第7話 隠れ家の宴と、毒入りの酒
香取宮が紅蓮の炎に包まれ、その歴史に幕を下ろしてから数日が経過した。
白髪皇子の一行は、すぐに大和への帰路につくのではなく、香取の山中深くへと足を踏み入れていた。
目的は「掃除」である。
香取の乱を引き起こした張本人であり、戦況が不利になるや否や真っ先に逃げ出した卑怯者、豪族・杖部諸手。彼が近隣の山奥にある別邸――通称「隠れ砦」に潜伏しているという情報を、皇子の従者たちが掴んだからだ。
「……で、皇子様。なんで私たちは今、その敵の隠れ家のど真ん中で、こんな豪華な食事を前にしているんですか?」
渚は、目の前に並べられた豪勢な山海の珍味を見つめながら、ひきつった笑みを浮かべていた。
場所は、断崖絶壁の上に建つ堅牢な館。
通された広間には、香取の山奥とは思えないほど贅沢な調度品が並び、高価な絹の敷物が敷かれている。
その上座には、脂ぎった笑顔を浮かべる初老の男――杖部諸手が座っていた。
「いやぁ、白髪皇子様! ご無事で何よりです! まさか私の部下が暴走して、あのような不始末をしでかすとは……。魔が差したとはいえ、皇子様に弓引くなどとんでもない。こうして詫びの宴を設けさせていただきました!」
諸手は揉み手をしながら、卑屈な笑みを浮かべている。その額には玉のような脂汗が滲み、目は泳いでいた。
渚は小声で隣の皇子に囁いた。
「皇子様、こいつ絶対クロですよね? 『部下の暴走』って言い訳、苦しすぎませんか?」
隣に座る白髪皇子は、優雅に扇子を仰いだ。その態度は、敵陣にいるとは思えないほどリラックスしている。
「フッ、渚よ。私の美しさは罪深き者をも改心させるのだよ。それに、逃げ回る鼠を山狩りで追いかけるより、向こうから『ごめんなさい』と顔を出したところを叩く方が楽だろう?」
「合理的ですけど、リスク管理どうなってるんですか! 毒とか盛られたらどうするんです!」
反対隣の栲幡皇女も、涼しい顔で茶を啜っている。
「ご安心を、渚。この館の周囲には、すでに三盾率いる精鋭たちが伏せています。私の合図一つで制圧可能です」
「いつの間に……準備万端でしたか」
この兄妹、抜けているようで締めるところは締めるからたちが悪い。
諸手は、そんな皇子たちのひそひそ話が聞こえていないのか、あるいは聞こえないふりをしているのか、大げさに手を叩いた。
「さあさあ、積もる話もございましょうが、まずは乾杯といきましょう! 我が領土自慢の特製醴です。甘くて口当たりが良いと評判でしてな、皇子様のために特別に仕込ませたのです」
諸手の合図で戸が静かに開いた。
一人の女性が、盆に載せた朱塗りの盃を持って現れた。
うつむき加減の女性は、小刻みに震える手で、皇子の前に盃を置く。
「……どうぞ、お召し上がりください」
女性の声は細く、顔色は死人のように青白い。額には脂汗が滲み、呼吸が浅い。
渚は直感した。
――あ、これ毒入ってるやつだ。
あまりにも分かりやすすぎる。
白髪皇子はニッコリと微笑んだ。
「ほう、芳醇な香りだ。美味そうな酒ではないか」
「そ、そうでしょう! さあ、どうぞグイッと!」
諸手が身を乗り出す。
皇子は盃を手に取った。そして、口元へ運ぶ――と見せかけて、ピタリと止めた。
「だが、私は下々の人間を重んじる主義でね」
皇子はくるりと盃の向きを変えると、それを運んできた女性に差し出した。
「お前が先に飲むといい。美しい女性に酌をさせるだけでは、私の道徳に反する。これは毒見……ではなく、感謝の印だ」
「えっ……い、いえ! 滅相もございません! 皇子様の盃に口をつけるなど、そのような無礼は……!」
女性は激しく首を振った。その反応は、謙遜というよりは、明確な恐怖そのものだった。
「遠慮するな。私の愛だ」
「ひっ……!」
皇子の笑顔が、氷点下の冷たさを帯びる。その青い瞳の奥に、絶対零度の光が宿った。
諸手の顔から、サーッと血の気が引いていくのが見えた。
「ど、どうされましたかな皇子様? 酒がお気に召しませんか? 女などに飲ませずとも……」
「いやいや、気に入ったとも。だからこそ、皆で分かち合いたいのだ」
皇子は立ち上がると、盃を持って諸手の方へ、ゆっくりと歩み寄った。
その足取りは優雅だが、圧力が凄まじい。
「諸手、お前が飲め」
「は、はあ!?」
「私の無事を祝ってくれるのだろう? なら、この酒で乾杯しようではないか。ほら、口を開けろ」
