第14話 紅蓮の角刺宮と、氷の決断
白髪皇子が遠征に発ってから、三日目の夜。
大和の盆地には、不気味なほど重苦しい雲が垂れ込めていた。月明かりはなく、漆黒の闇が都を包んでいる。
角刺宮の広間で、渚は胸騒ぎを覚えて眠れずにいた。
「……静かすぎる」
いつもなら聞こえるはずの、夜警の兵たちの足音が聞こえない。風の音さえも、何かに怯えて息を潜めているようだ。
隣の部屋では、栲幡皇女も起きている気配がする。
その時だった。
ヒュンッ――ドスッ!
鋭い風切り音と共に、庭の松の木に何かが突き刺さった。
火矢だ。
パチパチと音を立てて燃え広がった炎が、闇の中に無数の影を浮かび上がらせた。
「敵襲ーッ!!」
見張り兵の絶叫が響く。だが、その声はすぐに途切れた。
ドォォォン!!
角刺宮の堅牢な木戸が、外側から破壊され、吹き飛んだ。
「ギャハハハ! 祭りだ祭りだァ!」
下品な笑い声と共に、武装した集団が雪崩れ込んでくる。松明の光に照らされたその旗印は――「朝日郎」。
「やっぱり来たか……!」
渚が部屋を飛び出すと、すでに栲幡皇女と飯豊皇女が廊下で合流していた。二人とも、すでに鎧を身に着け、臨戦態勢に入っている。
「飯豊様、状況は!?」
「最悪よ。門番が不意をつかれてやられたみたい。あっという間に中庭まで入られたわ」
飯豊皇女が手に持った大槍をブンと振るう。
「敵の数は目視で三百以上。対するこちらの守備兵は五十にも満たない。……完全に包囲されているわ」
「稚媛の手引きですね。白髪の兄上を遠ざけたのも、このためか」
栲幡皇女がギリリと歯噛みし、愛用の大弓を構える。その顔には、恐怖ではなく、冷徹な怒りが張り付いていた。
「渚、離れないで! 裏門から脱出します!」
「はい!」
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三人は生き残った兵たちに守られながら、屋敷の裏手へと走る。
だが、そこは地獄絵図だった。
角刺宮の衛兵たちが、次々と斬り伏せられていく。
敵兵の動きが、おかしい。
朝日郎の配下である粗野な兵士たちに混じって、奇妙な仮面をつけ、独特な曲刀を持った集団がいる。彼らは無言で、機械のように正確に急所を突いてくる。
「あれは……新羅の暗殺部隊か!」
飯豊皇女が舌打ちする。
「チッ、鬱陶しい!」
飯豊皇女が槍を旋回させる。
ブンッ!
豪快な一撃が、襲いかかる暗殺者二人をまとめて吹き飛ばした。
「我が家で土足とはいい度胸ね! まとめて掃除してやるわ!」
飯豊皇女は強かった。その細腕のどこにそんな怪力があるのか、槍一振りで敵兵がゴミのように舞う。まさしく「葛城の魔女」の異名に相応しい暴れっぷりだ。
だが、多勢に無勢。
次から次へと湧いてくる敵に、徐々に押し込まれていく。
「そこだァ! 舞姫と皇女を見つけたぞ!」
前方の屋根の上に、朝日郎が姿を現した。
彼はニヤニヤと笑いながら、渚たちを見下ろしている。
「よう、栲幡。ずいぶんと無様だな。今すぐ俺の靴を舐めるなら、命だけは助けてやってもいいぞ?」
「……寝言はあの世で言いなさい、下郎」
栲幡皇女が即座に矢を放つ。
矢は正確に朝日郎の眉間を捉えた――はずだった。
カィィン!
朝日郎の横から飛び出した新羅兵が、剣で矢を弾き飛ばした。
「無駄無駄ァ! 俺には強力な随身がいるんでな!」
朝日郎が手を振ると、屋根の上から新羅兵たちが一斉に飛び降りてきた。
「くっ……!」
栲幡皇女は弓を捨て、腰の直刀を抜く。接近戦だ。
渚も指輪を構える。
――燃やす……!
