オセロ
田島正範は部下である中堅行員の不祥事に頭を抱えていた。その犯罪は至って単純なものだった。その部下は渉外担当としてお客様まわりを担当していたが、ある老婦人からの定期積金の集金を、そのまま懐に入れていたというものである。その定期積金の契約期間は三年間だったが、老婦人はちょっとした入り用が生じたため、まだ一年しか経過していなかった定期積金をやむなく中途解約しようと銀行の窓口を訪れたのだった。
「そんなはずはありませんわ」
銀行のロビーに老婦人のヒステリックな声が響いた。支店長の田島は中央最後尾の机から慌ててカウンターに駆け寄った。
「お客様、どういたしましたか?」
田島は平身低頭で老婦人に声をかけた。
「この人が入金されていないなんて言うのよ」
女子行員を指差した。事情を測りかねたが、田島はとにかく謝罪した。怒っている客に反論は禁物である。とにかく謝罪さえしておけば怒りが増幅することはない。
田島は怒鳴られた女子行員に事情を聞いた。
「こちらのお客様は定期積金を中途解約するためにいらしたのですが、預け入れしていた定期積金の残高が少ないとおっしゃるのです」
確認すると、顧客が持っていた定期積金の証書に押されている受領印の数と、銀行が把握している入金回数が一致していなかった。渉外担当者は積立金を受領するたびに証書に受領印を押印して、積立金を預かったことを証明しているのである。端末で確認すると入金回数が二回分少なかった。これは、渉外担当者が客から受け取った現金を二回分入金処理していないことを意味する。
田島は外回り中の渉外担当者を電話で呼びつけた。しばらくすると、渉外担当者が青い顔をして支店に戻って来た。田島が説明を求めると、観念したのか二回分の集金を懐に入れたことを認めた。月末には別の顧客からの集金で補填するつもりだったようだ。彼はそんなことを繰り返しながら、過去二年間にわたって自転車操業を繰り返してきたのだった。まさか老婦人が積立を中途解約しに支店にやってくるとは思ってもいなかったらしい。
支店長の田島は、これで自分に役員の芽はなくなったと覚悟した。支店の行員も管理できない男に、より多くの行員を管理しなければならない役員が務まるはずはない。そう遠くない時期に、関連のクレジット会社かリース会社に飛ばされるだろう。生き恥を晒すくらいならいっそ辞めてもいいのだが、下の子供はまだ大学生で金がかかる。
思えば、順風満帆な銀行員生活であった。新卒で就職した地方銀行が大手銀行に吸収されて、普通なら冷や飯を食うところが運よく出世できた。銀行員といえば安定企業の代表である。波風を立てずに過ごすことができれば、ある程度裕福な暮らしが約束されている。
それが、金に困った部下を持ったばかりに人生を狂わされてしまった。なんと危うい自信だったのだろうか。部下が不祥事を起こすのは業務時間内ばかりとは限らない。部下がプライベートで問題を起こしたとしても支店長は処罰される。最近の若手行員は忘年会ですら平気で参加を拒否するし、飲みに誘うだけでパワハラだと騒ぐ。業務時間外での関りを否定しているのである。そんな行員たちの私生活まで管理できる上司がどこの世界にいるというのか。田島は部下を信頼して支店を運営してきた。それが間違いだったのだろうか。田島は強い無力感を覚えた。
やがて来るだろう辞令に怯えながら、田島は自宅の書斎でソファーに身体を沈め、古いレコードを聴いていた。最近はレコード盤が再注目され始め、レコード針も一時期より入手しやすくなった。レコード派の田島にとっては誠にありがたい変化である。
高校時代から、田島はオーディオをいじるのが好きだった。特に心の底を刺激するようなベース音が好きで、重低音を響かせながら聴くのが常だった。ベース好きが高じて、田島は同級生たちとバンドを組んでステージにも立った。仲間の顔が瞼に浮かんだ。久々に仲間のことを思い出したのは、仕事に限界を感じたからだろうか。
高校時代、オーディオ好きだった田島は、洋楽を録音したカセットテープを分解し、テープをひっくり返して再生してみたことがあった。あのビートルズがレコーディングの際、テープを逆回転させた音を効果音に使用したことがあると雑誌で読んだからだった。
再生してみて初めてわかったことは、逆回転させたからといって単純に曲が逆から聞こえることはないということだった。その音は海中で電車が通過するような不思議な音だった。音楽的な価値はまったくなかったが、田島は聞こえた音に合致するコードをひとつずつ探して遊んだ。それらをつなげて弾いてみると奇妙なコード進行になったが、適当に鼻歌でメロディーを乗せると簡単に曲が出来あがった。同じことを繰り返して数曲を完成させ、カセットテープに吹き込む時に思いつくままに歌詞を付けた。
