第26話 星の落日、黒曜の涙
魔剣・七支刀が砕け散り、暴風が止んだ大蔵の廃墟。
天井の大穴から差し込む夕陽が、瓦礫の山を赤く染めていた。
白髪皇子は、膝の上に横たわる弟・星川皇子の顔を覗き込んでいた。
その顔色は、透けるように白く、生気がない。
魔剣との融合により、彼の生命力は根こそぎ奪われていたのだ。
「……星川」
白髪皇子が呼びかけると、星川のまつ毛が震え、うっすらと目が開かれた。
その瞳は、憑き物が落ちたように澄んでいて、どこか幼い頃の面影を宿していた。
「……あに、うえ」
掠れた声。
白髪皇子は、弟の手を握りしめた。氷のように冷たい。
「ああ、私だ。……もう大丈夫だ。呪いは解けた」
「ごめん……なさい。俺、また……迷惑かけちゃったな」
星川が弱々しく笑う。
その口端から、一筋の血が流れる。
渚が慌てて身を乗り出し、手拭いで血を拭う。
「星川様、喋らないで! 今、手当てを……!」
渚は自分の指輪をかざし、治癒の理力を送ろうとした。
だが、星川はその手をそっと押し留めた。
「……無駄だよ、渚ちゃん。分かるんだ。俺の中身はもう、空っぽだから」
「そんな……!」
渚の手が震える。
星川の体は、器が壊れた水瓶のように、魂を留めておくことができなくなっていた。
「助けて……! 誰か、助けなさいよ!」
静寂を破るように、金切り声が響いた。
瓦礫の下敷きになった吉備稚媛だ。
彼女は巨大な柱に下半身を挟まれ、身動きが取れなくなっていた。美しい着物はボロボロに裂け、髪は振り乱れ、その姿は哀れな老婆のように見えた。
「星川! 何をしているの! 這ってでも来なさい! この柱を退けるのよ!」
息子が瀕死の状態であることなど、目に入っていない。彼女にとって星川は、最後まで自分の手足となる道具でしかなかった。
白髪皇子の眉間に深い皺が刻まれる。
「……稚媛。貴様はまだ……」
皇子が怒りと共に立ち上がろうとした時、星川が兄の袖を掴んだ。
「……いいんだ、兄上」
星川は、首だけで母の方を向いた。
その目には、憎しみも軽蔑もなく、ただ深い悲哀だけがあった。
「母上は……ああやって生きるしかなかったんだ。……俺と同じで」
吉備という地方の豪族に生まれ、権力争いに巻き込まるうちにいつしかその魔物に魅入られ、愛し方を知らず、愛され方も知らなかった哀れな女。
それが、星川の母親だった。
ゴゴゴゴゴ……!
不意に、地鳴りが響いた。
砕け散った七支刀の欠片が、赤黒い光を放ち始めたのだ。
制御を失った残留エネルギーが、空間を歪ませ、大蔵全体を内側から崩壊させようとしている。
「まずい……! 崩れるぞ!」
白髪皇子が叫ぶ。
天井の梁が落ち、床が裂けていく。このままでは全員生き埋めだ。
星川は、残された最後の力を振り絞り、ふらりと立ち上がった。
「星川!」
支えようとする渚を、星川は手で制した。
「……行ってくれ」
「え?」
「このエネルギーは、誰かが抑え込まないと……都ごと吹き飛ぶ」
星川の背中から、微かな光が立ち上る。
彼は自らの残った命を燃やし、崩壊するエネルギーをその身に引き受けようとしていた。
「馬鹿なことを言うな! 一緒に逃げるぞ!」
白髪皇子が叫ぶ。
だが、星川は首を横に振った。
「無理だよ、兄上。……俺は、罪を犯しすぎた」
星川は、兄を見つめた。
「栲幡を見殺しにした。多くの人を傷つけた。……俺が生きていれば、兄上の治世に泥を塗ることになる」
それは、冷静な計算であり、そして弟としての最期の気遣いだった。
新王となる白髪皇子の近くに、反逆の首謀者が生きていてはならない。
「星川様……」
渚が泣きじゃくる。
星川は渚に向き直り、いつものように――いや、今までで一番優しく微笑んだ。
「泣くなよ、渚ちゃん。……せっかくの美貌が台無しだ」
彼は渚の帯に差さった黒曜石の短剣を指差した。
「そいつを、大切にしてくれ。……俺が君にあげられる、たった一つの『本物』だから」
そして、白髪皇子に向き直る。
「兄上。……ずっと、なりたかったんだ」
「……何にだ」
「兄上に。……太陽みたいに眩しい、貴方に」
星川の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「兄上の創る国、見たかったな」
ドンッ!
星川が両手で衝撃波を放ち、白髪皇子と渚を出口の方へと弾き飛ばした。
「星川ァァァッ!!」
白髪皇子が手を伸ばすが、届かない。
崩落した天井が、二人の間を分断する壁となった。
「早く行け!!」
星川の絶叫が、瓦礫の向こうから響いた。
白髪皇子は、血が出るほど唇を噛み締め、渚を抱き上げた。
「……行くぞ」
「嫌です! 星川様が!」
「あいつの覚悟を無駄にするなッ!」
皇子は涙を流しながら、崩れゆく大蔵を背に走り出した。
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残された空間。
星川は、よろめきながら瓦礫の山を登った。
その先には、恐怖に顔を歪める稚媛がいた。
「な、何をしているの星川! 早く私を助けなさい! 私はお前の母親よ!」
稚媛が叫ぶ。
星川は無言で母のそばに跪き、その肩を抱いた。
「……ああ、母上」
星川は、母の冷たい頬に自分の頬を寄せた。
子供の頃、こうして抱きしめて欲しかった。
ただ一度でいいから、「愛している」と言って欲しかった。
「ふざけるな! 離せ! 私はまだ死にたくない! 国母になるのよ!」
稚媛が暴れるが、星川の腕は解けない。
周囲の空間が赤黒く歪み、崩壊の光が二人を包み込んでいく。
「……怖くないですよ、母上」
星川は、暴れる母を優しくあやした。
「俺が一緒です。……地獄の底まで、お供しますから」
「いやぁぁぁぁッ! 来ないで! 死にたくな……ッ!」
稚媛の絶叫が、光の中に飲み込まれていく。
星川は、最期に天井の隙間から見える空を見上げた。
そこには、一番星が輝いていた。
――ああ……綺麗だな。
太陽にはなれなかったけれど。
最期に、一番星くらいには輝けるだろうか。
渚ちゃん。兄上。
さようなら。
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ズドォォォォン――ッ!!
大蔵全体が、まばゆい光に包まれた。
外に脱出した白髪皇子と渚が振り返る。
巨大な石造りの倉庫が、内側からのエネルギーで粉々に吹き飛び、天に向かって光の柱が立ち昇っていた。
それはまるで、地上に落ちた星が、再び空へと還っていくような光景だった。
キラキラと降り注ぐ光の粒子。
その中に、星川皇子の笑顔が見えた気がして。
「あ……あああ……ッ!」
渚はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
白髪皇子は、無言で帽子を取り、光の柱に向かって深く頭を下げた。
頬を伝う涙は拭わなかった。
「……馬鹿野郎」
愛すべき、愚かな弟へ。
王の最初で最後の涙が、焼け焦げた大地に染み込んでいった。
星川の乱。
それは、一人の孤独な皇子の死をもって、ここに終結した。
だが、その犠牲の上に築かれる平和が、どれほど重いものか。
残された二人は、まだその痛みを知ったばかりだった。




