第20話 崩れゆく巨星、偽りの遺言
大和の空が、不気味な赤紫色に染まった夕暮れだった。
宮中の奥深く、大王の寝所は、重苦しい死臭と沈黙に支配されていた。
第21代・雄略天皇。
かつてその武勇で天下を震え上がらせた「有徳の高貴な王」は今、病に蝕まれ、枯れ木のように痩せ細っていた。
「……し、らか……」
大王が、うわ言のように息子の名を呼ぶ。
その枕元に座っていたのは、白髪皇子ではなく、吉備稚媛だった。
「あの子はいませんよ、陛下」
稚媛は冷ややかに告げた。
「あの子は貴方を捨てて、安芸へ逃げたのです。……親不孝な息子ですね」
「ちが……う……、あれは、おまえが……」
大王が枯れた手を伸ばし、何かを訴えようとする。
だが、稚媛はその手を扇子でピシャリと叩き落とした。
「お静かに。……もう、休まれてもよいのですよ」
稚媛の合図で、部屋の隅に控えていた新羅の医師が、怪しげな薬湯を大王の口に流し込んだ。
大王の体がビクリと跳ねる。
喉の奥でゴボリと音がして、やがてその瞳から光が消えた。
天下を統べた巨星がひっそりと墜ちた瞬間だった。あっけないものであった。
「……崩御なさいました」
医師が告げると、稚媛はニヤリと笑った。
涙など一滴も流さない。彼女の目には、野望の炎だけが燃え盛っていた。
「さあ、始めましょうか。新しい国の幕開けよ」
彼女は懐から、予め用意させていた筆と巻物を取り出した。
大王の遺言書だ。
そこには『次期大王は白髪皇子とする』と記されていた。
「書き直しが必要ね」
稚媛はためらいなく、その部分を削り取り、書き換えた。
『次期大王は――星川皇子とする』
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その夜。星川皇子の屋敷。
離れに軟禁されている渚は、異様な胸騒ぎを感じていた。
都のあちこちで、松明の光が激しく動いている。鐘の音が乱打され、遠くから怒号が聞こえてくる。
「……咲ちゃん、何が起きているの?」
渚が尋ねると、偵察から戻った咲が青ざめた顔で報告した。
「大王陛下が……崩御されました」
「えっ……」
「それだけではありません。稚媛様が『星川皇子への譲位』を記した遺言を公表し、反対派の粛清を始めました。……クーデターです」
渚は窓の外を見た。
星川皇子の部屋の灯りが消えている。彼もまた、動き出したのだ。
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同時刻。大蔵。
国の財宝と権威の象徴である巨大な倉庫群の前に、数百の兵が集結していた。
その先頭に立つのは、鎧をまとった星川皇子だ。
彼の顔色は、死人のように青白かった。
「……殿下、ご命令を」
側近の新羅兵が促す。
星川は、震える手で剣の柄を握りしめた。
これを抜けば、もう後戻りはできない。
歴史に名を残す逆賊となるか、母の野望の礎となるか。
――兄上……ごめん。
星川は心の中で謝罪した。
そして、全ての感情を押し殺し、剣を抜き放った。
「……大蔵を開けろ!! 逆らう者は斬れ!」
号令と共に、兵たちが大蔵の守備隊に襲いかかる。
守備隊長が叫ぶ。
「星川様! 乱心召されたか! 正規の手続きもなく、大蔵を犯すなど……!」
「黙れ! 俺が法だ! 俺が新しい大王だ!」
星川は叫び、自ら守備隊長を斬り伏せた。
返り血が顔にかかる。
その熱さが、彼の理性を焼き切った。
「は、はは……やったぞ、母上。これで満足か……?」
星川は血まみれの顔で、虚ろに笑った。
大蔵は制圧された。
王権の象徴である「三種の神器」に準ずる宝物と、莫大な財産が星川の手中に落ちたのだ。
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翌朝。大極殿。
緊急招集された群臣たちの前で、即位の宣言が行われようとしていた。
玉座の前には、星川皇子が立っている。
その横には、喪服とは思えぬ派手な衣装をまとった稚媛が、勝ち誇った顔で控えていた。
広間には、新羅の武装兵が目を光らせ、異論を唱える者を威圧している。
「皆の者、聞くがよい!」
稚媛が高らかに声を張り上げた。
「亡き大王の遺言により、星川皇子が次期大王に即位あそばされる! 不満のある者は、前に出なさい!」
シンと静まり返る広間。
誰もが知っていた。白髪皇子こそが正当な後継者であることを。
だが、逆らえば殺される。恐怖が貴族たちの口を封じていた。
「……異議なし、と見てよいな。では、即位の儀を――」
稚媛が宣言しようとした、その時だ。
「――異議ありぃぃぃッ!!」
雷のような大音声が、広間を揺るがした。
ドォォォン!!
