それぞれの転機
裕一は上板橋の沢木拓郎の店で食べたラーメンの味が忘れられなかった。比内大将という店の屋号からも彼の並々ならぬ故郷への愛着が感じられる。大館出身の裕一にとって比内地鶏の味は幼少期から様々な料理で口にしていた馴染みの味だったはずだが、比内地鶏のすべてを凝縮したようなあのラーメンの味には初めて食した時のような驚きがあった。
裕一は父が亡くなって以降、何度か大館に帰省し、そのたびに生まれ故郷の素晴らしさを再認識したのだった。降雪、人口減少、高齢化、低賃金などの問題の解決は容易ではないが、人というものは環境が悪ければ悪いなりにバランスを取ろうとする本能があるらしく、人々が恒星のように自ら光を放って生きていることに気付いた。それは生命力であり、喜びや楽しみを感じ取れる強さだった。
あの日ミニチュアギターとともに届いた沢木からの手紙には、比内大将を大館に移転する計画があると記されていた。裕一が彼の店まで足を延ばしたのは、父の昔話を聞くためだけではなく、彼のラーメンを食べてみたいという欲求があったからだった。食べてみて、裕一はこの味ならどこでも成功すると確信するとともに、味を修得して自分のものにしたいという欲望が沸いたのだった。仕事の合間に街を食べ歩くなど、ラーメンへのこだわりは人一倍強かった自負がある。報酬だけなら探偵事務所のほうが間違いなくよいだろうが、それを理由に挑戦を諦めて後悔はしたくなかった。ついに裕一は坂本探偵事務所に辞表を提出し、故郷の大館に戻ることを決めた。
大館に戻った裕一は、さっそく開店準備中だった沢木の店を訪ねた。彼の店舗は過去に繫栄していた大町通りの枝道にあった。沢木があえて枝道を選んだのは駐車場を広く確保するためらしい。一家に二台の車社会では、どんなに商品が素晴らしくても、駐車場のない店からはいずれ足が遠ざかるものだ。
「こんにちは」
ガラス製の自動ドアが開いた途端、店内に漂う鶏がらスープの匂いが屋外に溢れ出てきた。ドアを透明にして内部を確認できるようにしたほうが一見客に安心感を与えられると提案したのは裕一だった。カウンターは厨房をほぼ一周するように楕円状につながっている特徴的なレイアウトだった。
沢木には今日訪問することを伝えていた。
「いらっしゃい」
沢木が笑みを浮かべて小さく手を上げた。傍らには彼の妻もいた。
スタッフを募集したが、沢木が採用可否の基準にしていたラーメンに対する探求心やこだわりを持った応募者はなかなか現れず、面接にやってくるのは小遣い稼ぎ感覚の若者や主婦ばかりだったらしい。裕一が働きたいと沢木に声をかけたのはそんな時だった。
「探偵事務所が嫌だから転職するというのなら、きっと長続きしないよ」
当初沢木は、裕一が現実逃避のために転職を選んだのではないかと心配していたようだった。だが、究極の比内地鶏ラーメンを提供したい、沢木の味を修得したいという強い気持ちが伝わり、さらに調理師免許を持っていることも評価され採用されたのだった。
「今年三十一歳になりますが、遅くはないでしょうか?」
ラーメン修行は若い時期に始めるものだという先入観があったが、沢木はそんなことはないと言った。
「先月大館に帰って来たばかりの頃、地元を少しでも知ろうと大町通りの飲み屋に一人で入ってみた。そこでたまたま出会ったおじさんに、俺も裕一くんと同じようなことを訊いたんだ。五十代で飲食店を始めるのは遅くないかってね。若者が多い都会の感覚では、五十代はもう年寄りだからさ」
都会で五十代といえば会社の管理職だったり、会社によっては役職定年を迎えたりしているだろう。雇用の流動化が進み、昔と比べると定年退職後に起業するハードルは低くなったが、それでも独立するなら早いに越したことはない。
「ところがその人はそんなことはないと言うんだ。この町では、三十代は鼻たれ小僧、四十代は若手、五十代は中堅、六十代でベテラン、七十過ぎでようやく熟練だというわけだ。それを聞いて笑ったけど、笑いながら少し安心したんだ。ここでは俺もまだ中堅なんだなと」
「二十代のことは何と言うのですか?」
「俺もそれを聞いた。そしたら二十代は都会に出て行ってしまって、町にはいないんだと」
沢木はそういって陽気に笑った。地元のブラックジョークなのかもしれない。
