第22話 黒曜の短剣と、敗北の予感
大和の空が、毒々しいほどの茜色に染まっていた。
それはまるで、これからこの地で流れる血の色を予兆しているかのように、不吉な輝きを放っていた。
星川皇子の屋敷にある広間では、重苦しい沈黙が漂っていた。
床には、高価な青磁の壺が無残な破片となって散らばっている。
その中央で、吉備稚媛が肩で息をしながら、目の前の伝令兵を睨みつけていた。
「……もう一度、言いなさい」
稚媛の声は、氷のように冷たく、そして震えていた。
平伏した兵士は、恐怖に顔を引きつらせながら、しぼり出すように報告を繰り返した。
「は、はい……! 難波津の海上封鎖線が、突破されました! 敵は白髪皇子の船団! その数、およそ五十隻! さらに後方には佐伯の水軍数百が続いています!」
「嘘よッ!!」
稚媛が絶叫し、近くにあった台を蹴り飛ばした。
ガシャン、と香炉が転がり、灰が舞い上がる。
「五十隻だと!? 佐伯の水軍もだと!? 馬鹿な、ありえない! あの小僧は安芸へ流されたのよ? 泥をすすって野垂れ死ぬはずだったのよ! それがなぜ、朝廷軍を凌ぐほどの大軍勢となって戻ってくるのよ!」
稚媛は髪を振り乱し、広間を行ったり来たりした。
彼女の計算は完璧だったはずだ。夫である大王を毒殺し、遺言を書き換え、邪魔な白髪を追放した。あとは星川を即位させるだけで、この国は彼女のものになるはずだった。
それが、土壇場で覆されようとしている。
「鉄です……!」
兵士が震える声で付け加えた。
「て、敵の船は、黒漆で塗り固められ、要所を鉄で補強された見たこともない軍船でした! こちらの矢は弾かれ、逆に秦氏の強弓で一方的に……!」
「ええい、黙れ黙れ黙れ!」
稚媛は扇子を兵士に投げつけた。
「星川! 何をしているの! 軍を出しなさい!」
矛先は、窓辺に佇んでいた星川皇子へと向けられた。
「大蔵の金ならいくらでもあるわ! 新羅の兵をすべて投入して、難波津で食い止めるのよ! 新羅本国にも援軍を要請しなさい!」
「……無駄ですよ、母上」
星川皇子が、静かに呟いた。
彼は広間の喧騒から切り離されたように、一人だけ静謐な空気を纏っていた。
「な、何ですって?」
「今の報告を聞いたでしょう。……あの兄上が、勝算もなく戻ってくるはずがない」
星川は窓の外、西の空を見つめていた。
燃えるような夕陽が、彼の美しい顔を赤く照らしている。
「秦氏の財力、佐伯の武力、そして民衆の支持。……兄上は、それら全てを味方につけて帰ってきた。金で雇った傭兵など、彼らにとっては枯れ木も同然です」
星川の声には、恐怖も怒りもなく、ただ透明な諦念だけがあった。
彼は悟っていたのだ。
これが「王の器」の差なのだと。
恐怖と金で人を支配しようとした母と自分。
愛と信頼で人を繋ぎ止めた兄。
勝負は、戦う前からついていたのだ。
「何を弱気なことを! お前は大王になるのよ! 私がそう決めたのよ!」
稚媛が星川に掴みかかり、その襟首を締め上げた。
至近距離で見る母の顔は、美貌が台無しになるほど欲望と恐怖で歪んでいた。
「しっかりしなさい! お前は私の最高傑作なの! 失敗作の白髪なんかに負けるはずがないのよ!」
星川は、悲しげな瞳で母を見つめた。
この人は、まだ分からないのか。
もう終わったのだということが。
「……少し、頭を冷やしてきます」
星川は柳のように母の手を受け流し、静かにその場を離れた。
背後で、稚媛が再び何かを喚き散らす声が聞こえたが、それはもう彼には届かなかった。
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廊下を歩く星川の足取りは重かった。
屋敷の中は、出撃準備に追われる兵士たちでごった返している。だが、彼らの目には士気はなく、あるのは不安と恐怖だけだった。
――負ける。
星川は確信していた。明日、白髪皇子が都に入れば、この軍勢は霧散するだろう。
そして、その時が自分の最期だ。
逆賊の首謀者として処刑されるか。それとも、錯乱した母に殺されるか。
どちらにせよ、まともな死に方はできないだろう。
――……兄上になりたかったな。
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
太陽のように輝き、誰からも愛される兄。
もし自分が、母の道具ではなく、ただの弟として兄を支えることができていたら。
そんな「もしも」の世界を想像し、星川は自嘲気味に笑った。
今更だ。
自分は手を汚しすぎた。栲幡皇女を見殺しにし、多くの人を傷つけた。
償いの時は近い。
だがその前に、一つだけ、やらなければならないことがあった。
星川が足を止めたのは、渚が軟禁されている離れの前だった。
警備の兵士たちが緊張した面持ちで立っている。
「……退がれ」
星川が命じると、兵士たちは顔を見合わせた。
「し、しかし殿下、この娘は重要な人質です。稚媛様から厳重に監視せよと……」
「退がれと言っているんだ。俺が話をする」
星川の低い声に圧され、兵士たちは渋々その場を離れた。
星川は一人で板戸の前に立ち、深く息を吸い込んだ。
