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第2章:扉の鍵を持つのは、君だけだ (前編)

 翌朝、目覚めると、彼の姿はどこにもなかった。


「……ルキ?」


 昨夜の雨の中、濡れた服のまますっかり夢心地で眠りこけてしまっていたようだ。


 だが、目覚めてみれば、手のぬくもりも、彼の声も、部屋のどこにも残っていない。

 まるで、すべてが夢だったかのように、部屋はいつもと変わらない静けさに包まれていた。


 スマホの画面には、いつもの《†Neon Grave†》の公式動画が、何も知らないかのように再生されているだけだ。


「ああ、やっぱりあれは夢だったんだ……」


 そう思いたくなるほど、現実の朝はいつも通りで、昨日までの絶望と、昨夜の奇跡がごちゃ混ぜになって、頭の中でぐるぐると渦巻いていた。


 置き去りにされた希望

 だけど、ひとつだけ、決定的に違うものがあった。

 枕元に、そっと置かれていたのだ。


 光を反射して、きらめく銀色のペンダント。その中心には、まるでルキの瞳のように鮮やかな、小さな赤い宝石が嵌め込まれている。


 どこか見覚えがある——そう、あの時、ルキの胸元で確かに輝いていたものだ。


 夢じゃなかった。

 心臓がドクリと大きく鳴る。それは、夢ではなかったという安堵と、再びひとりになってしまったという寂しさが綯い交ぜになった音だった。


 彼が本当にいた証拠。そして、彼が今ここにいないという、明確な現実。


 私はペンダントをそっと手に取り、指で赤い宝石をなぞる。昨夜の彼の温かい手が、まるでまだそこにあるかのように錯覚した。このペンダントが、彼と私を繋ぐ唯一の証なのだろうか。


 学校に行く気にはなれなかった。

 名家のお嬢様としての義務感も、世間体も、今はどうでもよかった。


 私はただ、このペンダントを握りしめ、あてもなく街を彷徨った。ルキが残したこのペンダントは、一体何を意味するのだろう?


 彼はなぜ、私を置いていったのだろう?考えても答えは出ないのに、足は勝手に動き続けていた。

 ぼんやりと歩いていると、不意に、背後から冷たくて、だけど聞き覚えのある声が響いた。


「ほのか、やっと見つけた」


 ——レオンだった。

 灰色のコートを隙なく着こなし、きっちり整えられた黒髪。整った顔立ちは相変わらずだけれど、その瞳にはどこか凍えるような冷たさがあった。


 一度は“君みたいな地味な娘は、俺の隣にふさわしくない”と、私の心をズタズタにして“婚約破棄”を叩きつけてきたはずの彼が、なぜか今になって追いかけてきた。私の婚約を破棄した男が、何の用だというのだろう?


 私は立ち止まり、振り返る。ペンダントを握りしめた手が震えているのを悟られないように、咄嗟に背中に隠した。


「……何の用?」


 冷たく言い放つと、レオンはいつもは嘲笑を浮かべているはずの口元を、わずかに歪めた。


「婚約破棄は、俺の本意じゃなかった。そう言ったら、信じるか?」


「——は?」


 予想もしなかった言葉に、私は思わず呆然とした。信じるわけがない。あの時の彼の嘲るような笑みも、周囲の視線も、今も鮮明に私の中に焼き付いている。

 そんな彼が、本意じゃなかった?冗談も大概にしてほしい。


 レオンは私の反応を待たずに、まるで独白するように話を続けた。彼の目は、私を深く見つめているけれど、その奥には、私が理解できない何かが渦巻いているようだった。


「お前の力が目覚め始めていた。周囲から“干渉を止めろ”と再三言われていたんだ。だが、まさかお前が《扉の鍵》を持つ存在だったとは、俺たちも知らなかった」


 彼の言葉は、まるでルキが話していた異世界のことに繋がっているようだった。もしかして、レオンも、あの“異世界”と関係があるのだろうか?不安と、ほんの少しの期待が胸をよぎる。


「なにそれ……?私が鍵?何の?」


 レオンは一歩、また一歩と私に近づいてくる。その瞳は、これまで見たことのないような“何かを試す”光を帯びていた。

 それは、かつての冷徹な婚約者の顔ではなく、まるで、何かを探し求める研究者のようでもあった。


「世界の狭間にある“ノアリウム界”——奴が来た場所だ。

 そこに干渉できるのは、“魂が強く共鳴する者”だけ。お前はその器だ。

 俺たちはそれを知らなかった。だから、遅れをとった」


「ちょっと待って。あなた、“奴”って、ルキのこと?」


 レオンは、私の問いには答えず、苦々しげに顔を歪めた。その反応が、彼が本当にルキを知っていることの証明のようだった。


「……ああ。あの王子は危険だ。お前を連れていくつもりだろう?この世界から消すために。

 彼は、お前の純粋な力を利用しようとしているだけだ」


「そんなわけないっ!」


 反射的に叫んでいた。ルキの優しい声、あの温かいぬくもり、額に触れたキスが——すべて彼の「術」だったなんて、絶対に信じたくない。私の胸の奥で、何かが激しく反発した。


「彼は……私を“大事な人”って言ったんだ。そんなの、嘘じゃない!彼は、私の涙を止めてくれたんだ!」


「信じたい気持ちは理解する。だが、それは“術”かもしれない。君の魂を開かせるための——巧妙な罠、な」

 レオンの言葉は冷静だった。どこまでも感情を乗せない彼の声が、逆に私の心に突き刺さる。彼は私の弱みにつけこみ、巧妙な言葉で私を揺さぶろうとしている。


 そう思えば思うほど、彼の言葉が真実ではないかと、私の心に疑念の影を落とそうとする。


「……黙って」


 私はうつむき、ぐっと唇を噛みしめた。頭の中で、レオンの言葉と、ルキの言葉が、激しくぶつかり合う。どちらが真実で、どちらが嘘なのか、私には判断できない。


 ただ、胸の奥底で、ルキを信じたいという強い感情が渦巻いていた。


 そのとき、私が握りしめていたペンダントが、淡く、しかし確かに光った。


 その光は、私の心の中に直接響くような、優しい声となって聞こえてきた。


 《ほのか。君を試す声が聞こえる。惑わされるな。僕を信じろ、とは言わない。

 ただ、僕は君を信じてる。君の意志こそが“扉”を開く。僕は、君が選んだ道を受け入れる》


 ルキの声だった。


 彼の声は、レオンの言葉がもたらした疑念を、一瞬にして打ち消した。まるで、私が進むべき道を照らす光のように、私の心を導いてくれる。


 彼は私に「信じろ」とは言わない。ただ、「君を信じている」とだけ言う。その言葉のほうが、何よりも私の心を強くした。

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