第4話 血塗れの指輪と不穏な影
「……ひどい血ですね」
渚がおずおずと言うと、白髪皇子は自分の鎧を見下ろし、「おっと」と肩をすくめた。
「汚いところを見せたな。心配するな、これは私の血ではない。賊の血だ」
皇子は事もなげに言った。まるで服に泥が跳ねた、とでも言うように。
「賊……ですか?」
「ああ。近くの村で略奪を働いていた不届き者がいてな。少しばかり『お説教』をしてきた」
後ろに控える従者の三盾が、疲れた顔で補足した。
「皇子様のお説教は物理的すぎるのです。素手で兜を叩き割るのはやめてください。後片付けが大変なんですから」
「仕方あるまい。言葉で分からぬ獣には、拳で語るしかない」
皇子は兜を脱ぎ、従者に渡した。その顔には、人を殺めたことへの躊躇いや苦悩の色は微塵もなかった。
渚は背筋が寒くなるのを感じた。
この人は優しい。自分のような捨て子を拾い、病を治し、家族として迎えてくれた。
だが同時に、敵とみなした相手には容赦がない。その二面性が、渚にはまだ受け止めきれなかった。
「あ、そうだ。渚、手を出せ」
「え? はい」
言われるままに両手を差し出すと、皇子は懐から何かを取り出し、渚の手のひらに落とした。
チャリ、と硬質な音がした。
それは、血に汚れた金色の指輪だった。
「ひっ……!」
渚は思わず手を引っ込めそうになったが、皇子がそれを許さなかった。
「受け取れ。戦利品だ」
「せ、戦利品って……これ、死んだ人の……」
「そうだ。賊の中に『指輪持ち』がいてな。なかなか威勢が良かったが、私が斬った」
皇子の声は淡々としていた。
「指輪持ち……皇子様と同じ、不思議な術を使う人ですか?」
「うむ。本来、指輪は大王家に連なる者、あるいは特別な許可を得た高位の豪族しか持てぬものだ。だが最近は、どこからか流出し、野盗ごときが持っていることもある」
皇子は指輪を指差し、続けた。
「それは本物だ。おそらく、どこかの遺跡から掘り出したか、高貴な人間を殺して奪ったものだろう。……まあ、持ち主は死んだ。今は私のものだ。そして、お前にやる」
「い、いりません! 呪われそうです!」
「馬鹿者。これはお前が生きていくために必要なものだ」
皇子の表情が真剣なものに変わった。
「私の治療だけでは、いつか限界が来る。私が遠征で長く留守にすることもあるだろう。その時、病状が重くなったらどうする? 死ぬぞ」
渚は言葉に詰まった。
「この指輪があれば、お前自身で理力を使い、病を抑え込むことができるようになる。……まあ、使いこなすにはセンスが必要だがな」
皇子はニッと笑い、渚の手に指輪を握らせた。
「広子、その指輪を洗って清めてやってくれ。あと、塩もな」
「かしこまりました。……渚様、おめでとうございます。これで晴れて皇子様とおそろいの指輪ですねぇ」
広子が茶化すが、渚には笑う余裕がなかった。
手の中にある冷たい金属の塊が、ずしりと重く感じられた。
これは、誰かの命と引き換えに手に入ったものだ。それを身につけるということは、皇子と同じ「血の世界」に足を踏み入れることのような気がした。
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その夜、渚は広子に手伝ってもらい、指輪の泥と血を洗い落とした。
磨き上げられた指輪は、皇子のものとよく似た、美しい輝きを放っていた。
試しに指にはめてみる。ぶかぶかだったが、親指ならなんとか引っかかった。
「……何も起きませんね」
「最初はそんなものです」
様子を見に来た栲幡皇女が言った。彼女は松葉杖をついていた。昼間の訓練で足を挫いたらしい。
「兄上のように、はめた瞬間から爆発を起こすような人は異常なのです。凡人は、まず指輪の声を聞くところから始めなければなりません」
「指輪の声?」
「ええ。理力とは、世界との対話です。指輪はその翻訳機のようなもの。……まあ、渚に才能があるかどうかは分かりませんが」
皇女は厳しい顔で渚を見つめた。
「渚。その指輪を持つということは、ただの居候ではいられないということです。戦う力を持つ者は、戦う義務を負う。その覚悟はありますか?」
「……戦うなんて、私には」
「今はなくても、いずれ必要になります。この国は今、荒れていますから」
皇女の言葉は予言のように重く響いた。
北の蝦夷だけでなく、西の豪族たちも不穏な動きを見せているという噂は、渚の耳にも届いていた。
「兄上は、強くあろうとしています。でも、お一人では限界がある。……もし渚が理力を使いこなせるようになれば、兄上の助けになるかもしれません」
皇女は少しだけ寂しそうな顔をした。
「私は弓は引けますが、指輪の適性は低いのです。兄上の隣に立つには、力が足りない」
いつも兄を怒鳴りつけている強い皇女の、ふと見せた弱気な一面。
渚は指輪を握りしめた。
あの変な皇子。自分を拾ってくれた命の恩人。
彼が血にまみれて戦っている時、自分はただ守られているだけでいいのだろうか。
「……やってみます。私、役に立ちたいです」
渚の言葉に、皇女はふっと表情を緩めた。
「そうですか。なら、明日から特訓ですね。兄上流の『愛のスパルタ指導』ではなく、私がきっちり基礎から叩き込みます」
「え、お手柔らかにお願いします……」
「戦場に手加減はありませんよ?」
皇女の目が怪しく光った気がした。
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翌日から、渚の地獄の特訓が始まった。
まずは「瞑想」である。指輪をはめ、精神を統一し、体の中の理力を感じる訓練だ。
「雑念が多い! もっと無になりなさい!」
皇女のハリセン(硬い麻布をまとめて作ったもの)が渚の頭を叩く。
「無になれと言われても、お腹が空いて……」
「煩悩の塊ですね。滝に打たれますか?」
「死んじゃいます!」
そんなやり取りを繰り返すこと数日。
ある日の夕暮れ。
渚が指輪に意識を集中していると、ふと、指先が熱くなる感覚があった。
皇子に治療された時のような、焼けるような熱さではない。もっと優しい、じんわりとした温かさ。
「……あ」
渚の目の前で、枯れかけた野花が、ふわりと頭をもたげた。
茶色くなっていた葉が緑を取り戻し、萎れていた花弁が瑞々しく開く。
「こ、これ……私がやったんですか?」
「ほう」
見ていた皇女が感心したように声を上げた。
「『治癒』の適性があるようですね。それも、植物を蘇らせるほどとは。兄上は破壊と強化専門ですから、これは貴重ですよ」
「私、怪我を治す『薬師』様になれるってことですか!?」
「薬師? まあ、似たようなものでしょう。人を癒やす力なら、戦場でも重宝されます」
渚は嬉しくなった。これなら、人を傷つけずに、皇子の役に立てるかもしれない。
だが、そのささやかな希望は、すぐに打ち砕かれることとなる。
カンカンカンカンッ!
またしても、警鐘が鳴り響いた。
今度は、前回のような小規模な襲撃ではない。
地響きのような音が近づいてくる。
数百、いや数千の軍勢が、香取宮を取り囲もうとしていた。
「栲幡はいるか」
武装した白髪皇子が、部屋に入ってきた。その顔には、いつものふざけた笑みはなかった。
「渚、広子。身を隠す準備をしろ。……今回は、遊びではないぞ。栲幡は私に続け」
香取宮の運命を決める、「香取の乱」の幕開けだった。




