第5話 裏切りの豪族と、皇子の突撃
香取宮を取り囲む軍勢の数は、およそ六百。
対して、宮を守る手勢は三十にも満たない。絶望的な戦力差である。
晩夏の湿った風が、張り詰めた空気を運んでくる。蝉の声すら遠慮して止んでしまったかのような静寂が、丘の上を支配していた。
だが、この屋敷の主人は、そんな状況でも通常運転だった。
「ふむ。六百か。私の美しさを見に来たファンにしては、殺気が強すぎるな。整理券を配るべきだったか?」
白髪皇子は、屋敷の物見櫓の上で、優雅に腕組みをして敵陣を見下ろしていた。その白い鎧は陽光を反射し、戦場には不釣り合いなほど煌びやかだ。
「寝言は寝てから言ってください、兄上」
隣に立つ栲幡皇女が、氷点下の声で突っ込む。
彼女はすでに戦闘装束に着替え、身の丈ほどもある大弓を手にしていた。普段の小言モードとは違い、その瞳には武人としての鋭い光が宿っている。
「敵の旗印、あれは『杖部』ですね。この辺りを治める豪族、杖部諸手です」
「ほう。先日、貢ぎ物として腐った魚を持ってきたあの男か。味覚だけでなく頭も腐っていたとはな」
皇子は呆れたように肩をすくめた。
「表向きは朝廷に従順なふりをして、裏では北の蝦夷と手を組み、この香取宮を落とそうと画策していたわけか。やれやれ、私の人徳がありすぎて嫉妬されたか」
「自意識過剰です。狙いは何でしょう? やはり、兄上の首ですか?」
「それもあるだろうが、本命は『神』だろうな」
皇子はチラリと、櫓の下で不安そうに待機している渚を見た。
渚は広子に守られるようにして、小さくなっている。
「あの子がここ最近、神の化身だと辺りでは有名になっている。不治の病を生き延びた奇跡の子としてな。手に入れれば、その治癒の力で不老不死になれるとでも思ったか、あるいは民衆を扇動する御旗にするつもりか。……まったく、疫病神として捨て置いていたかと思えば、今度は福の神として奉ろうとは、卑しい奴らだ」
皇子は腰の直刀の鯉口を切り、ニヤリと笑った。その笑顔はいつものふざけたものではなく、獲物を前にした猛獣のそれだった。
「さて、どうする? 籠城するか?」
「この人数で籠城は無理です。兵糧もありませんし、火をかけられたら終わりです。援軍を待つにしても、大和は遠すぎます」
「だな。ならば打って出るしかあるまい」
皇子の作戦は、あまりにも単純かつ無謀なものだった。
まず、皇子が騎馬隊(といっても従者の三盾を含めて数騎だが)を率いて正門から突撃し、敵の主力である杖部の本陣を叩く。敵の注意を一身に引きつけている間に、屋敷の守りを固め、機を見て挟撃する、というものだ。
「私が囮になるわけだ。目立つのは得意だからな。スポットライトは主役のためにある」
「死なないでくださいよ。兄上が死ぬと、私が次の大王候補になってしまいます。面倒ごとは御免です」
「愛のない妹だ。だが、安心しろ。私はしぶといぞ」
軽口を叩き合いながらも、兄妹の絆は固い。言葉にしなくとも、互いが互いの背中を預けているのがわかる。
皇子は櫓を降りると、渚の前に立った。
「渚、私は少し出かけてくる」
「で、出かけるって……戦いに行くんでしょう!?」
渚は蒼白な顔で皇子の袖を掴んだ。
「あんなにたくさん敵がいるのに! 無理です、死んじゃいます! 私なんか渡してしまえばいいじゃないですか!」
「馬鹿を言うな」
皇子は渚の額を指で軽く弾いた。
「一度拾ったものを捨てるなど、私の美学に反する。それに、心配するな。私は強いぞ? まだお前との約束を果たしていない」
「約束?」
「骨を拾ってやるという約束だ。私が先に死んだら、お前の骨を拾えないだろう?」
「……そんな不吉な約束、忘れてましたよ」
渚は泣きそうな顔で笑った。
皇子は大きな手で、渚の頭をくしゃりと撫でた。その手は大きく、温かく、そして微かに震えていたかもしれない。だが、渚にはわからなかった。
「広子、渚を頼むぞ。絶対に外に出すなよ」
「はい。命に代えましても」
侍女の広子が、いつになく真剣な表情で頷いた。彼女の手には、洗濯板ではなく薙刀が握られている。普段の穏やかな「お母さん」のような雰囲気は消え、そこには覚悟を決めた一人の戦士がいた。
「では、行ってくる。晩飯までには戻るから、湯を沸かしておけ。汗をかくと肌に悪い」
皇子はひらりと愛馬・白雪に飛び乗った。
従者の三盾と、数名の騎兵が続く。彼らもまた、死地へ向かうとは思えないほど落ち着いた表情をしている。皇子への絶対的な信頼があるのだ。
「開門ッ!!」
皇子の号令と共に、香取宮の粗末な門がギギギと音を立てて開かれた。
どっと押し寄せようとした敵兵たちが、一瞬ひるむ。
そこから飛び出してきたのは、陽光を反射して輝く白銀の騎士だったからだ。
「我こそは白髪皇子! 命知らずの愚か者ども、私の輝きに焼かれる覚悟はあるかァッ!!」
皇子が叫ぶと同時に、右手がカッと光った。
理力の奔流。
ドォォォォン!!
