第30話 落日、そして永遠の約束
その時、大和の都は、燃えるような夕焼けに包まれていた。
西の空に沈みゆく太陽が、最後の輝きを放ち、大極殿の朱色の柱をさらに赤く染め上げている。
だが、宮殿の奥にある帝の寝所は、静まり返っていた。
漂うのは、重苦しい沈香の香りと、死の予感。
寝台に横たわる白髪帝の呼吸は、浅く、不規則なものになっていた。
桃の花見から戻って三日。
一度として意識は戻らず、生命の灯火は風前の灯となっていた。
枕元には、飯豊皇女、秦酒公、佐伯氏の長、そして三盾ら、彼を支えた忠臣たちが控えている。
皆、押し黙り、あるいは涙をこらえて俯いていた。
医師団の長が、静かに首を横に振った。
「……今夜が、峠でしょう」
その宣告に、すすり泣く声が漏れた。
渚は、皇子の冷たくなった手を両手で包み込み、片時も離さずにいた。
祈りは通じなかった。理力による治療も、もう受け付けない。
魂の器は砕け、中身がこぼれ落ちていくのを、ただ見守ることしかできなかった。
――陛下……
渚は唇を噛み締めた。
泣いてはいけない。最期の瞬間まで、笑顔で見送ると決めたのだから。
「……ん……」
微かな声が聞こえ、渚は弾かれたように顔を上げた。
「陛下!?」
帝のまつ毛が震え、ゆっくりと、薄く目が開かれた。
その瞳は、霞がかかったように焦点が定まっていない。
「……渚、か?」
「はい、ここにいます。渚です」
渚は顔を寄せ、強く手を握り返した。
「……暗いな。……もう、夜か?」
窓の外はまだ明るい夕暮れだ。彼の視力は、もう失われつつあるのだ。
「いいえ、陛下。……とても綺麗な、夕焼けですよ。貴方様のような、黄金色の空です」
「そうか……。夕焼けか……」
帝は安堵したように息を吐いた。
そして、気配を探るように視線を巡らせた。
「……叔母上は、いるか」
「いるわよ。……ここよ、白髪」
飯豊皇女が進み出て、帝のもう片方の手を取った。気丈な彼女の声が、震えている。
帝は、見えない目で叔母の方を見つめた。
「……叔母上。……後のこと、頼みます」
「任せなさい。……アンタが守ったこの国は、私が責任を持って引き継ぐわ。だから……心配しないで、ゆっくり休みなさい」
「……ありがとう。……貴女は、私にとって……まことの母でした」
飯豊皇女が、堪えきれずに顔を背け、嗚咽を漏らした。
あの豪快な「葛城の魔女」が、子供のように泣いていた。
「……みんなも、ありがとう」
帝は、部屋にいる一人一人に語りかけるように言った。
「三盾。……私の盾となってくれて、感謝する」
「酒公。……秦の技術がなければ、勝てなかった」
「佐伯。……海の守りを、頼む」
名を呼ばれた者たちは、その場に平伏し、床を涙で濡らした。
最後に、皇子の視線が再び渚に戻った。
「……皆、下がってくれ。……少し、渚と二人にしてほしい」
飯豊皇女が涙を拭い、頷いた。
「……行くわよ」
彼女に促され、家臣たちは一礼し、重い足取りで部屋を出て行った。
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広い寝所に、二人だけが残された。
静寂の中で、帝の呼吸音だけが響く。
「……渚」
「はい」
「……指輪を」
言われて、渚は銀の指輪を外し、帝の掌に乗せた。
帝はその指輪を握りしめ、目を閉じた。
一瞬、指輪が淡く輝き、そして光が消えた。
「……これでいい」
帝は指輪を再び渚の手渡した。
「その指輪に、私の残った理力のすべてを封じた」
「陛下……?」
「約束した旅に出るとき……それが、君を守る……私の代わりだ」
帝は弱々しく微笑んだ。
