第7章:この想いに、名をつけるなら(前編)
「……おかえり、ほのか」
その声に振り向くと、ルキが星の庭園の端で、月明かりのような微笑を浮かべていた。
けれど、その目の奥に——静かな焦燥と、怒りが隠れていることに、私は気づいてしまった。
彼がここまで感情を露わにするのは珍しい。
それだけ、セレス王子との試練が彼にとって重かったのだろうか。
「ルキ……どうしたの?そんなところで、ずっと待っていたの?」
私が歩み寄ると、ルキは表情を変えずに、まっすぐ私を見つめた。その視線は、まるで私の心を覗き込むかのようだった。
「セレス兄さんと……どれくらいの時間、一緒にいたの?どんな話をしたんだい?僕には言えないようなこと?」
彼の声は、普段の甘いトーンよりも低く、少しだけ硬い。まるで、私を問い詰めているかのようだった。
「……え、えっと……ちょっとだけ、癒しの部屋で話して……心の傷とか、弱さとか、そういうことを……」
私は言葉を選ぶように、ゆっくりと答えた。セレス王子との会話は、あまりにも私個人の深い部分に触れていたから、ルキに話すのは少し躊躇われた。
「キスは、してないよね?兄さんは、君に触れたんだろ?どこを触った?どんな風に?」
「え!?してない!!してないけど!?ルキ、なんでそんなこと聞くの!?」
ルキが、一歩こちらへ踏み出してくる。その距離は、いつもより速くて、強くて——
次の瞬間、私はふいに、彼に抱きしめられていた。彼の腕が、私を強く引き寄せ、私を彼の胸に閉じ込める。
「……よかった。本当に、よかった」
低く、胸の奥から絞り出すような声。その声は、どこか震えていた。彼の胸の鼓動が、私の頬に直接響いてくる。
それは、激しく、そして少しだけ悲しみを帯びていた。
「ほんとは信じたいんだ。君が誰にもなびかないって。君が僕だけを選んでくれるって。でも……でも、怖かった。あの兄さん、本気だったから。君の心に、深く入り込もうとしていたから……僕じゃない誰かに、君を奪われるんじゃないかって……」
ルキの言葉が、私の心に深く響いた。彼の不安が、私に痛いほど伝わってくる。
こんなにも、彼は私を求めてくれていたのか。
私はそっと腕をまわして、ルキの背中に触れた。彼の背中は、想像よりもずっと華奢で、守ってあげたいという気持ちが湧いてくる。
「私……セレス王子のこと、素敵だなって思ったよ。あの人の優しさは、私にとって本当に“救い”だった。まるで、凍り付いた心を溶かしてくれるみたいで……」
「……でも、ときめきは?」
ルキが、私を抱きしめたまま、顔を少しだけ上げて、私の目を見つめてきた。
その瞳は、真剣で、私の答えを真っ直ぐに求めていた。
「“ときめき”は——なかった」
私がそう答えると、ルキの顔が、ぐっと近づいてくる。真剣なまなざしに見つめられると、うなずくしかできなかった。
「だったら、証明して。僕の不安を、君の愛で消し去ってほしい」
「し、証明って……?」
私の心臓が、早鐘のように鳴り始める。彼の言葉は、あまりにも大胆で、そして私を深く試しているようだった。
「——僕に、キスして。君の方から。僕がどれだけ君に愛されているか、肌で感じさせてほしい」
静かな夜の空気を切り裂くように、ルキがそう囁いた。普段は穏やかな彼から飛び出した、突然の“攻め”に、私は思考が真っ白になる。
「わ、わたしから……!?私から、するの……?」
「うん。……僕ばっかり、ずるいから。僕だけが君を求めるみたいで、嫌なんだ。君も僕を求めているって、示してほしい」
彼の目が、わずかに揺れていた。甘えたようで、寂しがり屋の瞳。
それは私に、「愛して」と無言で伝えているようだった。私の唇が震える。こんなに強く求められたのは初めてだった。
「じゃあ……目、閉じて。私も、少し恥ずかしいから……」
「えっ?ああ、わかった。ほのかが望むなら、どんなことだって」
「ほら、“僕に”って言ったんだから、ルキは閉じる側でしょ。ちゃんと、目を閉じててね?」
「……はい、僕だけのほのか」
ルキがそっと目を閉じた。まつ毛が揺れて、唇がわずかに結ばれている。
手の中のぬくもりだけが、確かにふたりをつないでいる。
彼の吐息が、私の頬にかかる。
その温かさが、私の心をさらに高鳴らせた。
私はゆっくり顔を近づけ——そして、彼の唇に、自分の唇を重ねた。