先頭の敵兵たちが、見えない衝撃波に吹き飛ばされた。
「うわあぁぁぁ! 化け物だァ!」
「ひるむな! 数はこっちが上だ! 囲め! 奴の首を取れば恩賞は思いのままだぞ!」
敵将の怒号と悲鳴が入り混じる中、皇子の白馬は一直線に敵陣の中央へと突き進んでいく。
それはまるで、泥海を切り裂く一筋の雷光のようだった。
皇子が剣を振るうたびに、理力の刃が飛び、敵兵が宙を舞う。
「遅い! 止まって見えるぞ!」
皇子は戦場を舞うように駆ける。その姿は圧倒的で、そして美しかった。
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一方、屋敷に残された渚たちは、固唾を呑んで戦況を見守っていた。
「すごい……」
渚は震える声で呟いた。
皇子は強かった。たった数騎で、数百の軍勢を翻弄している。まるで物語の英雄のようだ。
だが、現実は物語のように甘くはない。
敵もさるもの。皇子の突撃をやり過ごした別働隊が、手薄になった屋敷の側面へと殺到し始めたのだ。
「来ます! 右翼、構え!」
櫓の上で、栲幡皇女が叫んだ。
ヒュンッ!
彼女の放った矢が、柵を乗り越えようとした先頭の敵兵の眉間を正確に貫く。
「これ以上、我が家には入れさせませんよ! 土足厳禁です!」
皇女の大弓が唸る。彼女もまた、理力の使い手ではないが、武人としては超一流だった。次々と矢を放ち、確実に敵を仕留めていく。
屋敷に残ったわずかな兵たちも、必死に応戦する。
しかし、数は圧倒的だった。
柵が破られ、塀が乗り越えられる。蟻の群れのように、敵兵が溢れ出してくる。
泥にまみれた蝦夷や、杖部の兵士たちが、雪崩のように屋敷の敷地内へと侵入してきた。
「渚様、こちらへ!」
広子が渚の手を引き、屋敷の奥へと走る。
「広子さん、でも……!」
「ここから先は、私たちの仕事です。渚様は隠れていてください! 皇子様との約束ですから!」
広子は渚を納戸に押し込めようとした。
その時。
ドガァッ!
屋敷の壁が突き破られ、太い丸太を持った大男が乱入してきた。
木片が飛び散り、土埃が舞う。
「へへっ、見つけたぞ。上等な着物を着た女だ」
大男の後ろから、数人の兵士が続いて入ってくる。彼らの目は血走っており、欲望と殺意に満ちていた。
「広子!」
渚が叫ぶ。
広子は薙刀を構え、渚の前に立ちはだかった。その背中は、いつもよりずっと小さく、けれど頼もしく見えた。
「この先へは行かせませんよ……! この子は、皇子様の大切なご家族なのです!」
「ふん、女が粋がるんじゃねぇ! やっちまえ!」
乱戦が始まった。
広子は強かった。薙刀を旋回させ、男たちの足を払い、石突きで突きを入れる。
だが、所詮は多勢に無勢。
一人の男が広子の正面で剣を受け止め、鍔迫り合いになる。
「くっ……!」
広子が歯を食いしばる。
その隙を突いて、別の男が広子の背後に回り込んだ。
渚の視界の端で、鈍い銀色の光が閃く。
「後ろ……!」
渚が叫ぼうとした瞬間、男の剣が、広子の背中を深々と貫いた。
ドスッ、という嫌な音が、喧騒の中でもはっきりと聞こえた。
「がっ……!」
広子の動きが止まる。
薙刀が手から滑り落ち、床に乾いた音を立てた。
「広子さんッ!!」
渚の目の前で、いつも優しく笑っていた広子の口から、どす黒い血が溢れた。
彼女はゆっくりと渚の方を振り返り、何かを言おうとして――そのまま崩れ落ちた。




