第18話 金色の鳥籠と、影を織る少女
大和の都にある、星川皇子の私邸。
その離れにある一室は、目が眩むほどに豪華だった。
板敷きの床には最高級の絹の敷物が敷かれ、棚には異国から取り寄せた美しい陶磁器が並んでいる。庭には四季折々の花が咲き乱れ、小鳥たちがさえずる楽園のような場所だ。
だが、そこに住まう渚にとっては、ここは地獄よりも冷たい牢獄だった。
「……また、残していらっしゃいますね」
部屋に入ってきた女官が、手つかずの膳を見て眉をひそめた。
渚は窓辺に座り、庭をぼんやりと眺めたまま答えない。
白髪皇子が安芸へ追放されてから、十日が過ぎていた。
栲幡皇女は処刑され、白髪皇子は全てを失って都を去った。
残されたのは、罪人の汚名を着せられた死者と、生きる屍となった渚だけ。
――皇子様……
最後に見た、あの冷たい拒絶の目。
『来るな』
その言葉が、今も胸に突き刺さったままだ。
白髪皇子は自分を守るために突き放したのだと、渚は頭では分かっている。けれど、心が追いつかない。
独りぼっち。
その事実が、鉛のように重くのしかかり、呼吸さえも苦しくさせる。
その時、部屋の空気が一変した。
廊下から、甘く、そして毒々しい香の匂いが漂ってきたのだ。
「あらあら。まだ死んでいないのね、しぶとい子」
板戸が荒々しく開かれ、豪奢な着物をまとった吉備稚媛が現れた。
四十近い年齢のはずだが、その美貌は妖艶さを増すばかりだ。だが、その瞳には爬虫類のような冷酷さが宿っている。
「……稚媛様」
渚が睨みつけると、稚媛は扇子で口元を隠して笑った。
「そんな怖い顔をしないでちょうだい。命を助けてあげた恩人に、感謝の言葉はないのかしら?」
「……感謝? 姉上を殺し、皇子様を追放した貴女に?」
「あら、人聞きが悪い。栲幡は自業自得よ。白髪も、無能だから負けたの。……この世はね、勝った者が正義なのよ」
稚媛はツカツカと渚に歩み寄ると、強引に渚の右手首を掴み上げた。
「それにしても……いつ見ても不愉快な指輪ね」
彼女の視線は、渚の中指に嵌められた銀の指輪に注がれていた。
白髪皇子から託された、理力の増幅器。
「これを寄越しなさい。反逆者の娘には過ぎた代物よ」
稚媛が指輪を抜き取ろうと手を伸ばす。
その指先が指輪に触れた、瞬間。
ジュッ!!
「きゃあっ!?」
肉が焼けるような音と共に、稚媛が悲鳴を上げて手を引っ込めた。
指先が赤くただれている。
「な、何よこれ……! 熱い……!」
「指輪が、貴女を拒絶したんですよ」
渚は冷ややかに言った。
「この指輪は、清らかな心を持つ者にしか扱えません。……貴女のような汚れた心の持ち主には、触れることさえできないのです」
「……この、小娘がぁっ!!」
稚媛の美貌が鬼女のように歪んだ。
パシッ!
