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没落令嬢と月影の公爵

作者: 藍沢 理

 王都の片隅にある小さな屋敷の庭で、私は土を耕していた。

 銀灰色の髪を後ろで束ね、泥で汚れることも厭わずに鍬を振るう。かつて第二王子の婚約者だった令嬢がこんな姿をしていると知ったら、社交界の人々はどんな顔をするだろうか。


 ――もっとも、もう誰も私のことなど覚えていないだろうけれど。


 婚約破棄から三か月。ヘンドリック殿下が男爵令嬢セシリアと婚約を発表してから、私は完全に忘れ去られた存在となった。没落伯爵家の三女など、もとより価値のない存在だったのだ。


 でも、それでいい。


 前世で過労死するまで働き続けた私にとって、この静かな日々はむしろ心地良かった。三十五年の人生経験を持つ魂が十八歳の体に宿っているという奇妙な状況も、今では受け入れている。


「アンナお嬢様、お茶の時間でございます」


 温かい声と共に、ナオミが庭に出てきた。四十五歳の彼女は、没落してもなお私の側に残ってくれた唯一の使用人だ。


「ありがとう、ナオミ。でも、もう少しだけ」


 私は微笑みながら、整地した土地を見回した。前世での唯一の趣味だった園芸。その知識と、この世界の薬草学を組み合わせれば、きっと素晴らしい薬草園が作れるはずだ。


「無理をなさらないでくださいませ。婚約破棄のお疲れもまだ――」

「大丈夫よ。むしろ今の方が幸せだわ」


 それは本心だった。

 政略結婚の道具として育てられ、そして捨てられた。普通なら絶望するところだろう。でも前世の記憶がある私は、一人で生きていく術を知っている。

 薬草栽培で収入を得て、静かに暮らしていく。それが私の選んだ道だった。


 夕暮れまで作業を続け、ようやく薬草園の基礎が完成した。明日には前世の知識を活かした特別な薬草の種を蒔こう。この世界では珍しい栽培方法で育てれば、きっと良質な薬草が収穫できるはずだ。

 泥を落とすために井戸で手を洗っていると、ナオミが心配そうな顔で近づいてきた。


「お嬢様、今夜は満月でございます。お出かけになるのでしたら、お気をつけください」

「出かける予定はないわ。でも、どうして?」


 ナオミは声を潜めた。


「最近、王都で不穏な噂が立っております。夜な夜な、何者かが貴族を襲っているとか……」

「まあ、物騒ね」


 前世でも治安の悪い場所はあったけれど、この世界の王都は比較的平和だと思っていた。やはり、どこの世界でも完全な平和というものは存在しないのだろう。


 その夜、私は薬草学の本を読みながら、明日の作業計画を立てていた。

 と、突然、庭の方から物音がした。


 ――猫かしら?


 最近、野良猫が庭に入り込むことがあった。薬草を荒らされては困るので、様子を見に行くことにした。

 月明かりに照らされた庭に出ると、薬草園の隅に人影があった。

 いや、人影というより――倒れている人がいた。


「まさか……!」


 駆け寄ると、黒い外套を纏った男性。血まみれだ。月光に照らされた横顔は、信じられないほど整っている。漆黒の髪が血で濡れ、苦しそうな呼吸を繰り返していた。

 脇腹から大量の血が流れている。このままでは命が危ない。


「ナオミ! ナオミ! すぐに湯を沸かして、清潔な布を持ってきて!」


 私は震える手で男性の傷口を確認した。深い刺し傷。それも毒が塗られているらしく、傷口が黒く変色している。

 ――助けなければ。

 前世の知識はあっても、医療の専門家ではない。でも、この世界で身につけた光属性の治癒魔法がある。弱い力だけれど、応急処置くらいなら……。


「お嬢様、これは……!」


 慌てて駆けつけたナオミが、男性を見て息を呑んだ。


「ナオミが知っている人?」

「いえ、でも、この紋章……」


 ナオミが指差した外套の留め具には、黒い薔薇と三日月を組み合わせた紋章があった。どこかで見たような……。


「とにかく、今は治療が先よ。ナオミ、手伝って」


 私たちは協力して男性を屋敷に運び込んだ。客間のベッドに寝かせ、すぐに治療を始める。

 まず傷口を清潔な湯で洗い、毒を可能な限り取り除く。それから私の弱い光魔法を傷口に注ぎ込んだ。


「光よ、この者の傷を癒したまえ……」


 掌から淡い光が溢れ、傷口を包み込む。みるみるうちに黒い変色が薄れていく。やはり光属性は毒に対して効果的だ。

 ただし、私の魔力では深い傷を完全に治すことはできない。止血と解毒が精一杯だった。


「薬草……そうだ、在庫の薬草を」


 まだ薬草園は完成していないけれど、以前から集めていた薬草がある。その中から傷薬になるものを選び、すりつぶして傷口に塗った。


 治療を続けること二時間。ようやく男性の呼吸が安定してきた。顔色も幾分良くなっている。


「お嬢様、この方は一体……」

「分からないわ。でも、放っておくことはできなかった」


 改めて男性の顔を見る。

 長い睫毛、彫りの深い顔立ち、そして何より印象的なのは、薄く開かれた瞼の隙間から見える深紅の瞳だった。

 ――綺麗。

 不謹慎だと思いながらも、そう感じずにはいられなかった。


「う……」


 男性が小さく呻いた。意識が戻りかけている。


「大丈夫ですか? ここは安全です」


 私は優しく声をかけた。男性の深紅の瞳がゆっくりと開かれ、私を見つめる。

 その瞳は痛みに歪んでいるはずなのに、優しい光が宿っていた。なんとなく、ずっと前から私を知っているような……。


「君は…………?」


 掠れた声でそう呟くと、男性は再び意識を失った。

 私は彼の手を取り、脈を確認した。規則正しい鼓動。もう大丈夫だろう。

 でも、その手の温かさに、なぜか胸が高鳴った。


「ナオミ、この人のこと、誰にも言わないで」

「かしこまりました。でも、お嬢様、もしこの方が悪い方だったら……」

「悪い人の目じゃなかった」


 根拠のない確信だった。でも、あの深紅の瞳に宿っていた優しさは本物だと感じた。


 窓の外では、満月が静かに二人を見守っていた。



 朝の光が窓から差し込む頃、私は客間の椅子で目を覚ました。

 一晩中、怪我人の様子を見守っていたからだ。首が痛い。でも、男性の顔色は昨夜よりずっと良くなっていた。

 規則正しい呼吸。穏やかな寝顔。

 こうして見ると、本当に整った顔立ちをしている。


「……見られていると、寝ていられない」


 低い声にびくりと肩を震わせた。いつの間にか、深紅の瞳が私を見つめていた。


「あ、ごめんなさい。その、容態が心配で」

「いや……礼を言う。君が助けてくれたのか?」


 男性はゆっくりと上体を起こそうとして、顔をしかめた。


「まだ動かないで。傷が深いんです」


 慌てて肩を支える。その瞬間、大きな手が私の手に重なった。

 温かい。昨夜とは違う、命の温もりを感じる。


「すまない。名前を聞いても?」

「アンナです。アンナ・フォルネウス」


 一瞬、男性の目が見開かれた。でも、すぐに元の穏やかな表情に戻る。


「アンナ……美しい名だ」


 その言葉に頬が熱くなった。慌てて手を引こうとしたけれど、優しく、でもしっかりと握られていて離せない。


「あなたは? お名前を伺っても?」

「……フィッツ。ただの旅人だ」


 嘘だ。すぐに分かった。あの高級な外套、洗練された物腰。ただの旅人のはずがない。でも、事情があるのだろう。深くは聞かないことにした。


「お薬をお持ちしました」


 ナオミが朝食と薬草茶を運んできた。男性――フィッツは、ようやく私の手を離してくれた。


「これは?」

「解毒と回復を促す薬草茶です。私が調合しました」


 フィッツは興味深そうに薬草茶を口にした。そして、驚いたように目を見開く。


「美味い。それに……体が軽くなる」

「よかった。特別な配合で作っているんです」


 前世の知識と、この世界の薬草学を組み合わせた独自のレシピ。効果があって安心した。


「君は薬師なのか?」

「いえ、ただの……趣味です。庭で薬草を育てているんです」


 フィッツの深紅の瞳が、じっと私を見つめた。まるで、心の奥を見透かされているような気がして、思わず目を逸らす。


「見せてもらえるか? その薬草園を」

「え? でも、まだ体が……」

「大丈夫だ。君の薬のおかげで、だいぶ楽になった」


 有無を言わせない口調だった。でも、不思議と嫌な感じはしない。

 ナオミに手伝ってもらいながら、フィッツを庭に案内した。朝露に濡れた薬草園は、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。


「まだ作り始めたばかりで、大したものじゃないんです」

「いや……素晴らしい」


 フィッツは薬草の一つ一つを丁寧に見て回った。その真剣な眼差しに、胸が高鳴る。


「この組み合わせ……見たことがない。相性を考えて植えているのか?」

「はい。薬草同士にも相性があって、適切に配置すると効能が高まるんです」


 前世で学んだコンパニオンプランツの知識。この世界では誰も知らない技術だった。


「どこでそんな知識を?」

「……本で読んだり、自分で試したり」


 前世の記憶とは言えない。フィッツは不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。


「君は……ただ者じゃないな」


 呟くような言葉。でも、その声には温かさがあった。


「あなたこそ。ただの旅人が、あんな怪我を負うはずがありません」


 思い切って聞いてみた。フィッツは苦笑を浮かべる。


「……厄介な連中に絡まれてな。君には迷惑をかけた」

「迷惑だなんて。人を助けるのは当然のことです」


 きっぱりと言い切ると、フィッツは驚いたような顔をした。


「当然、か」

「はい。困っている人がいたら助ける。それが人として当たり前のことだと思います」


 前世でも、今世でも、その信念は変わらない。

 人を助ける。そう思っていても、一歩踏み出すことにリスクを感じる。そんな日本が嫌いだった。逆に訴えられたらどうしよう。必ずその考えがよぎる。すごく嫌だった。


 フィッツは何か言いかけて、でも結局何も言わなかった。ただ、その深紅の瞳に、複雑な感情が渦巻いているのが分かった。


 薬草園を一通り見て回った後、フィッツは急に顔色を悪くした。


「大丈夫ですか?」

「少し……めまいが」


 慌てて肩を支える。思った以上に体重がかかってきて、よろめいた。


「すまない」

「いえ、私こそ。もっとしっかり支えます」


 二人でよろよろと屋敷に戻る。その様子を見ていたナオミが、慌てて駆け寄ってきた。

 再びベッドに横になったフィッツは、申し訳なさそうな顔をした。


「無理をさせてごめんなさい。まだ安静にしていないと」

「いや、俺が勝手に動いただけだ」


 額に汗が滲んでいる。思わず、持っていたハンカチで拭った。

 フィッツは一瞬、目を見開いた。


「……ありがとう」

「こんなこと、お礼を言われることじゃありません」


 頬が熱い。ナオミ以外で誰かの側にいるのは、いつぶりだろう。


「君は優しいな」

「そんなことは……」

「いや、本当だ。俺のような者に、こんなに親切にしてくれる人は……」


 言いかけて、フィッツは口を閉じた。『俺のような者』という言葉が気になったけれど、聞けなかった。



 その日一日、フィッツは客間で休養を取った。私は薬草茶や軽い食事を運びながら、時々様子を見に行った。

 そのたびに、深紅の瞳と視線が合う。

 そのたびに、胸が高鳴る。

 ――これは、何?


