前篇
鴉の羽のような夜空に輝き瞬く星達を仰ぎ、遠くに霞む街の人工的な明かりをじっと見つめると、少女は静かに耳を澄ました。ゆっくりと目を閉じる。そこは奇妙なほどに静寂に包まれていた。虫の声、風の音、気配すらない、宇宙空間のような静けさ。そんな冷やりとした空気の匂いを嗅いで、少女は満足そうに微笑んだ。
「見つけた。」
少女の微かな笑みからは何も読み取れぬ。ただただ、静かに息をして、じっと絵画を鑑賞するかのようにそこに居た。外界からは、ただぼんやりと立っているようにしか見えないかもしれない。けれど今、少女の頭の中には、膨大な感情が波打っていた。
──悲しい悔しい嬉しい愛しい美しい寂しい怖い哀しいどうして怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いどうして。
ピアノの前奏が高音を激しく奏で、ヴァイオリンが重なるとコントラバスが暴走しフルートが叫びだす。少女の脳内に響き渡る轟音は重なり、重なり、高音と低音が混ざり合うことなく自己主張を繰り返す。眩暈がするような脳内の叫びに、少女はじっと耐えていた。笑いながら、涙を流しながら、気丈にそこにただ立っていた。可笑しくてたまらなかった。自分自身が、この世界そのものが。
「ねえ、わたし、ようやく気づいたの。ようやく見つけたのよ。」
星空しか映っていないその虚ろな瞳で、少女は遠くを見るかのようにうっとりと微笑む。
「これが、恐怖。」
くるりくるりと回りながら、ただ少女はその場に立ち続ける。大きく広げた両腕はそれでも世界を知るにはあまりに小さすぎた。ひらりと舞い上がるスカートの裾が風を産み、少女の涙を乾かす。
「わかったの、気づいたの、だからほら、早く、」
途端、少女の顔が歪んだ。抑えきれぬ感情をすべて吐き出すかのように、そして少女は。その場に膝をつく。
「あぁああぁああぁぁあぁあぁぁぁあぁぁ……!」
ざわり。木々が騒めくと。それを合図にしたかのように、世界に音が戻っていく。
虫は鳴き始め、風が芝生を揺らし、ようやく世界は正常を取り戻した。そして。
「……たすけて、」
少女は、壊れた。
*
「神様っていると思う?」
美しく磨かれた銀色のフォークをくるくると回しながら、水ノ江瑠音はそう尋ねた。彼女の視線の先にはにこやかに給仕をする青年。彼はことりと少女の前にスクランブルエッグとベーコンの乗った皿、かぼちゃのポタージュ、サラダをしっかり準備し終えると、いつもと変わらぬ口調でさらりとかわした。
「物理学的見解、哲学的見解、宗教学的見解、どの結論をお望みで?」
瑠音はふいと視線をそらし、トマトにかじりついた。
「このトマトくらい真っ赤で残虐的な貴方の見解をお望みよ。」
青年──天泉響夜はくすりと笑って紅茶を継いだ。
屋敷内はひんやりと湿っていて、噎せ返る様な匂いで満ちていた。不快感しか呼ばぬような、空気の通わないみっちりとした室内はじくじくと音をたてて鼓動している。広すぎる食堂内はそれでも客人たちが転がっているせいでどこか雑多で、小さな窓から僅かに差し込む太陽光がうすぼんやりと部屋の様子をさらに不気味にしていた。古いわけでもなく、埃っぽいわけでもないが、それでもどこかオカルトめいた雰囲気に支配されているのは、部屋中に広がる独特の臭気のせいであるのだと瑠音は知っていた。大きな悪魔のオブジェも、割れた鏡も、巨大なシャンデリアも、血塗られた絵画も、すべて。少女にとっては、物体以外の何物でもなかった。無関心。無感動。それらを収集するたび期待だけが膨らみ、結局何も得られぬとわかるとすぐに興味を失う。そのサイクルを繰り返すことが今の彼女の人生であり、徐々に期待も薄れていった。ただただ、ぼんやりと毎日を繰り返すことしかできぬ自分に焦りと怒りを感じながらも、それでも生きることしかできなかった。退屈だった。
大きな大理石のテーブルの端に少女が座っており、目の前には朝食が並んでいる。空間は異質だが、それでも朝の風景としては何ら変わり映えしない。空間が、異質でなければ。
「わたしはね、神様っていると思うの。だってわたしがいるんだもの、神様だっているに決まってる。」
瑠音は、フォークをくるりと一回転させると、左斜めに横たわる客人をじっと見つめた。
「ひどい臭い。捨てて頂戴。」
そして、首から上がない客人は、ずるりと椅子から崩れ落ちた。少女の表情には恐怖などない。ただただ、不快感のみ。
「結局、何も変わらなかったわね。」
天泉はなおもにこやかに給仕を続ける。甘いジャムの匂いにうっとりと瞳を輝かせてから、瑠音はため息をついた。
「檻に閉じ込められた哀れな加害者は?」
「夜中は喚き散らしてましたけど、どうやら疲れて憔悴しきっているようです。」
「そう、つまらない。」
スコーンにたっぷりと苺のジャムを乗せると、周囲を見渡してからかぶりついた。瞳を閉じて、昨夜の舞踏を思い出す。
その日、男は復讐心だけを抱えて屋敷にやってきた。ただ、舞台は用意すると。その舞台で踊ってくれさえすれば、その後の処理もすべてやるから問題ない。ただ、踊ってほしい。そういう手紙が投函されたのが一か月前。ただ半信半疑だった男の前に真っ黒な外車が現れると、いよいよ男の怒りだけを増幅させる情報だけを携えた青年はにこやかに屋敷に案内した。男が手にしていたのは一本の日本刀。彼の瞳には憎むべき人物の姿しかなく、ただ怒りに身を任せた人間というのはどこか獣じみた荒々しさと無鉄砲さに毒されているものだと、天泉は密かに嗤った。
「お嬢様が、晩餐の準備をして御待ちでございます。」
天泉はにこりと微笑むと、男を食堂へと案内した。巨大な観音開きの扉は細かい装飾を施されており、黒々とした影に覆われて金の取っ手が蠢いているかの錯覚に陥る。どこまでも不気味で、異質。男は一瞬だけ躊躇したものの、待ったをかけるよりさきに軽やかな手つきで青年に扉を開かれてしまった。
大きなシャンデリアで彩られた室内は重ったるい真っ赤なビロードのカーテンで外界から遮断されており、大理石のテーブルには色とりどりの豪勢な食事が待ち構えていた。男の真正面の上座に座るは漆黒の髪の少女。そして、
「いやああぁあああぁぁあぁぁああああ……!」
少女の横には、怯えた表情の、女。
叫び声を聞くや、男は弾かれたように駆け出した。遠くて扉が閉まる深い音を聞きながら、男はただ一直線に女へと走る。硬直した女は眼を見開き、わなわなと唇を震わせていた。