皇子は無理やり諸手の口に盃を押し付けた。
「お、おやめください! 私は酒が飲めぬ体質で……!」
「嘘をつけ。先月、私の屋敷に来たときは樽ごと飲んでいたではないか。……それとも何か? この酒には、飲めない『何か』が入っているのか?」
「……ッ!」
皇子の言葉が、鋭い刃となって諸手を追い詰める。
その瞬間、諸手の表情が崩れた。
貼り付けていた愛想笑いが剥がれ落ち、醜悪な本性が露わになる。
「……っ、ば、バレたなら仕方ねぇ! やれ! 殺せ!!」
諸手が絶叫した。
同時に、四方の戸が勢いよく開け放たれ、隠れていた武装兵たちがなだれ込んでくる。その数、およそ二十。狭い広間は一瞬で殺気立った戦場と化した。
「やっぱり罠かーッ!」
渚が叫ぶと同時に、栲幡皇女が懐に隠し持っていた短剣を抜き放った。
「渚、私の後ろへ!」
皇女が渚を庇うように立つ。
だが、一番冷静だったのは、やはりこの男だった。
「興醒めだな。せっかくの料理が冷める」
皇子は持っていた盃を、諸手の顔面に全力で投げつけた。
「ぐあぁっ!」
液体が目に入り、諸手がのけぞる。
次の瞬間、皇子の右手がカッと光った。
理力の発動。
皇子の手元にあった机――分厚い一枚板の重厚な卓が、見えない巨人に蹴り上げられたかのように宙を舞った。
ドォォォン!!
高速回転する机が、襲いかかってきた兵士たちを薙ぎ倒していく。
「ぐげぇっ!」
「な、なんだこの威力は!?」
兵士たちが宙を舞い、壁に激突する。
「うむ、良い芸ではないか」
皇子は満足げに呟くと、腰の剣を抜いた。その剣身が、理力の光を帯びて青白く輝く。
「さて、諸手よ。お説教の時間だ」
諸手は腰を抜かして後ずさった。
自慢の兵士たちは、机一枚によって壊滅状態だ。
「ひ、ひぃぃ! 助けてくれ! ち、違うんだ! 俺はただ命令されただけで……!」
「命令? 誰にだ」
皇子が眉をひそめ、剣先を諸手の鼻先に突きつける。
「あ、あれは、あれは大和の『稚媛』様の命令で……!」
「稚媛? どこの稚媛だそれは」
「吉備稚媛様だ……大王のお妃の一人の……!」
皇女が兵士をいなしながら、冷静に分析をはじめる。
「……なるほど、やはり黒幕は中央にいましたか。地方豪族ごときが単独で皇子暗殺を企てるには、少々荷が重いと思っていましたが……ここで諸手を捕らえて証言させれば、大和での切り札になりますね」
「そらもそうだな……おい諸手、大和へ来てもらうぞ」
「待て待て待て! 全部話す! 証言もする! だから命だけは……!」
諸手は額を床に擦り付けて命乞いをした。
だが、その背後で、先ほどの給仕の女性が懐から短剣を抜いていた。
彼女の目は、恐怖ではなく、狂信的な光を宿していた。
「裏切り者には死を!」
「ぬ?」
皇子が気づいた時には、遅かった。
女性は皇子ではなく、諸手に襲いかかった。
ザシュッ!
短剣が諸手の首筋を深々と切り裂く。
「が……っ」
諸手は血飛沫を上げて倒れた。目は見開かれたまま、何が起きたのか理解できていないようだった。
「なっ……!?」
渚は息を呑んだ。
女性は返り血を浴びたまま、狂ったように笑った。
「あはは! これで任務完了……稚媛様、万歳……!」
彼女はそのまま、躊躇なく自らの喉に短剣を突き立てた。
ドサリ。
二つの死体が重なり合う。
静寂が訪れる。
残されたのは、血の海と、豪華な料理の残骸だけ。
「……おいおい」
皇子は剣を納め、冷めた目で見下ろした。
「口封じか。稚媛は随分と用意周到なことだ。自分の配下すら信用せず、監視役をつけていたとはな」
渚は震えながら、その光景を見ていた。
これが、権力争い。
失敗すれば死。裏切っても死。成功しても、口封じで死ぬかもしれない。
自分が足を踏み入れた世界は、想像以上にドロドロとしていて、救いようがない。
外から、三盾たちが突入してくる音が聞こえた。館の制圧は終わったようだ。
「行くぞ、渚」
皇子の声に、ハッと顔を上げる。
「ここでの用事は済んだ。……次は大和だ。喧嘩を売ってきた相手に、挨拶に行かねばならんな」
皇子は自嘲気味に笑った。
館の外に出ると、東国の空には不気味なほど赤い月が浮かんでいた。
ここから大和への旅路は長い。そしてその道は、血で舗装されているのかもしれない。渚は身震いしながら、皇子の背中を追った。