 夕方になって、フィッツが突然立ち上がった。


「もう行かなければ」

「え? でも、まだ傷が」

「これ以上、君に迷惑はかけられない」


 有無を言わせない口調。でも、その顔は青白く、まだ本調子ではないことが分かる。


「せめて、傷が塞がるまで……」

「心配してくれるのか?」


 真っ直ぐな視線に、言葉が詰まった。

 心配している。なぜか、とても心配している。昨日会ったばかりの人なのに。


「……はい」


 小さく頷くと、フィッツの表情が和らいだ。


「君は本当に優しいな。でも、俺は行かなければならない」


 黒い外套を羽織り、フィッツは立ち上がった。その姿は、昨夜の頼りない様子とは打って変わって、威厳に満ちていた。


「また……会えますか?」


 思わず口にしていた。フィッツは振り返り、微笑んだ。


「必ず。君の薬草園を、もう一度見せてもらいたい」


 そう言って、彼は夜の闇に消えていった。

 私は門の前で、その姿が見えなくなるまで見送った。


「お嬢様、お風邪を召されますよ」


 ナオミの声で我に返る。そうだ、もう夜だった。


「ナオミ、あの人……また来てくれるかしら」

「きっと来てくださいますよ。あの方の目は、本気でございました」


 部屋に戻りながら、私は自分の手を見つめた。

 まだ、あの大きな手の温もりが残っているような気がした。

 

 フィッツ。

 深紅の瞳の、優しい人。

 また会いたい。

 強く、そう思った。



 あれから一週間が過ぎた。

 薬草園は順調に成長し、早朝の水やりが日課になっていた。朝露に濡れた薬草たちは、太陽の光を浴びて生き生きとしている。

 でも、心のどこかで、ずっと待っていた。

 深紅の瞳の彼が、また来てくれることを。


「お嬢様、本日は王都の市場に行かれるのでしょう?」


 ナオミの声で現実に引き戻される。そうだった。薬草を売るための準備をしなければ。


「ええ、収穫した薬草を少し売ってみようと思って」

「婚約者だった方に会うかもしれませんが……」

「大丈夫よ。もう気にしていないから」


 本当にそうだった。ヘンドリック殿下のことを思い出しても、もう胸は痛まない。

 それより――。


 

 市場への道すがら、黒い外套を着た人影を見かけるたびに心臓が跳ねた。でも、振り返れば別人。

 ――私、どうかしている。

 一度会っただけの人なのに。名前さえ本当かどうか分からない人なのに。


 市場で薬草を並べていると、思いのほか好評だった。特に、前世の知識を活かした独自配合の薬草茶は、すぐに売り切れてしまう。


「この薬草茶、本当に効くのね。先週買ったものを飲んだら、長年の頭痛が嘘みたいに消えたの」

「それは良かったです。また来週も持ってきますね」


 お客様との会話に夢中になっていて、背後の気配に気づかなかった。


「相変わらず、警戒心がないな」


 低い声に振り返ると、そこには黒い外套の人影があった。顔は隠れているけれど、声は忘れない。


「フィッツ様……!」


 思わず駆け寄ろうとして、市場の人混みを思い出し、慌てて立ち止まる。

 彼は小さく笑ったように見えた。


「元気そうで何よりだ」

「あなたこそ、お怪我は……?」

「君のおかげで、すっかり良くなった」


 フードの下から、深紅の瞳がのぞく。一週間ぶりに見るその瞳に、胸が高鳴った。


「薬草を売っているのか?」

「はい。生活のために……」


 言いかけて、口を閉じた。没落貴族の窮状など、知られたくない。

 でも、フィッツは全て察したような顔をした。


「全部買おう」

「え?」

「残っている薬草を、全部」


 またしても有無を言わせない口調。懐から取り出した革袋には、相場の何倍もの金貨が入っていた。


「こんなに頂けません!」

「対価だ。君の薬草の価値を安く見積もるわけにはいかない」


 押し問答をしていると、遠くから馬車の音が聞こえてきた。

 豪華な装飾の王家の馬車。そして、そこから降りてきたのは――。


「あら、アンナ。こんなところで何をしているの?」


 セシリア・バーンズ男爵令嬢。ヘンドリック殿下の新しい婚約者だった。

 取り巻きの令嬢たちを引き連れ、わざとらしい笑顔を向けてくる。


「ご覧なさい。ここで薬草を売っているのよ。みっともないわね、元王子の婚約者が」

「仕方ありませんわ。没落貴族は生きていくのに必死ですもの」


 取り巻きたちの嘲笑が周囲に響く。以前なら傷ついていただろう。でも今は――。


「そうですね。自分の手で稼ぐことは、恥ずかしいことではありませんから」


 毅然と答えると、セシリアの顔が歪んだ。


「強がりもいい加減になさい。あなたなんて、もう誰も――」

「失礼」


 フィッツが割って入った。

 ただそれだけなのに、空気が変わった。凍てつくような殺気。セシリアたちが息を呑む。


「この方の薬草を侮辱することは、俺への侮辱と同じだ」

「あ、あなたは……」


 セシリアの顔が青ざめた。震える指でフィッツを指差す。


「ノ、ノクティス公爵……!」


 周囲がざわめいた。

 ノクティス公爵。北方を守護する大貴族にして、王国最強の騎士。

 そして――『冷血公爵』の異名を持つ、最も恐れられている人物。


 フィッツがフードを下ろすと、その整った顔立ちが露わになった。

 漆黒の髪、深紅の瞳、そして冷たい表情。

 噂を思い出す。彼の顔は、聞いていた冷血公爵そのものだった。


「公爵様、ど、どうしてこんな女と……」

「『こんな女』?」


 フィッツの声が、さらに低くなった。セシリアは顔面蒼白になって後ずさる。


「もう一度同じことを言ってみろ。次は容赦しない」

「ひっ……!」


 セシリアと取り巻きたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 残された私は、呆然とフィッツを見上げていた。


