表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/29

第18話 金色の鳥籠と、影を織る少女

 大和やまとの都にある、星川皇子ほしかわのみこの私邸。


 その離れにある一室は、目が眩むほどに豪華だった。


 板敷きの床には最高級の絹の敷物が敷かれ、棚には異国から取り寄せた美しい陶磁器が並んでいる。庭には四季折々の花が咲き乱れ、小鳥たちがさえずる楽園のような場所だ。


 だが、そこに住まうなぎさにとっては、ここは地獄よりも冷たい牢獄だった。


「……また、残していらっしゃいますね」


 部屋に入ってきた女官が、手つかずの膳を見て眉をひそめた。


 渚は窓辺に座り、庭をぼんやりと眺めたまま答えない。


 白髪皇子しらかのみこ安芸あきへ追放されてから、十日が過ぎていた。


 栲幡皇女たくはたのひめみこは処刑され、白髪皇子は全てを失って都を去った。


 残されたのは、罪人の汚名を着せられた死者と、生きる屍となった渚だけ。


 ――皇子様……


 最後に見た、あの冷たい拒絶の目。


『来るな』


 その言葉が、今も胸に突き刺さったままだ。


 白髪皇子は自分を守るために突き放したのだと、渚は頭では分かっている。けれど、心が追いつかない。


 独りぼっち。


 その事実が、鉛のように重くのしかかり、呼吸さえも苦しくさせる。


 その時、部屋の空気が一変した。


 廊下から、甘く、そして毒々しい香の匂いが漂ってきたのだ。


「あらあら。まだ死んでいないのね、しぶとい子」


 板戸いたどが荒々しく開かれ、豪奢な着物をまとった吉備稚媛きびのわかひめが現れた。


 四十近い年齢のはずだが、その美貌は妖艶さを増すばかりだ。だが、その瞳には爬虫類のような冷酷さが宿っている。


「……稚媛様」


 渚が睨みつけると、稚媛は扇子で口元を隠して笑った。


「そんな怖い顔をしないでちょうだい。命を助けてあげた恩人に、感謝の言葉はないのかしら?」


「……感謝? 姉上を殺し、皇子様を追放した貴女に?」


「あら、人聞きが悪い。栲幡は自業自得よ。白髪も、無能だから負けたの。……この世はね、勝った者が正義なのよ」


 稚媛はツカツカと渚に歩み寄ると、強引に渚の右手首を掴み上げた。


「それにしても……いつ見ても不愉快な指輪ね」


 彼女の視線は、渚の中指に嵌められた銀の指輪に注がれていた。


 白髪皇子から託された、理力ことわりのちからの増幅器。


「これを寄越しなさい。反逆者の娘には過ぎた代物よ」


 稚媛が指輪を抜き取ろうと手を伸ばす。


 その指先が指輪に触れた、瞬間。


 ジュッ!!


「きゃあっ!?」


 肉が焼けるような音と共に、稚媛が悲鳴を上げて手を引っ込めた。


 指先が赤くただれている。


「な、何よこれ……! 熱い……!」


「指輪が、貴女を拒絶したんですよ」


 渚は冷ややかに言った。


「この指輪は、清らかな心を持つ者にしか扱えません。……貴女のような汚れた心の持ち主には、触れることさえできないのです」


「……この、小娘がぁっ!!」


 稚媛の美貌が鬼女のように歪んだ。


 パシッ!


