 少女が恐怖にこだわったのには理由があった。ただの好奇心ではなく、彼女の父親に原因があったのだ。


『お前は、孤独になる恐怖に耐えねばならない。その恐怖を忘れるな、そして、お前のせいで誰かを孤独にすることだけは絶対にしてはならない。』


 父親から娘への最後の言葉は、何もわからぬ少女には歪んで届いてしまった。


 父親が亡くなり、葬儀の最中。真っ黒なドレスを着た幼い少女は、隣に並ぶ少年にぽつりとこう呟いたのだ。



 ──ねえ、わたしって孤独なの?


 少年は迷う。迷って迷って、悩んだすえの答え。


 ──お嬢様には、俺がいますから孤独ではありません。


 真っ黒な瞳に感情を宿さず、少女はゆるゆると視線を動かす。


 ──それじゃあ、恐怖になることはできないわね。



 少女は怖さを知らなかった。命を奪うことの怖さも、罪悪感に囚われることも、未知の存在に出会うことも、背徳の海に溺れることも。そしてそれから、少女は恐怖を体験したいと強く願うようになる。



「お嬢様、大丈夫ですよ。」



 真っ赤に濡れた指先を握り締め、しっかりと少女を胸に抱いた少年は。そして、彼女を守ろうと誓った。少女の心が安定するように。幸せになれるようにと。甘い夢を見続けることこそが恐怖だと気づくことなく。まるでハロウィンのお化けのように滑稽で寂しくて、そしてどこか恐ろしい。自分達の恐ろしさに気付かず、ただ二人きりの世界で砂糖を溶かしたような幻惑の中で生きることを選んだ。血濡れの部屋で晩餐会を開いて。骨の軋むフロアでダンスをして、断末魔を聞きながら読書をして、臓物に汚れたテーブルで朝食をとった。それが普通だった。恐怖を感じることなく、それが普通になってしまった。外の世界を見せぬようにと、ずっと少女を室内に留まらせたせいか、少女の肌は恐ろしく白く、死人のようだった。その陶器の肌に生える真っ赤な唇は蠢く舌先に彩られて、残酷に笑いながら紅茶を飲み干す。数々の死体たちによって作られた廊下のオブジェ。不気味に輝く魔方陣。十字架に死ぬ聖者のように杭を打ち付けられた少年、剥製にされた少女、手足を捥がれた老女、ホルマリンにつけられた青年の標本、内臓に宝石を詰めた老女、そして、首のない老人。それらに囲まれ、そして青年は気付いた。



 これが、少女の恐怖を遠ざけているのだと。



 少女の周りに住む異質は、少女を孤独にしていなかった。それこそが恐怖になれぬ原因。永遠に続く収集は、永遠に少女に答えを与えない。けれど。



 ──恐怖こそが、彼女の願い。ならば、



 そして、青年は決意する。彼女の願いを叶えることこそが自分の使命なのだと。右近のことを無視する形にはなるけれど、青年は、少女の言葉の方こそを重く受け止めていた。それから、二人はともに歪んでいく。






 漆黒の空がさらにその深さを増し、そしてやがて白み始めると太陽が顔を出す。青年は静かに色とりどりのスイーツ達を巨大な冷蔵庫に仕舞うと、眩しそうに太陽のかけらを見つめた。どこからともなく流れだす音に、朝が来たのだと実感する。輝きだす世界を睨みつけ、青年は夢想する。二人だけの、甘く苦い世界を。



 ――これで、終わりにしましょう。



 静かに祈る。願わくば、少女が救われますようにと。そして、少女と永遠の時を過ごせるようにと。青年はそして、ゆっくりと瞳を閉じた。










「皆様、晩餐にようこそ!」



 煌びやかなドレスに包まれ、少女はにっこりと笑った。隣にはタキシードの青年。そして、目の前のテーブルセットに座るのは、六人の男女。全員目隠しをされ、静かに席に着いていた。上座に位置する少女の右隣に空席、その隣に制服姿の青年、さらにその隣にはスーツを着た女性。少女の正面には着物の老女、左の奥から赤いワンピースを着た少女、その隣には青いワンピースを着た少女、そしてその隣、瑠音の左隣りには草臥れたシャツを着た青年。誰も何も言わない。ただ彼らは、主とは誰なのか、そして鼻孔をくすぐる甘い匂いは何なのかを疑問にもつことしかできなかった。