「あなたが……ノクティス公爵?」

「隠していたわけじゃない。ただ、言う機会がなかっただけだ」


 彼の表情は先ほどまでの冷酷さから一変して、困ったような顔になっていた。


「でも、どうして私なんかを……」

「『私なんか』は禁句だ」


 大きな手が、私の頬に触れた。温かい。一週間前と同じ温もり。


「君は俺の命を救ってくれた。それ以上の理由が必要か?」


 深紅の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。

 ああ、この人は――冷血公爵なんて異名とは正反対の、優しい人だ。



 市場から屋敷に戻る道すがら、フィッツは私の荷物を持ってくれた。

 堂々と並んで歩く私たちを、道行く人々が驚きの目で見ている。当然だろう。冷血公爵と没落令嬢の組み合わせなんて。


「薬草園を、見せてもらえるか?」

「もちろんです。でも、公爵様ともあろう方が、こんな小さな庭に興味を?」

「『公爵様』はやめてくれ。フィッツでいい」

「でも……」

「頼む」


 真剣な眼差しに、頷くしかなかった。


 屋敷に着くと、ナオミが目を丸くして出迎えた。


「お嬢様、こちらの方は先日の……」

「ノクティス公爵よ――」

「まあ! まあ! まあまあっ!」


 語彙を失ったナオミは深々と頭を下げた。フィッツは居心地悪そうに手を振る。


「堅苦しいのは苦手だ。普通に接してくれ」

「は、はいっ!」


 ピンと背筋を伸ばすナオミがちょっとかわいらしかった。



 薬草園に案内すると、フィッツは感嘆の息を漏らした。


「一週間でこんなに成長するのか」

「毎日手入れをしていますから。見てください、この月光草なんて、もう花を咲かせそうです」


 銀色の葉を持つ月光草は、満月の夜に白い花を咲かせる貴重な薬草だ。

 フィッツは膝をついて、丁寧に薬草を観察している。その真剣な横顔に、また胸が高鳴る。


「美しい」

「月光草は本当に綺麗ですよね」

「いや……」


 フィッツが振り返り、私を見つめた。


「君のことだ」


 頬が一気に熱くなった。心臓が大きく脈打つ。


「そ、そんな……私なんて」

「また『私なんて』か」


 フィッツは立ち上がり、私に近づいてきた。

 大きな手が、そっと私の手を取る。


「君は美しい。外見だけじゃない。その優しい心が、俺には眩しすぎる」

「フィッツ様……」

「様はいらない」

「フィ、ッツ……」


 名前を呼ぶと、彼の目が優しく細められた。


「アンナ」


 私の名前を呼ぶ声が、心地良い。

 手を握ったまま、二人で薬草園を歩いた。夕暮れの光が、薬草たちを金色に染めていた。


「なぜ、俺を助けてくれたんだ? あの夜、俺は敵に襲われて、もう助からないと思っていた。なのに君は、俺の正体も知らずに必死で治療してくれた」

「だって……死にそうな人がいたら、助けるのが当然でしょう?」

「当然、か」


 フィッツは苦笑した。


「俺の周りには、そんな風に考える人間はいなかった。皆、俺を恐れるか、利用しようとするかのどちらかだ」

「……寂しかったんですね」


 思わず口にすると、フィッツは驚いたような顔をした。


「君には、分かるのか」

「少しだけ。私も、婚約破棄されてから、誰も信じられなくなっていました」


 でも、と続ける。


「あなたに会えて、良かった。あなたは、私を『こんな女』扱いしなかった」

「当たり前だ」


 フィッツの手に、力がこもった。


「君は俺にとって、かけがえのない……」


 言いかけて、彼は口を閉じた。

 代わりに、私の額に唇を押し当てた。

 避けようとは思わなかった。

 羽のように軽い口づけ。

 その温もりは、ずっと残りそうだった。


「また来てもいいか?」

「……はい」


 声が掠れてしまった。ほっぺたがまた熱くなる。

 それを見たフィッツは微笑んだ。

 冷血公爵なんて呼ばれている人が、こんなに優しく笑えるなんて。



 その夜、窓辺で月を見上げながら、私は今日の出来事を思い返していた。

 ノクティス公爵。

 恐れられている冷血公爵が、実は誰よりも優しい人だった。


 額に残る口づけの感触に、頬が熱くなる。

 ――私、恋をしている。

 前世でも経験したことのない、激しい想い。


 でも、身分が違いすぎる。

 没落伯爵家の三女と、王国有数の大貴族。

 この恋に、未来はあるのだろうか。


 ふと、薬草園に目をやると、月光草が小さな蕾をつけていた。

 もうすぐ満月。

 その時、何かが起こる予感がした。


『君は一体、何者なんだ?』


 今日のフィッツの呟きが、耳に残っている。

 私はただの没落令嬢。

 私は彼にとって、特別な存在になれているのだろうか。


 夜空を見上げる。

 月は答えてくれない。

 ただ黙って、恋する私を見守っているだけだった。



 朝の光とともに目覚めると、昨日のことが夢のように思えた。

 でも、額に残る温もりは、確かに現実だった。


 フィッツ。


 冷血公爵と呼ばれる彼が、私なんかに優しくしてくれる理由が分からない。


「お嬢様、朝食の準備ができました」


 ナオミの声に促されて食堂に向かうと、テーブルの上に見慣れない封筒があった。

 王家の紋章入り。

 嫌な予感がして、震える手で封を開ける。


『フォルネウス伯爵令嬢アンナ殿

 来週開催される王妃主催の茶会にご招待いたします。

 必ずご出席ください。』


 必ず、という文字が重い。

 婚約破棄以来、王宮からの招待は一切なかった。なぜ今更……。


「お嬢様、顔色が優れませんが」

「大丈夫よ、ナオミ。ただ……」


 不安を振り払うように、薬草園に出た。

 朝露に濡れた薬草たちは、今日も元気に育っている。月光草の蕾も、少しずつ大きくなっていた。

 土いじりをしていると、心が落ち着く。前世でも、今世でも、植物は私の心の支え。


「朝から精が出るな」


 聞き慣れた低い声。それでも心臓が跳ねた。

 顔を上げると、フィッツが立っていた。今日は公爵らしい黒い正装。でも、その表情は昨日と同じく柔らかい。


「フィッツ……! お仕事は?」

「君に会いたくて、朝一番に済ませてきた」


 さらりと言われて、頬が熱くなる。

 こんな風にまっすぐ気持ちを伝えられるなんて、羨ましい。私は未だに、自分の気持ちを上手く言葉にできない。


「どうかしたのか? 顔色が良くない」


 鋭い観察眼。さすがは公爵といったところか。

 黙っていても仕方ないので、王宮からの招待状を見せた。

 フィッツの顔が、みるみるうちに険しくなる。


「茶会か……」

「行かない方がいいでしょうか?」

「いや、『必ず』と書かれている以上、行かないわけにはいかない。恐らく……」


 フィッツは言葉を濁した。でも、私にも想像はつく。

 セシリアの差し金だろう。公衆の面前で恥をかかせるつもりに違いない。


「一人で行くのが不安なら、俺も同行しよう」

「え? でも、公爵様がそんな……」

「様は禁止だと言っただろう」


 優しく、でも有無を言わせない口調。

 そして私の手をそっと取った。


「君を一人で狼の群れに放り込むわけにはいかない」

「でも、あなたまで巻き込んでしまう」

「巻き込まれる? 違うな」


 フィッツの深紅の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「俺は、君を守りたいんだ」


 その言葉に息が止まる。涙がでそうになる。胸が締め付けられる。

 守りたい、だなんて。

 前世でも今世でも、誰かにそんな風に言われたことはなかった。


「……ありがとう」


 やっとそれだけ言うと、フィッツは優しく微笑んだ。

 そのまま手を引かれて、薬草園を歩く。朝の光が二人を包み込む。


「ところで、薬草の生育状況はどうだ?」

「順調です。特に月光草は、もうすぐ花を咲かせそうで」

「満月の夜か」

「はい。次の満月は……五日後ですね」


 ちょうど茶会の前日だ。

 フィッツは月光草をじっと見つめていた。


「月光草の花は、特別な力を持つと聞いている」

「ええ。満月の光を浴びて咲く花は、どんな傷も癒す力があるとか」

「君が俺を助けてくれた時も、月光草を使ったのか?」

「いえ、あの時はまだ育てていなくて。でも、いつか……」


 あなたの役に立てれば、と続けようとして、恥ずかしくなって口を閉じた。

 でも、フィッツには伝わったようで、手を優しく握り返してくれた。


「君はもう、十分俺を救ってくれている」

「私が?」

「ああ。君と出会えて、俺の世界は変わった」


 真剣な声音に、心臓が早鐘を打つ。

 でも、同時に不安も湧き上がる。

 私なんかが、本当に公爵様の世界を変えられるの?


 その時、屋敷の方からナオミの声がした。


「お嬢様! お客様がいらしています!」


 こんな朝早くに?

 フィッツと顔を見合わせて、屋敷に戻る。

 

 応接間で待っていたのは、意外な人物だった。

 銀髪に青い瞳の、気品ある老紳士。北方騎士団の紋章を身に着けている。


「ロイド卿」


 フィッツが驚いたような声を上げた。


「公爵様、お探しいたしました」

「何があった?」

「北方で動きがありました。至急お戻りください」


 ロイドと呼ばれた騎士は、私をちらりと見てから続けた。


「それと……王都でも不穏な噂が。公爵様が『とある令嬢』に入れ込んでいると」

「……そうか」


 フィッツの顔が、一瞬で「冷血公爵」のそれに変わった。感情を押し殺した冷たい表情。私にはわかる。彼は怒っている。自分自身に。軽率な行動を取ったことに。


「アンナ、すまない。すぐに戻らなければならない」

「当然です。お仕事が大事ですから」


 明るく答えたつもりだったけれど、声が震えていた。

 せっかく会えたのに、もう行ってしまうの?


「茶会の件は――」

「大丈夫です。一人で行けます」

「アンナ」


 フィッツは振り返り、私の肩に手を置いた。

 ロイド卿が見ている前だというのに。


「必ず間に合うように戻る。約束する」

「でも、お仕事が……」

「君が心配だ」


 真っ直ぐな言葉に、息が詰まる。必死で涙をこらえる。



 フィッツたちが去った後、私は一人応接間に残された。

 テーブルの上には、王宮からの招待状。

 ――大丈夫。

 一人で乗り切ってみせる。フィッツに心配をかけたくない。


 手のひらを見つめる。さっきまで暖かかったのに。今はとても冷たく感じた。



 北方へ向かう馬車の中で、フィッツは苛立ちを隠せなかった。

 よりによって、こんな時に北方で問題が起きるとは。


「公爵様、失礼ですが」


 ロイドが遠慮がちに口を開いた。


「あの令嬢は……フォルネウス伯爵家の」

「ああ」

「婚約破棄された方ですな」

「それがどうした」


 冷たい声で返すと、ロイドは肩をすくめた。


「いえ。ただ、公爵様があのような優しい顔をされるのを初めて見たもので」

「……優しい顔?」

「はい。まるで別人でした」


 フィッツは窓外へ目をやる。

 王都が遠ざかっていく。アンナも一緒に遠ざかっていく。


 ――守りたい。


 あの優しい微笑みを。

 真っ直ぐな心を。

 誰にも汚させたくない。


「ロイド、王都に密偵を残せ」

「は?」

「フォルネウス令嬢の周辺を見張らせろ。何かあったらすぐに報告を」

「かしこまりました」


 ロイドは驚きを隠さなかったが、すぐに了承した。

 長年仕えている彼には、フィッツの本気度が分かるのだろう。


 ――待っていてくれ、アンナ。


 必ず君を守る。

 それが、俺の誓いだ。


 *


 フィッツが去って三日が過ぎた。

 薬草園の世話をしながら、私は茶会の準備を進めていた。ドレスは、婚約時代のものがかろうじて一着残っている。少し古いけれど、これしかない。


「お嬢様、本当に一人で行かれるのですか?」


 ナオミが心配そうに聞いてくる。


「大丈夫よ。昔はよく出席していたもの」

「でも、あの頃とは状況が……」


 大丈夫じゃない、とは言えなかった。

 婚約者だった頃は、誰もが私に愛想よく接してくれた。でも今は没落令嬢。誰も相手にしてくれないだろう。


 それでも、行かなければならない。

 逃げたら、フィッツに顔向けできない。


 その夜、月光草の蕾がさらに大きくなっていた。

 もうすぐ満月。

 花が咲いたら、フィッツに見せたい。きっと喜んでくれるはず。


 ――会いたい。


 素直にそう思った。

 たった三日なのに、こんなに会いたいなんて。

 前世では仕事一筋で、恋愛なんて縁がなかった。だから、この気持ちの激しさがよく分からずに戸惑う。


 でも、嫌じゃない。

 むしろ、生きている実感がする。


 月を見上げながら、私は小さく呟いた。


「フィッツ……早く帰ってきて」


 月は相変わらず、静かに輝いているだけだった。

 でも、どこか優しい光に見えた。

 きっと、同じ月を彼も見ているから。


 茶会まで、あと二日。

 不安と期待が、胸の中で渦巻いていた。



 王宮の門をくぐる時、膝が震えた。

 久しぶりの王宮。かつては第二王子の婚約者として堂々と歩いていた場所。でも今は、招かれざる客でしかない。


 古いドレスの裾を直しながら、私は背筋を伸ばした。

 ――大丈夫。堂々としていればいい。

 前世の経験が、こんな時に役立つなんて。企業で理不尽な上司に耐えてきた経験に比べれば、貴族の嫌味など大したことはない……はず。


「フォルネウス令嬢、お久しぶりです」


 案内係の侍女の声には、明らかな侮蔑が含まれていた。

 以前は丁寧にお辞儀をしていた彼女も、今では形だけの会釈。人の態度とは、こうも変わるものなのか。


 薔薇の庭園に設えられた茶会の会場には、すでに多くの令嬢たちが集まっていた。

 華やかなドレスに身を包み、楽しげに談笑している。その中で、私の古いドレスは明らかに見劣りした。


「あら、アンナ。本当に来たのね」


 予想通り、セシリアが取り巻きを引き連れて近づいてきた。

 王子の婚約者として、今や社交界の花形。自信に満ちた笑みを浮かべている。


「お招きいただきましたから」

「まあ、その古いドレス……もしかして、他に着るものがないの?」


 周囲からくすくすと笑い声が聞こえる。

 でも、不思議と傷つかなかった。フィッツが「君は美しい」と言ってくれた。それだけで十分だった。


「ええ、これしかありません。でも、茶会に相応しくないでしょうか?」

「相応しくないなんて……」


 セシリアの目が意地悪く光った。


「むしろ、お似合いよ。没落令嬢には」


 また笑い声。それでも私は微笑みを崩さなかった。

 すると、セシリアの顔が少し歪む。思った反応が返ってこないことに苛立っているのだろう。


「ところで、最近は何をしているの? まさか、本当に薬草を売って生活しているの?」

「はい。楽しいですよ、自分の手で何かを育てるのは」

「信じられない。元王子の婚約者が、土いじりなんて」


 令嬢たちがざわめく。同情する者、嘲笑する者、様々だ。

 でも、その中に一人、違う視線を向けている令嬢がいた。


 金色の髪に緑の瞳。どこかで見た覚えがある。


「それで生活できるの? 大変でしょう?」


 セシリアがわざとらしく心配そうな顔をする。


「王子との婚約が続いていれば、こんな苦労はしなかったのに。本当に、ヘンドリック様が心変わりしてくださって良かったわ」

「そうですね」


 ものすごいイヤミ。あっさりと肯定すると、セシリアが目を見開いた。


「私も、婚約破棄していただいて良かったと思っています」

「な……何ですって?」


 周囲がざわめいた。誰も予想していなかった返答だったのだろう。


「だって、おかげで本当に大切なものが見つかりましたから」


 薬草園。ナオミ。そして――フィッツ。

 失ったものより、得たものの方がずっと大きい。


「強がりも大概になさい!」


 セシリアの声が甲高くなった。


「あなたなんて、もう誰も相手にしない! 一生独りで、みじめに生きていくのよ!」

「そうかもしれませんね」


 落ち着いて答える。セシリアは目をつり上げて、さらに苛立った表情を見せる。


 その時、先ほどの金髪の令嬢が進み出た。


「セシリア様、おやめください」

「あら、カタリナ。あなたには関係ないでしょう?」


 カタリナ……ランカスター侯爵令嬢だ。

 王妃の姪にあたる、高貴な身分の令嬢。なぜ彼女が?