何も考えず、何も思わず、男はぐちゅりと女へと日本刀を突き刺す。男はただそのまま、何も考えずに女の首筋に刃を向ける。先程の衝撃で気を失ったのか、白目を剥いてだらしなく口から舌をのぞかせている女を一瞥すると、何事もなかったかのように女の首を撥ねた。肩で息をしながら、だらりと弛緩した女だったものが椅子に崩れるのを見ると、漸く男は《恐怖》にかられる。じわりじわりと歪んでいく表情を見て一瞬だけ顔を上げると、ふいと視線をそらして、少女は静かに口を開いた。視界の片隅では、何も感じていないようなぼんやりとした表情の少女が、静かに真っ赤な苺を咀嚼していた。
じわりじわりと歪んでいく表情を見て一瞬だけ顔を上げると、ふいと視線をそらして、少女は静かに口を開いた。
「駄目ね。天泉、片づけて頂戴。」
首筋の衝撃の前に、男はただ、少女の真っ赤な唇を記憶した。
「確かにね、あの娘の表情は所謂《恐怖》だったと思うのよ。」
かぼちゃのポタージュをスプーンで掬いながら、瑠音は相変わらずの無表情で呟いた。
「あの男の最後の表情はどっちかというと《後悔》に近かったけど。でも、彼らは一様に何かに恐怖していた。でも、やっぱりそれがなんだかわからない。」
テーブルにぶちまけられた血液はそのままに、赤黒く変色して乾きかけたそれは少女の表情とはひどく不釣り合いだった。
「殺人現場って、怖いものだと思ってた。」
退屈そうに朝食を取り続ける少女に微笑むと、青年は静かに紅茶にミルクを落とす。
「駄目でしたか。」
「駄目だった。ねえ、もしよ、もし神様がいるのだったら、きっとあの哀れな男は救われたのよ。わたしなんかのために殺人を犯す必要などなかった。可哀想に。・・・矛盾してる?」
ふいと見上げた瑠音にやさしく微笑むと、天泉は静かに首を振った。
「お嬢様は優しいだけでしょう。貴方も苦しんでおられるのですから、気に病む必要などありませんよ。」
そっとスプーンでカップをかき混ぜると、少女はふうと息を吐く。
「わたしは、知りたいだけなのに。」
ぽつりと呟かれた言葉に、青年は苦笑した。
「ええ、わかっています。」
「《恐怖》は持続しない。永遠の幸福がないように、永遠の《恐怖》もない。それはわかったわ。」
こくりと喉をならしてミルクティーを飲むと、変わらぬ表情で瑠音は語る。
「一瞬の輝きなの。《恐怖》が最高潮に達した瞬間はひどく短い。どくどくと脈打つ心臓の音を手に取るように感じられるのも一瞬だけでしょう。それじゃあわたしが知りたいことを観察することもできない。《恐怖》を持続させる必要がある。ねえ、」
カップをそっと置くと、瑠音は青年を見上げる。
「貴方は、何に《恐怖》するの?」
何度となく繰り返された問い。天泉は、いつもと変わらぬ返事をする。
「俺は…前にも言いましたけど、〈貴方の居ない世界〉に恐怖しています。」
諦めたように椅子に体を沈めると、瑠音は哀しそうに笑う。
「貴方はいつもそれだわ。父に無理矢理わたしの相手をさせられているだけなのに、どうしてそう思えるの?」
「俺にだってわかりません。ただ、貴方を救いたいだけです。貴方の平穏のためならば、俺はきっと何だってする。今の恐怖は、その目的を失うことです。そうなってしまってはきっと俺も生きられない。恐怖はね、お嬢様。理屈ではないんです。本能なんですよ。」
青年はただまっすぐに少女を見つめる。
「わたしにはその本能がないのかもしれない。きっと、わたしは一生《恐怖》という快楽を得ることはできないのかもしれない。脈打つ心臓、脳内に響き渡る危険信号、思わず喉から絞りでる叫び声。その最高の悦楽を感じられずに、ずっとただ時を貪るのかもしれない。」
青年は、白い手袋を外し、そっと少女の髪を梳いた。
「それでも、可能性に賭けるのでしょう。」
「かけるわ。」
今の状況がおかしいことくらい、青年にはわかっていた。ただ、少女を失う悲しみほどに、少女という存在に恐怖していた。畏怖。圧倒的な恐怖は支配力となり、それはいつしか深い愛情へと形を変える。青年は少女にただ、この愛情に気づいてほしかった。恐怖の末の、甘い夢へとたどり着いてほしかった。そのことが今の天泉の生きる理由であり、幸せだった。少女の我儘がすべて愛おしく、そして可愛らしいと思った。そう思う時点で、もはや自分もおかしくなったのだと気づいていた。けれど、馬鹿げているとは思わなかった。
「わたしは、最後の大勝負にでる。」
どこか決心したような瞳で、瑠音は静かにそう言った。
「もう、退屈な日々を無駄にするのはやめにするの。」
そして少女は、ポケットから小さなメモ用紙を取りだす。
「ここに名前のある人物を招待して頂戴。わたしは彼らから、最高の《恐怖》を絞りとってみせる。必ず、全員集めるのよ。」
無感情にそう言った少女を見、そしてそっとメモ用紙を開いた。
「………了解しました。」
一瞬戸惑ったように、青年の瞳が揺れる。そんな彼を見て見ぬふりをして、少女は静かに、残りの朝食に手をつけはじめた。
真っ黒く塗りつぶされたかのような屋敷は完全に静まりかえっていた。物音ひとつせず、ただじっと終わりの時を待ち続ける、まるで棺桶のようだった。オカルトじみた外見に違わず、血の匂いに満ち満ちた食堂。そして、食堂から大広間に続く長い廊下には少女が収集した首かざりが。あちらこちらに不気味なオブジェが立ち並び、薄気味悪く鳴く小動物達の檻ががしゃりと音をたてる。少女の寝室でさえも頭蓋骨が列を成していたりホルマリン漬けが並んでいたりするものの、それでもまったく動じる様子もなく瑠音は静かにベッドに身を投げた。天井に大きく書かれた銀色に光る魔方陣を睨みつけ、どこまでもゴシックに彩られた己の部屋を見渡す。そして、小さくつぶやくのだ。
「ちっとも怖くないじゃないの。」
──うそつき。
不気味なものたちに囲まれて、そして少女は静かに瞳を閉じた。
*
舌先で蕩けるダークチェリーの外国産の飴玉はどこか苦いほどの甘さを閉じ込めており、口内で粘膜を犯す砂糖の塊に一条はじっとりと冷や汗が首筋を濡らすのを感じた。脳内を流れる重低音は心拍数をあげ、奇妙なリズムに体が浮遊していく。じわりじわりと侵食していくその《何か》に、ただぼんやりと思考が揺れるに任せていた。今を思考せず、過去を誘拐して爆弾を仕掛けるような真似はしない。ただ鋭い矛先を鮮やかな色で染め上げることだけに集中することで、彼は過去と決別し、そして未来を蹂躙していた。快感だった。
視線を泳がせ、ふと窓の外を見る。そこには、ただただ沈みゆくだけの巨大な断末魔がゆらゆらと世界を食む情景があるだけだった。他の世界はまるで窓枠という異質物に切り取られたかのように一条の視界から欠落し、すべての音は遮断されていた。脳内を暴れる《何か》以外は、蓮にとっては無意味かつ無駄であり、その存在を五感が感じる度に無駄を排除すべきだと《何か》が喚く。虚ろな漆黒の瞳は僅かに濡れ、奇妙に歪んだ唇から覗いた舌先は、驚くほどに赤かった。