 乾いた音が響き、渚の頬が弾かれた。


 床に倒れ込む渚。口の中が切れ、血の味が広がる。


「生意気な口をきくんじゃないわよ! お前なんか、生かしておくだけ無駄なのよ! 今ここで八つ裂きにして……」


 稚媛がさらに手を振り上げた時だ。


「――そこまでにしてください、母上」


 気だるげな声と共に、一人の青年が割って入った。


 星川皇子だ。


 彼は渚と稚媛の間に立ち、母の腕を優しく、しかし力強く制した。


「商品に傷がついたら、価値が下がりますよ」


「星川……! どきなさい! この小娘が私を愚弄したのよ!」


「はいはい、分かりましたから。……これ以上騒ぐと、また偏頭痛が起きますよ?」


 星川はなだめるように微笑んだが、その目は笑っていなかった。


 稚媛は忌々しげに舌打ちをし、乱れた着物を整えた。


「フン。……いいこと、星川。その娘をしっかりしつけておきなさい。甘やかす必要はないわ。反逆者の娘として、徹底的に惨めな思いをさせてやるのよ」


 稚媛は最後に渚を睨みつけ、部屋を出て行った。


 嵐が去った部屋に、静寂が戻る。


 星川は、ふう、と深く息を吐き出すと、懐から軟膏の入った小瓶を取り出し、渚に放り投げた。


「……塗っとけ。跡に残ると厄介だ」


「……要りません」


 渚が顔を背けると、星川は呆れたように肩をすくめた。


「意地を張るなよ。母上の癇癪はいつものことだ。いちいち真に受けてたら、身が持たないぞ」


 星川の口調は軽い。いつもの「チャラ男」だ。


 だが、渚は見た。


 先ほど、母を止めた時の一瞬の表情。そこには、母への恐怖と、深い嫌悪感が滲んでいたのを。


「貴方も……大変ですね」


 渚がポツリと言うと、星川の動きが止まった。


「……何がだ?」


「自分の親があんな人で」


 瞬間、星川の瞳から感情が消えた。


 彼は無言で渚を見下ろし、そして冷笑を浮かべた。


「勘違いするなよ。俺は母上に感謝している。おかげで俺は、次の大王になれるんだからな」


 彼は踵を返した。


 戸口で一度だけ立ち止まる。


「飯は食えよ。……死なれたら、俺の玩具がなくなって退屈だからな」


 悪ぶった言葉を残し、彼もまた去っていった。


 再び一人になった渚は、膝を抱えた。


 ✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼


 誰も彼も、敵ばかり。


 味方はもう、この都にはいないのだ。


 ――皇子様……会いたい……


 何度目かもわからない食事を終えて、涙がこぼれ落ちそうになった時、控えめに声がかけられた。


「……失礼いたします。お食事を下げに参りました」


 入ってきたのは、新しい下女のようだった。


 地味な着物に、目立たない顔立ち。歳は渚と同じくらいだろうか。


 彼女は手際よく膳を片付けようとして――


 ガチャン!


 派手に食器をひっくり返した。


「ああっ! 申し訳ありません! ああ、どうしよう!」


 汁物が敷物の上に広がる。


 下女は慌てふためき、手拭いで床を拭き始めた。


「だ、大丈夫? 手伝うわ」


 渚も慌てて手を貸そうとする。


「いけません! お嬢様にそのような……!」


 下女は渚の手を押し留めようとして、その手のひらに「何か」を握らせた。


 え?


 渚が顔を上げると、下女の表情が一変していた。


 先ほどまでのドジで気弱そうな顔は消え、そこには理知的な、鋭い瞳があった。


「……そのままで。声を出さないでください」


 下女は、蚊の鳴くような、しかし明瞭な声で囁いた。


「私はさくはた氏の者です」


「秦氏……?」


 白髪皇子の支援者である、あの秦氏か。


「屋敷の監視を潜り抜け、潜入しました。……これを」


 咲が目配せをした先、渚の手のひらには、小さな布切れがあった。


 美しい幾何学模様が織り込まれた、絹の切れ端だ。


「これは?」


「秦氏特有の『織り暗号』です。この模様には、メッセージが込められています」


 咲は手早く床を拭きながら、早口で続けた。


「安芸からの情報です。……『白髪皇子様は生きておられます』」


 ドクン。


 渚の心臓が跳ねた。


「皇子様が……?」


「はい。安芸にて、再起の時を待っておられます。貴女を必ず迎えに行くと」


 涙が、溢れ出した。


 止まらなかった。


 生きていてくれた。私を見捨てていなかった。


 その事実だけで、凍りついていた渚の心に、温かい血が巡り始めた。


「泣いている時間はありませんよ、渚様」


 咲はニッと笑い、また元のドジな下女の顔に戻った。


「ああ、もう! 私ったらまた失敗を! ……また新しいお茶をお持ちしますね」


 大声で演じながら、咲はウインクをした。


「これからも、この『織物』を使って連絡を取り合います。……諦めないでください。貴女は一人じゃありません」


 咲は膳を持って部屋を出て行った。


 渚は、手のひらの布切れを胸に抱きしめた。


 そこには、秦氏の技術と、遠く離れた人の想いが織り込まれている。


 窓の外を見る。


 灰色の空が、少しだけ明るく見えた。


 ここは鳥籠かもしれない。


 けれど、翼までは奪われていない。


「……待ちます」


 渚は小さく、けれど力強く呟いた。


「貴方様がこの空を切り裂いて、迎えに来てくれるその日まで」


 渚は膳に残っていた冷めた握り飯を手に取り、口に運んだ。


 味はしなかったが、それは生きるための味がした。


 反撃の狼煙は、この金色の鳥籠の中から、静かに上がり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
読んでくださってありがとうございます!
良かったらブックマーク・ポイントで応援していただけると嬉しいです!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