「関係あります。アンナ様は、私の恩人ですから」

「恩人?」


 私も驚いて、カタリナを見つめた。

 彼女は優しく微笑んだ。


「先日、市場であなたの薬草茶を買いました。母の長年の偏頭痛が、嘘のように治ったんです」

「まあ……それは良かった」

「本当に感謝しています。なのに、こんな仕打ちを受けているなんて」


 カタリナは毅然とセシリアを見据えた。


「王妃様がこの茶会の様子をお聞きになったら、どう思われるでしょうね」

「……っ!」


 セシリアが青ざめた。王妃の名前を出されては、さすがに分が悪い。


「覚えていなさい」


 捨て台詞を残して、セシリアは取り巻きと共に去っていった。


 カタリナは私に向き直り、深々と頭を下げた。


「遅くなって申し訳ありません。もっと早く助けに入るべきでした」

「いえ、私なんかに、わざわざありがとうございます。でも、本当に侯爵夫人の頭痛が?」

「はい。医者も匙を投げていたのに、あなたの薬草茶で改善したんです。母も直接お礼を言いたがっています」


 思わぬ展開に、胸が温かくなった。

 私の作ったものが、誰かの役に立っている。それは、何よりも嬉しいことだった。


「よかったら、今度お屋敷にいらしてください。母とゆっくりお話ししたいです」

「でも、私なんかが侯爵家に……」

「あら、また『私なんか』ですか? ノクティス公爵様と同じことを言いますね」


 カタリナが悪戯っぽく笑った。


「え?」


 心臓が跳ねた。フィッツの名前が出るとは思わなかった。


「公爵様が北方に発つ前、あなたのことを頼まれたんです。『茶会で何かあったら、助けてやってくれ』と」

「フィッツが……」


 力いっぱい目を開いて、涙がこぼれないように我慢する。変な顔になっているのは分かっている。けれど、今泣いてしまったら、止まらなくなりそうで。

 彼は、フィッツは離れていても、私のことを心配してくれていた。守ろうとしてくれていた。


「本当に大切に想われているんですね」


 カタリナの言葉に、頬が熱くなる。


「そんな……私たちは……」

「隠さなくてもいいですよ。公爵様があんなに優しい顔をされるなんて、初めて見ましたし」


 そうなんだ……。いつもはやっぱり冷たい表情なのかな。フィッツは私といる時だけ、素顔を見せてくれているのだろうか。



 同じ頃、北方の森で、フィッツは焦りを感じていた。

 国境での小競り合いは思った以上に長引いている。このままでは、茶会に間に合わない。


「公爵様、敵は撤退を始めました」


 ロイドの報告に、安堵の息を漏らす。


「すぐに王都へ戻る。準備を」

「しかし、後始末が……」

「ロイド、お前に任せる」

「は?」


 フィッツは馬に跨った。


「必要最小限の護衛だけ連れて、先に戻る」

「公爵様! お待ちください!」


 ロイドの制止も聞かず、フィッツは馬を走らせた。


 ――間に合え。


 アンナは強い女性だ。一人でも乗り切れるだろう。

 でも、約束した。必ず戻ると。守ると。


 その約束を、破るわけにはいかない。


「アンナ……」


 馬上で彼女の名を呟く。

 不思議だ。たった数日会わないだけで、こんなに会いたくなるなんて。


 冷血公爵と呼ばれ、誰も寄せ付けなかった自分が。

 今は、ただ一人の女性のことで頭がいっぱいだ。


 馬の速度を上げる。

 風が頬を切る。でも、止まるわけにはいかない。


 彼女の笑顔を、もう一度見るために。



 茶会が終わりに近づいた頃、私は庭園の隅のベンチで一人座っていた。

 カタリナは他の令嬢たちとの挨拶回りがあるらしく、先に行ってしまった。でも、彼女のおかげで、その後は誰も私に意地悪をしてこなかった。


 夕日が王宮の白い壁を金色に染めている。

 美しい光景。でも、なぜか寂しい。


 ――フィッツ、どこにいるの?


「一人で寂しそうだな」


 聞き慣れた低い声に、心臓が止まりそうになった。

 振り返る。そこには旅装のままのフィッツが立っていた。

 髪は乱れ、服は泥だらけ。なんなら見知らぬ誰かの血痕すらついていた。でも、その深紅の瞳は優しく私を見つめていた。


「フィッツ!」


 思わず立ち上がり、駆け寄ろうとして――はたと我に返った。

 ここは王宮。人目がある。


 でも、フィッツの方が大股で近づいてきて、私を抱きしめた。


「間に合った」

「あ、あの、人が見てます……」

「構わない」


 腕の中で、フィッツの鼓動を感じる。

 速い。私と同じくらい速い。


「心配した。何かされなかったか?」

「大丈夫です。カタリナ様が助けてくださって」

「そうか……礼を言わないとな」


 ようやく腕を緩めてくれた。けれど、手をつながれた。

 周囲の視線が痛い。でも、不思議と恥ずかしくなかった。


「仕事は? 大丈夫だったんですか?」

「ロイドに任せてきた。後で小言を言われるだろうが」


 フィッツは苦笑した。


「でも、君との約束の方が大事だった」

「そんな……私のために……」

「何度言わせる。君は特別だ」


 また『特別』という言葉。

 その意味を、ちゃんと聞きたい。でも、怖い。


 期待してしまったら、また裏切られるかもしれない。

 ヘンドリック殿下のように、心変わりされるかもしれない。


「どうした? 顔色が悪い」

「なんでもありません」


 不安を振り払う。無理をして微笑む。

 フィッツは何か言いかけたけれど、結局何も言わなかった。

 ただ、手を強く握ってくれた。

 それだけでよかった。



 王宮からの帰り道、フィッツは私を馬車で送ってくれた。

 豪華な公爵家の馬車。これに乗るなんて、夢のようだ。


「茶会はどうだった?」

「セシリア様に色々言われましたけど、平気でした」

「本当に?」

「はい。だって……」


 フィッツを見上げる。


「あなたが『美しい』と言ってくださったから。それだけで、他の人の言葉なんて気になりません」


 フィッツの頬が、少し赤くなった。

 冷血公爵も、照れることがあるんだ。なんだか可愛い。


「君は……ずるい」

「え?」

「そんな風に言われたら、もっと君を守りたくなる」


 今度は私の頬が赤くなる番だった。


 屋敷に着いても、フィッツは馬車を降りようとしなかった。


「明日、時間はあるか?」

「明日? ええ、特に予定は」

「月光草が咲きそうだろう? 一緒に見たい」


 そうだ。明日は満月。

 月光草が花を咲かせる特別な夜。


「もちろんです。一緒に見ましょう」

「約束だ」


 フィッツは私の手を取り、そっと口づけた。手の甲に触れる唇の感触に、全身が熱くなる。


「また明日」

「はい……また明日」


 馬車が去っていくのを見送りながら、私は自分の手を見つめた。

 口づけられた場所が、じんわりと温かい。


 明日の夜。

 月光草の花が咲く時、何かが変わる気がした。


 不安と期待が入り混じる中、私は屋敷に入った。

 ナオミが心配そうな顔で出迎えてくれる。


「お嬢様、茶会はいかがでしたか?」

「大丈夫だったわ。フィッツも来てくれたし」


 ナオミの顔がほころんだ。


「それは良かったです。ところで、月光草の蕾がとても大きくなっていますよ」

「本当?」


 薬草園に駆けていくと、月光草は今にも花開きそうなほど蕾を膨らませていた。

 銀色の葉が、夕日を受けて輝いている。


 明日の夜。

 この花が咲く時、フィッツと一緒にいられる。

 それだけで、胸がいっぱいだった。



 満月の夜が来た。

 一日中そわそわしていた私は、夕方から何度も月光草の様子を見に行っていた。銀色の葉に包まれた蕾は、今にも開きそうなほど膨らんでいる。


 ドレスを選ぶのにも迷った。結局、一番まともな紺色のドレスを選んだ。古いけれど、夜空の色に似ていて、月光草を見るには相応しい気がした。


「お嬢様、公爵様がお見えになりました」


 ナオミの声に、胸が高鳴る。

 階段を降りると、フィッツが玄関で待っていた。今日は黒い上着に白いシャツという、普段より少しくだけた格好。それでも、相変わらず凛とした佇まいは変わらない。


「待たせたか?」

「いえ」


 嘘だ。本当ずーっと待っていた。


「綺麗だ」

「え?」

「そのドレス、君によく似合っている」


 また頬が熱くなる。どうして彼は、さらりとこんなことを言えるのだろう。


「ありがとうございます。でも、古いドレスで……」

「君が着れば、どんなドレスも輝く」


 もう、ずるい。

 そんな風に言われたら、何も言い返せない。


 二人で薬草園に向かう。

 月はまだ東の空に低く、これから天頂に向かって昇っていくところだった。


「まだ咲いていませんね」

「月が真上に来る頃に咲くと言われている。もう少し時間がある」


 フィッツは用意してきた毛布を地面に敷いた。


「座ろう。立って待つのも疲れるだろう」

「用意がいいんですね」

「君との時間を、快適に過ごしたいからな」


 隣に座ると、肩が触れそうな距離。

 心臓がうるさいくらいに鳴っている。聞こえてしまいそうで恥ずかしい。


「アンナ」


 真剣な声に、緊張する。


「昨日の茶会で、カタリナから聞いた。君が『婚約破棄されて良かった』と言ったと」

「……はい」

「本心か?」


 フィッツの深紅の瞳が、じっと私を見つめている。

 嘘はつけない。つきたくない。


「本心です。だって、婚約が続いていたら……」


 あなたに会えなかった、と続けようとして、恥ずかしくなって俯いた。


「続けて」

「……あなたに、会えなかったから」


 小さな声で言うと、フィッツが息を呑む音がした。

 そして、大きな手が私の手を包み込む。


「俺も同じだ」

「え?」

「君に会えて、本当に良かった」


 手を握られたまま、顔を上げる。

 フィッツの顔が、いつもより近い。深紅の瞳に、月の光が反射している。


「アンナ、俺は……」


 その時、月光草の蕾がかすかに震えた。


「あ……咲きそう」


 二人で月光草に注目する。

 月が天頂に近づくにつれて、蕾がゆっくりと開き始めた。

 

