第19話 星の檻と、仮面の素顔
星川皇子の屋敷での軟禁生活は、一ヶ月を過ぎようとしていた。
大和の都は梅雨の季節を迎え、連日の雨が屋根を打ち続けている。
庭の紫陽花は雨に濡れて鮮やかに色づいているが、渚の心は灰色の空と同じように晴れることがなかった。
与えられた離れの部屋は、豪奢な調度品で飾られている。しかし、どんなに美しい器や織物があっても、そこは出口のない「金色の鳥籠」だった。
部屋の中には、機織りの音が響いている。
トン、カラリ。トン、カラリ。
部屋の隅で機を織っているのは、下女の咲だ。
一見すると口数の少ない地味な下女だが、彼女の正体は秦氏の技術者であり、渚にとって敵地における唯一の味方である。
「……咲ちゃん、その模様は?」
渚が周囲を警戒しながら小声で尋ねると、咲は手を止めずに答えた。
「『忍耐』と『好機』を表す文様です。……この屋敷から出荷される織物に、こうして暗号を紛れ込ませるのです」
秦氏の作る織物は、その品質の高さから都の貴族たちの間で高値で取引される。敵である星川派も、秦氏の交易ルートまでは完全には遮断できていない。
咲は、縦糸と横糸を巧みに操りながら、静かに続けた。
「この文様は、安芸の白髪皇子様へと届きます。渚様のご無事を伝える、手紙代わりです」
「皇子様……」
渚は胸元の指輪を握りしめた。
遠く離れた安芸の地で、彼もまた戦っている。全てを失い、泥にまみれながらも、再起の時を待っている。
その事実だけが、今の渚を支える命綱だった。
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その夜。
雨脚はいっそう激しくなり、雷鳴が遠くで轟いていた。
渚が寝所で休んでいると、入口の板戸を乱暴に叩く音がした。
ドンドンドン!
「……誰?」
返事はない。ただ、荒い息遣いが板戸越しに聞こえる。
渚が身構えると、鍵のない板戸が乱暴に開け放たれた。
湿った風と共に、強烈な酒の臭いが部屋に充満する。
「よう。……起きているか、渚」
そこに立っていたのは、星川皇子だった。
だが、その姿はいつもの彼とは違っていた。
常に完璧に着こなしていた絹の着物は着崩れ、胸元が大きくはだけている。綺麗に整えられていた髪も乱れ、何よりその足取りがおぼつかない。
「星川様……? どうされたのですか、こんな夜更けに」
「ああ、飲まずにいられるかよ。……母上の金切り声が、頭に響いて眠れねぇんだ」
星川はドカドカと部屋に入り込むと、渚の制止も聞かずに長椅子(床台)に腰を下ろした。
手には空になりかけた酒瓶が握られている。
「出て行ってください。ここは私の部屋です」
「冷たいこと言うなよ。俺の屋敷だぞ? どこに入ろうが俺の勝手だろ」
星川はヘラヘラと笑ったが、その瞳は暗く澱んでいた。焦点が合っていない。
彼は瓶に残った酒を煽ると、天井を仰いだ。
「なぁ、渚。……兄上は、元気にしてるかな」
不意に出た白髪皇子の名前に、渚は息を呑んだ。
「……なぜ、それを私に聞くのですか。貴方が追い出したのでしょう」
「そうだな。俺が追い出した。……母上の命令でな」
星川は自嘲気味に笑い、自分の膝を叩いた。
「あいつはいいよな。太陽みたいにキラキラしててさ。みんな、あいつが好きだ。父上も、死んだ栲幡も、お前も」
「……」
「俺はなんだ? 星川なんて名前だけどよ、名前に反して自分じゃ光れねぇんだ。太陽の光を反射してるだけの、偽物の光だ。月川に改名すべきだな」
星川の声に、痛々しい響きが混じる。
渚は気づいた。彼の「チャラ男」としての仮面が、酒の力で剥がれ落ちかけていることに。
「……昔の話をしてやろう」
星川は、誰に聞かせるでもなく語り始めた。
「俺が五つの時だ。剣の稽古で、兄上に負けたことがあった。……稽古といっても遊びみたいなもんだ。兄上も手加減してくれていた。でも、母上は見ていたんだ」
星川の手が震え、酒瓶がカチカチと音を立てる。
「その夜、俺は母上に蔵へ閉じ込められた。『負け犬に与える飯はない』『白髪に勝つまで出てくるな』ってな。真っ暗で、寒くて……泣いて謝っても、扉は開かなかった」
渚は言葉を失った。
あの妖艶な美女、稚媛の裏の顔。
教育という名の、冷酷な虐待。
「母上はいつも言うんだ。『お前は私の最高傑作だ』『王になれなければ、お前に生きている価値はない』って」
星川は自分の腕を抱いた。まるで、幼い頃に受けた見えない鞭の痛みを堪えるように。
「だから俺は、道化を演じた。女好きの馬鹿な皇子のフリをしていれば、母上の期待から逃げられると思った。政治に興味がないフリをしていれば、兄上と争わずに済むと思った」
星川が顔を上げた。
その瞳には、涙が溜まっていた。
「でも、ダメだったよ。母上は俺を逃がしてくれない。……俺は怖いんだ。王になることが。……兄上を殺すことが」
それは、初めて見る星川皇子の素顔だった。
狡猾な策士でも、冷酷な敵でもない。
ただ愛されたくて、でも愛され方を間違えた親に呪縛された、迷子の子供。
渚は、彼の中に自分を見た。
病気で捨てられ、誰にも必要とされなかった頃の自分を。
もし、白髪皇子に出会っていなければ、自分もこうして闇の中で震えていたかもしれない。
「……貴方も、独りなんですね」
渚はそっと近づき、星川の震える背中に手を伸ばした。
敵だと分かっていても、その孤独を放ってはおけなかった。
だが。
「触るなッ!」
星川が激しく拒絶し、渚の手を振り払った。
ガシャン!
