第13話 伊勢の野心家と、黒い縁談
大和での生活にも慣れ始めた頃、季節は春を迎えていた。
渚は、相変わらず角刺宮で、義母(という設定の姉という立場)である栲幡皇女のスパルタ教育を受けていた。
「渚、背筋が曲がっています! それでは高貴な身分とは言えません!」
「はいっ、お姉様……じゃなくて母上! いや、姉上……?」
庭で弓の稽古をしながら、渚はため息をついた。
平和だ。
大王への謁見という最大の山場を越え、白髪皇子との仲も(周囲が温かい目で見守る程度には)良好。
このまま平穏な日々が続くのだと、渚は信じたかった。
だが、都の空気は少しずつ、しかし確実にきな臭くなっていた。
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ある日の午後。
白髪皇子が珍しく真剣な顔で角刺宮を訪れた。
「秦氏の長、酒公から報告があった。……きな臭い動きがある」
「秦氏……ですか?」
渚が尋ねると、皇子は頷いた。
「ああ。大陸からの渡来人で、養蚕や土木技術に長けた一族だ。私の有力な支援者でもある。彼らの情報網によれば、伊勢の豪族が都に入り込み、妙な動きを見せているらしい」
「伊勢の豪族?」
「朝日郎だ。武勇に優れ、伊勢・伊賀一帯を支配する大豪族だが、野心が強すぎる男だ。……渚、お前のことも嗅ぎ回っているようだ。気をつけろ」
皇子の忠告は、すぐに現実のものとなった。
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翌日、角刺宮にその男は現れた。
派手な衣装をまとい、腰には身の丈ほどもある大太刀。供回りの兵を大勢引き連れたその男は、門前で大声を張り上げた。
「伊勢の豪族、朝日郎である! 『香取の舞姫』と、その母『栲幡皇女』に会わせてもらおうか!」
無礼な呼び声に、飯豊皇女が顔をしかめる。
「……本当に来ちゃったわね。会わなくていいわ。どうせろくでもない用件よ」
「でも、無視したら門を壊されそうですよ?」
渚が門の方を覗くと、朝日郎はすでに門番を怒鳴りつけ、今にも押し入りそうな勢いだ。
「ええい、たかが地方の豪族風情が。私が追い返してきます」
栲幡皇女が、いつもの冷静な顔で弓を手に取った。
「姉上、私も行きます!」
渚も慌てて後を追う。
門前に出ると、朝日郎は渚を見るなり、目をぎらつかせた。
「ほう! 貴様が噂の舞姫か。思ったより小柄だが、まあ愛玩動物としては悪くない」
品定めするような粘着質な視線に、渚は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「そして、そちらが……」
朝日郎の視線が、渚の隣に立つ栲幡皇女に移る。
その瞬間、彼の目に宿ったのは、さらに濃厚で歪んだ欲望だった。
「噂に違わぬ氷の美貌。……たまらぬな」
「何の御用でしょうか、朝日郎殿」
栲幡皇女が冷徹な声で問う。
「単刀直入に言おう。俺の国へ来い」
朝日郎はニヤリと笑った。
「お前たち二人を、俺の妻にしてやる。大和の都は窮屈だろう? 俺のところへ来れば、贅沢三昧させてやるぞ」
「……は?」
渚は耳を疑った。母娘(設定)まとめて妻にする? 正気か?
「お断りします」
渚より先に、栲幡皇女が即答した。
「私は白髪皇子の妹であり、渚はその婚約者。貴殿の妄言に付き合う暇はありません」
「フン、白髪か。あの軟弱な皇子に何ができる」
朝日郎は鼻で笑った。
「今の朝廷は腐っている。大王は病に伏せり、次期王の座を巡って争いばかり。……俺のような力ある者が、新たな秩序を作るべきなのだ。俺の女になれば、お前たちを『新世界の王妃』にしてやるぞ?」
それは、明らかな不敬発言であり、反逆の予告にも聞こえた。
「朝日郎殿。言葉が過ぎますよ」
栲幡皇女が静かに、しかし強烈な殺気を放ちながら弓に矢をつがえた。
「これ以上、我が家を侮辱し、我が娘に付きまとうなら、伊勢へ生きて帰れるとは思わないことです」
ヒュンッ!