乾いた音が響き、渚の頬が弾かれた。
床に倒れ込む渚。口の中が切れ、血の味が広がる。
「生意気な口をきくんじゃないわよ! お前なんか、生かしておくだけ無駄なのよ! 今ここで八つ裂きにして……」
稚媛がさらに手を振り上げた時だ。
「――そこまでにしてください、母上」
気だるげな声と共に、一人の青年が割って入った。
星川皇子だ。
彼は渚と稚媛の間に立ち、母の腕を優しく、しかし力強く制した。
「商品に傷がついたら、価値が下がりますよ」
「星川……! どきなさい! この小娘が私を愚弄したのよ!」
「はいはい、分かりましたから。……これ以上騒ぐと、また偏頭痛が起きますよ?」
星川はなだめるように微笑んだが、その目は笑っていなかった。
稚媛は忌々しげに舌打ちをし、乱れた着物を整えた。
「フン。……いいこと、星川。その娘をしっかり躾ておきなさい。甘やかす必要はないわ。反逆者の娘として、徹底的に惨めな思いをさせてやるのよ」
稚媛は最後に渚を睨みつけ、部屋を出て行った。
嵐が去った部屋に、静寂が戻る。
星川は、ふう、と深く息を吐き出すと、懐から軟膏の入った小瓶を取り出し、渚に放り投げた。
「……塗っとけ。跡に残ると厄介だ」
「……要りません」
渚が顔を背けると、星川は呆れたように肩をすくめた。
「意地を張るなよ。母上の癇癪はいつものことだ。いちいち真に受けてたら、身が持たないぞ」
星川の口調は軽い。いつもの「チャラ男」だ。
だが、渚は見た。
先ほど、母を止めた時の一瞬の表情。そこには、母への恐怖と、深い嫌悪感が滲んでいたのを。
「貴方も……大変ですね」
渚がポツリと言うと、星川の動きが止まった。
「……何がだ?」
「自分の親があんな人で」
瞬間、星川の瞳から感情が消えた。
彼は無言で渚を見下ろし、そして冷笑を浮かべた。
「勘違いするなよ。俺は母上に感謝している。おかげで俺は、次の大王になれるんだからな」
彼は踵を返した。
戸口で一度だけ立ち止まる。
「飯は食えよ。……死なれたら、俺の玩具がなくなって退屈だからな」
悪ぶった言葉を残し、彼もまた去っていった。
再び一人になった渚は、膝を抱えた。
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誰も彼も、敵ばかり。
味方はもう、この都にはいないのだ。
――皇子様……会いたい……
何度目かもわからない食事を終えて、涙がこぼれ落ちそうになった時、控えめに声がかけられた。
「……失礼いたします。お食事を下げに参りました」
入ってきたのは、新しい下女のようだった。
地味な着物に、目立たない顔立ち。歳は渚と同じくらいだろうか。
彼女は手際よく膳を片付けようとして――
ガチャン!
派手に食器をひっくり返した。
「ああっ! 申し訳ありません! ああ、どうしよう!」
汁物が敷物の上に広がる。
下女は慌てふためき、手拭いで床を拭き始めた。
「だ、大丈夫? 手伝うわ」
渚も慌てて手を貸そうとする。
「いけません! お嬢様にそのような……!」
下女は渚の手を押し留めようとして、その手のひらに「何か」を握らせた。
え?
渚が顔を上げると、下女の表情が一変していた。
先ほどまでのドジで気弱そうな顔は消え、そこには理知的な、鋭い瞳があった。
「……そのままで。声を出さないでください」
下女は、蚊の鳴くような、しかし明瞭な声で囁いた。
「私は咲。秦氏の者です」
「秦氏……?」
白髪皇子の支援者である、あの秦氏か。
「屋敷の監視を潜り抜け、潜入しました。……これを」
咲が目配せをした先、渚の手のひらには、小さな布切れがあった。
美しい幾何学模様が織り込まれた、絹の切れ端だ。
「これは?」
「秦氏特有の『織り暗号』です。この模様には、メッセージが込められています」
咲は手早く床を拭きながら、早口で続けた。
「安芸からの情報です。……『白髪皇子様は生きておられます』」
ドクン。
渚の心臓が跳ねた。
「皇子様が……?」
「はい。安芸にて、再起の時を待っておられます。貴女を必ず迎えに行くと」
涙が、溢れ出した。
止まらなかった。
生きていてくれた。私を見捨てていなかった。
その事実だけで、凍りついていた渚の心に、温かい血が巡り始めた。
「泣いている時間はありませんよ、渚様」
咲はニッと笑い、また元のドジな下女の顔に戻った。
「ああ、もう! 私ったらまた失敗を! ……また新しいお茶をお持ちしますね」
大声で演じながら、咲はウインクをした。
「これからも、この『織物』を使って連絡を取り合います。……諦めないでください。貴女は一人じゃありません」
咲は膳を持って部屋を出て行った。
渚は、手のひらの布切れを胸に抱きしめた。
そこには、秦氏の技術と、遠く離れた人の想いが織り込まれている。
窓の外を見る。
灰色の空が、少しだけ明るく見えた。
ここは鳥籠かもしれない。
けれど、翼までは奪われていない。
「……待ちます」
渚は小さく、けれど力強く呟いた。
「貴方様がこの空を切り裂いて、迎えに来てくれるその日まで」
渚は膳に残っていた冷めた握り飯を手に取り、口に運んだ。
味はしなかったが、それは生きるための味がした。
反撃の狼煙は、この金色の鳥籠の中から、静かに上がり始めていた。