右手に熱を集める。だが、敵と味方が入り乱れる狭い回廊での乱戦では、広範囲の炎は使えない。味方ごと焼いてしまう。
「熱くなれ!」
ピンポイントで火球を放ち、敵兵の顔面を焼く。
「ぎゃあ!」
一人が倒れるが、すぐに次が来る。
「キリがないわね……!」
飯豊皇女が息を切らす。彼女の足元には、すでに数本の矢が突き刺さっている。
裏門まではあと少し。だが、そこには厚い敵の壁が立ちはだかっていた。
このままでは全滅する。
その時、栲幡皇女が足を止めた。
「飯豊様。……渚を連れて、先に行ってください」
「は?」
飯豊皇女が目を見開く。
「何を言ってるの、栲幡ちゃん」
「私がここで食い止めます。その隙に、お二人は脱出を」
皇女の声は、凍えるほど冷静だった。
「ダメです! そんなのダメです!」
渚が叫んで皇女の袖を掴む。
「一緒に逃げましょう! 私、姉上を置いてなんて行けません!」
「渚」
皇女が、ふっと柔らかく微笑んだ。
それは、厳しい特訓の時には一度も見せなかった、本当の母のような慈愛に満ちた笑顔だった。
「貴女は、白髪の兄上の希望です。貴女が生きていれば、兄上は何度でも立ち上がれる。……だから、生きなさい」
「嫌です! 嫌だ……!」
「行きなさい!!」
皇女が渚を突き飛ばした。
「飯豊様、お願いします!」
「……馬鹿ね」
飯豊皇女は唇を噛み切り、渚を担ぎ上げた。
「離して! 姉上が! 母上が!」
渚が暴れるが、飯豊皇女の腕は鉄の万力のように解けない。
「行くわよ渚! あの子の覚悟を無駄にする気!?」
飯豊皇女は涙を流しながら、槍で敵陣の一角を強引に突破した。
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残された栲幡皇女は、一人、敵の海の中に立っていた。
燃え盛る炎が、彼女の白い横顔を赤く照らし出している。
「へェ、殊勝な心がけだな。仲間を逃がして、一人で死ぬ気か?」
朝日郎が降りてくる。その手には巨大な太刀。
「死ぬ? 誰がですか?」
皇女は剣を構え、凛と言い放った。
「私は大和の皇女、栲幡。……貴様らごとき反逆者に、背中は見せません」
「強がるねェ。だが、その細腕でいつまで持つかな?」
朝日郎が合図をする。
数十人の新羅兵が一斉に襲いかかる。
皇女の舞が始まった。
それは、渚に教えた優雅な舞ではない。命を刈り取る、修羅の舞だ。
剣が閃くたびに血しぶきが舞い、敵兵が崩れ落ちる。
一人、また一人。
皇女の足元に死体の山が築かれていく。
「な、なんだあの女は……化け物か!?」
朝日郎が顔を引きつらせる。
だが、限界は近づいていた。
無数の刃が、皇女の体を切り裂く。着物が鮮血に染まっていく。
それでも、彼女は倒れない。
――渚、兄上……
薄れゆく意識の中で、皇女は愛する家族の顔を思い浮かべていた。
不器用な兄。泣き虫な養女。
騒がしくて、愛おしい日々。
――もう少しだけ。あの子たちが逃げる時間を……!
「オラァッ!」
朝日郎の大太刀が、皇女の剣を弾き飛ばした。
丸腰になった皇女の腹部に、朝日郎の蹴りが入る。
「がはっ……」
皇女が地面に転がる。
すぐに数人の兵士が彼女を押さえつけた。
「離しなさい……!」
皇女が抵抗するが、血を流しすぎた体にはもう力が入らない。
「終わりだ、皇女様」
朝日郎が皇女の髪を掴み、強引に顔を上げさせた。
「いいツラだ。……殺すには惜しいな」
朝日郎が下卑た笑みを浮かべる。
「安心しろ。すぐには殺さん。稚媛様との約束があるんでな。お前には、たっぷりと汚名を着せてやる」
「……何?」
「お前は悲劇のヒロインとして死ぬんじゃない。俺という男に惚れ込み、反乱を唆した『売女』として裁かれるんだよ」
皇女の目が驚愕に見開かれた。
「何を……ふざけたことを!」
「事実はこれから俺たちが作るんだ。楽しみにしてな」
朝日郎が拳を振り上げる。
ゴッ、と鈍い音がして、皇女の意識は闇に落ちた。
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遠くの山中で、渚は振り返った。
燃え上がる角刺宮。
その炎が、まるで皇女の命の灯火のように見えた。
「あ……あああ……ッ!」
渚の慟哭が、夜の闇に吸い込まれていった。
朝日郎の乱。
それは、渚にとって、二度目の喪失の夜となった。
だが、本当の地獄はここからだった。
捕らえられた皇女を待つ、死よりも残酷な運命が、静かに牙を研いでいたのである。