 銀色の花弁が、一枚、また一枚と開いていく。

 その花弁は、月の光を受け、自ら光を放っているかのように輝いていた。


「綺麗……」


 思わず呟く。写真や絵でしか見たことのなかった月光草の花。実物は、想像以上に美しかった。


「本当に……美しい」


 フィッツの声に振り向くと、彼は花ではなく、私を見ていた。


「花を見てないじゃないですか」

「一番美しいものを見ている」


 また、ずるい。

 こんな風に言われたら、もう……。


「アンナ」


 フィッツが私の頬に手を添えた。

 優しく、でもしっかりと。


「好きだ」


 はっきりと、言葉にされた。

 今まで「特別」とか「大切」とか、遠回しな表現ばかりだったのに。


 真っ直ぐな告白。


「君のことが、好きだ。愛している」


 涙が溢れそうになった。

 前世でも、今世でも、こんな風に愛を告白されたことはなかった。


「私も……」


 声が震える。


「私も、あなたが好きです。愛しています」


 言った瞬間、フィッツの顔が輝くような笑顔になった。

 こんな笑顔、初めて見た。冷血公爵なんて呼ばれている人が、こんなに幸せそうに笑えるなんて。


「アンナ……」


 顔が近づいてくる。

 目を閉じた。


 唇が、そっと重なった。


 羽のように軽い、優しい口づけ。

 でも、その優しさの中に、抑えきれない想いを感じた。


 唇が離れても、しばらく目を開けられなかった。

 初めてのキス。

 こんなに幸せなものだったなんて。


「目を開けて」


 フィッツの声に促されて、ゆっくりと目を開ける。

 彼は優しく微笑んでいた。


「月光草を見てごらん」


 振り返ると、月光草は完全に花開いていた。

 六枚の銀色の花弁が、月の光を受けて神秘的に輝いている。私たちの恋を祝福してくれているかのように。


「伝説では、月光草の花の下で愛を誓った恋人たちは、永遠に結ばれるという」

「聞いたことあります……」

「だから」


 フィッツは私の両手を取った。


「アンナ・フォルネウス。俺と結婚してください」


 息が止まった。

 心臓も止まった。

 プロポーズ。

 まさか、こんなに早く……。


「でも、私は没落貴族で……」

「関係ない」

「世間体が……」

「知ったことか」

「フィッツ……」


 真剣な深紅の瞳を見つめる。

 そこには、一点の迷いもなかった。


「俺は君が欲しい。君だけがいればいい。他には何もいらない」

「本当に……いいんですか?」

「むしろ俺の方が聞きたい。冷血公爵なんて呼ばれている男で、本当にいいのか?」


 涙が頬を伝った。

 嬉しい涙。幸せの涙。


「あなたが冷血じゃないことは、私が一番知っています」

「アンナ……」

「はい。喜んで、あなたの妻になります」


 フィッツが私を抱きしめた。

 強く、でも優しく。壊れ物を扱うように。


「愛している」

「私も愛しています」


 月光草の花が、風に揺れた。

 花弁から零れる光の粒子が、二人を包み込む。まるで祝福の光のように。



 北方、ノクティス公爵領。

 執務室で書類と格闘していたロイドは、伝書鳩の到着に顔を上げた。


「公爵様からか……どれどれ」


 手紙を開いて、目を丸くした。


『結婚する。準備を頼む。フィッツ』


 たったそれだけ。

 いつもの公爵様らしい簡潔な文面。でも、その文字からは抑えきれない喜びが滲み出ていた。


「ついに、か」


 ロイドは感慨深げに呟いて、背もたれに体重をあずける。

 あの冷血公爵が、恋に落ちるとは。しかも、結婚まで決めるとは。


「フォルネウス令嬢、か。お会いするのが楽しみだ」


 公爵様をここまで変えた女性。

 あの女性はきっと、素晴らしい方に違いない。


 ロイドは早速、結婚の準備に取り掛かった。

 公爵様の花嫁を迎えるために、領地中が忙しくなりそうだ。


 でも、それは喜ばしい忙しさだった。



 月光草の花は、夜明けまで咲き続けた。

 私たちも、その花を見守りながら、ずっと語り合っていた。

 