「つまり、若者は三十代になったら田舎に帰ってくるわけですね。まるで、いまの僕みたいじゃないですか」
「ああ。そこで俺は思ったんだ。都会の中高年は地方に移住すればきっと元気になれるのにってね。あなたは自分が思っているほど年寄りではないよ、と教えてあげたいくらいだ。違う環境に身を置けばもっと元気でいられるんじゃないかな。年寄り扱いされなければ年齢を自覚することなんてない。年齢の枠に自分から合わせる必要などないんだよ」
そのように考えれば、未来は果てしなく長く感じ、年齢はただの数字になる。
「僕は鼻たれ小僧ですか」
「そうだ。三十代はまだ鼻たれ小僧だ。だから、どんどん失敗すればいいんじゃないかな」
父が大切にしていた公園を守る活動はできないかもしれないが、食の世界で地元に貢献できるかもしれない。
裕一はその足で東丘公園まで歩いた。歩道脇にはまだ雪が残っているが、新雪ではなく、古い雪が一度固まって溶け始めているのだ。雪が陽光を受けて光り、雫が垂れていた。大館アメッコ市が終わると春がくるという昔からの言い伝えはやはり事実なのだ。
公園の入り口に『お知らせ』と書かれた立て看板があった。妹と訪れた時には気付かなかったので、その後で立てられたのかもしれない。東丘公園が九月末で廃止することと、原状復旧工事を行うため六月末をもって閉鎖するという告知だった。
その看板を見つめていると、のそのそと年配の男女三人が近寄ってきた。全員が『公園廃止反対』と書かれたタスキを身に付けていた。
「東丘公園の廃止に反対する方々から署名をいただいているのですが、よろしければご署名をいただけませんか」
白髪をひとつに束ねた女性がペンとノートを差し出した。もうひとりの女性がいきなり、
「ここは我々市民の憩いの場なんです。安らげる場所を奪わないでください」
と演技がかった甲高い声を上げた。
母が話していた公園廃止の反対運動とはこれなのかもしれない。父がタスキ姿で声を上げている姿はまったく想像できなかったが、せめてもの罪滅ぼしにと署名に協力した。
「ご署名、ありがとうございます」
彼らは移動しようとして、急に立ち止まった。
「あなた、もしかして秋元さんの息子さん?」
裕一の署名を見た女性が声を上げた。その声を聞いて、ほかの運動家たちも集まってきた。確かにこの辺りで秋元姓はありふれたものではなかった。
「ここに来ているということは、やはり君もお父さんと同じ思いなんだね」
「お父さんは率先して活動してくれたわ」
この人たちは、父がともに公園廃止反対運動をしていた仲間たちであった。父も同じようにこの場所で署名活動を行っていたらしい。
「お父さんはこの公園が大好きだったのよ」
「秋元さんはご両親と一緒に毎年花壇の花植えに参加してくれたわ」
ご両親というのは祖父母のことを指しているのだろう。
「でも公園に勝手に花を植えたら罰せられるんじゃありませんか?」
「一般的には都市公園法に反するわけだからその通りよ。だけどこの地区では市に利用許可を申請して認められていて、年に二回ほど地域のコミュニティ強化のために大人だけでなく子供も含めてみんなで花植えを行っているのよ。住民同士の交流も促進されるし、地域の安全にもつながるでしょう」
裕一は父や祖父母がスコップを使って花を植えている姿と、ショベルで柱時計の下を掘り進めている父の姿が重なった。その姿に、母が話していた父の遺跡関連の書物が結び付いて、異なる発想が浮かんだ。父が柱時計の下の土を掘ったのは、菓子缶を埋めようとしたからではなく、何かを探すためだったのではないか。
父が遺跡に興味を持ち始めたのは亡くなる少し前だったそうだ。公園廃止の中止活動を始めた時期とほぼ合致する。もし仮に公園の地中から遺跡でも発掘されれば、公園跡地の開発工事着手は間違いなく遅れるだろう。父は開発を妨害してでも、思い出が詰まった公園を残そうとしたのではないだろうか。公園は友人たちと語り、未来の妻と愛を育み、息子と遊び、両親と花を植えた場所だったのだ。だからといって、父の本心を知ることはもうできない。すべて裕一の想像でしかないのだ。
(すべてに理由を求めなくてもいいんじゃないかな)
裕一はふと沢木が言っていた言葉を思い出した。