放たれた矢が、朝日郎の足元の地面を深々と抉った。
朝日郎の取り巻きたちが怯む中、朝日郎だけは愉悦に顔を歪めた。
「ハッハッハ! いいぞ、その強気な目! 俺好みだ!」
彼は舌なめずりをすると、踵を返した。
「チッ、今日は挨拶だけのつもりだったが……まあいい。いずれ必ず俺のものにしてやる。首を洗って待っていろ」
朝日郎は不敵な笑みを残し、去っていった。
だが、その背中には、単なる田舎豪族の強がり以上の、不気味な自信が漂っていた。
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その夜。
大和の暗部で、密会が行われていた。
場所は、吉備稚媛の私邸。
朝日郎は、上座に座る妖艶な美女――稚媛に酒を注がれていた。
「……で? フラれたのかえ?」
稚媛が扇子で口元を隠して笑う。
「フン。栲幡のやつ、ツンケンしやがって。だが、そこがいい。……あれを屈服させ、泣いて命乞いさせる姿を想像するだけでゾクゾクするわ」
朝日郎は酒を一気に煽った。
「あら、趣味が悪いわね。……でも、手はあるわよ」
稚媛は立ち上がり、朝日郎の耳元で囁いた。
「あなたは強い。白髪なんかより、ずっと王の器があるわ。……もし、栲幡を手に入れ、さらに大和の権力も手に入るとしたら、どうする?」
「……ほう?」
「力を貸してあげる。私の息子、星川のために動いてくれるなら、最新の武器と、十分な軍資金を提供しましょう」
稚媛が合図をすると、部屋の奥にある重厚な木戸が静かに開いた。
そこに控えていたのは、異国風の服を着た男だった。鋭い目つきをした、新羅の密使である。
「朝鮮半島・新羅からの客人です。彼らが、あなたに最高の『鉄』と『兵』を提供してくれるわ」
新羅。海を越えた隣国であり、大和朝廷とは緊張関係にある国だ。
「……新羅の力を借りるとは。稚媛様も危ない橋を渡りますな」
朝日郎の目が欲望に濁る。強力な後ろ盾を得られるなら、相手が誰であろうと構わない。
「条件は一つだけ」
稚媛の声が低く、冷たく響いた。
「白髪を殺しなさい。……そして、あの小娘、渚を奪ってくるのです。生かして、ね」
「栲幡はどうする?」
「お好きになさい。ただし……」
稚媛は邪悪な笑みを浮かべた。
「彼女には『汚名』を着せてあげましょう。あなたと通じて反乱を企てた、ふしだらな女という汚名をね」
「ククク……なるほど。高潔な皇女様が、実は反乱軍の情婦だったとなれば、世間は面白がるだろうな」
朝日郎は嗜虐的な笑みを浮かべた。
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数日後。
白髪皇子が、遠征のために都を離れることになった。
北の国境付近で小競り合いがあり、その鎮圧に向かうというのだ。
これは稚媛が仕組んだ陽動だった。そんなことは誰もがわかっていたものの、皇子は大王の命令である以上、断ることはできなかった。
「留守を頼むぞ、渚」
出発の朝、皇子は渚の手を握りしめた。
「お土産は何がいい? 秦氏が作った最新の絹織物でも持ってくるか?」
「お土産はいりません。……無事に帰ってきてください。それだけでいいです」
渚は不安だった。
胸騒ぎがする。朝日郎の件があってから、妙に静かすぎるのだ。
「心配性だな。栲幡と飯豊叔母上がついている。ここ(角刺宮)は鉄壁だ」
皇子はニカッと笑い、渚の額に口づけをした。
「行ってくる。戻ったら、ゆっくり茶でも飲もう」
白馬に跨り、皇子は去っていった。
その背中が見えなくなるまで、渚は見送った。
隣に立つ栲幡皇女が、ふと漏らした。
「……兄上様の背中が、小さく見えます。嫌な予感がしますね」
その予感は、最悪の形で的中することになる。
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皇子が不在となって三日目の夜。
角刺宮を、異様な静寂が包んでいた。
街の方から、武装した集団が音もなく近づいてくる。
その数、およそ五百。
先頭に立つ朝日郎は、新羅製の直刀を抜き放ち、獰猛に笑った。
「さあ、祭りの始まりだ。……白髪の留守に、たっぷりと楽しませてもらおうか」
朝日郎の乱。
それは、後に続く悲劇の連鎖の、最初のドミノ倒しだった。