そっと硝子に指を這わせる。無機質な硬度、冷笑のような温度、光の加減で瞬間的にちらと見えた己の姿に蓮は眉を潜めると、窓の向こう側の世界をじっと睨みつけた。赤い世界が、最期のあがきを見せていた。吸い込まれていくような雲の流れにのって、黒い生き物が悠々と空を翔け、果てのない天井は彼を嘲笑うかのように窓枠によって切り取られていた。そこで、そうして彼の世界は移り行く。一条の望むに関係せず、彼自身を誰も何も省みることなく、世界は勝手に過ぎ去っていく。そして今、男は自らの手で己の世界を破壊した。もはやただの鉄となった窓枠など、それ以上の意味は持たない。男の世界を構築していた飴細工は崩壊し、そして彼の世界だった場所に大量の蜜が流れこんできた。べとつく甘さ、ひんやりと冷たいようで柔らかい、そんな世界が彼の脳を犯す。全身の筋肉が喜びに震え、見開かれた瞳には突き刺さるような視線が攻撃を仕掛ける。そして世界は、一条蓮の敵になった。
ただ、憎かった。純粋に憎しみしかなかった。ここまで人は人を憎めるのかと思うほどに、ただ真っ直ぐに憎かった。
高倉ほのかは一条の婚約者であるという噂が流れたのは何時ごろだったか、それはあるひどく暑い日の夕方のことだった。屋上で煙草をくゆらせていた一条のもとに同僚の男が現れ、茶化したのだ。高倉ほのかとの挙式はいつか、と。一条はわけがわからなかった。高倉が同じ部署の女であるということくらいは知っていたが、正直なところ顔と名前が一致してすらいない。そもそも、彼には心に決めた女性がいたのだ。彼女に知られたらまずいと、一条はただその噂を否定し続け、そして発端を作った奴に一言文句を言おうと思い噂の出所を探っていた。ただ必死に、愛する人のことだけを想っていた。発端が高倉ほのか自身だと知ったのは、もう涼しくなりかけているハロウィンの一週間前のこと。
──ねえ、一条くん、
──わたしね、
瞬間、男の中で何かが爆発した。噂が原因で彼の思い人と疎遠になりかけていることも相まって、彼は妙な噂を流した彼女が許せなかった。たとえ、それが彼女の嫉妬心から来る愛情が原因なのだとしても。彼は、彼と彼女さえいればどうでもよかった。自分のことが好きなのだと言ってくる高倉も、他の女にも、まったくと言っていいほど興味がわかなかったのだ。
──君はすべてを壊そうとしたんだ。
己からこうまでも低い声が出るなど、一条は知らなかった。女の唇が言葉を産むたび、体中を流れる血液が沸騰するような錯覚に陥る。なぜうまくいかないのか、なぜこんな女に好かれてしまったのか、現状と己を呪った。
──火のないところに煙は立たないのよ、
そう言って去って行った彼女の後姿がしっかりと脳内に焼き付いていた。すべて高倉のせいだと、頭の中で声が反響する。屋上にさらりと流れる風が前髪を揺らし、高倉の姿が視界をちらちらと揺らす。一条は、ただ静かに呟いた。
──頼むから、もう僕の前に現れないでくれ。
けらけらと笑う高倉を睨みつけると、煙草を踏み消して、足早に屋上を出た。怖かった(、、、、)。高倉を今にも突き落とそうとした自分自身が、高倉の虚ろな笑みが、蒼すぎる空が。すべてが混ざり合い、爆ぜる。ショートしたようにぎりぎりと音を立てる脳の回路が一条をさらに追い込むのだ。しかし、そんな一条をあざ笑うかのように、事態はますます悪化していった。
「は…?」
いつも通りの休日だった。愛おしい彼女と、ただぼんやりと喫茶店で時間をつぶすだけの一日。なんでもない話をして、夕食はどこへいこうかなどと予定を立てつつ、ただただ幸せな時を謳歌するはずだった。それが崩れたのは、いつもと同じ珈琲を頼んでソファタイプの大きな椅子に二人で腰掛けた瞬間だった。彼女の口から、こう言葉が漏れたのだ。
──そろそろ、私耐えられない。
どことなく元気がないとは思っていた。ただ、それすらをも抱擁し、彼女の悩みを聞いて二人で困難を乗り越えていけばよいと、一条はそう考えていた。むしろ彼の口から切り出すはずだったのだ。それが、深刻そうな、けれどどこかすっきりとした表情でそう呟かれてしまうと、一条はただじっと話を聞くことしかできない。
「ずっと黙ってた。私、きっと二人でなんとかできると思ったのよ。でも、もう、」
──限界なの。
彼女の言葉がぐるりぐるりと頭をめぐる。アイスコーヒーに落としたミルクのように輪を描きながら沈殿していく。彼女の言葉はひどく重く、一条の心の奥にぐさりと突き刺さった。
「脅迫電話も、貴方からの多すぎる手紙も、もうたくさん。そこまで無理に私を愛さなくてもいいのよ。彼女がいるのならば、私なんて放っておいて。無駄なまでの愛の言葉は逆に嘘にしか見えない。もう、私はあなたを信用できない。」
あまりにもだった。彼女の言葉に若干不可解なことも混じっていたが、それよりも。自分自身の不甲斐なさに、そして高倉ほのかの執念深さに、ただただ一条は驚愕していた。そしてやっとのことで絞り出た言葉は、あまりにも情けないもので。
「待ってくれ、僕は、僕は君に手紙なんて、」
「もういいの。」
真っ直ぐ前を向いて、しっかりとした瞳で、彼女は静かに言葉を紡ぐ。誰かの入る隙などない、ぎゅうぎゅう詰めにされた彼女の心はあまりに堅い。
「私はもう大丈夫。一人で生きていくわ。もう遅いの。…ごめんなさい。」
何かに追われるように、一条の顔を見ることなく、彼女は静かに立ち上がった。そして明るい声で、笑う。
「楽しかったわ。少なくとも、さっきまでの私は幸せだった。ありがとう。」
ヒールの音が遠ざかるのを聞きながら、一条は。
──高倉、ほのか。
彼女ではない、別の女性で頭をいっぱいにしていた。憎悪。憎悪。憎悪。すべてを壊した女への憎しみ。これでもかというほどに彼には憎しみと、そしてわずかな悲しみしかなかった。彼には、寂しげに去っていく女性のことよりもまず、高倉をどうにかせねばと思った。高倉を消してしまってから、後のことは考えればいい。彼女を救うのはそれからだ。まずは…
──高倉を、消さなければ。
その時から、彼は壊れ始めた。
「一条くん!」
高倉のマンションの前につくと、やたら短いスカートをはいて、長い髪をおろした彼女が現れた。シャワーでも浴びたのか、わずかな熱気とシャンプーの匂いが微かに一条の鼻孔をくすぐる。
「来てくれてありがとう、こっちよ。」
腕をひかれ、マンションに向かって歩き出す。一条はただ、静かに嗤っていた。
──もしもし、高倉?僕だけど。
──『え、一条くん?なんで、』
──君に話したいことがあるんだ。よかったら、今から会えないかな?