 これからのこと。

 二人の未来のこと。

 たくさんの夢と希望。


「北方の屋敷には、大きな庭がある」


 フィッツが言った。


「君の好きなだけ、薬草を育てられる」

「本当ですか?」

「ああ。領民のための薬草園を作ってもいい」


 夢のような話だった。

 もっと多くの人の役に立てる。もっとたくさんの薬草を育てられる。


「でも、その前に」


 フィッツが真剣な顔になった。


「君の家族に挨拶に行かなければな」

「あ……」


 すっかり忘れていた。

 私の家族。没落したとはいえ、一応伯爵家。でも、私とは疎遠になっている。


「大丈夫か?」

「正直、不安です。でも……」


 フィッツの手を握る。


「あなたが一緒なら、大丈夫です」

「任せろ」


 朝日が昇り始めた。

 月光草の花は、朝の光を受けて、ゆっくりと花弁を閉じていく。


「また来年も、一緒に見ような」

「はい。来年も、その次も、ずっと」


 二人で屋敷に戻る道すがら、私は自分の左手を見つめた。

 いつか、ここに指輪が輝く日が来る。

 フィッツの妻として、生きていく。


 前世では考えられなかった、幸せな未来。


 でも、まだ不安もある。

 本当に、公爵夫人なんて務まるのだろうか。

 周囲の反対もあるだろう。


 その時、フィッツが手を強く握ってくれた。


「大丈夫だ。俺がいる」


 心を読まれたようで、驚く。


「何があっても、俺が君を守る。だから、安心して俺についてきてくれ」

「……はい」


 この人となら、どんな困難も乗り越えられる。

 そう信じられた。


 新しい一日が始まる。

 新しい人生が始まる。


 月光草の花言葉は「永遠の愛」。

 その花の下で交わした誓いを、私は一生忘れない。



 フォルネウス伯爵家の屋敷は、王都の外れにひっそりと建っていた。

 かつては華やかだった庭園も、今は手入れが行き届かずに荒れている。私が住んでいる小さな屋敷よりは立派だけれど、没落の影は隠せなかった。


 門の前で、私は深呼吸をした。

 二年ぶりの実家。婚約破棄の後、一度も顔を合わせていない家族との再会。


「大丈夫か?」


 隣に立つフィッツが心配そうに聞いてくる。

 今日の彼は、公爵としての正装。黒い礼服に身を包み、威厳に満ちている。


「はい。あなたがいてくださるから」


 それは本心だった。一人だったら、きっと逃げ出していた。


 執事が重い扉を開ける。

 その顔に、明らかな驚きが浮かんだ。


「アンナ様……それに、ノクティス公爵様!」

「フォルネウス伯爵にお目通り願いたい」


 フィッツの一言で、屋敷中が大騒ぎになった。

 まさか冷血公爵が、没落伯爵家を訪れるなんて誰も予想していなかったのだろう。


 応接間に通されて待つこと十分。

 父と母、そして二人の姉が姿を現した。


「アンナ……」


 母が呟いた。二年ぶりに見る母は、少しやつれていた。父は相変わらず厳格な表情。姉たちは驚きと警戒の入り混じった目で私を見ている。


「お久しぶりです、お父様、お母様」


 深く頭を下げる。

 そして、隣のフィッツを示した。


「ノクティス公爵様をお連れしました。大切なお話があります」


 父の顔が青ざめた。


「こ、公爵様、このような場所にわざわざ……」

「フォルネウス伯爵」


 フィッツが口を開いた。その声は、丁寧だけれど有無を言わせない響きがある。


「単刀直入に申し上げる。令嬢との結婚を許可していただきたい」


 静寂。

 そして、次の瞬間、姉のマリアンナが声を上げた。


「はああ? 結婚ですって!? アンナと!?」

「まさか……冗談でしょう?」


 次姉のクリスティーナも信じられないという顔をしている。


 父は震える声で聞いた。


「公爵様、それは本気で……」

「俺は冗談を言わない」


 フィッツの深紅の瞳が、真っ直ぐに父を見据える。


「アンナ嬢を愛している。妻として迎えたい」


 また静寂。

 母が涙を浮かべた。それが喜びなのか、別の感情なのかは分からない。


「でも、アンナは婚約破棄された身です」


 マリアンナが口を挟む。


「王子様に捨てられた女を、公爵様が……」

「捨てられた?」


 フィッツの声が低くなった。

 空気が凍りつく。


「もう一度言ってみろ」

「い、いえ……」


 マリアンナが青ざめて後ずさった。


「アンナは誰にも捨てられていない。むしろ、愚かな王子の方が、最高の女性を手放したのだ」


 心臓が高鳴る。

 こんなに強く、私のことを肯定してくれる人がいる。


 父が咳払いをした。


「公爵様のお気持ちは分かりました。しかし、我が家は没落し、アンナには持参金も……」

「必要ない」


 きっぱりと断言される。


「俺が欲しいのは、アンナ本人だけだ」


 母が立ち上がった。


「アンナ、あなたはどうなの?」


 久しぶりに向けられた母の視線。

 そこには、かすかな優しさがあった。


「私も……フィッツ様を愛しています」


 はっきりと答える。


「この方と生きていきたいです」


 母の目から涙がこぼれた。


「そう……良かった……」


 父も観念したように息をついた。


「公爵様がそこまで言ってくださるなら、反対する理由はありません」

「ありがとうございます」


 フィッツが頭を下げた。

 冷血公爵が頭を下げる姿に、家族は再び驚いている。


 その時、クリスティーナが口を開いた。


「でも、アンナは今、何をして生きているの? まさか本当に薬草を売って……」

「はい、薬草園を経営しています」


 答えると、姉たちは顔を見合わせた。


「恥ずかしくないの?」

「いいえ。誇りを持っています」


 きっぱりと言い切る。


「私の薬草で、多くの人が救われています。それ以上に誇らしいことはありません」


 フィッツが付け加えた。


「アンナの薬草茶は、王都で評判になっている。侯爵夫人の持病も治した」

「まあ……」


 母が驚きの声を上げる。


「さらに、北方領での薬草園経営も考えている。領民の健康に貢献してもらうつもりだ」


 父の目が変わった。

 ただの道楽ではない。公爵領での事業となれば、話は別だ。


「アンナ、お前は……」

「お父様」


 私は父を真っ直ぐ見つめた。


「私は、自分の力で生きる道を見つけました。そして、それを認めて、支えてくれる人にも出会えました」


 もう、昔の頼りない三女ではない。

 前世の経験と、今世での努力。その全てが、今の私を作っている。


 家族との話し合いは、思いのほか順調に進んだ。

 最後には、父も母も祝福してくれた。姉たちも、複雑な表情ながらも、反対はしなかった。


 屋敷を出る時、母が私を抱きしめてくれた。


「幸せになりなさい」

「はい、お母様」


 温かい抱擁。

 二年ぶりに感じる、母の温もりだった。



 王都の市場では、アンナの薬草茶が飛ぶように売れていた。


「フォルネウス令嬢の薬草茶はないの?」

「今日の分は売り切れました!」

「あら、残念。来週は多めに仕入れてちょうだい」


 商人たちは嬉しい悲鳴を上げていた。

 婚約破棄された没落令嬢。そんな陰口を叩いていた人々も、今では彼女の才能を認めざるを得ない。


 カタリナ・ランカスターは、母と一緒に薬草茶を楽しんでいた。


「本当に素晴らしい方ね、アンナ様は」

「ええ、母様。そして、ノクティス公爵様と婚約されたとか」

「まあ! 本当に?」


 侯爵夫人は目を輝かせた。


「あの冷血公爵が……信じられないわ」

「でも、アンナ様といる時の公爵様は、本当に優しい顔をされるんです」


 カタリナは茶会での一件を思い出していた。

 人を守るために立ち上がる公爵の姿。そして、アンナを見つめる優しい眼差し。


「素敵なお話ね」

「はい。まるでおとぎ話のようです」


 でも、それは現実だった。

 没落令嬢と冷血公爵。

 一見不釣り合いな二人が、真実の愛で結ばれようとしていた。



 帰りの馬車の中で、私はフィッツの手を握っていた。


「ありがとうございました」

「何が?」

「家族の前で、あんなに私のことを……」


 言葉に詰まる。

 捨てられた女じゃない、最高の女性だと言ってくれた。

 私の薬草園を誇りだと言ってくれた。


「本当のことを言っただけだ」


 フィッツは私の手を握り返した。


「君は素晴らしい。それを分からない奴らが愚かなだけだ」

「フィッツ……」

「それより、君の家族は、思ったより話が分かる人たちだったな」

「意外でしたか?」

「正直、もっと反対されると思っていた」


 私は苦笑した。


「多分、公爵様の迫力に圧倒されたんです」

「迫力?」

「フィッツが『もう一度言ってみろ』って言った時、姉たちが真っ青になっていましたよね」


 ばつが悪そうに頭をかくフィッツ。


「つい、カッとなってしまった。君の悪口は許せない」

「嬉しかったです」


 本当に嬉しかった。

 誰かが、こんなに真剣に私を守ろうとしてくれる。

 それは、何物にも代えがたい幸せだった。


「ところで、結婚式はいつにする?」


 突然の質問に、顔が熱くなる。


「え、えっと……」

「俺はすぐにでも式を挙げたい。でも、君の準備もあるだろう」

「そんなに急がなくても……」

「急ぎたい」


 下を向いた私の顔をフィッツが覗き込む。


「一日でも早く、君を正式に俺の妻にしたい」


 真剣な眼差しに腰くだけ。


「でも、ドレスとか、準備が……」

「ロイドが全て手配する。君は何も心配しなくていい」

「さすがに丸投げは……」

「じゃあ、一緒に選ぼう」


 フィッツが微笑んだ。


「ドレスも、式場も、全て一緒に」

「……はい」


 幸せすぎて、涙が出そうだった。

 

