最終話 日嗣の巫女
季節は巡る。
一つ、二つ、三つと、花が咲き、雪が降るのを繰り返した。
白髪皇子――清寧天皇が崩御してから、早三年が過ぎていた。
大和の国は、穏やかな繁栄の時を迎えていた。
飯豊皇女が「執政」として敷いた善政により、飢饉はなくなり、争いも絶えた。秦氏の技術は国中に広まり、荒れ地は黄金色の稲穂が揺れる美田へと変わっていた。
人々は、かつての戦乱を遠い昔話のように語り、その礎となった「白髪大王」と「悲劇の皇子たち」のことを、伝説として語り継いでいた。
そんなある秋の夕暮れ。
大和の都に続く街道を、一人の旅人が歩いていた。
深い藍色の羽織をまとい、腰には古びた黒曜石の短剣を差した女性。
渚である。
かつてのか弱かった少女の面影は、もうない。
その顔は陽に焼け、瞳には広大な世界を見てきた者だけが持つ、深く澄んだ光が宿っていた。
「……懐かしい」
渚は足を止め、眼下に広がる都を見下ろした。
家々の屋根が夕陽に照らされ、黄金色に輝いている。
あの日、白髪帝と指切りをした約束。
彼女はこの三年間、この国の隅々まで歩いた。
北の雪深い山村では、寒さに耐えながらも助け合って生きる人々の強さを見た。
西の海辺では、佐伯氏の船が大陸との交易で賑わう活気を見た。
東の荒野では、かつて敵対していた蝦夷の人々と酒を酌み交わし、言葉は違えど同じ心を持っていることを知った。
どこへ行っても、白髪帝の名は感謝と共に語られていた。
彼が蒔いた種は、確実に芽吹き、花を咲かせていたのだ。
――陛下……貴方様の国は、とても美しかったです。
渚は胸元の指輪を握りしめた。
旅の途中、何度も危機にあった。狼に襲われた時、崖から落ちそうになった時、そして病に倒れそうになった時。
その度に、この指輪が――そして腰の短剣が、彼女を守ってくれた。
彼らは片時も離れず、一緒に旅をしてくれたのだ。
宮城の門をくぐると、懐かしい顔が出迎えてくれた。
「……渚様!」
駆け寄ってきたのは、すっかり大人の女性の風格を漂わせる咲だった。
彼女は今や、秦氏の織物部門を束ねる長となっているという。
「咲ちゃん。……ただいま」
「おかえりなさいませ! ご無事で……本当によかった!」
咲は渚の手を取り、涙ぐんだ。
「少し、お痩せになりましたか? でも、とても良いお顔です。……まるで、菩薩様のよう」
「ふふ、言い過ぎよ。ただの旅の女だわ」
二人は笑い合い、再会を喜んだ。
奥から飯豊皇女が現れた。
相変わらず若々しく、その眼光の鋭さと、全身から溢れる覇気は健在だった。
「……遅かったじゃないか、バカ娘」
飯豊はぶっきらぼうに言ったが、その声は震えていた。
「すみません、お母様。……あちこち寄り道していたら、長くなってしまいました」
「フン。……まあ、いいさ。無事に帰ってきたなら、それで」
飯豊は渚を抱き寄せ、その背中を強く叩いた。
「よくやった。……あの子との約束、果たしたんだね」
「はい」
渚は深く頷いた。
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その夜。
渚は一人、あの丘へと登った。
白髪皇子、星川皇子、そして栲幡皇女が眠る場所。
三つの墓石は、綺麗に掃除され、新しい花が供えられていた。
月が昇り、青白い光が墓地を照らす。
渚は墓前に跪き、旅の荷物を解いた。
中から取り出したのは、全国各地から集めた「欠片」たちだ。
北の海で拾った白い貝殻。
西の山で採れた美しい鉱石。
東の森で見つけた珍しい木の実。
南の里で子供たちがくれた手作りの人形。
それらを、三人の前に並べた。
「お土産です。……たくさん、見てきましたよ」
渚は語り始めた。
旅先での出来事を。出会った人々の笑顔を。美しい風景を。
時には笑い、時には涙し、まるで昨日のことのように生き生きと話した。
風が吹き抜け、木々がざわめく。
それはまるで、三人が「うん、うん」と相槌を打ってくれているようだった。
「……陛下」
一通り話し終えた渚は、夜空を見上げた。
満天の星。
その中に、一際明るく輝く星と、寄り添うような二つの星が見えた。
「私、決めました」
渚は静かに、しかし力強く宣言した。
「私は、もうどこへも行きません。ここに留まり、貴方様たちの物語を語り継ぎます」
旅をする中で気づいたのだ。
人は忘れる生き物だ。
平和が続けば、かつての悲劇も、王の献身も、いつかは風化してしまう。
誰かが語り継がなければならない。
愛することの尊さを。憎しみの連鎖を断ち切る勇気を。
そして、太陽と星と月のように、互いを思い合ったきょうだいの絆を。
「私は『日嗣の巫女』となります」
日(太陽)の意志を継ぐ者。
歴史の闇に埋もれさせてはならない真実を、未来へと手渡す語り部。
「それが、生き残った私の……最後の使命です」
胸元の指輪が、カチン、と微かな音を立てた。
見ると、指輪に一筋の亀裂が入っていた。
そして、中から淡い光の粒子が溢れ出し、夜空へと昇っていく。
役目を終えたのだ。
渚を守り、導き続けた皇子の理力が、彼女の帰還と決意を見届けて、天へと還っていく。
「……ありがとう」
渚は指輪を外し、墓石の上にそっと置いた。
腰の短剣も抜き、その横に並べる。
二つの守り刀は、主のもとへ帰った。
「さようなら。……そして、ずっと愛しています」
その時、不思議なことが起きた。
昇っていく光の粒子の中に、懐かしい姿が見えた気がした。
白銀の衣をまとった白髪皇子。
黒い着物を着崩した星川皇子。
美しく着物を着こなす栲幡皇女。
三人は並んで渚を見下ろし、優しく微笑んでいた。
やがて光は夜空に溶け、星々の一部となった。
後に残されたのは、静寂と、清々しい秋の風。
渚は立ち上がった。
足取りは軽い。
明日からは、新しい仕事が待っている。
宮中の書庫を整理し、子供たちを集めて話を聞かせよう。
かつてこの国に、不器用で、優しくて、誰よりも国を愛した人たちがいたことを。
渚は丘を降りていく。
その背中を、月明かりが優しく照らしていた。
物語は終わらない。
語り継がれる限り、彼らは何度でも蘇る。
人々の記憶の中で、永遠に輝き続けるのだ。
大和の国に、新しい朝が来ようとしていた。




