第6話 燃える屋敷と、覚醒の炎
世界がスローモーションになったようだった。
広子の体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
畳に広がる赤い染み。それは、ついさっきまで渚の手を引いていた、温かい血だった。
広子の目は見開かれたままだが、そこにはもう光がない。
「あ……あ……」
渚は声にならない悲鳴を上げた。
頭の中が真っ白になる。思考が停止する。
広子が倒れたその先で、男たちが下卑た笑みを浮かべている。
「へへっ、生意気な女だったな」
「おい、後ろのガキだ。あれが『神』か?」
「神にしちゃあ貧相だが、まあいい。連れて帰れば殿がお喜びになる。病を治す力があるんだろ? 俺の痔も治してくれねぇかな」
男たちが、血濡れの剣をぶら下げたまま、渚に歩み寄ってくる。
その足が、広子の体を無造作に跨いだ。
泥だらけの草鞋が、広子の着物を踏みにじる。
プツン。
渚の中で、何かが切れる音がした。
「……やめて」
渚の喉から、掠れた声が出た。
恐怖? いや、違う。
これは、もっと熱くて、ドロドロとした感情だ。
悲しみと、喪失感と、そして激しい怒りが混ざり合った、黒い衝動。
「俺たちの言うことを聞けば、痛い目はしねぇよ。ほら、来い」
男の手が伸びてくる。
その手は、広子を殺した手だ。
大切な日常を、優しい時間を、理不尽に奪った手だ。
渚の脳裏に、この数日間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
広子と一緒に洗濯をしたこと。
広子が作ってくれた、少し塩辛い漬物の味。
渚様、お似合いですよと笑ってくれた、優しい顔。
全部、この男たちが壊した。
「触らないで」
渚の右手が、カッと熱くなった。
はめられた黄金の指輪が、脈打つように鼓動している。ドクン、ドクンと、心臓の音に合わせて。
栲幡皇女との特訓で感じた、あの微かな「治癒」の光ではない。
あれは、生かすための光だった。
今、渚の中に溢れているのは、すべてを否定し、拒絶する力だ。
もっと暴力的で、破壊的な奔流が、指輪を通じて体の中から溢れ出そうとしていた。
理力とは、世界との対話だと栲幡皇女は言った。
――どうしたいのですか?
そう、指輪が問いかけてくる気がした。
ならば今、渚が世界に望むことは一つだけだ。
――消えろ……!
渚は顔を上げた。その瞳に、暗い炎が宿る。
もう、治すとか、守るとか、どうでもいい。
ただ、目の前の汚らわしいものを、消し去りたい。
「……燃えちゃえ……」
呟きと共に、渚は右手を突き出した。
ボォォォォォッ!!
爆発的な音が響き、視界が紅蓮に染まった。
渚の手から放たれたのは、火の粉などという生易しいものではなかった。
指向性を持った熱線。あるいは、火炎放射。
理力の炎は、物理法則を無視して男たちに襲いかかった。
「あ……?」
男たちは悲鳴を上げる暇すらなかった。
炎に包まれた瞬間、彼らの体は炭化し、崩れ落ちた。鎧も、武器も、肉体も、一瞬で灰になる。
「え……?」
後ろにいた兵士たちが、目を見開いて立ち尽くす。
だが、炎は止まらない。
渚の感情に呼応するように、炎は生き物のようにうねり、屋敷の中を舐め尽くしていく。
柱が燃える。壁が燃える。床板が燃える。
そして、敵兵たちも燃える。
「うわあぁぁぁ! なんだこれは!?」
「火だ! 火が消えねぇ!」
「助けてくれぇ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
逃げ惑う兵士たちに、炎は蛇のように絡みつく。
だが、渚はただ、その光景を呆然と見つめていた。
熱くない。
自分の放った炎なのに、渚自身は全く熱さを感じていなかった。むしろ、指輪を通して力が抜けていく感覚が、冷たくて心地よかった。
広子の遺体だけが、不思議と炎に巻かれずに残っている。まるで、炎が彼女を避けているかのように。
――ああ、綺麗だな。
燃え盛る炎を見ながら、渚は不謹慎にもそう思った。
