第28話 白き冬、王の孤独と妃の祈り
星川の乱が終結してから、半年が過ぎようとしていた。
大和の盆地には、静かな冬が訪れていた。
戦火で焼けた大蔵の跡地も、崩れ落ちた城壁も、今はすべて清らかな白雪に覆われている。
それはまるで、天が地上の傷跡を優しく包帯で巻いてくれたかのようだった。
大極殿の奥にある執務室。
炭火が赤々と燃えているが、それでも部屋の空気は張り詰めたように冷たい。
「……ゲホッ、ゲホッ……!」
乾いた咳の音が響く。
白髪皇子――いや、今は第22代・清寧天皇となった彼は、山積みになった木簡と向き合っていた。
その顔色は、窓の外の雪と同じくらい蒼白だ。頬は以前よりこけ、手首は折れそうなほど細くなっている。
「陛下、もうお休みください」
傍らに控えていた渚が、たまらず声をかけた。
彼女は今、妃として、身の回りの世話から祭祀までを取り仕切っている。
「まだだ……。安芸からの食料輸送の承認と、難波津の修復工事の決裁が残っている」
皇子は震える手で筆を走らせた。
「今年の冬は寒い。民が凍えていないか、心配なのだ」
「その件なら、飯豊様が手配してくださいました。秦氏の協力で、被災した民には毛布と食料が配給されています」
渚が優しく諭すように言い、皇子の手から筆を取り上げた。
「陛下が倒れられたら、それこそ民が悲しみます。……お願いですから、ご自愛ください」
皇子は渚の顔を見上げ、力なく微笑んだ。
「……君には敵わないな、渚」
彼は椅子の背もたれに体を預け、深く息を吐いた。
その吐息には、ヒューヒューという雑音が混じっている。
あの大蔵での決戦で、魔剣のエネルギーと真っ向からぶつかり合った代償。
魂の器に入った亀裂は、修復されるどころか、日ごとに広がっていた。
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その日の午後。
皇子は「少し外の空気を吸いたい」と言って、渚を連れて宮殿の庭に出た。
雪かきされた小径を、二人はゆっくりと歩く。
皇子の歩調は遅く、渚が腕を貸さなければ転んでしまいそうだ。
「……静かだな」
皇子が空を見上げた。鉛色の雲から、ハラハラと雪が舞い落ちてくる。
「はい。……平和ですね」
「ああ。……だが、私の耳にはまだ聞こえる気がするんだ。あいつらの声が」
皇子の視線の先には、真っ白な雪原となった大蔵の跡地があった。
そこに、栲幡皇女と星川皇子、二人の弟妹の幻影が見えるような気がした。
「私が王位にあるのは、彼らの犠牲の上だ。……だから、休むわけにはいかない。あいつらが『兄上なら大丈夫だ』と安心して眠れるような国にしなければ」
皇子の言葉には、強迫観念にも似た焦りがあった。
自分の命が残り少ないことを知っているからこそ、彼は生き急いでいるのだ。
一分一秒でも長く働き、一つでも多くの礎を残そうとして。
渚は、皇子の冷たい手を両手で包み込んだ。
「陛下。……貴方様は十分になさいました。誰も貴方様を責めたりしません」
「渚……」
「星川様も、栲幡様も、きっとこう言っています。『兄上、もっと笑って』と」
渚が微笑むと、皇子の強張っていた表情がふっと緩んだ。
「そうか。……そうだな」
皇子は渚の手を握り返した。
「君の手は温かいな。……まるで、春のようだ」
その時、庭の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。
見れば、飯豊皇女が数人の子供たちを引き連れて歩いてくるところだった。戦災孤児たちだ。彼女は親を失った子供たちを宮中に招き入れ、面倒を見ていた。
「おーい、陛下! 散歩かえ?」
飯豊皇女が豪快に手を振る。
「こら、お前たち! 帝だぞ、頭が高い!」
子供たちは「おーきみだ!」「白いお兄ちゃんだ!」と無邪気に駆け寄ってくる。
護衛の兵士が止めようとするが、皇子はそれを手で制した。
「構わぬ。……近くへ」
皇子は膝をつき、子供たちの目線に合わせた。