──『え、』
──どうしても、今すぐ君に会いたいんだ。なんなら家の前までいくよ。
すべてを隠した、甘い声色で。家の前まではやりすぎだったかと心中で反省しつつ、一条はあくまで爽やかに、笑う。
──『…わかったわ。家で仕事してたの。よかったら来て。住所は、』
ああ、人間とはあまりに弱い。弱すぎる精神に漬け込むことほど、簡単なことはないのだ。一条は、礼を言ってから、すぐにタクシーに飛び乗った。
簡素なマンションだった。弟と二人暮らしだと聞いてはいたものの、弟は寮に入っていて冬休みまでは帰ってこないのだと言う。適当に受け流しつつ、リビングに通された。アイボリーを基調とした柔らかな家具たちは彼女の趣味ではないのかもしれない。ところどころに置かれた可愛らしい置きものたちが部屋を彩ってはいるものの、どこかこの部屋にはミスマッチだった。
「昔は母と三人で暮らしてたのよ。でも、半年前に病気で亡くしてからは二人っきり。寂しくはないけど、弟が心配でね。」
ふと柔らかく笑った高倉に、一条は一瞬だけ戸惑いを見せる。けれど、薄手のキャミソールを着た彼女を目にすると、その戸惑いはすぐに仕舞いこまれた。彼女は、自分達の幸せを狂わせたのだ。きちんと問い詰めなければ。一条は静かに笑いながら、アイスコーヒーを受け取る。ブラックだった。
「話ってなに?」
ソファに並んで腰をかけると、甘えたように高倉はそう尋ねる。
「僕の彼女に脅迫電話をしたのは君だね?ああ、別に怒っているわけじゃないさ。ただ事実を確認したいだけだ。だって、僕は君に感謝しているんだからね。」
優しい声を作って、彼女の頭をなでる。一瞬だけこわばった体も、そして徐々に緊張がほぐれ…高倉は、一条にすり寄る。
「そう、私よ…ごめんなさい、だって私、彼女がうらやましくて。」
「何故?」
「私、どうしても一条くんが諦められないもの。幸せそうな彼女が羨ましかっただけなの。私は彼女になりたかった。貴方に愛されたかっただけなのよ。」
僅かに涙をためて、こちらを見上げる高倉に、一条は笑ってこう囁いた。
「大丈夫、僕も漸く、気づいたんだ。」
一条は嗤っていた。太陽のような笑顔で、最大級の笑みを作っていた。高倉はくらりと酔っていくのを感じる。そっと、頭を彼の肩にあずけた。
「僕もね、君のことを、」
高倉は信じていた。これで、自分は幸せになれるのだと。長かった。脅迫めいた電話を鳴らし続け、彼女が気味悪がるほどに愛の言葉を一条のふりをして送り続け、そしてここまでこじつけた。あまりに長い期間、一条を想い続けた自分が勝ったのだと、そう思った。けれど。
「殺したいぐらい、君だけを想ってたんだ。」
一条の言葉を理解するよりさきに、高倉の頭に衝撃が走る。ソファから落とされ、床に頭を打ったのだと気づく前にはすでに己の首筋に一条の指が絡みついていた。
「っ…い、ちじょう、くん、やめ…っ…ああ…!」
「彼女とデートしているときも、普段会社にいるときも、毎日毎日君のことしか考えてなかったんだよ僕は!君のその厭らしい笑みが歪む姿を想像してはどこへも逃がせない怒りでいっぱいだった!嬉しいだろう?今君はあんなに願ってた僕に触れられているんだ!幸せだろうさ!」
苦しい、痛い、助けて、苦しい、苦しい、いやだ、いやだ、いやだ、怖い。
朦朧とする頭の中で、高倉は最後の力を振り絞って一条の指先に深く深く爪を立てた。うめき声がして、一瞬彼の力が弱まると。高倉は、裸足のまま駆け出した。振りかえられなかった。怖かった。恐怖しかなかった。彼の、首を絞めている最中の笑顔が怖かった。叫びだすほどの後悔と恐怖が高倉を襲う。
「ほんとに…君は我儘だよね。」
爪を立てられた手の甲をちろりと舐め、高倉は怒りに満ちた瞳でドアを見つめ続けた。逃がしようのない怒りは収まらず、ますます脳は沸騰するばかり。逃げ出した高倉を追うことはせず、一条は静かに部屋を見渡した。
「さて、どうしようかな。」
壊れてしまった一条は、ゆらりと立ち上がると。
部屋中に、盗聴器を仕掛けはじめた。
その日から、高倉にとっては恐怖の日々が始まった。毎日のように鳴る電話。毎日に十通を超える手紙に百通を超えるメール。隠し撮りした写真や動画が送られ、精神を蝕まれていった。けれど、自分自身がかつて彼女にしたことを繰り返されているだけだと気づくと、警察にいくことも誰かに相談することもできなかった。弟への仕送りのために仕事はやめられなかった。食事も喉を通らず、体重も落ち、死人のような風体になり果てた高倉を見て、一条は爽やかに嗤うのだ。
「高倉、大丈夫か?後は僕がやっておくから、君はもう先に帰っていいよ。」
刃のような言葉に、高倉の精神はズタズタに切り裂かれていく。そんな彼女を救ったのは、一通の手紙だった。
『貴方の苦しみはわかっています。一条蓮からの被害、警察に言えないわけもすべて知っています。貴方を助けましょう。わが社に協力していただけるのであれば、貴方を救いましょう。』
怪しすぎる文面を、彼女が信じてしまったのは。それほどまでに、彼女が弱っていたからであろう。これで救われる。命があれば、もうなんでもいい。そんな、限界地点まで彼女は追い込まれていた。
そして数日後。真っ黒な外車が、彼女のマンションを訪れる。
──主が貴方様をお待ちです。
優しい笑みを浮かべた好青年に連れられ、そして彼女は死へと向かう。恐怖の終着点へと、すべてを終わらせるために、ただ彼女は、長い間暮らしたマンションに静かに別れをつげたのだった。
冷たい金属に体温が奪われていくのを感じる。一条は、すべてを否定した。過去をすべて忘れ、これからどうするかを決めようと思った。すっかり暗くなった世界に散らばる都会の明かりをぼんやりと見つめながら、たった一人の愛した女のことだけを考え続けた。たくさん傷つけ、苦しませた。せめて彼女にもう一度会って、今度はきちんと謝りたいと、そんな簡単で純粋すぎる思考へとゆるゆると身を任せる。
──ねえ、一条くん、
彼女の首を撥ねたときからずっと聞こえる、聞こえるはずのない声に脳を支配されながら。男は静かに呼吸をつづけた。視界をちらちらとよぎる彼女の笑みが、白い肌が、男をまぎれもない事実へと落とし込む。
──私には、やっぱり貴方が必要だわ。
繰り返される愛の言葉はすべて偽りだったのだと知りながらも、男は恐怖の境目にいた。──殺したはずだ。
確かに首を撥ねたはずなのに、何故高倉がここに横たわっているのだ。何故血を流しながら(、、、、、)嗤っているのだ。
──一条くん、
男は撥ねた。ダークチェリー味の飴玉を転がしながら、何度も何度も何度も何度も憎き女の首を撥ね続けた。
──一条くん、一条くん、一条くん、一条くん、
壊れた機械人形のように己の名前を呼び続ける高倉は、何度切り離されても嗤い続ける。
「ああぁあぁぁああぁあぁあ……!」
そして、一条は恐怖した。純粋なる恐怖を味わいながら、ただただ、女の首を撥ね続けた。
ゆるゆると過ぎていく時間の中で、一条は様々な感情が渦巻いて行くのを感じていた。恐怖、後悔、愛情。色とりどりの絵具を混ぜると黒く変色するように、やがて男の心は真っ黒く染まっていく。壊れた瞳で死んだはずの女の幻覚を見続けると、そして男は気付くのだ。
──ああ、そうか。
高倉はなおも嗤い続ける。
──これが、僕への罰なのか。
悪夢にうなされ続けることが、一人の人間を殺した罰なのだと。感情に支配された指先が犯した罪は、一生苦しむことを必要としているのだと。
──ならば、今度は僕は。
何度となく切りつけた女の瞳を覗き込む。そこには、ただ愛情しかない。
──君を、愛することにしよう。
優しく笑って髪を梳く。
そこには、ただ。
恐怖の果てへと逝ってしまった、たった一人の男の姿しかなかった。
*
空に向かって毒を吐き出した。紫色に歪んだ天井は徐々に青さを増し、なすすべもない白かった雲たちは鮮やかに染められていく。夏だというのに突如として気温が下がり、寒々しく虚しい風が胸元を掠める。視界いっぱいに広がった広すぎる空はどこまでもせまりくるかのようで、それでいて揺らぐことのない空気はじっと《幻想的な夕方》を構築していた。芸術とも言えるほどの虚構に似た丸い天井はあくまでも自然本来の形であると言ってよく、その美しすぎる幻に涼は嫉妬した。
屋上から得られる視覚情報というのは種類が豊富だ。自然そのものもあれば人工的に作られたものも同時に観察できる。両者が溶け合う瞬間に立ち会えることは涼にとってはこの上ない幸福であり、その時はじめて彼は自由になれた。そして、今日も心の中で彼は叫ぶ。
《逃げたい、逃げたい、逃げたい、》
世界からの逃避、己からの逃亡。すべての空に嘘をついてすべてを捨ててしまいたいと彼は願い続ける。眼下に広がる黒々とした都会にちりばめられた無数の光の輝きがちらちらと平衡感覚を狂わせ、徐々に視界が揺れていく。頭が真っ白になるほどの巨大な怒りや悲しみが、果てのない地獄に涼を連れ込もうと踊り狂う。涼にしか見えない世界、涼だけの世界。どこまでも無秩序で、けれどどこまでも自然体な世界は、他人とまったくおなじはずであるのに何故か涼にとっては違く見えてしまう。認識の差。過去のトラウマによる過剰反応。原因は貞かではないが、それでも彼は苦しんで苦しんでもがきながら血を流す。
《あぁぁあぁああぁぁああぁあ》
頭の中で反響する声が、ぞくりと涼を襲った。ぷつりと音をたて、そこで彼の意識はなくなる。
目が覚めると、保健室の中だった。どうやら無断で屋上に上ったのが寮長にばれたらしい。目の前で無表情にため息をついた若い女医は静かに部屋に帰りなさいと言うと、そっと涼に冷えぴたを渡した。
「高倉くん、もう屋上には上っちゃだめよ。貴方は今とっても疲れてるんだから。」
女医の言葉を後ろに聞きながら、涼は黙って部屋を出た。薄暗い廊下をひたひたと歩き、自分の部屋へと戻る。
高校一年の春先、母を亡くしてから。涼には、親類と呼べる存在は姉だけになってしまった。姉は涼の学費と生活費のため、必死に働いていた。高校をやめて一緒に働くと言った涼に、姉のほのかはさらりと笑ってこう言ったのだ。
──馬鹿ね、あんたせっかく頑張って受験したんだから、ちゃんと勉強しなさい。私なら大丈夫。これでも結構重要な役職なんだからねっ!