 馬車が停まった。私の小さな屋敷に着いたようだ。

 別れ際、フィッツは私の額に口づけをした。


「愛している」

「私も愛しています」


 もう何度交わしたか分からない言葉。

 でも、言うたびに、聞くたびに、胸が温かくなる。



 馬車を見送って屋敷に入ると、ナオミが嬉しそうに出迎えてくれた。


「お嬢様、ご実家はいかがでしたか?」

「無事に許可をいただけたわ」

「まあ! 良かったです!」


 ナオミは涙ぐんでいた。


「お嬢様の幸せな姿を見られて、私も幸せです」

「ナオミも一緒に北方に来てくれる?」

「もちろんです。お嬢様のいらっしゃる所が、私の居場所ですから」


 温かい言葉に、胸がいっぱいになった。


 家族の許可も得た。

 愛する人もいる。

 支えてくれる人もいる。


 後は、新しい人生を踏み出すだけ。


 窓の外を見ると、薬草園の月光草が風に揺れていた。

 花は散ってしまったけれど、来年また咲く。

 フィッツと一緒に、また見ることができる。


 永遠の愛を誓い合った、あの美しい花を。



 朝の薬草園で水やりをしていると、聞き慣れない馬車の音がした。

 こんな朝早くに誰だろう。フィッツなら、もっと静かに来るはず。


 嫌な予感がして振り返ると、そこには王家の紋章を付けた豪華な馬車があった。

 そして、降りてきたのは――。


「アンナ」


 ヘンドリック第二王子。

 金髪碧眼の、かつての婚約者。相変わらず整った顔立ちだけれど、どこか以前より憔悴して見える。


「殿下……何のご用でしょうか」


 深々と礼をする。もう婚約者ではないけれど、王子は王子だ。


「堅苦しいのはやめてくれ。昔のように、レオンと呼んでほしい」

「それは……できません」


 きっぱりと断ると、ヘンドリックの顔が歪んだ。


「アンナ、僕は君に謝りに来たんだ」

「今更、何を」

「間違っていた。君を手放したのは、僕の人生最大の過ちだった」


 信じられない言葉に、呆然とする。

 二年前、あんなにあっさりと私を捨てたのに。


「セシリアは……確かに美しい。でも、それだけだった」


 ヘンドリックは苦い顔をした。


「君のような優しさも、賢さも、何もない。ただ自分のことばかりで……」

「殿下」


 私は冷静に告げた。


「セシリア様の悪口を聞きに来たわけではありません。ご用件をどうぞ」


 ヘンドリックが歩み寄る。


「婚約を復活させたい」

「は?」

「君と、もう一度やり直したいんだ」


 耳を疑った。

 今更、何を言っているのだろう。


「セシリアとの婚約は解消する。そして君と――」

「お断りします」


 即答した。

 ヘンドリックが目を見開く。


「なぜだ? 君は僕を愛していたはずだ」

「愛していました。過去形です」


 はっきりと告げる。


「今の私には、愛する人がいます。その方と結婚します」

「愛する人? まさか……」


 ヘンドリックの顔が青ざめた。


「噂は本当なのか? ノクティス公爵と……」

「はい。フィッツ様と婚約しています」


 誇りを持って答えた。

 ヘンドリックは信じられないという顔で首を振った。


「あんな冷血な男のどこがいいんだ!」

「冷血じゃありません」


 カッとなって言い返す。


「フィッツ様は、誰よりも優しい方です。私の全てを受け入れて、認めてくださいました」

「僕だって認める! 君の薬草の才能も、優しさも、全て!」

「遅すぎます」


 冷たく言い放った。


「あなたは私を捨てました。『没落貴族の小娘より、新興貴族でも財産のある女の方がいい』と言って」

「あれは……」

「忘れていません。あの酷い言葉も、絶望も」


 でも、と続ける。


「今は感謝しています。あなたに捨てられたおかげで、本当の愛を見つけられましたから」


 その時、また馬車の音がした。

 今度は黒い馬車。ノクティス公爵家の紋章。


 フィッツが降りてきて、状況を一瞬で理解したようだった。

 深紅の瞳が、危険な光を帯びる。


「朝から何の用だ、第二王子」


 冷たい声。本物の「冷血公爵」の顔だった。


「ノクティス公爵……」


 ヘンドリックが震え声で呼んだ。


「アンナと話があって」

「彼女は俺の婚約者だ。何か用があるなら、俺を通してもらおう」


 フィッツが私の側に立つ。

 大きな手が、そっと私の腰に回される。守るような、所有を示すような仕草。


「彼女は諦めろ」


 ヘンドリックが必死の形相で言った。


「僕には王子としての権限がある。この婚約を認めない」

「ほう?」


 フィッツの声がさらに低くなった。


「王族の権限で、俺から婚約者を奪うと?」

「彼女は元々僕のものだった!」

「違う」


 フィッツがヘンドリックを睨みつけた。


「アンナは誰のものでもない。彼女自身のものだ。そして、彼女が俺を選んでくれた」


 心が震えた。身体も震えた。

 そうだ。私は私のもの。そして、私の意志でフィッツを選んだ。


「殿下。はっきり申し上げます。私はあなたを愛していません。今も、これからも」

「アンナ……」

「私が愛しているのは、フィッツ様だけです」


 ヘンドリックの顔が絶望に歪んだ。


「本気なのか……」

「はい。ですから、もう二度と来ないでください」


 とどめを刺すように言った。


「あなたの幸せは、セシリア様と見つけてください」



 王宮、第二王子の私室。

 セシリアは震えながら、ヘンドリックの帰りを待っていた。


 早朝、こっそりと出かけた彼がどこへ行ったか、察しはついている。

 アンナの元だ。


「おかえりなさい、ヘンドリック様」


 部屋に入ってきた婚約者は、打ちのめされたような顔をしていた。


「……セシリア」

「アンナ様に会いに行かれたのですね」


 単刀直入に聞く。

 ヘンドリックは驚いたような顔をした。


「知っていたのか」

「分かります。最近のあなたを見ていれば」


 セシリアは苦笑した。


「後悔されているんでしょう? 彼女を手放したことを」

「セシリア……」

「いいんです。私も分かっています」


 窓の外を見る。


「私には、アンナ様のような優しさはありません。ただ、地位と財産に目がくらんだ女です」

「そんなことは……」

「でも」


 セシリアは振り返った。


「私は殿下を愛しています。打算から始まった気持ちでも、今は本当に」


 ヘンドリックが息を呑んだ。


「アンナ様は、もうノクティス公爵のものです。諦めてください」

「……分かっている」


 ヘンドリックは力なく椅子に座った。


「完敗だった。彼女の目には、もう僕なんて映っていなかった」

「当然です」


 セシリアは厳しく言った。


「一度捨てた女性が、戻ってくると思ったんですか?」

「……愚かだった」

「はい、愚かでした」


 セシリアは優しく微笑んだ。


「これからは、私を見てください。アンナ様のようにはなれないけれど、精一杯殿下を支えます」


 ヘンドリックがセシリアを見上げた。

 その瞳に、初めて彼女の存在がちゃんと映った気がした。



 ヘンドリックが去った後、私はフィッツと薬草園のベンチに座っていた。


「すっきりしたか?」


 フィッツが優しく聞いてくる。


「はい。もう過去には囚われません」

「良かった」


 大きな手が、私の頭を撫でる。

 子供扱いみたいで恥ずかしいけれど、心地良い。


「それにしても、あの王子は愚かだな」

「そうでしょうか」

「ああ。君を失ってから気づくなんて。まっ、俺には都合のいい話だったが」

「んまっ!」

「冗談だ」


 フィッツが私を抱き寄せた。


「俺は絶対に君を手放さない」

「私も離れません」


 顔を上げると、すぐそこに彼の顔があった。

 自然に唇が重なる。


 朝の光の中で交わすキス。

 優しくて、温かくて、少し甘い。


「ところで」


 唇を離した後、フィッツが言った。


「結婚式の準備が整ったそうだ」

「え? もう?」

「ロイドが張り切ってな。来月の満月の夜はどうだ?」


 来月の満月。

 月光草の花を見てから、ちょうど二か月。


「素敵です。満月の夜に結婚式なんて」

「月の女神の祝福を受けられるかもしれない」


 ロマンチックなことを言う人だ。

 でも、それがフィッツの魅力の一つ。


「ドレスの採寸にも来てもらう必要がある」

「はい」

「それと、北方領の視察も」

「楽しみです」


 新しい生活。

 新しい土地。

 でも、フィッツが一緒なら、何も怖くない。


「アンナ」

「はい?」

「愛している」

「私も愛しています」


 何度でも言いたい言葉。

 何度でも聞きたい言葉。


 薬草園では、新しい芽が顔を出していた。

 季節は巡り、命は続いていく。


 私の新しい人生がもうすぐ始まる。

 愛する人と共に歩む、幸せな人生が。



 王宮の大広間は、王国中の貴族で埋め尽くされていた。

 国王陛下の即位二十周年記念式典。全ての爵位持ちが招待される、年に一度の大行事。


 私は震える手でドレスの裾を直した。

 フィッツが用意してくれた深い青のドレス。夜空のような色合いに、銀の刺繍が星のように輝いている。


「緊張しているのか?」


 隣に立つフィッツが、優しく聞いてきた。

 今日の彼は、公爵としての正装。黒地に金の刺繍が施された礼服が、彼の威厳をさらに際立たせている。


「少し。こんな大きな式典は久しぶりで」

「大丈夫だ。俺がついている」


 その言葉に、少し緊張が和らいだ。


 でも、周囲の視線は痛いほど感じる。

 没落令嬢が、なぜ冷血公爵と一緒にいるのか。誰もが不思議そうに、あるいは嫉妬深い目で見ている。


「ノクティス公爵、フォルネウス嬢、入場!」


 式典官の声が響き、私たちは大広間の中央へ進んだ。

 玉座には国王陛下と王妃陛下。その周りには王族や大貴族たちが居並んでいる。


 ヘンドリック王子の姿もあった。

 隣にはセシリア。二人とも複雑な表情で、私たちを見ていた。


「陛下、ノクティス公爵フィッツです」

「おお、フィッツ。相変わらず壮健そうで何よりだ」


 国王陛下は朗らかに応じた。六十を過ぎているが、まだまだ矍鑠(かくしゃく)としている。


「して、隣の美しい令嬢は?」

「フォルネウス伯爵家のアンナです、陛下」


 私は深々と礼をした。


「ほう、あの薬草茶で有名な……」


 となりの王妃陛下が興味深そうに身を乗り出した。


「私も飲ませていただいたわ。本当に素晴らしい効能ね」

「恐れ入ります、陛下」


 思わぬお褒めの言葉に、頬が熱くなる。


 その時、フィッツが前に出た。


「陛下、本日は大切なお願いがございます」

「ほう? なんだ、改まって」


 フィッツは振り返り、私の手を取った。

 そして、衆人(しゅうじん)環視(かんし)の中、片膝をついた。


 広間がざわめいた。

 冷血公爵が、人前で膝をつくなんて。


「アンナ・フォルネウス」


 朗々とした声が、広間に響く。


「君に問う」


 深紅の瞳が、真っ直ぐに私を見上げている。

 周りの喧騒がピタリとやむ。

 今、この瞬間、世界には私たち二人しかいないような静寂。


「俺の妻となり、生涯を共に歩んでくれるか?」


 懐から取り出されたのは、小さな箱。

 開けられた中には、月光石をあしらった美しい指輪が輝いていた。


 待って。

 聞いてないわ。

 ここでプロポーズ?

 このまえのプロポーズは?

 息が止まった。

 また心臓が止まった。

 まさか、こんな場所で、こんな風に……。


「冷血と呼ばれ、恐れられている俺だ。優しい言葉も知らない。でも」


 フィッツの声に、かすかな震えがあった。


「君を愛している。君なしでは生きていけない。だから――」


 言葉を切り、もう一度問いかける。


「俺の妻になってくれ」


 広間は静まり返っていた。

 数百人の貴族たちが、固唾を呑んで私の答えを待っている。


 答えは決まっていた。

 最初から、決まっていた。


「はい」


 はっきりと答えた。


「喜んで、あなたの妻になります」


 フィッツの顔が、輝くような笑顔になった。

 片ひざをついたまま、震える私の左手にそっと指輪をはめてくれる。


 月光石が、私の指で優しく輝いた。


 次の瞬間、割れんばかりの拍手が起こった。



 王妃陛下は、目頭を押さえて笑みを浮かべていた。


「まあ、まあまあ! なんて素敵なの!」


 隣で国王陛下も満足そうに頷いている。


「フィッツ、ついに伴侶を見つけたか」

「陛下、本当に良かったですわ」


 何となく芝居がかった国王に応じながら、王妃はじっと二人を見つめる。

 式典の場で、ゲリラ的なプロポーズを敢行した男。

 本来なら無礼うちされかねない傍若無人さは「はい」と応じた女の、花開く笑顔で帳消しになった。


 一身に注目を浴び、けれど、そんなことなんとも思っていないかのように抱き合う二人の姿。まさに一幅の絵画のようであった。


「あの子、アンナといったかしら」

「ああ、フォルネウス伯爵の三女だ」

「ヘンドリックが婚約破棄した子よね」

「……そうだ」


 王妃は意味ありげにヘンドリックへ視線を飛ばす。

 第二王子は、苦い顔で俯いた。


「あの時は可哀想に思ったけれど……」


 王妃は再び微笑んだ。


「結果的には、最高の相手と巡り会えたようね」

「まったくだ」


 国王も屈託のない笑みを浮かべた。


「冷血公爵があんな顔をするとは、な。恋の力は偉大だ」



 カタリナ・ランカスターは、感動で涙が止まらなかった。


「素敵……本当に素敵」


 隣で母の侯爵夫人も、ハンカチで目元を押さえている。


「おとぎ話みたいね」

「いいえ、母様。これは現実です」


 カタリナは幸せそうな二人を見つめた。


「アンナ様の幸せそうな顔……本当に良かった」

「ノクティス公爵の笑顔、まるで別人ね」

「愛する人といる時は、誰でも変わるんです」


 周囲の令嬢たちも、口々に感想を述べている。


「信じられないわ……あの冷血公爵が」

「でも、素敵じゃない? こんなに大勢の前で求婚するなんて」

「アンナ様、本当に幸せそう」

「羨ましいわ……」



 ロイドは主の晴れ姿に目を細めていた。


 式典の場でプロポーズするなんて聞いていなかったが、これはこれで北方から駆けつけた甲斐があった。

 公爵様が、ついに公の場で愛を宣言した。それも、王国中の貴族の前で。


「これで誰も、二人の仲を邪魔できまい」


 隣の騎士が頷いた。


「公爵様も、策士ですな」

「いや」


 ロイドは首を振った。


「あれは計算じゃない。純粋な愛情だ」


 長年仕えてきたからこそ分かる。

 公爵様は、本当に、心の底からアンナ様を愛している。


「準備を急がねばな」


 ロイドは呟いた。


「最高の結婚式にしなければ」



 式典の後、私とフィッツは王宮の庭園にいた。

 夜風が心地良い。


「驚いた?」


 フィッツが悪戯っぽく聞いてくる。


「驚きました。まさかあんな場所で」

「皆の前で宣言したかった」


 フィッツは私の左手を取った。

 月光石の指輪が、月の光を受けて輝いている。


「もう誰も、君を俺から奪えない」

「最初から、誰も奪えませんよ」


 笑いながら答える。


「私の心は、とっくにあなたのものです」

「アンナ……」


 フィッツが私を抱き寄せた。

 温かい腕の中で、幸せを噛みしめる。


「ねえ、フィッツ」

「なんだ?」

「どうして人前で? あなたらしくない気がして」


 フィッツは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。


「実は、陛下に言われたんだ」

「陛下に?」

「『本気でアンナを愛しているのなら、式典の場でやっちまえ』と。それで、つい……」


 国王陛下が仕込んでいた!?