実家に戻り、父の死後物置に移した遺品の中から遺跡に関する書籍を引っぱり出し、どこかにヒントになる書き込みが残っていないかを探し、マーカーが引きれた部分を発見した。それは東丘公園一帯が埋蔵文化財包蔵地だと説明している部分であった。公園の周辺では過去にも土器などが発掘されていたことがあったのだ。やはり父はあの公園から無謀にも遺跡を見つけ出そうとしたのではないか。しかし素人がこんな公園で遺跡を簡単に発掘できるはずがない。そもそも四十年前に遺跡調査をしていたはずである。結局、父は諦めて掘り返した穴を埋め直そうとした。しかし埋め直すだけでは面白くないと考え、ただの遊び心からカセットテープを埋めたのではなかろうか。
同じ夜、東丘公園にひとつの人影があった。その人物はスコップを使って柱時計の足下を掘り続けていた。何かを探そうとしているのか、あるいは何かを埋めようとしているのかわからなかったが、とにかくひたすら掘り続けたので、穴はかなり大きな窪みになった。
その時サーチライトが一斉に点灯し、その人物はぎょっとして慌てて逃げ出したが、若い警官が追いかけ地面に押さえ込んで身柄を確保した。捕まえた人物は中年の男性だった。
「僕が何をしたというんだ。ただ穴を掘っていただけじゃないか」
「何のために穴を掘っていたのだ?」
警官は押さえ込んだまま訊いた。
「あんたにいう必要があるのか? これが罪になるのか?」
男は開き直って叫んだ。
「残念だな。公共物を傷つけることは器物損壊の罪になるんだ。とにかく詳しいことは署で話してもらう」
逮捕された男は乙藤誠という都内在住の男で、その日故郷の大館市にやってきたばかりだった。穴を掘っていた理由を聞いても要領を得なかったが、何かを探していたらしい。しかしそれが何なのかは穴を掘っていた乙藤自身にもわからないという。そんな言い訳が通用するはずがない。
乙藤は前日まではバッテン公園の所在をつかみかねていたが、一か八か優斗の妻に訊こうと電話をかけた。彼女は高校の同級生だった。昨年の優斗の葬儀の話や世間話をした後でバッテン公園を知っているかと尋ねた。彼女はバッテン公園を知らなかったが、優斗が東丘公園で熱心に公園廃止の反対運動に参加していたことを教えてくれた。確信は持てなかったが、空振りを覚悟で午前中の飛行機に乗って大館能代空港に飛んできたのだった。しかし地元警察に逮捕され、一晩留置場で過ごすことになってしまったわけである。
翌日釈放された乙藤は再び東丘公園にやってきた。昨日この場所に立った時、高校時代によく訪れていた公園だということはすぐにわかった。昨夜自分が掘った穴はそのままになっていた。大きな穴を見て、我ながらよく掘ったものだと感心した。明確な目的がなければとても掘り続けられるものではない。
柱時計を見上げた。針は止まったままだった。ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで針が動かない時計の盤面を見つめていると、公園廃止反対のタスキをかけた男女三人がやってきて、乙藤に「ご署名をお願いします」と声をかけてきた。公園を見つめていた乙藤は、どうやら公園に愛着があると勘違いされたらしい。
乙藤は差し出されたペンとノートを手に取った。運動に協力しようと思ったわけではない。悪行で逮捕された同じ公園で、今度は善行で帳消しにしたいという反作用の心理が働いただけである。
年配の女性がノートを広げて、指で署名する箇所を示した。署名をしようとして、最終行に書かれた署名が目に入った。そこには『秋元裕一』という氏名があった。一昨日、優斗の元妻が公園廃止の反対運動のことを話していたことを思い出した。
署名し終えて、乙藤は女性に尋ねた。
「皆さんはいつもこの公園で署名活動をしているのですか?」
「そうですよ。この公園を守るための活動なのですから」
どうして当たり前のことを聞くのかというような顔をして、女性は目を丸くした。
「それじゃ昨日もここで?」
「もちろんです」
優斗の息子がここを訪ねたということは、彼がこの公園をバッテン公園だと特定したことを意味する。乙藤はニヤッと笑い、運動員に「ありがとう」と小さく右手を上げると、公園に背を向けて歩き出した。