「寒くはないか? お腹は空いていないか?」
「うん! 飯豊のおばちゃんが、あったかい汁物をくれたよ!」
「おばちゃん言うな!」
飯豊皇女のツッコミに、周囲がどっと笑う。
一人の少女が、皇子に近づいてきた。手には、雪で作った歪な塊を持っている。
「これ、あげる。……ウサギさん」
雪ウサギだ。南天の実で赤い目がつけられている。
「……ありがとう。大切にするよ」
皇子が受け取ると、少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、皇子の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「陛下……?」
渚が驚く。
「ああ……すまない。目にゴミが入ったようだ」
皇子は涙を拭った。
彼は思い出したのだ。かつて、幼い頃の星川皇子が、同じように雪ウサギを作って見せに来た日のことを。
あの時、もっと褒めてやればよかった。もっと一緒に遊んでやればよかった。
後悔は尽きない。けれど、目の前の子供たちの笑顔が、今の彼を救っていた。
「……飯豊叔母上」
皇子が立ち上がり、叔母に向き直る。
「子供たちを、頼みます。……彼らが、この国の未来そのものだ」
「分かってるわよ。アンタが作った平和な国で、私が責任を持って育て上げるわ」
飯豊皇女は力強く頷いたが、その目も少し潤んでいた。彼女もまた、皇子の命の灯火が消えかけていることを悟っていたのだ。
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その夜。
白髪帝の容態が急変した。
激しい発作が起き、高熱が出たのだ。
寝所に運ばれた白髪帝は、苦しげに喘ぎながら、うわ言を繰り返した。
「まだだ……まだ死ねない……書きかけの律令が……」
「陛下、今は何も考えないでください!」
渚は懸命に看病した。
額の汗を拭い、薬湯を口に含ませる。
医師たちの表情は暗い。「この冬が峠かもしれません」という囁き声が聞こえる。
渚は医師たちを下がらせ、二人きりになった部屋で、指輪に祈りを込めた。
「お願い……! 理力よ、彼を癒やして!」
指輪が淡い光を放ち、皇子の体に流れ込む。
だが、それは穴の開いたバケツに水を注ぐようなものだった。生命力が底をつきかけている肉体は、もう理力を留めておくことができない。
「……渚」
深夜、皇子の呼吸が少し落ち着いた頃、彼が目を開けた。
「はい、ここにいます」
渚は皇子の手を両手で握りしめた。
「……寒い」
「はい、今暖めます」
渚は着物の上から皇子に覆いかぶさるようにして、自分の体温を伝えた。
「……温かい」
皇子が安堵の息を漏らす。
「渚。……私がいなくなっても、君は生きてくれ」
「嫌です! 縁起でもないことを言わないでください!」
「これは勅命ではない。……願いだ」
皇子の瞳が、熱に浮かされながらも、真剣に渚を見つめていた。
「私の生きた証を、君に覚えていてほしい。……星川と栲幡がいたことを、語り継いでほしい。それができるのは、世界で君だけだ」
渚は涙をこらえ、唇を噛み締めた。
この人は、死ぬことよりも、忘れ去られることよりも、愛する者たちが悲しむことを恐れている。
どこまでも優しい、悲しい王様。
「……はい。約束します」
渚は涙声で答えた。
「貴方様が創ったこの国を、貴方様が愛した人々を、私が見守り続けます。……だから、もう少しだけ。もう少しだけ、私のそばにいてください」
「ああ。……約束する」
皇子は満足げに目を閉じ、浅い眠りについた。
窓の外では、雪が降り続いていた。
世界は白く、静まり返っている。
渚は皇子の寝顔を見つめながら、黒曜の短剣を胸に抱いた。
星川皇子がくれた魔除けの短剣。
どうか、死神という魔を払ってほしい。
一日でも、一秒でも長く、この人の命を繋ぎ止めてほしい。
冬の夜は長く、夜明けはまだ遠かった。
しかし、二人の手は、決して離れることなく固く結ばれていた。




