深海に沈む、三度塗りの月光
月の光が、波打ち際を銀のナイフのように切り裂く夜のことです。
海辺の断崖の下、波飛沫に洗われる古びたトタン屋根の小屋に、深夜営業のネイルサロンがありました。店主のシュウジは、都会の喧騒で磨り減った心を抱え、今はここで静かに生きています。彼の仕事は、訪れる客の爪に「明日を生きるための鎧」を塗ることでした。
ある嵐の翌晩、シュウジは波打ち際の岩陰で、奇妙な光景を目にします。 びしょ濡れの少女が、必死に自分の尾ひれを磨いていました。彼女の名前はメルティー。腰から下には、夜の海よりも深い藍色の鱗が連なっています。彼女は人間が海へ捨てた化粧品の空き瓶を拾い集め、固まりかけたマニキュアを尖った貝殻ですくい取っては、自分の鱗に塗りつけていたのです。
「それじゃあ、せっかくの鱗が息をつけないよ」
シュウジの声に、メルティーは肩を跳ねさせました。彼女の瞳は湿った宝石のように潤み、強い孤独を湛えています。 「海の中は、どこまで行っても青と黒ばかりなの。私は、自分だけの特別が欲しかった。誰にも見つからない、私だけの光が欲しかったの」
シュウジは黙って自分の道具箱を持ってくると、湿った砂の上に腰を下ろしました。 「僕に塗らせてくれないか。三度塗りだ。それで君の光は完成する」
シュウジは、メルティーの冷たい指先を取り、丁寧に筆を走らせました。
一度目は、自分を隠すための青。 深い海の底で目立たぬよう、傷ついた心を押し殺して生きるための保護色。メルティーがこれまで選んできた「諦め」の色です。
二度目は、憧れを映す銀。 波間から見上げた月光のような、手が届かないものへの祈り。人魚たちが等しく抱く「夢」の色です。
そして、最後に重ねた三度目。 シュウジが選んだのは、透明な液の中に無数のプリズムを閉じ込めた、名もなき輝きでした。 「三度目は、君が君であることを肯定するための色だ」
シュウジの言葉と共に塗られたその光は、これまでの孤独も憧れもすべて包み込み、メルティーだけの特別な色彩を放ち始めました。
「完成だ。この光は、もう誰にも消せない」
メルティーは、塗りたての爪を月光にかざしてうっとりと眺めました。彼女が嬉しさのあまり尾ひれを大きく振ると、爪先から剥がれ落ちた「キラキラ」が、まるで意思を持った星屑のように海中へと吸い込まれていきました。
「私、この光を海の一番深いところまで持っていくわ。暗いところに住んでいる魚たちに、地上の太陽を分けてあげるの」
彼女はシュウジの頬に、冷たくて温かい感謝のキスをすると、光の尾を引いて波間に消えていきました。
数日後、シュウジのサロンの入り口に、小さな貝殻が置かれていました。中には、メルティーが深海で集めてきた「一番綺麗な青色」の砂がぎっしりと詰まっています。 シュウジはそれを新しいネイルの材料に混ぜることにしました。
深海に沈んだ三度塗りの月光は、今も暗闇の中で静かに、誰かの心を照らし続けています。都会の隅っこでシュウジが、また誰かの指先に小さな魔法をかける準備を整えているように。