あどけなさの残る無邪気な笑顔を思い出し、涼はそっと唇を噛んだ。
そんな姉が消息を絶ってから、半年以上がたった。
姉は、会社をやめていた。しばらく留守にすると隣人には伝えていたらしい。新聞も取るのをやめ、一切の面倒事をすべて絶ったように見えた。家に帰るときちんと外出したようで小綺麗にされており、このことが涼をさらに不安にさせる。変わったことといえば、留守番電話や通話の履歴がすべて消去されていたくらいである。漠然とした恐怖の中で、不安定になった涼は途方に暮れていた。
部活をやめ、教師に事情を説明し、アルバイトを許可してもらった。コンビニエンスストアと喫茶店を掛け持ちながらただ自分の小遣いくらいは稼がねばと思った。通帳は姉の部屋にあったので、当分は困らないと思われたが、正直なところ進学できるかどうかはわからなかった。
もうすぐ夏休みになる。あと半年、どうにかしてお金をためなければと思った。少年は、姉のことを考えまいとしていた。いなくなって一ヶ月で不安定だった彼の体は高熱におかされ、二ヶ月で大幅に体重が落ちた。三ヶ月で何度か自殺未遂を繰り返し、四ヶ月で笑えなくなった。五ヶ月でふっきれたようにすべてが元通りになったが、六ヶ月目で、とうとう涼の精神は崩壊した。脳に流れる疑問、疑心。すべてを敵だと見なすことに意味などないと知っていたからこそ、涼はただじっと、考えるようになった。
――姉さん、
そっと唇だけで姉を呼ぶ。僅かな隙間から漏れた空気がひゅうと音をたて、少年はベッドに顔を埋めた。
現実的に生きようとした。嘆いてもはじまらないと、ただただ真っ直ぐに前だけを向こうと努力した。友人達の心配する声に笑って大丈夫と答え、その半面で一人の時間を殺すことが堪らなく嫌だった。何も感じだくなかった。そんなことをぼんやりと考える夜が怖かった。姉のいない現実に直面する瞬間が怖かった。
そうして開け放った窓からの風にゆるゆると思考回路を遡っていると、軽くノックの音がした。今は深夜だ。いったい何だというのだ。
「……はい?」
そっとドアを開けると。
そこには、老女が立っていた。
薄手の水色の着物を着て、きちんとした身なりの、気品のある老女だった。見たところ80歳くらいだと思われたが、彼にこんな知り合いなどいない。汗で張り付いたシャツが一気にひんやりとする。変だと思った。彼女は誰なのだ、こんな時間に何をしにきたのだ、
「高倉涼君ですね。」
凛とした、強い意志を感じさせる声だった。真っ暗な廊下にじっと姿勢よく立っている姿はどこか神々しく、ぼんやりと光っているようにも見えた。
「そうです、けど。…あの、」
「私は穂波麗子と申します。」
視線をそらすことなくそう告げると、麗子はすらりと部屋に入ってきた。どうすることもできず、涼は戸惑いながら扉を閉めた。
麗子は室内の小さな椅子にさっさと腰かけていた。表情は変わらない。哀れなこの部屋の住人は、仕方なくベッドに座った。
「あの、あなたは、」
「私はあなたに話があってきたのです。」
探るように話す涼とは反対に、麗子はまるで舞台台詞のようにただ淡々と言葉を繋いだ。なんの感情も見えない、形容するとすればそれはロボットのようなものだった。
「お姉さんのことと、今後のことです。」
ひやりとした。
つう、と背中に汗が伝う。心拍数が上がり、涼はやめてくれと耳を塞ぎたい衝動に駆られる。嫌な予感がした。心のどこかではわかっていたことだったが、それでも突然現れた謎の老女から姉のことを聞かされるなどあまりに異質だ。不安で押し潰されそうになりながら、涼はごくりと唾を飲み込む。
「私はすべてを知っていますが、私に悪意はありませんので。あくまで私はメッセンジャーであり、ただの情報伝達のためのメディアにすぎませんから。」
嫌な話し方だと思った。こちらに隙を見せない、すべて決められたことのような無機質で無感情な声色。じっとりと、背筋が汗ばんでいく。
「姉さんのこと、知ってるんですね、」
慎重に言葉を選ぶ。自分自身で噛み締めるように、ゆっくりと言葉を編んでいく。
「知っています。貴女のお姉さんは、結婚しようとしていましたね?」
涼の脳裏に、一年前の夏が蘇った。
「涼、私ね、結婚しようと思うの。」
夕食のメニューを話すように、ほのかはさらりとそう告げた。
冷房をつけるのが勿体なく感じられ、二人でアイスティーを飲みながら開け放った窓から入ってくる風に髪を遊ばせ、涼んでいた。涼は宿題をやっていた手をとめ、パソコンで仕事をしている姉を見つめた。
「結婚って…姉さん彼氏いたっけ…?」
ことはそう大きくないのだろうと判断した涼は、同じような調子で返事を返す。案の定、ほのかは視線をパソコンから離さない。
「彼氏、ああ…そうね、うん。ほら、結婚したら、私も涼も幸せじゃない?」
「姉さん、」
それは答になってないよ、と。そう言おうとした涼に向かって、ほのかはにっこりと笑った。
「何も心配しなくていいのよ。全部、姉さんに任せて。結婚したらわたしだけ苗字変わるだろうけど、今よりずっと楽に暮らせるようになるし、涼も大学に行けるようになるわ。」
話が噛み合ってないことに疑問を感じながらも、きっとふざけて驚かせたかっただけなのだろうと、その場では気にもとめていなかった。
それが。
「姉さんは、結婚したんですか…?」
涼はじっと麗子を見つめる。老女は、相変わらず表情を変えぬまま首を振った。
「お姉さんは結婚しようとしましたが、残念ながら失敗しました。」
おかしな話だ。結婚に失敗というのは日本語としてもおかしいではないか。
訝しげに表情を歪めると、麗子はするすると語りだした。