田島はそれらの曲をカセットテープに録音し、バンド仲間の秋元優斗に渡した。彼に渡したのは、彼がカセットデッキを二台所有していて楽器の多重録音ができたからである。その中にバンドで使える曲があったらデモテープを作ってくれとお願いし、デモテープが完成するたびにバンドで練習したものだった。
大学を卒業して地元の銀行に就職したばかりの頃、すでに地元で就職していた優斗や沢木とよく国際通りで飲んだものだった。バブルが弾けたばかりの頃だったが、弾けたからといって直ちに不景気になったわけではなく、繁華街の景気は変わらずよかった記憶がある。
優斗と沢木と三人で飲んだ土曜の夜、酔いが回った沢木がある出来事を優斗に言いにくそうに告白した。高校時代、バンド仲間に乙藤という友人いた。沢木はその乙藤が優斗のギターを盗んで屋外に持ち出す姿を目撃したのだという。すでに高校の卒業式を終えており、もう二度と会えなくなるかもしれない友人と揉めたくなかった沢木は、その事実を優斗に伝えることができず、ずっと自分を責めていたようであった。その時、優斗は普段と変わらず「そんなこと気にするなよ」と沢木の肩をぽんと叩いていたが、飲みすぎた沢木がソファーに倒れて居眠りし始めると、「いつか乙藤をがっかりさせてやる」と言っていた。本心では乙藤に仕返ししようとしているようだった。
「具体的にはどうやってがっかりさせるのさ」
「あいつは、俺が貴重なものをすべて地中に埋めていると思い込んでいるようだ。それを逆手にとって茶化してやるんだ。ギターのミニチュアでも埋めておこうかな」
冗談だったかもしれないし、本気だったとしても実行してはいないだろう。ふと、そんなことを思い出した。
田島はソファーで目を閉じた。自分の境遇を振り返った時、当時優斗に渡した『オセロ』という歌を思い出した。善と悪が入れ替わったり生と死が入れ替わったり、視点によって状況が大きく変化することを歌詞にした歌だったとはずだ。書いたきっかけは覚えていないが、まるでいまの自分ではないか。
子供たちはそれぞれ結婚し、田島は妻と二人名古屋で暮らしていた。もうじき辞令が交付され、四月には関係会社に勤務先が変わることになるだろう。単身赴任になれば、もう家でのんびりすることもできなくなる。春がこんなに憂鬱だということを初めて知った。
妻と夕食を終えて、ビールを飲みながら新聞や週刊誌を読んでいた。妻には支店で不祥事が発生したことは伝えていなかった。妻はずっと銀行員の妻でいられると安心して、呑気に昨年の大晦日に放映された国民的音楽番組の録画をまた視ていた。彼女は録画をもう何度も視聴している。先の年末年始は子供や孫たちと海外旅行に出かけたためテレビは視聴できなかったが、彼女は毎年楽しみにしているその番組をしっかり録画していたのだ。
田島がトイレから戻ると、テレビでは名前の知らない若いバンドが唄っていた。妻はソファーで菓子をかじりながら画面を見つめていた。田島がテレビ画面に目を奪われたのは、若いバンドが唄っている歌というのが、ついさっき頭を過った『オセロ』に酷似していたからだ。田島はテレビ画面に近寄って歌詞の字幕を読んだ。その歌は間違いなく過去に自分が書いたものだった。
田島は何が起こったのか理解できなかったが、二本目のビールを空ける頃には、この不思議な出来事に自然に笑みが浮かんだ。部下の不祥事が発覚して以降、気分が沈んでばかりで鬱病にはなるのではないかと思うほどだったが、今度は笑いたくなっているのだ。これこそ、まるで『オセロ』の歌詞と一緒ではないか。
関係会社に飛ばされれば収入は激減するだろう。下の子供にはまだ金がかかる。そのタイミングで誰かが自分が書いた曲を使ってくれたのである。著作権収入というものがどれほどの額になるのか見当もつかないが、これで生活レベルを落とさずに済むかもしれない。
番組には気になる曲がもう一曲あった。それは番組の冒頭で唄われていた『今週は神週』という歌で、聴いているとどうしてなのか次のメロディーがわかるのであった。頭に浮かぶとか予測できるというのとは違って、わかるのである。長く音楽番組を視聴することがなかった田島が流行歌を知っているはずはなかった。世の中には不思議なこともあるものだと思った。もう一度しっかりと聴けば、どうしてなのかその理由がわかるかもしれない。
とにかく、明日になったら日本著作権協会に電話をかけてみようと思った。田島は急に明るい気分になって、次のビールを一気に流し込んだ。




