第23話 紅の脱出と、太陽の帰還
運命の朝が来た。
大和の都は、かつてない混乱の坩堝にあった。
西から迫る白髪皇子の大軍勢。その足音は、地響きとなって都の住民たちの足元を揺らしていた。
星川皇子の屋敷、奥の間。
吉備稚媛は、狂乱していた。
「兵が逃げただと!? 戻せ! 斬ってでも戻させるのよ!」
彼女の叫び声が虚しく響く。
金で雇われた新羅の傭兵たちは、白髪皇子の圧倒的な勢力を前に戦意を喪失し、我先にと逃亡を始めていたのだ。
残っているのは、稚媛に心酔する一部の狂信的な親衛隊と、本国からの命令で引くに引けない新羅の正規兵のみ。
「こうなれば、最後の手段よ……!」
稚媛の血走った目が、異様な光を放った。
「人質だ。あの小娘を連れてきなさい! 大蔵の屋根に縛り付け、白髪に見せつけてやるのよ!」
「はッ!」
親衛隊長が短く応え、数十名の武装兵を率いて部屋を出て行った。
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離れの部屋では、渚と咲が、その時を待っていた。
二人はすでに旅装束に着替え、靴の紐を固く結んでいる。
渚の帯には、昨日星川から託された黒曜石の短剣が差されていた。
「……来ます」
咲が、床に耳を当てて言った。
「足音が多数。……荒っぽい客人がお見えです」
ドォォォン!!
咲の言葉が終わるか終わらないかのうちに、板戸が蹴破られた。
「いたぞ! 捕らえろ! 抵抗するなら手足を折っても構わん!」
抜身の剣を手にした兵士たちが、怒号と共に雪崩れ込んでくる。
「行きますよ、渚様!」
咲が前に出た。
彼女は懐から取り出した布筒を振りかぶると、床に力いっぱい叩きつけた。
ボンッ!!
爆発音と共に、猛烈な白煙が部屋に充満する。秦氏特製の煙玉だ。
「げほっ、げほっ! な、なんだ!?」
「視界が……!」
兵士たちが咳き込み、混乱する。
「今です!」
咲に手を引かれ、渚は庭へと飛び出した。
だが、庭にもすでに別働隊が回り込んでいた。
「逃がすかよォ!」
屈強な男が、大斧を振り上げて立ちはだかる。
咲は止まらない。走りながら、両手の指先から極細の糸を放った。
「秦流機織り術・鋼糸!」
キラリと光る糸が、男の足首に絡みつく。
「ぬおっ!?」
咲が糸を強く引くと、巨漢の男が独楽のように回転し、派手に転倒した。
「走ってください!」
二人は回廊を疾走する。
目指すは裏門。そこを抜ければ、複雑な路地に入り込み、追手を撒くことができる。
心臓が早鐘を打つ。
背後からは、「逃がすな!」「殺せ!」という怒号が迫ってくる。
あと少し。あの角を曲がれば裏門だ。
希望が見えた、その時だった。
角を曲がった二人の足が、凍りついたように止まった。
裏門の前には、一人の男が立っていた。
星川皇子だった。
彼は豪奢な鎧を身に着け、長剣を手に、仁王立ちで道を塞いでいた。
「……星川様」
渚が息を呑む。
咲が渚を背にかばい、クナイを構える。
「皇子様、お退きください。さもなくば……」
星川は無表情のまま、二人を見据えた。
追手の足音が、すぐそこまで迫っている。
絶体絶命。
ここで星川に足止めされれば、捕まるのは確実だ。
渚は、帯の短剣に手をかけた。
彼がくれた短剣で、彼と戦わなければならないのか。
その悲壮な決意が伝わったのか、星川の口元が微かに緩んだ。
「……手が、滑ったなぁ」
星川は、わざとらしい大声でそう言うと、持っていた長剣を地面に放り投げた。
カラン、と乾いた音が石畳に響く。
「あれー? 剣を落としちまった。これじゃあ戦えないや」
彼は棒読みで言い放ち、両手を上げて横に一歩ずれた。