「お姉さんは貴方のために結婚しようとしたのです。少なからず想いを寄せていた男性がいたようですが、もうほのかさんはあまり待っていられなかった。段階を踏まずに、一気に結婚へと持ち込むため…あらゆる手段を尽くしたようです。」
知らなかった。
少年は、どくりと心臓が跳ねるのを感じる。体温が上昇していく。汗が吹き出る。
「しかしその男性にはすでに想い人がいました。複雑に絡み合った想いが…やがて終局を向かえるまで、あまり時間はかかりませんでした。」
涼は己の勘のよさを呪った。気づきたくなかった。不安定なままでもいい、希望を捨てたくなかった。しかし、老女は残酷にも言葉を浴びせる。
「お姉さん、高倉ほのかさんは、」
――姉さん、
「彼女が結婚しようとした相手、一条蓮という男に殺されました。」
「そうそう、私、結婚したら一条ほのかになるのよ。なんだか雅な名前じゃない?」
そう言って電話越しに笑った声が、涼が聞いた姉の最後の言葉だった。気が早いよといって笑い返して、そしてお互い笑顔で電話を切ったのだ。姉の消息が絶ってから、一条という男を探そうともした。けれど。
――一条?そのような者は我社にはおりませんが。
涼にとって不運だったのは、すでに一条は会社をやめていたことと、電話に出た受付嬢が入社したてで名簿しか確認しなかったということだ。八方塞がりになった少年は、それから半年たって、そして再び一条という名を耳にする。
時がとまればいいと思った。どこかで覚悟していたのかもしれない。涙は出なかった。ただじっと、床を見つめ続けた。
「残念ですが一条は行方不明です。お姉さんの遺体も何処にあるかはわかりません。」
繰り返される老女の言葉をも、少年はさらりと聞き流していた。
「けれど、心配することはありません。私が貴方を助けましょう。」
ゆるゆると視線を上げる。死んだような笑みを浮かべて、老女は頷いた。
「私が貴方の生活を守りましょう。明日、銀行に行ってみなさい。これから必要となるお金はすべて振り込んでおきました。」
涼は思わず立ち上がった。今更ながら、涼は麗子が怖くなったのだ。
「っ貴女はいったい誰なんですか!何故姉さんのことを知っていて、俺に構うんですか!」
当然の疑問だった。麗子は薄く笑う。
「私は、お姉さんと深い関係を持つ者、私は…」
「私は、貴方に責任を感じている。せめて貴方には、前向きに生きてほしい。っと、こんなところね。しっかり伝えさせるのよ。場合によっては盗聴してもいいわ。」
少女は、目の前で己の言葉をさらさらと書き取る青年に向かって悪戯っぽく笑った。
「了解しました。しかし…何故今回は俺じゃないんです?」
青年はメモを折り畳んでポケットにしまってから、不思議そうに尋ねた。少女はけらけらと笑う。
「うたぐり深い人間には交換条件が一番手っ取り早いのよ。彼女が無償で甘い蜜を吸うことを拒否するのであればこちらも彼女から利益を吸い取るのだと納得させればいい。案の定、彼女はしっかり働いてくれたわ。真夜中の訪問者って怖いんでしょう?白雪姫みたいに、青年よりも老女の方が怖いって本で読んだの。」
ぎりぎりと椅子を鳴らしながら、少女は笑う。
「きっと今回は上手くいく。そんな気がするの。」
青年は、優しく少女の頭を撫でる。
「ええ、きっと。」
「深夜の訪問、失礼しました。私はこれで。もう二度と、会うこともないでしょう。」
麗子はそして、涼を見ることなくするすると移動し、ドアに吸い込まれていった。少年は唖然としたまま、ただじっと、ドアの閉まる音を聞いていた。制する間もなかった。本当はもっといろいろなことを聞きたかった。結局、彼女が何者なのかも、目的もわからなかった。けれど。
「……終わった。」
長かった半年、姉のことを考え続け、悩みつづける日々が、ようやく終わったのだ。姉は死んでしまった。もはや、考え続けることに意味などない。涼が心を動かす人など、存在していなかった。
「姉さん、」
少年のつぶやきは空気に溶かされ、もう二度と返事が返ってこないことを知ると。
「っ…姉さんっ…!姉さん姉さん姉さん姉さん姉さんっ!」
少年は、漸く涙を流した。
何故結婚しようとしたのだ。別に楽にならずとも、二人で生きていければそれで良かったのだ。大学へ行けなくとも、力を合わせて生きていけば、必ずいつか報われると信じていたのだ。姉が、自分のために死ぬなど、絶対にあってはならないことだった。
「馬鹿だなあ姉さん…俺は今のままでも、十分だったのにさ。」
ゆっくりと立ち上がる。虚ろな瞳から、知性は感じられなかった。
少年はそして、ゆらゆらと部屋を出る。
夕方訪れたときよりも、遥かに温度が下がった屋上はひゅうひゅうと吹き付ける風でいっぱいだった。深く息を吸い込むと、いくらか冷静になった涼はぼんやりと夢想する。
老女の言うことを信じることなく、明確に姉の死を実感するまで希望を持ち続けるといいう選択肢もあった。そうしなかったのは、少年がとっくに限界を超えてしまっていたからだろう。
――ごめん。
遠くで霞んでいる夜の明かりを見つめる。ちかちかと激しい原色のネオンは気持ちが悪くなるほどに背徳の匂いで満ちている。大人という存在に、涼は疑問を抱きはじめていた。じんじんと耳の奥で深い音がしている。侵食されそうなその音が心拍数であり、次第に荒くなっていく呼吸が涼の脳を揺さぶる。空気に溶けだしたいと、思った。なにもかもなくして、なにもかも忘れたいと思った。
そして涼は、フェンスに手をかける。
傾いていく身体、片方の足がコンクリートを離れると。
突如、涼の中に膨大な感情が流れこんできた。
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い…!!!!!!!!!