「私が死んでも、その指輪の中に、私はいる。……君が危機に陥った時、君が悲しみに暮れる時、必ずその力が君を助けるだろう」
最期の最期まで、彼は渚のことだけを案じていた。
自分の命を削ってまで、彼女の未来を守ろうとしていた。
「……ッ!」
渚は泣き笑いのような顔で、指輪を胸に抱いた。
「こんなものを貰わなくても……貴方様はずっと、私のここにいます」
渚は自分の胸を叩いた。
「心の中に、ずっといます……!」
白髪の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……生きたい」
ポツリと、本音が漏れた。
「もっと、君と生きたかった。……色々な景色を、見たかった」
王としての仮面が外れ、ただの一人の青年としての未練が溢れ出す。
死ぬことへの恐怖ではない。愛する者と離れることへの寂しさ。
渚は、白髪の体に覆いかぶさり、抱きしめた。
「私もです! 私も、もっと貴方様と一緒にいたかった……!」
「渚……」
白髪は残された力を振り絞り、渚の背中に腕を回した。
その抱擁は弱々しかったが、どんな言葉よりも雄弁な愛を語っていた。
「……聞こえるか? あの音が」
白髪が耳を澄ませる。
「音?」
渚も耳を澄ませるが、何も聞こえない。風の音だけだ。
「……足音だ。……迎えが来たようだ」
白髪の視線の先、何もない空間を見つめて、彼はふっと表情を緩めた。
「……ああ、栲幡。……星川」
彼には見えているのだ。
先に逝った弟妹たちが、笑顔で手を差し伸べている姿が。
「待たせたな。……すぐに行くよ」
白髪の腕から力が抜け、ずりと落ちた。
「陛下……?」
白髪の瞳が、ゆっくりと渚を捉えた。
その瞳に、最後の理性の光が宿る。
「愛している、渚。……君は、私の……太陽だ……」
ふっ、と。
白髪の口元から、白い息が漏れた。
それが最後だった。
胸の上下動が止まる。
握っていた手の温もりが、急速に遠ざかっていく。
窓の外では、太陽が完全に山の端に沈み、空には一番星が輝き始めていた。
堕ちた太陽は、役目を終え、静かな眠りについたのだ。
「……陛下?」
返事はない。
美しい顔は、安らかに眠っているようにしか見えない。
だが、もう二度と、その瞳が開くことはない。
「う……ううっ……」
渚は白髪の胸に顔を埋めた。
叫びたかった。泣き喚きたかった。
けれど、彼女はそれを飲み込んだ。
彼は王として立派に逝ったのだ。ならば、見送る妃も立派でなければならない。
渚は震える手で帝の瞼を閉じ、乱れた髪を直した。
そして、深々と頭を下げた。
「……おやすみなさいませ、皇陛下。……良い夢を」
渚は立ち上がり、寝所の扉を開けた。
廊下には、飯豊皇女たちが不安げな表情で待っていた。
渚は毅然とした態度で、しかし涙で濡れた顔で告げた。
「……清寧天皇陛下、崩御あそばされました」
その瞬間、廊下に慟哭が響き渡った。
三盾が床を叩いて泣き、酒公が天を仰ぎ、飯豊皇女が崩れ落ちる。
宮中の鐘が鳴らされる。
ゴーン、ゴーン……
その音は都中に広がり、すべての民に王の死を伝えた。
短くも鮮烈な、白髪皇子の治世が終わった。
その夜、大和の空には、季節外れの流星群が流れたという。
それはまるで、天に還る王の魂を、無数の星々が出迎えているかのようだった。
渚は一人、夜空を見上げていた。
胸には、二つの形見。
星川皇子の黒曜石の短剣と、白髪帝の銀の指輪。
二人の想いを胸に、彼女は誓った。
「行きます。……貴方様との約束を果たすために」
涙はもう枯れていた。
その瞳は、まだ見ぬ明日と、広大な世界を見据えていた。