いつもの「チャラ男」の仮面を被ろうとして、やめた。
最後くらい、素顔で会いたかった。
板戸を開けると、部屋の中では渚と咲が身構えていた。
機織りの手は止まり、張り詰めた空気が漂っている。
「……星川様」
渚が警戒して後ずさる。
その瞳には、敵意と恐怖が宿っている。当然だ。自分は彼女を閉じ込めた看守なのだから。
星川は入り口に立ったまま、寂しげな笑みを浮かべた。
「……もうすぐ、兄上が来る」
星川が静かに告げた。
「難波津は抜かれた。明日には、白髪の軍勢が都に入るだろう」
「皇子様が……!」
渚の顔が、ぱっと輝いた。
まるで暗闇に光が差したように、その表情が希望に彩られる。
その変化を見て、星川の胸がチクリと痛んだ。
ああ、やはり敵わない。
どれだけ着飾っても、どれだけ権力をかざしても、自分は彼女をこんな顔にさせることはできなかった。
彼女の笑顔を引き出せるのは、世界でただ一人、兄上だけなのだ。
「渚ちゃん。……俺は、馬鹿な男だよな」
星川は独り言のように呟きながら、ゆっくりと近づいた。
咲が殺気を放って前に出ようとするが、渚がそれを手で制する。
「星川様……?」
「俺はずっと、兄上になりたかったんだ。強くて、優しくて、誰からも愛される太陽に」
星川は足を止め、渚を見下ろした。
「でも、なれなかった。俺は所詮、母上の影法師だ。……俺という星は、太陽がいなければ輝けない、偽物の星だ」
彼は懐から、布に包まれた何かを取り出した。
布を解くと、そこには一振りの短剣が現れた。
鞘も柄も、すべてが漆黒の石――黒曜石で作られた、美しい短剣だった。
刃は鋭く研ぎ澄まされ、吸い込まれるような闇色をしている。
「これを、君にやる」
星川は短剣を渚の方へ滑らせた。
「これは?」
「黒曜石は、古来より魔を払う力があると言われている。……魔除けだ」
渚は短剣を拾い上げた。
ひんやりとしていて、でもどこか温かみのある石。
「なぜ、私に……? 貴方は敵でしょう?」
「この先、何が起こるか分からないからな。……母上は追い詰められた。人質を殺すことも厭わないだろう」
星川はそこで言葉を切り、自分の右手を見つめた。
最近、母が新羅から持ち込んだ古代の魔剣「七支刀」に触れてから、体の中にどす黒い何かが巣食っているような感覚があった。
夜な夜な、理力が暴走しそうになるのを必死で抑え込んでいる。
自分が自分でなくなっていくような、不気味な予感。
「もし、俺が俺でなくなったら……あるいは、誰かが君を傷つけようとしたら。ためらわずにそれを使え」
星川の瞳が、真剣な光を宿して渚を射抜いた。
「自分を守れ。……それだけが、俺の最後の望みだ」
「星川様……」
渚は言葉を失った。
目の前にいる青年は、敵の大将だ。姉を死に追いやった憎い相手だ。
なのに、今の彼は、誰よりも傷つきやすく、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のように見えた。
その瞳の奥にあるのは、渚への不器用な愛と、そして深い絶望だった。
「……ありがとう、ございます」
渚は短剣を胸に抱き、深く頭を下げた。
許すことはできないかもしれない。けれど、彼のその想いだけは、受け取らなければいけない気がした。
星川は少しだけ目を見開き、そして照れくさそうに鼻をこすった。
まるで、少年のような顔で。
「礼には及ばんよ。……じゃあな」
彼は背を向けた。
その背中は、永遠の別れを告げているように見えた。
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星川が去った後、部屋には重苦しい静寂が戻った。
咲が小さく息を吐き出した。
「……不思議な方ですね。敵なのか、味方なのか」
「うん」
渚は黒曜の短剣を見つめた。
漆黒の刃の中に、自分の顔が映っている。
「この短剣……泣いているみたい」
渚には分かった。
これは、彼からの精一杯の謝罪であり、愛の証であり、そして遺言なのだと。
彼はもう、生きることを諦めているのかもしれない。
「渚様、感傷に浸っている時間はありません」
咲が表情を引き締めた。
「星川皇子があの様子ということは、稚媛様は必ず強硬手段に出ます。貴女を人質にするために、兵を差し向けるはずです」
「ええ」
渚は短剣を帯に差し、指輪を強く握りしめた。
悲しんでいる暇はない。
もう、ただ守られるだけの姫ではないのだ。
彼がくれたこの短剣と、皇子様がくれた指輪。二つの護り刀を持って、運命に立ち向かう。
「行きましょう、咲ちゃん。……皇子様が待っています」
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その夜、星川邸は不気味な静寂に包まれていた。
だが、それは嵐の前の静けさだった。
遠くからは、進軍してくる白髪皇子の軍勢の地響きが、微かに、しかし確実に近づいてきていた。
そして屋敷の奥では、追い詰められた稚媛が、狂気の命令を下そうとしていた。
「あの娘を連れてきなさい! 大蔵の前に縛り付けるのよ!」
運命の朝が来る。
それは、渚にとっても、星川にとっても、最後の選択の時となるはずだった。