一瞬にして血の気がひく。後悔だけが押し寄せる。そして涼は、ありったけの力で目を閉じた。遠くで、屋上の扉が閉まる音を聞きながら。
「っ…!!!」
片腕に衝撃が走った。ちぎれるかと思うほどの痛みと、ふらふらと風にゆれる己の足。反射的に上をむくと、そこには己の腕を必死で掴んでいる青年の姿があった。見たことのない男。真っ白なシャツが夜空に映える。雲から漏れた月の光に照らされて、逆光になった男の姿は影のように黒かった。
「今死んではいけないっ…!」
そう苦しそうに言って、男は涼をゆっくりと引き上げた。
深い呼吸をして、屋上に寝転がる。ひどく脱力した体は、何かを発することができなかった。
「今死ぬのは許されない。恐怖を感じているのにも関わらずそれを甘受するなんて愚かしいことだよ、少年。」
ため息をついて、男は優しく笑った。涼はじっと見上げる。ひどく穏やかで、それでいて悲しそうな顔をした青年に、涼はぽつりと礼を言った。聞いていたのかいないのか、そして青年はくるりと扉に向かって歩きだす。
「、貴方は、」
慌てて体を起こした涼をちらりと横目で見てから、青年は哀しそうに笑った。
「きっと、また会うことになるだろう。」
吹きつける風に一瞬目を閉じると。再び開けたとき、青年の姿はもうなかった。
翌日。涼は銀行に行った。想定以上の金額が振り込まれているのを目にし、少年は生きようと思った。そして、姉の姿を心の奥にしまい込んでからは、再び、軽やかに笑えるようになった。
「天泉さん!」
「あ、高倉くん!」
クラスの女子から好きだと言われ、涼も彼女を好きになろうとした。姉以外にも、心を許せる人に出会えれば、きっと生き続けられるだろうと思えた。
駅前で優しく手をふるクラスメイト、もとい、恋人に向かって、涼は笑顔で駆け出した。
*
「これでよかったのですね。」
真っ黒な外車の助手席に身を沈めると、穂波麗子は相変わらず感情のない声でそう言った。運転席に座る青年はにこりと笑いながらハンドルをきる。
「会話は聞かせてもらいましたが、あれで問題ありません。主もお喜びになるでしょう。」
方耳に入ったイヤホンをとんとんと叩きながら、青年は嬉しそうにそう言った。
「あの子は、とっても可哀想な子。けれど、立ち直る方法なんていくらでもあるわ。」
すうと目を細めながら、麗子はぎゅっと手を握り締めた。
返事をしようと口を開きかけた青年は、しかし突然表情を変える。
「穂波さん、申し訳ありませんが、もう少し待ってていただけますか。」
早口にそう言うと、返事を聞かずに車を止め、青年は先ほどまでいたところへと駆け出していった。一人残された老女は、ゆっくりと瞳を閉じる。
人は時とともに成長する。長い時が不幸なこと、いやなことから目を背けさせ、いつの日か思い出として経験という脳内の宝箱に仕舞われる。時にはダストボックスへと捨てられ、すべての記憶は風化していく。だから、人はこの巨大な集団の中で生きていけるのだ。他の動物よりも長い時間を他者とともに過ごせるのは、そういった記憶の整理が行われているからだと、麗子は何度となく繰り返した思考を再び繰り返す。
――そう、普通の人間ならば。
中でも衝撃的なことや、どうしようもなく幸せなことはたいてい深く記憶に残る。所謂トラウマとは、そうしてダストボックスにすらおさまりきらないほどの哀しみであったりするわけだが、それでもやはり人間の脳は上手くできていて、トラウマもそれに関連する事柄に出会わなければ動きださないのだ。脳は偉大だ。そう、不完全な人間はそうして完全なふりをして、なにくわぬ顔で日々を謳歌している。
――二年と二週間と3日前にも、同じことを、
しかし、麗子は違った。
麗子は他の人間とは違って、完全なる意識体だった。
――あの子は、茜と同じクラスの…
彼女の脳は、記憶を整理しない。麗子には、脳のダストボックスがないのだ。彼女の記憶蓄積装置はただ回収するだけであり、乱雑に置かれた物事をすべて認識してしまう。たとえるならば回りっぱなしのビデオテープ。麗子には、忘れるという機能がない。生まれたその時からずっと回り続ける。聞こえてしまった陰口も空で言えるほど鮮明に記憶し、その場の匂いや空気、視界、音、あらゆる五感で得た情報もすべて、すべて覚えている。街を歩くたび膨大な情報量に気がおかしくなる。家に帰ると見慣れた世界に染み付いた記憶で目を背けたくなる。眠るたびに麗子の意志に反して記憶が洪水し、心が感情で裂けそうになる。
すべての情報を絶とうとし、あらゆるメディアから意識を外した。けれど、神経質な脳は敏感に情報を得てくるんのだ。いっそのこと五感すべてを失えればと何度願っただろうか。麗子はいつしか、時間に恐怖しながら、早く老いたいと思うようになった。自殺は計らなかった。もし失敗すれば、その恐怖で一生苦しむのだとわかっていた。ならば、己の脳が退化するのをただ待とう、と。すべてに対して無感情になろうと決めた。何の感情も持たずにただ時間を食い潰せば、ある程度心も余裕をもてるのだと気づいてから、麗子は自分以外だけでなく、自分に対する興味すらも失った。自分からアクションを起こすことと言えば生きるためだけにする行動だけであり、もはや彼女に意志はほとんど欠落していた。
――響夜君。
だからこそ、彼女はすべて知っていた。つい5日前、自分の前に現れた青年が、20年前のあの少年だと。
─―20年前
麗子は田舎で一人暮しをしていた。他者と接触することの少ないここで生活すれば、都会よりは情報が少ないからだった。買い物をするのも嫌で、食材や必要物資は生協等で宅配してもらっていた。家事をして、読書をする毎日。読書は文字の情報しかないため、視覚を休めるのに最適だった。麗子は読書を愛していた。
その日も例外ではなかった。いつも通り洗濯を終わらせ、アイスココアを飲みながら読書に耽っていた。ただ文字を追いつづける作業。代わり映えのない日常だと思っていた。しかし。
その日、異端な存在が麗子の前に現れる。
「ごめんください。」
開け放った窓の隙間から聞こえた小さな声に、麗子はゆっくりと本を置いて視線をそちらに向ける。
「あの、」
そこにいたのは、小さな少年だった。
柔らかな黒髪をさらさらと風に躍らせながら、必死で背をのばして窓の隙間をこんこんと叩いている。どうやら玄関で同じことをしても麗子が気づかず、痺れを切らしてここまで来たようだった。
立ち上がって窓を開けてやる。少年は汗を拭いながら、困ったようにぎこちなく挨拶をした。
「こ、こんにちは。」
麗子は挨拶を返し、今玄関を開けるからと言うと、少年も外から玄関へとかけて行った。
ぎりぎりと音をたてて扉を開くと、そこには少年と、二人の赤ん坊を乗せた双子用のベビーカーがいた。真っ白なタオルケットを二人できゅっと握りしめた赤ん坊は、すやすやと眠っている。
「暑かったでしょう。さあこっちへ、ココアは好き?」
深刻そうに俯いた少年を目にして、麗子は優しく笑って招き入れた。久しぶりの客人だった。己の異常に気づいてからは親戚とも疎遠になって、麗子は孤独だったのだ。その言葉をきくと、少年は顔を上げ、少しだけ笑った。
すっかり眠ってしまっている赤ん坊を起こすこともないと、ベビーカーに寝かせたまま玄関に入れて扉をしめた。麗子は少年を連れてリビングに戻ると、ソファに座らせてアイスココアをグラスについで運ぶ。落ち着かないようにきょろきょろと周りを見回し、少年は部屋を観察しているようだった。
「どうぞ、」
「…ありがとう、」
受け取ると、少年はこくりと一口飲んでから、ゆっくりと息を吐き出した。
「とつぜんごめんなさい、きょうはおねがいがあってきました。」
じっと麗子の瞳を見つめて、しっかりとした口調で少年はそう言った。真正面に座り、麗子もその瞳を見つめ返した。
「ぼくはあまいずみきょうやです。あのあかちゃんはいもうとのあいとあかね。ふたごです。」
ゆっくりと話す少年に、麗子はうなずきながら話を聞いてやる。
「ぱぱとままは、じこでこのまえしんじゃったんです。」
俯いてそういうと、少年はぼんやりとした瞳でココアを見つめた。
「しんせきとかは、いません。あったことないし、でんわもじゅうしょもしらなくて、」
