第16話 断罪の剣、兄妹の別れ
処刑の前夜。
大和の牢獄は、骨まで凍るような冷気に包まれていた。
石造りの独房。そこに、栲幡皇女は繋がれていた。
罪人用の粗末な麻衣一枚。美しい黒髪は乱れ、頬には拷問の跡が残っている。
だが、その瞳だけは、暗闇の中でも凛とした光を失っていなかった。
カツ、カツ、カツ……。
重い足音が響き、牢の前に一人の男が立った。
白髪皇子である。
その後ろには、目を真っ赤に腫らした渚と、監視役の兵士たちの姿があった。
「……入るぞ」
皇子の声は、砂のように乾いていた。
兵士が鍵を開ける。皇子は中に入ると、力なく座り込む妹の前に跪いた。
「……兄上」
皇女が顔を上げる。腫れ上がった瞼を細め、愛おしそうに微笑んだ。
「来てくださったのですね。……最後に、お顔が見たかった」
「馬鹿者が」
皇子は震える手で、妹の頬に触れた。
「なぜだ。なぜ、あんな嘘を認めた」
皇女は、朝日郎との不義密通、および反乱首謀の罪を「認めた」ことになっていた。もちろん脅迫による虚偽の自白だ。
「認めなければ、兄上も同罪として処刑されます」
皇女は静かに答えた。
「稚媛の狙いは、私たち兄妹の共倒れです。私が泥を被れば、兄上だけは助かる。……簡単な算数です」
「ふざけるな! お前を犠牲にして生き延びて、何が嬉しい!」
皇子が激昂する。その目から、堪えきれない涙が溢れ出した。
「逃げるぞ、栲幡。今からでも遅くない。私の理力で、この牢獄ごと吹き飛ばしてやる。逃げよう。国などくれてやればいい!」
皇子の右手が光を帯びる。
だが、皇女はその手を優しく包み込み、押し留めた。
「いけません」
「なぜだ!」
「逃げれば、私たちは永遠に『逆賊』です。兄上が目指した『誰もが笑って暮らせる国』は、二度と作れなくなる」
皇女は、真っ直ぐに兄を見つめた。
「兄上。貴方は王になるお方です。こんなところで躓いてはいけません」
「王になど、なりたくない! お前がいない世界で、王になって何の意味がある!」
「あります。……渚を守るためです」
皇女の視線が、牢の外で泣き崩れている渚に向けられた。
「私がいなくなれば、誰がこの子を守るのです? 誰が、民を守るのです? ……兄上しかいないでしょう」
皇女の声には、母のような厳しさと優しさがあった。
「私の命を、踏み台になさいませ。……それが、私が貴方に捧げる最後の忠義です」
「栲幡……」
皇子は崩れ落ち、妹の膝に顔を埋めて慟哭した。
子供のように泣きじゃくる兄の頭を、皇女は不自由な手で優しく撫で続けた。
「泣かないでください、兄上。……渚、こっちへいらっしゃい」
呼ばれた渚は、這うようにして二人のそばへ行った。
「姉上……嫌です、死なないで……!」
「渚。貴女には、厳しいことばかり言いましたね」
皇女は渚の涙を指で拭った。
「でもね、楽しかったですよ。貴女が来てからの毎日は、私の宝物でした。……本当の娘ができたようで」
「お母様……!」
渚は皇女に抱きついた。最初で最後の、母と娘の抱擁だった。
「兄上を頼みますよ。この人は、強がりで弱虫ですから。……貴女が、支えてあげて」
「はい……はい……ッ!」
別れの時間は、あまりにも短かった。
「皇子様。そろそろ……」
無情な看守の声が響く。
白髪皇子は立ち上がった。その顔からは、すでに表情が消え失せていた。
「……行くぞ」
彼はもう、振り返らなかった。振り返れば、二度と歩き出せなくなることを知っていたから。
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翌朝。
磐余の処刑場には、灰色の空が広がっていた。
広場には、何千という群衆が集められていた。稚媛が流した「皇女の不義」という噂を信じ込んだ民衆たちは、口々に罵声を浴びせている。
「売女め!」
石が投げられる。
その中を、栲幡皇女は歩いていく。
後ろ手に縛られ、裸足で砂利を踏みしめながら。それでも彼女は背筋を伸ばし、毅然と前を見据えていた。
その姿は、どんな着飾った貴族よりも高潔で、美しかった。
処刑台の上には、一人の男が待っていた。
白髪皇子。
彼は処刑人として、大剣を突き立てて立っていた。
その目は虚ろで、まるで心だけが死んでしまった人形のようだった。
特等席には、稚媛と星川皇子が座っている。稚媛は扇子で顔を隠しながら、嗜虐的な喜びを目に浮かべていた。
「さあ、始めなさい。反逆者の首を刎ねて、身の潔白を証明するのです」
稚媛の声が響く。
皇女は処刑台に上がり、兄の前に跪いた。
「……御役目、ご苦労様です」
皇女は静かに言った。
皇子は何も答えない。答えられなかった。
ただ、震える手で剣の柄を握りしめるだけだ。
「兄上」
皇女が小声で囁いた。