 意外な理由で笑ってしまった。


「でも」


 フィッツが真剣な顔になった。


「本心だ。皆に知ってもらいたかった。君が俺の最愛の人だと」

「嬉しいです」


 背伸びをして、彼の頬にキスをした。


「私も皆に自慢したいです。こんなに素敵な人が、私を選んでくれたって」


 フィッツの頬が、少し赤くなった。

 照れる冷血公爵。可愛い。


「来月の満月が楽しみだな」

「はい。最高の結婚式にしましょう」

「君がいれば、それだけで最高だ」


 甘い言葉に、胸がいっぱいになる。


 見上げれば、月が優しく輝いていた。

 もうすぐ満月。

 私たちの新しい人生が始まる。


 フィッツの腕の中で、私は静かに目を閉じた。


 幸せだ。

 本当に、幸せだ。


 前世で味わえなかった幸せが、今、ここにある。

 愛する人と共に生きていける幸せが。


「アンナ・フォルネウス、君に問う」


 不意に、フィッツがさっきの言葉を繰り返した。


「もう答えましたよ」

「何度でも聞きたい」


 困った人だ。でも、そんなところも愛おしい。


「はい、何度でも答えます。あなたの妻になります」

「愛している」

「私も愛しています」

「実は……」

「はい?」

「領地にはもうすでに、月光草の畑を作ってある」

「え……ええっ!?」


 育てられるのは私くらいだと思っていたのに。


「どうやって?」

「……それは当日のお楽しみ、という事で」


 ニッコリ笑顔のフィッツ。かわいい。その笑顔、私を騙す気満々だ。でもそれでいい。


 こんなふうに、月光の下で交わす愛の言葉。

 これから先も、ずっと、こうして愛を確かめ合っていくのだろう。


 それは、とても幸せなことだと思った。



 結婚式の朝、私は不思議な夢を見ていた。

 見知らぬ女性が、優しく微笑みながら私を見つめている。黒髪に深紅の瞳――まるでフィッツのような。


『やっと、約束が果たせるのね』


 女性の声が、頭の中に響いた。


『アンナ、あなたなら必ず……』


 目を覚ますと、窓から満月前夜の月が見えた。

 明日が結婚式。でも、なぜか胸騒ぎがする。


「お嬢様、お支度を」


 ナオミの声で、夢の余韻から解放された。

 今日は結婚式前日。北方領にあるノクティス家の聖堂で、明日式を挙げることになっている。


 ドレスに着替えていると、ふと鏡に映る自分の姿が目に入った。

 銀灰色の髪、紫水晶色の瞳。

 フォルネウス家では、代々稀に現れる特徴だという。


 二人の姉は普通の瞳なのに、三女の私だけが。


「お嬢様、公爵様がお迎えに」

「今行きます」



 フィッツと共に北方へ向かう馬車の中、私は窓の外を眺めていた。


「どうした? 緊張しているのか?」

「少し。でも、それより……」


 夢のことを話そうか迷った。でも、結婚式前日にこんな話をするのも変だろう。


「なんでもありません」

「そうか」


 フィッツは優しく私の手を握った。

 その温もりに、不安が少し和らいだ。



 ノクティス領の聖堂は、月の光を受けて神秘的に輝いていた。

 古い建物だが、手入れが行き届いている。


「ここで、代々の当主が結婚式を挙げてきた」


 フィッツが説明する。


「俺の両親も、ここで」

「ご両親……」


 フィッツの両親は、彼が十歳の時に亡くなったと聞いている。

 でも、詳しい話は聞いたことがなかった。


「実は、アンナ」


 フィッツが真剣な顔になった。


「明日の式の前に、見せたいものがある」

「見せたいもの?」


 案内されたのは、聖堂の地下にある古い部屋だった。

 壁一面に、古い書物や絵画が並んでいた。


「これは?」

「ノクティス家の歴史だ。そして……」


 フィッツは一枚の絵の前で立ち止まった。

 そこには、美しい女性が描かれている。銀灰色の髪に、紫水晶色の瞳。


「えっ……私?」


 驚きで声が震えた。


「これは、二百年前の人物だ。名前は、セレスティア・フォルネウス」

「フォルネウス!?」


 私の先祖?

 でも、なぜノクティス家に……。


「彼女は、月の巫女と呼ばれていた」


 フィッツが書架から古い書物を取り出し、書見台で開く。


「特別な光の魔法を持ち、王国を闇から守ったという。そして……」


 次のページには、黒髪に深紅の瞳の青年が描かれていた。


「初代ノクティス公爵、アレクシス・ノクティス。彼とセレスティアは恋に落ちた」

「まさか……」

「だが、当時フォルネウス家は王国一の名門。ノクティス家はまだ新興貴族だった」


 今の私たちとは逆の立場。


「二人は駆け落ち同然で結ばれた。そして、ある盟約を交わしたという」

「盟約?」

「『月影の盟約』。いつか王国に危機が訪れた時、二つの血筋が再び交わり、王国を守るという」


 震える手でページをめくる。

 そこには、月光草の絵があった。


「月光草は、セレスティア・フォルネウスが作り出したもの。彼女の光の魔法を込めた、特別な薬草だ」


 だから、私の光魔法と相性が良かったのか。

 だから、月光草を育てることができたのか。


「アンナ、君は知らなかっただろうが」


 フィッツが私の肩に手を置いた。


「フォルネウス家が没落したのには理由がある。月の巫女の血筋を守るため、つまり君を守るため、あえて目立たない存在になったのだ」

「そんな……」

「そして、俺の両親が亡くなったのも……」


 フィッツの声が震えた。


「闇の勢力に襲われたからだ。月影の盟約を阻止しようとする者たちに」


 フィッツとの出会いは最悪だった。彼は何者かに襲われ、深手を負っていた。そのときの毒は、私の光魔法がよく効いた。あれは、闇の勢力の仕業だったのかもしれない。


「あのとき、君が俺を助けてくれた。運命に導かれるように」

「運命……」


 全てが繋がっていく。

 なぜ私が転生したのか。

 なぜフィッツと出会えたのか。

 なぜ月光草を育てられたのか。


 前世で過労死するまで働き続けた私。

 それだけではなかった。

 もっと前。

 ずっと前に生きていた私。


 ふわりと降ってきた。

 セレスティア・フォルネウスの記憶が。

 今なら分かる。私は彼女の生れ変わりでもあった。

 あのときの私は、フィッツ――いえ、アレクシス・ノクティスと愛し合っていた。


 じっとフィッツを見つめる。彼は察したように口を開いた。


「明日の満月の夜。結婚式と同時に、月影の盟約が発動する。二百年ぶりに、二つの血筋が正式に結ばれることで」

「でも、王国の危機って?」


 その時、ロイドが慌てた様子で駆け込んできた。


「公爵様! 大変です!」

「どうした?」

「北の国境に、闇の軍勢が! 満月という機を待っていたようです!」


 フィッツの顔が険しくなった。闇の軍勢……。


「ついに来たか」

「フィッツ?」

「アンナ、明日の式は延期した方が……」

「いいえ」


 私は首を振った。


「むしろ、今こそ式を挙げるべきです」


 月影の盟約。

 それが本当なら、私たちが結ばれることで、王国を守る力が生まれる。


「危険だ」

「あなたと一緒なら、怖くありません」


 真っ直ぐにフィッツを見つめる。


「これが、私たちの運命なら、受け入れます」



 結婚式当日。

 満月が天頂に昇る中、聖堂には多くの人が集まっていた。


 国王陛下、王妃陛下も、遠路はるばる駆けつけてくださった。

 カタリナや侯爵夫人、私の家族、そして薬草を買ってくれた人々まで。


 純白のドレスに身を包み、私は祭壇へと歩を進めた。

 フィッツが、優しい笑顔で待っている。


 でも、誰もが知っている。

 北の国境に、闇の軍勢が迫っていることを。

 聖堂の周囲は、領軍が総出で警備している。


「怖くないか?」


 祭壇の前で、フィッツが小声で聞いた。


「あなたがいるから、大丈夫です」


 司祭が厳かに儀式を始める。

 古い言葉で、永遠の愛を誓う言葉が紡がれていく。


 突然、外から響く重い音で、聖堂内がざわめく。

 金属音。

 剣戟だ。

 その音が聞こえなくなると、聖堂の扉が開いた。

 警備兵たちが剣を抜く。


 闇の気配を纏った人影が、ゆらりと入ってきた。

 ひとり。

 一点突破か。

 人の形はしているけれど、黒い霧をまとっていた。どんな顔なのかすら分からない。


「間に合ったか……月影の盟約、成就させるわけにはいかねえ」


 低い声が響いた。

 フィッツが私を庇うように前に出る。


「下がっていろ、アンナ」

「いいえ」


 私も前に出た。


「二人で戦います」


 その瞬間、私の体が光り始めた。

 銀灰色の髪が、月光のように輝く。紫水晶色の瞳が、不思議な光を放つ。


「ちっ、月の巫女の覚醒、か」


 闇の存在が忌々しそうに呟いた。


「だが、まだ盟約は成されてねえ!」


 闇の魔法が放たれる。

 でも――。


「今、この場で誓います」


 私は大きな声で宣言した。


「私、アンナ・フォルネウスは、フィッツ・ノクティスを生涯の伴侶とし、共に生き、共に戦うことを誓います!」

「俺も誓う!」


 フィッツも叫んだ。


「アンナを妻とし、命を懸けて守り、共に生きることを!」


 二人の誓いが重なった瞬間、聖堂全体が光に包まれた。


 月光草の花が、どこからともなく舞い降りてきた。

 二百年の時を超えて、月影の盟約が成就したのだ。


「クソがああ! 月影の力かあ!」


 私とフィッツの力が一つになり、巨大な光の盾となって、闇を押し返していく。


「ぐああああ!」


 闇の存在が苦しみの声を上げ、黒い粒子になって消えていく。

 同時に、北の国境からも闇の軍勢が撤退したという報告が入った。


 聖堂に、歓声が湧き起こった。


「王国は守られた!」

「月影の盟約は本当だった!」

「奇跡だ!」



 騒ぎが収まった後、私とフィッツは月光の下、薬草園にいた。

 ノクティス領にも、小さな薬草園を作ってもらったのだ。


 私は聞かなければならない。


「知っていたの? 月影の盟約のこと」

「最初は知らなかった」


 フィッツは正直に答えた。


「でも、君に会って、君の髪と瞳を見て、そして月光草を育てる姿を見て……少しずつ思い出した。あの絵のことや、月影の盟約のことを」

「だから、結婚を急いだの?」

「違う」


 フィッツは私を抱き寄せた。


「君と俺が初めて出会ったときを覚えているか?」

「もちろんです」

「あのとき、俺は君に会いに来ていた」

「えっ?」

「君に興味が、というか、第二王子と婚約中のとき、君を見かけて一目惚れした」

「えええええっ!?」


 待って。私が先に惚れたと思っていたのに。


「二年間迷った挙げ句、想いを伝えるために君の屋敷を訪れた。そのとき、俺は襲われた。政敵からの襲撃だと思っていたが、その後、闇の勢力からの襲撃だったと判明した」

「そんなことが……」

「というわけで、そもそも盟約なんて関係ない。俺は純粋に君が好きだ。君と一緒にいたい」

「私も」


 顔を上げて彼を見つめる。


「前世の記憶があっても、なくても。月の巫女でも、そうじゃなくても。私はあなたを愛していました」

「前世?」

「あ、いや、あ、あはははは」


 私にも秘密はある。一方的に彼を責め立てるのは卑怯だ。


 月光草が私たちを祝福するように花を開いた。

 今度は一輪だけじゃない。庭中の月光草が、一斉に咲き誇る。


「美しい」

「ええ、本当に」


 でも、一番美しいのは、この瞬間だと思った。

 愛する人と、永遠を誓い合えたこの瞬間が。


「アンナ・ノクティス」


 新しい名前を呼ばれて、頬が熱くなる。


「はい、フィッツ・ノクティス」

「愛している」

「私も愛しています」


 月光の下で、二人は優しく口づけを交わした。


 二百年前の恋人たちが果たせなかった夢。

 それが今、ここに結実した。


 私たちはただの生まれ変わりじゃない。

 アンナとフィッツとして、新しい愛の物語を紡いでいく。


 前世で過労死した私が、異世界で見つけた本当の幸せ。

 それは、愛する人と共に生きること。

 誰かの役に立てること。

 そして、自分らしく生きること。


 月光草の花言葉は「永遠の愛」。

 その花に見守られながら、私たちの新しい人生が始まる。


 もう、冷血公爵なんて呼ばれることもない。

 もう、没落令嬢なんて蔑まれることもない。


 ただ、愛し合う二人として。

 月影の加護を受けた夫婦として。

 幸せに、生きていく。


 薬草園では、新しい命が芽吹いている。

 きっと来年も、その次の年も、ずっとずっと、花は咲き続けるだろう。


 私たちの愛は永遠に。



(了)


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― 新着の感想 ―
王と王妃が自分の息子の婚約者だった娘の顔を知らないの?と思ったのですが…多分、王子の婚約者だった頃とフィッツの婚約者になった後では表情や磨かれ方が違うのだろうなとも思いました。 そう考えると王子がどれ…
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