ぽろぽろと、ビー玉がこぼれるように少年は涙を流した。
「でも、ぼくはあいとあかねをまもらなきゃだめで、そしたらきのう、みずのえさんっていうおじさんがうちにきたんです。」
ココアを一口飲むと、少年はため息をついた。
「ぼくを、はたらかせてくれるっていいました。みずのえさんのうちでいっぱいべんきょうして、ちゃんとおとなにしてあげるっていわれて、」
麗子はただじっと、話を聞きつづける。
「でもぼくにはいもうとたちがいるから、っていったら、いもうとたちはおやしきにこられないから、ほなみっていうひとがすんでるいえに行って、いもうとたちをあずかってもらいなさいっていわれたんです。あの、これ、てがみです。」
唖然とした麗子に、少年は慌ててポケットから手紙を取り出した。
『拝啓 穂波麗子様
貴殿のお噂、聞き及んでおります。この地にてご隠居されているだとか。つきましては、哀れな少年と赤ん坊を救ってくださればと思いお願いする次第です。天泉響夜は私の友人の息子です。彼に関しては私がお預かりします。しかしうちにも娘がおりまして、三人預かるのが難しいのです。そこで貴殿のお話を友人から聞き、よろしければしばらく預かって、育ててやってはくださいませんか。私は足が悪く、妻も病で入院しておりましてそちらに赴くことができません。文書にてお願いすることは大変失礼なこととは思いますが、何とぞご容赦くださいますよう。双子を引き取ってくださるのであれば、切手が同封してありますのでこちらにお返事をくださればと思います。必要物資等の費用はすべてこちらで受け持ちますし、後日使いの者をそちらに赴かせますので。
どうぞ、よろしくお願い致します。
敬具水ノ江右近』
手紙を読み終えた麗子は、じんわりとしたよくわからない感情が胸に広がっていくのを感じた。それが同情だと気づいたのは、不安そうにこちらを見つめる響夜の顔を見たときだった。
麗子には、彼等を疑うこともできた。そうしなかったのは、彼女がこの先のことに関心がなかったからだ。麗子は、その膨大な記憶力で若い時分に重要な役職につくことができ、それでもあらゆることに無頓着だったために貯金がたまる一方。引きこもってからもあまりお金を使うこともなく、これで騙されて費用が貰えなくとも双子を育てることはできるという自信があった。つまり、これは水ノ江という男性を信用できるか否かでも、何故自分なのかということが問題なのでもない。ただ、孤独になってしまった彼等を温かく向かえられるかということなのだ。
沈黙に堪えられなくなった響夜が、おそるおそる囁くように呟く。
「…あの、ほなみさん…?」
思考の海に身を投じていた麗子は、はっとしたように目を見開く。そして、優しく笑って、響夜の頭をやんわりと撫でた。
「大丈夫。おばさんが妹ちゃんたちを、大事に大事に育てるからね。」
泣きそうになっていた響夜は、ぱあっと明るくなる。
「ほんとに…!?」
――私は自ら孤独を選んだけれど、この子たちは…
「ええ、本当。安心して、水ノ江さんのところにいきなさい。」
――認識するより前に、孤独になってしまったのね。
「…っありがとう!」
麗子は、久しぶりに、
ひどく、穏やかな気分になった。
数日後、約束通り水ノ江氏の使いだという青年が現れ、細々とした書類を渡された。学費や必要物資としての費用も振り込まれていた。思っていたよりも恙無く事は進み、そうして緩やかに3人の生活がはじまった。大変だった。けれど、何時にも増して、麗子は満たされていた。
「茜、ちょっとこっちへきて、洗濯物を取り込んで頂戴、」
「おばあちゃん、茜ったら昼寝しちゃって起きてこないの。私がやるわ。」
「藍は試験前でしょう?いいわよ、」
「いーの。おばあちゃん腰悪くするでしょ?大丈夫だから座っててー」
二十年経って、双子は信じられないほどいい娘へと成長していた。幸せだった。家族のことを聞かれると、麗子は隠すこともないと正直に話した。二人はしばらく悩んでいたようだったが、いつしか、
『おにいちゃんに会いたい。』
と願うようになっていた。そのことだけは、麗子にもどうしようもなかった。双子はそれもきちんと理解していた。だからこそ、目の前で口にすることはなかった。人並の幸せを手にして、麗子はそして恐怖するようになっていた。いつ、あの少年が成長してやってくるか。今の幸せのバランスが崩れることに、恐怖を覚えるようになっていた。
そんな、あの少年がやってきたような、暑い日のこと。
「ごめんください。」
凛とした声が、小さな部屋にじわりと溶ける。双子が学校に行ってしまった、午後。
扉をあけると、そこには、成長して声も変わり、身長も伸びた―天泉響夜が立っていた。麗子を見てにこりと微笑むと、ただ。
――主がお待ちです。一緒にきてくださいますか?
と、そう言った。
踏み込んではいけないのだと、老女は悟った。こちらからは何も言ってはいけないと、ただ彼に従おうと、そう思った。黙って微笑むと、麗子は静かに真っ黒な外車に向かって歩きだす。どこかで、終わりを感じながら。
そして屋敷に通された麗子は、水ノ江瑠音という少女に対面する。礼を言われてから、恩返しをしたいと告げられた。双子も兄に会う時期だし、ちょうど良いからここに一緒に住むといいと言われ、麗子は少し考えさせてくれと返事を保留した。考えたかった。長い期間考え、それでも考え足りなかった。
「いいですよ、でしたらまた2週間後、お迎えに参りましょう。それまでに、どうか結論を。それから―」
年齢不詳の少女は、輝かんばかりの笑顔を振り撒いた。
「ひとつ、お願いがあるのですけど。」
途端、老女はこの少女が怖くなる。膨大な記憶が、膨大な知識と経験が、麗子に危険だと告げていた。そっと、響夜を盗み見ると。
――響夜君、
彼は、ひどく愛おしそうな笑みで少女を見つめていた。
そうして麗子は悟るのだ。彼はもう、この少女に侵食されたのだと。自らの妹達と年齢が近いこの少女に、深い愛情を抱いてしまったのだと。
「それでは、穂波麗子さん。5日の夜、再び天泉が迎えにいきますので。」
簡単なことだった。ただ言われたことを、高倉涼という少年に告げればいいのだと。すべての台詞を一読しただけで暗記するなど麗子にとってはたやすいことだった。結局、老いてもなお、彼女の記憶力が衰えることはなかったのだ。
「それでは穂波様、お送り致しましょう。」
響夜に促され、麗子はゆらりと席を立った。最後に見た少女の笑みに、嫌な予感を感じながら。
「お待たせ致しました。」
青年が少しだけ息を上げて戻ってきた。すぐにエンジンをかけ、滑るように車が走りだす。
「不自然なドアの開閉音がしましてね。屋上へ向かったのだと推測したんです。案の定、彼は自殺を計った。…無事阻止できましたけど。」
他者への興味を失った麗子は、適当に相槌を打った。彼女にとって、高倉涼のことはどうでもよかった。問題は、これからの自分と、双子のこと。
もう歳をとりすぎた自分が、これから先ずっと彼女達の面倒を見るなんてできるはずがない。ならばやはり、屋敷に住まわせ、兄とともに生かすべきだという結論に達しかけていた。躊躇の原因は、あの少女。恐怖を凝縮させたような、そんな薄暗い雰囲気の少女だった。笑みにもどこか影があり、それは幼い子供独特の残虐的な笑みに似ていた。ぞくりと、背筋が泡立つ。
「穂波さん、貴女は、恐怖を知っていますか。」
ふいに、青年が呟く。麗子はぼんやりと赤になった信号を見つめながら、
「現在、私は恐怖しています。」
と、答えた。青年はくすくすと笑う。
「貴女が恐怖している彼女は――恐怖を、知らないんですよ。」
青年の言っていることが理解できぬまま、穂波はゆっくりと目を閉じる。瞼の裏には、様々な情報が。
青年、少女、少年、少年の部屋の家具、今日の昼食を取った店のメニュー、双子、双子の洗濯物、車、ヘッドライト、信号、少女の屋敷、血の匂い、夏の風、トマトとチーズの味、助手席のクッション、電話、笑み、紅い唇、笑み、笑み、笑み。
じわじわと脳をうごめく記憶達にため息をつくと、ゆっくりと麗子は眠りについた。隣で、ついたら起こしますよ、という、楽しそうな青年の声を聞きながら。