「晩餐の前に、美しくも儚い夢物語を聞かせてあげましょう。静かに聞いていてくださいね。」



 少女は静かに部屋をでた。途端、部屋の隅から巨大なスピーカーが現れる。少女の代わりにその席に天泉が座ると、スピーカーの奥から、少女の声がした。



『むかしむかしあるところに。』


 静かに、天泉響夜はため息をつく。


『哀れな青年がいました。』


 ごくりと誰かが喉を鳴らす。


『青年は一人の女性を愛していました。』


 がたりと、一条蓮が椅子を揺らす。


『けれど、青年を愛する人もいたのです。』


 ゆるゆると、藤谷未奈は瞳の奥で夢想する。


『けれどその者は、青年を愛するよりも彼女の弟を愛していました。』


 ぎゅっと、高倉涼が拳を堅くした。


『彼女は弟のために、青年と結婚しようとしたのです。』


 ゆらぐ空気に、天泉響夜が顔を歪める。


『そのおかしな愛情に、青年は辟易していました。』


 一条蓮は指先が震えるのを感じる。


『と同時に、彼女の狂った嫌がらせに女性は辟易していました。』


 藤谷未奈はじくじくと胸の底が蠢くのを感じる。


『青年は女性のため、哀れな女を死に至らしめようとしたのです。』


 高倉涼は、涙を耐える。


『そんな女の弟は、一人で死のうとしました。』


 はっとしたように、天泉茜は首を上げる。


『彼がそう思ってしまったのには、もうひとつわけがありました。』


 いやだいやだと首をふりながら、天泉蒼は逃げ出すように椅子を引く。


『彼のことを、その時愛する少女がいたからです。』


 とうとう来てしまったとでも言うかのように、穂波麗子は肩を揺らす。


『少女は他者の幸福を奪い取ってしまう体質でした。』


 途端、高倉涼の脳裏に少女の姿がよぎる。


『そして、そんな少女は双子の姉のために、自分は奪い取れないほど幸せになろうとしました。』


 ぐるりと見えないはずの視界を動かし、天泉蒼は妹を見る。


『姉は、不幸を吸い取ってしまう体質でした。』


 小さくうつむき、天泉茜はため息をつく。


『そんな二人に、決定打を下したのは彼女たちの育ての親でした。』


 穂波麗子は、見えないはずの四つの瞳が自分を探したのを感じる。


『彼女たちに、もう終わりにしようと、この世界に別れをつげようと提案した老女は、双子を彼らの兄に会わせようとしました。』


 表情のない瞳の奥で、天泉響夜はゆらりと二人の赤ん坊が揺らめくのを感じる。




『そんな兄は、この物語を構築するため、すべてを背負い込んだ哀れな青年なのです。』




 全員の息が、止まった気がした。



『さあ皆さん目隠しを解いて!天泉、あれをすぐに!』



 すべてが、一瞬だった。


 全員の鼓動がすべて鼓膜に流れるのをスピーカー越しに少女は感じる。


 絡まる指先が目隠しを解く。天泉は言われたとおり、空席の前に静かに銀の大皿を置く。



「っ…………!!」



 叫び声などない。ただ、絶句していた。




 一条蓮は、銀の大皿の上に乗った高倉ほのかの首に恐怖した。


 藤谷未奈は、目が血走って血のついたシャツを着た一条蓮に恐怖した。


 高倉涼は、そんな二人と姉の代わり果てた姿に恐怖した。


 天泉茜は、白手袋で顔を歪める天泉響夜と女の首に恐怖した。


 天泉蒼は、すべての不幸が全身に流れ込んでくることに恐怖した。


 穂波麗子は、すべてを悟って恐怖した。





『それでは皆様、永久にお別れと致しましょう。天泉、さようなら。』




 そして、天泉響夜は。