「迷わないで。一太刀でお願いします。……痛いのは嫌ですから」
冗談めかした言葉。それが兄への最後の気遣いだった。
「……ああ」
皇子の口から、掠れた声が漏れた。
「任せろ。……私の理力で、苦しまぬように送ってやる」
皇子は剣を振り上げた。
刀身が、青白い光を帯びる。
それは「破壊」の力ではない。鋭利さを極限まで高め、刹那の苦痛さえ与えずに命を断つ、悲しいまでの「慈悲」の光。
渚は、群衆の最前列でそれを見ていた。
目を逸らしてはいけないと思った。
大好きだった姉の、母の、最期の姿を。
皇女が、最後に空を見上げた。
「……良い天気ですね」
曇天の空を見て、彼女は微笑んだ。
そして、首を差し出した。
「白髪の皇子に、栄光あれ」
ヒュッ。
風を切る音は、あまりにも静かだった。
剣が振り下ろされる。
音もなく、抵抗もなく。
光の軌跡が、皇女の首を通り抜けた。
一瞬の静寂。
そして、ドサリという重い音が、世界の時を止めた。
鮮血が舞う。
白い雪のような肌に、赤い花が咲く。
転がった皇女の顔は、安らかであった。
「…………ぁ、ぁぁ……」
皇子の口から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
剣が手から滑り落ちる。
彼は崩れ落ち、妹の亡骸を抱きしめた。
血に濡れることも厭わず、首のない体を強く、強く抱きしめた。
「うわああああああああっ!!」
獣のような咆哮が、処刑場に響き渡った。
それは、王になろうとした男の、魂が砕け散る音だった。
民衆の罵声が止む。
あまりの悲痛な姿に、誰もが言葉を失っていた。
稚媛だけが、満足げに頷いている。
「よくやりました。これで貴方の潔白は証明されましたよ」
その言葉は、もはや皇子の耳には届いていなかった。
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処刑が終わった後。
皇子は、茫然自失のまま、控えの椅子に座っていた。
手についた血を洗おうともしない。
ただ、虚空を見つめている。
「皇子様……」
渚が近づく。
かける言葉が見つからない。どんな慰めも、今の彼には毒にしかならない。
「……渚か」
皇子がゆっくりと顔を向けた。
その瞳から、いつもの輝きが消えていた。
希望も、野心も、生きる意志さえも失った、死人の目。
「私は……殺した」
乾いた唇が動く。
「自分の手で、唯一の家族を。……守ると誓った妹を」
「違います! 皇子様は守ったんです! 姉上の願いを……!」
「同じだ!」
皇子が叫んだ。
「私が弱かったからだ! 私が甘かったから、あいつを犠牲にした! ……王になど、なれるはずがない。私はただの、人殺しだ」
皇子は顔を覆い、小さく震え続けた。
そこに、稚媛の使いがやってきた。
冷淡な声で、決定事項を告げる。
『白髪皇子に告ぐ。此度の騒動の責任を問い、皇位継承権の剥奪、および政務からの追放を命ずる』
『速やかに都を去り、安芸の国へ下向せよ。二度と都の土を踏むことは許さぬ』
実質的な追放命令。
だが、皇子は反論しなかった。
「……ああ。わかった」
どうでもいい、というように呟いただけだった。
そして、渚にも宣告が下された。
『そちも同罪だが、星川皇子の嘆願により命は助ける。……ただし、星川皇子の屋敷にて監視下に置くものとする』
人質だ。
白髪皇子が二度と反乱を起こさぬよう、渚を鎖で繋いでおくつもりなのだ。
「皇子様……!」
渚は皇子にすがりついた。
「私も行きます! 安芸へ連れて行ってください!」
皇子は、ゆっくりと渚の手を解いた。
「……来るな」
「え?」
「お前がいると、思い出す。……栲幡の死を。私の罪を」
皇子は渚を見ずに言った。
「もう、私に関わるな。……星川のところへ行け」
「そんな……嘘ですよね? 皇子様!」
渚が叫ぶが、皇子は立ち上がり、背を向けた。
その背中は、あまりにも小さく、孤独に見えた。
「さようなら、渚」
それが、最後の言葉だった。
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数日後、白髪皇子は数名の従者だけを連れて、安芸へと旅立った。
見送りは、誰もいなかった。
かつて「光り輝く皇子」と呼ばれた男は、泥にまみれ、すべてを失って都を去った。
渚は、星川皇子の屋敷の窓から、遠ざかる皇子の行列を見つめていた。
涙はもう、枯れ果てていた。
胸に残るのは、空っぽの空虚感と、そして――焼き付くような復讐の炎だけ。
――絶対に許さない。稚媛も、朝日郎も、この腐った国も……!
渚は指輪を握りしめた。
少女の季節は終わった。
ここからは、修羅の道だ。
白髪皇子を取り戻し、亡き皇女の無念を晴らすまで、渚の戦いは終わらない。