大極殿に、一人の女傑が堂々と現れた。
身の丈ほどもある大槍を肩に担ぎ、緋色の鎧をまとったその姿。
飯豊皇女である。
彼女の後ろには、葛城氏の私兵団がずらりと並んでいた。
「なっ……飯豊!?」
稚媛が顔を引きつらせる。
「貴様、何の真似だ! 神聖な儀式の場に土足で……!」
「神聖? 笑わせるんじゃないわよ、この女狐!」
飯豊皇女は槍の石突きで床をドンと鳴らした。
「その遺言書、新しい墨の匂いがプンプンするわねぇ。書き換えたばかりかしら?」
「ぶ、無礼な! これは正真正銘、大王の……」
「嘘をおっしゃい!」
飯豊皇女が一喝した。
「私は昨日、危篤の陛下にお会いしたわ。陛下は最期まで『白髪を頼む』とおっしゃっていた。……貴女が看取る直前までね!」
ざわめきが広がる。
飯豊皇女は、葛城氏の生き残りであり、その発言力は絶大だ。
「葛城氏は、この即位を断固として認めない! 正当な後継者は白髪皇子のみ! 星川、そこをどきなさい! そこはアンタの座る場所じゃない!」
飯豊の視線が、星川を射抜く。
星川はビクリと震え、視線を逸らした。
「……飯豊。相変わらず騒々しい女ね」
稚媛が冷酷な目で睨み返す。
「大蔵は我々が押さえたわ。軍資金も武器も、こちらにある。……弱小勢力の葛城ごときが、我々に勝てると思って?」
「勝つわよ。正義はこっちにあるからね」
飯豊皇女は不敵に笑い、槍を構えた。
「全面戦争よ、稚媛。……アンタの首、私がへし折ってやるわ!」
一触即発。
新羅兵と葛城兵が武器を構え、殺気がぶつかり合う。
「やっておしまい!」
稚媛が叫ぶと同時に、乱戦が始まった。
大極殿は怒号と悲鳴に包まれる。
「星川様! こちらへ!」
護衛に守られ、星川は大蔵へと退避させられる。
去り際に一度だけ、彼は飯豊皇女を見た。
その瞳は、助けを求める子供のように揺れていたが、すぐに仮面を被り直し、闇の中へと消えていった。
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渚のいる離れにも、戦いの音が届いていた。
「始まったのね……」
渚は窓を開け、燃え上がる宮殿の方角を見た。
星川の乱。
歴史書には数行で記されるこの出来事が、ついに現実のものとなった。
咲が駆け込んでくる。
「渚様! 飯豊様が挙兵しました! 朝廷は真っ二つです!」
「皇子様は……白髪皇子様は?」
「まだです! ですが、必ずこの騒ぎを聞きつけて戻られます!」
渚は指輪を握りしめた。
胸の奥で、指輪が熱く脈打っている。
遠く安芸にいる白髪皇子の鼓動と、共鳴するように。
「待ちましょう。……嵐が来るわ」
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大和の都は、稚媛・星川率いる「大蔵派」と、飯豊皇女率いる「葛城派」に分断された。
数で勝る大蔵派に対し、飯豊は地の利と個の武勇で対抗し、大蔵を包囲する形で膠着状態に持ち込んだ。
だが、決定打がない。
この均衡を破ることができるのは、ただ一人。
正統なる王の血を引き、太陽の理力を持つ男の帰還だけだった。
その頃、安芸の行宮。
白髪皇子は、都の方角を見つめていた。
傍らには、秦氏が鍛え上げた白銀の鎧が置かれている。
「……風が変わったな」
皇子が呟くと、三盾が深く頷いた。
「はい。……時が来ました」
皇子は立ち上がり、剣を佩いた。
その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
「行くぞ。……大和へ」
堕ちた太陽が、再び昇る時が来たのだ。