 一瞬後に、恐怖した。












「見つけた。」



 巨大な塊を前にして、水ノ江瑠音はぽつりと呟いた。きらきらと歪に輝く物体は、美しいまでに瑞々しい生を感じさせる。そこにあるのは、色とりどりのティーセットを前にして、それぞれ絶望の混じった恐怖の表情で固まる人間たち。そこにあるのは、ただただ恐怖だけ。少女は、一瞬の輝き、恐怖の絶頂を、永遠のものにしてしまった。



「貴方達はその素晴らしい姿を保ったまま私に冷凍保存されたの。貴方達の最高の恐怖を、私が永遠にしてあげたのよ。」



 巨大な部屋を冷凍するにはあまりに膨大な技術を必要とした。それすらをもやってのけてしまったのは、父親の財力と、天泉の知恵。



 ピアノの前奏が高音を激しく奏で、ヴァイオリンが重なるとコントラバスが暴走しフルートが叫びだす。少女の脳内に響き渡る轟音は重なり、重なり、高音と低音が混ざり合うことなく自己主張を繰り返す。眩暈がするような脳内の叫びに、少女はじっと耐えていた。笑いながら、涙を流しながら、気丈にそこにただ立っていた。可笑しくてたまらなかった。自分自身が、この世界そのものが。



「ねえ、わたし、ようやく気づいたの。ようやく見つけたのよ。」



 星空しか映っていないその虚ろな瞳で、少女は遠くを見るかのようにうっとりと微笑む。


 ここには少女しかいない。誰もいない、何もない。あるのはただ、大きすぎる世界と、たった一人でそこに立ちすくむ自分の姿のみ。



「これが、恐怖。」



 くるりくるりと回りながら、ただ少女はその場に立ち続ける。大きく広げた両腕はそれでも世界を知るにはあまりに小さすぎた。ひらりと舞い上がるスカートの裾が風を産み、少女の涙を乾かす。



「わかったの、気づいたの、だからほら、早く、」



 そして、少女は天泉の願ったように、最高の恐怖を実感した。



 永遠の、孤独。



 父親が最後まで危惧した、世界で最も寂しい、恐怖。



 途端、少女の顔が歪んだ。抑えきれぬ感情をすべて吐き出すかのように、そして少女は。その場に膝をつく。




「ああぁぁあああぁぁぁあああぁぁぁあ……!!」





 叫び声は何物にも反響することなく、大地に吸い込まれていった。誰も返事をしない、たったひとりの愛した男ももう、歪んだ笑顔を見せてはくれない。その事実に気付き、少女はただきらきらと輝く物体になった響夜を見上げた。最後の少女の言葉に、彼は永遠の苦しみを知ってしまった。彼は、少女の永遠になることを望みながらも、少女と違う世界に留まることを望まなかった。最後の挨拶は、青年にとって、恐怖の幕開けにすぎなかった。できることならば、できることならば、



 ──俺は愛してますよ。



 最後くらい、愛の言葉が、欲しかったと。一瞬のうちにそう思って、青年は気付いたのだ。少女をこちらに引き込むための最後の手段を。それは、あまりに寂しく、どうしようもなく甘い願い。



「天泉…!」




 六人が恐怖に顔を歪めている中で。




 ただ一人、天泉響夜だけは、



 困ったように、寂しそうに。







 ただ優しく、笑っていた。










 ざわり。木々が騒めくと。それを合図にしたかのように、世界に音が戻っていく。



 虫は鳴き始め、風が芝生を揺らし、ようやく世界は正常を取り戻した。そして。




「……たすけて。」





 少女は、壊れた。








 了

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