すべてを焼き尽くしてしまえば、悲しみも、苦しみも、なくなるのだろうか。
屋敷の屋根が崩れ落ちる。火の粉が舞い上がる。
視界が揺れる。力の使いすぎだった。
意識が遠のいていく。
倒れ込む寸前、誰かが自分を抱きとめた気がした。
煤と血の匂い。でも、懐かしい、香木の香り。
「……馬鹿者が」
震える声が聞こえた。
そこで、渚の意識は途切れた。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
再び目を覚ました時、渚は焼け焦げた屋敷の庭にいた。
火はすでに消え、あたりには鼻を突く焦げ臭い匂いが漂っている。夜空には星が出ていた。
「気がついたか」
隣に、白髪皇子が座っていた。
彼の白い鎧は煤と血で真っ黒に汚れ、自慢の金髪も乱れている。
「……皇子、様?」
「ああ。戻ったぞ」
皇子は短く答えた。その声には、いつもの覇気がなかった。
渚は体を起こし、周囲を見渡した。
香取宮は、半壊していた。あちこちから煙が上がっている。
そして、庭の隅には、筵をかけられた遺体が並べられていた。
その一番端に、広子の姿があった。顔には白い布がかけられている。
「あ……」
記憶が蘇る。
広子が殺されたこと。自分が炎を放ったこと。
「……ごめんなさい」
渚は涙を流した。止めどなく溢れてくる。
「私が、もっと早く……私が、弱かったから……広子さんが……」
「謝るな」
皇子の声は厳しかった。
「広子は、お前を守って死んだ。それは彼女の誇りだ。お前が謝ることは、彼女の覚悟を侮辱することになる」
「でも……っ! 私が殺したようなものです!」
「それに、お前は敵を討った」
皇子は、黒い染みのように焦げ付いた地面を顎でしゃくった。そこには、人の形をした灰がいくつも残っていた。
「屋敷に侵入した兵は、全員灰になった。お前の炎でな」
皇子は渚の手を取り、その指輪を見つめた。
「……驚いたぞ。治癒の力を持つ者が、これほどの火力を出すとはな。怒りと悲しみが、理力を暴走させたか。あるいは、それがお前の本質か」
「私……怖いです。自分が、自分でないみたいで……人を殺しました。あんなにたくさん」
渚は震えた。人を殺した。それも、あんなに残酷な方法で。手の震えが止まらない。
皇子は渚の手を強く握りしめた。痛いほどに。
「背負え」
「え?」
「力を持つということは、業を背負うということだ。人を殺め、守れず、それでも生きていく。それが『指輪持ち』の運命だ」
皇子の青い瞳が、渚を射抜く。そこには、憐れみではなく、共犯者としての眼差しがあった。
「お前はもう、ただの村娘ではない。私の共犯者だ。……これからは、その炎で自分自身を焼かぬよう、私が制御してやる。だから、生きろ」
それは、皇子なりの不器用な慰めであり、誓いだった。
そこへ、栲幡皇女が足を引きずりながらやってきた。彼女もまた、煤まみれでボロボロだったが、その瞳の光は失われていなかった。
「兄上、残党の掃討が終わりました。杖部諸手は逃亡。おそらく田荘へ向かったでしょう。……香取宮は、もう住めませんね」
彼女は半壊した屋敷を見上げ、寂しげに言った。
「そうだな。思い出の詰まったボロ屋だったが、良い潮時かもしれん」
皇子は立ち上がり、星空を見上げた。
「行くぞ。大和へ」
「大和……?」
渚が聞き返す。
「ああ。私の実家だ。父上――大王に報告せねばならんしな。それに……」
皇子はニヤリと笑った。その笑顔は、復讐者のように冷たく、そして美しかった。
「喧嘩を売られたのだ。買いに行かねば失礼だろう? 杖部ごときが勝手に動けるはずがない。裏で糸を引いている黒幕がいるはずだ」
香取の乱は、痛み分けの形で幕を閉じた。
だが、これは始まりに過ぎない。
渚は広子の遺体に手を合わせ、心に誓った。
もう二度と、大切な人を失わないために。この呪われた力と向き合い、強くなると。
一行は、焼けた香取宮を後にした。目指すは日本の中心、大和。
そこには、さらなる陰謀と、変人たちが待ち受けていることを、渚はまだ知らない。