酒瓶が床に落ちて割れ、破片が散らばる。
「同情するな! 俺を哀れむな!」
星川は立ち上がり、肩で息をした。その顔は怒りに歪んでいたが、目は泣いているようだった。
「俺は次期大王だ! 兄上なんかに負けない! ……母上が望むなら、俺は鬼にだってなってやる!」
彼は叫びながら、逃げるように部屋を飛び出していった。
残されたのは、こぼれた酒の匂いと、どうしようもない悲しみだけ。
渚は、彼が去った暗い入り口を見つめ続けた。
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翌朝。
雨は上がっていたが、空はまだ重い雲に覆われていた。
渚が庭に出ると、咲が割れた瓶の欠片を片付けていた。
「……昨夜は、大変でしたね」
咲が小声で言った。彼女は全て聞いていたのだろう。
「咲ちゃん。……私、星川様のこと、ただの悪い人だと思ってた」
渚は雨露に濡れた紫陽花を見つめた。
「でも違った。あの人も、被害者なのかもしれない。稚媛という毒に侵された……」
だが、だからといって彼がしたこと、栲幡皇女を見殺しにした罪が消えるわけではない。
その矛盾に、渚の心は揺れていた。
「渚様」
咲が周囲を警戒しながら、懐から一枚の書状を取り出した。
「秦氏の行商人が、今朝届けてくれました。……安芸からの、返信です」
渚は震える手でそれを受け取った。
封を開く。紙は少し汚れていて、遠い旅路を感じさせた。
そこには、見慣れた、少し癖のある筆跡があった。
『渚へ。
無事だと聞いて、安堵した。
私は今、安芸の民と共に、新しい田畑を耕している。
土に触れ、民と語らう中で、ようやく分かったことがある。
王とは、権力を振るう者ではない。民の命を預かり、育む者だとな。
私はもう、迷わない。
必ず行く。
君を、そして星川を救いに。
あいつは、私の弟だ。母の呪縛から解き放ち、人として生きさせてやりたい。
待っていてくれ。
白髪』
「星川を、救いに……」
渚はその一文に、涙が溢れた。
白髪皇子は知っているのだ。弟が本当はどんな人間で、どれほど苦しんでいるかを。
自分を陥れ、追放した相手さえも、憎むのではなく救おうとしている。
それが、白髪皇子という「王の器」なのだ。
「皇子様……」
渚は手紙を胸に抱きしめた。
雲の切れ間から、薄日が差してくる。
希望はある。
白髪皇子が帰ってくる。太陽が戻ってくるのだ。
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その頃、屋敷の奥の間では。
星川皇子が、二日酔いの頭を押さえながら、稚媛の前に座らされていた。
稚媛は上機嫌に、異国から届いた新しい装飾品を眺めている。
「星川。……いい知らせよ。大王の容態が急変しました」
稚媛が冷酷な笑みを浮かべて告げる。
「今夜か、明日か。……いずれにせよ、長くはないわ」
星川の背筋が凍った。
「準備はいいわね? あの方が死ねば、すぐに遺言を書き換え、即位を宣言するのよ。邪魔な葛城の連中も、一気に始末しなさい」
「……はい、母上」
星川は無表情に答えた。
その心は、昨夜の激情とは裏腹に、氷のように冷めきっていた。
彼はもう、抵抗することを諦めた人形のようだった。
だが、その懐には、昨夜渚の部屋に忘れたふりをして持ち帰った「何か」が隠されていた。
それは、彼が唯一、自分の意志で選んだ「最期の切り札」となるものだった。
歯車は回り始めた。
大王の死。偽りの遺言。そして兄弟の激突。
悲劇の幕が上がるまで、あと数日。
金色の鳥籠の中で、渚は祈り続けた。
どうか、この優しい結末のない物語に、一筋の光が差しますように、と。