道が、開いた。
「なっ……」
咲が目を丸くする。
星川は、呆然とする渚に背を向けたまま、低く囁いた。
「行け。……早く」
「星川様……」
「兄上によろしくな。……あっちに行けば、飯豊の陣に近い」
彼は指先で逃走ルートを示した。
そこには、敵意のかけらもなかった。あるのは、不器用な優しさと、諦めにも似た決意だけ。
彼は知っている。ここで二人を逃せば、母・稚媛の怒りが全て自分に向かうことを。
それでも道を開けた。
「……ありがとうございます」
渚は深く頭を下げ、走り出した。
去り際に一度だけ振り返ると、星川は裏門の前に立ちふさがり、追手の兵士たちに向かって何かを叫んでいるのが見えた。
まるで、自分の体で追手を食い止めるかのように。
それが、生身の彼を見た最後の姿となった。
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裏門を抜けた二人は、混乱を極める都の大路を走った。
遠くからは、地鳴りのような音が響いてくる。
白髪皇子の軍勢が、いよいよ王城に迫っているのだ。
「急ぎましょう! 大通りは危険です、路地裏へ!」
咲が先導する。
しかし、運命は過酷だった。
廃墟となった誰のものともわからない館の裏手に出た時、音もなく現れた黒い影たちが、二人の行く手を阻んだ。
黒い装束に、鬼の面。
新羅の暗殺部隊「夜叉」だ。
これまでの兵士とは桁が違う、凍えるような殺気。
「……見つけたぞ、鼠ども」
隊長らしき男が、歪んだ曲刀を舐めるように構えた。
「稚媛様の厳命だ。……生け捕りが無理なら、首だけでも構わん」
シュッ!
音もなく放たれた短剣が、咲の肩をかすめる。
「くっ……!」
咲が糸を展開するが、その額には冷や汗が流れていた。
前方に五人、後方にも三人。
完全な包囲網。しかも相手は手練れの暗殺者集団だ。
「渚様、お逃げください! ここは私が……!」
「ダメよ咲ちゃん! 置いてなんて行けない!」
渚は咲の前に出た。
右手の指輪が、高熱を発して脈打っている。
もう、守られるだけの姫ではない。
皇子様が来るまで、私が命を繋ぐんだ。
「……燃えろ」
渚は右手を掲げた。
指輪から、紅蓮の炎が噴き上がる。
「ほう、理力使いか。だが、そんな細腕で何ができる!」
暗殺者たちが嘲笑い、一斉に襲いかかる。
刃が迫る。
渚は炎を放つが、暗殺者たちは人間離れした動きでそれを回避し、肉薄してくる。
曲刀が振り下ろされる。
死の感触が、肌を撫でた。
――皇子様……ッ!!
渚が叫び、目を閉じた、その瞬間。
ズドォォォォォン――ッ!!
天から雷が落ちたような衝撃が、世界を揺るがした。
暗殺者たちが、見えない力に弾き飛ばされ、壁に激突する。
「がはっ……!?」
土煙が舞い上がる中、一騎の騎馬が、風のように駆け抜けてきた。
白銀の鎧。
黄金の髪。
朝焼けのような緋色の袴。
その男は、馬上で剣を払い、渚の前に立ちはだかった。
その背中は、以前よりもずっと大きく、逞しく、そして温かかった。
「……私の妃に、触れるな」
低く、地を這うような怒りの声。
しかし、それは何よりも頼もしい「王の声」だった。
男は振り返り、兜のバイザーを上げた。
そこには、太陽のような輝きを宿した瞳があった。
「待たせたな、渚」
白髪皇子だった。
泥にまみれ、絶望に沈んで都を去った男が、今、真の王者となって帰ってきたのだ。
「皇子様……!」
渚はその場にへたり込み、涙を流した。
怖かった。寂しかった。
でも、信じていた。
太陽が、帰ってきた。
長い夜が明け、反撃の狼煙が高らかに上がろうとしていた。




